

旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
今年3回目の月いち高尾が12月10日(金)に開催されました。コロナの蔓延の為、我慢の子でしたが、オリンピック前の6月と紅葉の時期の11月、そして今回の忘年会を兼ねた月いち高尾を開催することが出来ました。そして、今回をもちまして2017年1月から5年間事務局を務めてまいりました岡沢、藍原、堀川は新しい事務局を引き受けてくれた、47年の関谷さん、伊川さん、51年の斎藤さんにバトンタッチしました。至らない事務局でしたが、皆さんの温かいご協力で事故もなく終了できましたこと心から感謝いたします。未曽有のコロナの為後半の1年半ほどは、ほんの数回しか開催できませんでしたが、楽しい、素晴らしい経験をさせて頂きました。ありがとうございました。心から感謝申し上げます。
参加者
★延参加者 30名 忘年会参加者29名
(編集子)36年度有志で始めたプランも同期生仲間は傘寿をもって事務局を堀川君に委嘱し、同期のワンデルングからOB会有志による世代を超えた集まりに育ててもらった。常連を代表して改めて同君に満腔の敬意と感謝をささげる。
発足時のメンバーだったドサこと川内三千雄に報告とともに冥福を祈る。
11月28日(土)昨日(27日)は、大分から小倉⇒(新幹線)⇒福山⇒(しまなみライナー)⇒今治と大移動をして、ニセコの宿で知り合った黒川さんに会いにやってきました。彼とは新婚旅行でアラスカに行くのをアドバイスしたのがご縁で、更に、私のアラスカ旅行の時デナリで同じホテルで会うことが出来た奇縁の人です。久しぶりに黒川さん、奥様そして二人の可愛いお嬢さんたちと楽しい夕食を楽しむことが出来ました。山で知り合った人に私は本当に恵まれています。
今日は朝からレンタカーを借りて一路剣山を目指します。100名山を完登することに今夏に決めてから、雨飾山、高妻山等天候で登れませんでしたが、西日本でぽっかりと残ってしまった剣山は、なかなか場所的にもこの山だけに行くにはコスパが悪すぎます。そこで、今回の国東半島のロングトレイルの帰りに立ち寄ることにしました。
幸い、天候に恵まれ、思ってもいなかった素晴らしい霧氷の中、のんびり楽しむことが出来ました。登山路は雪道でしたので、また、帰りのフライトの時間もあるため往復リフトを使用しましたが、リフトの終点から、わずか30分で山頂到着出来ました。多分下から登っても1時間半はかからないでしょう。標高19,55m 100名山91座目終了です。
この日は、今治から美馬IC 、そこから剣山を往復しますが、片道50kmで1時間少々、舗装はしているものの、道は大変神経を使う林道でした。最終地点への到着した徳島空港まで全走行距離は315kmで無事到着、空港ビルで一杯飲んで、飛行機に乗り込むと飛び立つのも知らないほど心地よく居眠り、そして爆睡、あっという間に羽田に到着していました。
久しぶりの映画館での鑑賞。
西部劇とは言うものの「ピアノレッス
牧場を営む対照的な性格の兄弟が主人公で、兄フィルは、TV「シ
ま
帰りに、久しぶりの西部劇を劇場で観たことの記念と内容的に疑問
(菅原)最近の西部劇は、「荒野の決闘」が、まるでお伽噺。新宿御苑の紅
先日、CATVで見た「荒野のストレンジャー」(原題:High Plains Drifter。1973
年)。7月17日(ただし、年は不明)、NHK BSプレミアムでやったらしいので、先輩の卓抜な感想がある筈。従って、ここでは屋上屋を架すことはしな
イーストウッドこと東森の2作目の監督作品で、初めての西部劇。
最後は定石どうり馬に
(編集子)この作品もそうかもしれないが、小生もスガチュー君の感想に組するものである。映画という表現形態をとってあらわされるものが何かはもちろん固定的なものではありえない。だが西部劇、という、ま、滅びゆくジャンルかもしれないがそれが持つイメージはそっとしておいてほしいものだ。しかし世の中のエラーい先生方の評価はそういう原点には無関係であるようだ。ウイキペディアの本稿の執筆者がどういう人物なのか知る由もないが、解説の一部はこうなっている。
本作は批評家から絶賛されている。Rotten Tomatoesでは27個の批評家レビューのうち96%が支持評価を下し、平均評価は10点中8.5点となった。サイトの批評家の見解は「ベネディクト・カンバーバッチを中心とした輝かしいアンサンブルによって生命を吹き込まれた『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、ジェーン・カンピオンが、同世代の作家の中で、最も優れているうちの1人であることを観客に再確認させる。」となっている]。MetacriticのMetascoreは14個の批評家レビューに基づき、加重平均値は100点中90点となった。サイトは本作の評価を「幅広い絶賛」と示している]。『インディワイヤー』のデヴィッド・エーリッヒは、「『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、あまりにも早くいそいそと観客に牙を突き立ててくるので、エンドクレジットが終わるまで、あなたは自分の肌が刺されていることに気付かないかも知れない。しかし、この映画のエンディングが齎すゆっくりとした嚙みつきは、見る者に十分な傷跡を残すことには変わりない。」と表現し、映画の鋭さを賞賛した……..云々だよ、菅原君。
(小泉) 「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のこと。西部劇の爽快さは期待でき
真珠湾の奇襲は現地時間1941年12月7日午前7時55分(日本
これからは私見ですが、奇襲前に淵田中佐の搭乗機から松崎大尉が
「全員攻撃せよ」を意味するト(・・ー・・)の連打だけ,攻撃終了後「奇襲成功」の意味のトラ(・・ー・・ ・・・)の連打だったのでは。
そして、旗艦赤城からの電文(写真)が呉の戦艦長門で受信されたの
(編集子)ハムの世界での大先輩の解説を及ばずながら補足させていただく。 同じラジオでも短波と呼ばれる周波数になると電波は地球表面と上空にできる(季節や時間によって変わる)電離層と呼ばれる、いわば電波を跳ね返す鏡みたいなものの間で反射を繰り返すことでと遠距離まで到達する。インタネットの現代と違って、海底電線のない地点の間の通信は短波のラジオによることしかなかった当時、この短波帯の中でも始末のしやすかった7メガヘルツを使用する通信機が使われていたのは理解できる(周波数が高くなると部分品をはじめとして通信機の製作は難しくなる。当時の日本の技術や製造レベルから考えて戦闘機に搭載できるような通信機の大量生産はまだできなかっただろう)。現在、アマチュア無線の世界でもこの7メガヘルツ近辺の周波数は主要な戦場として使われているが出力150ワット、というのはそのアマチュア無線家の間では中級程度の技量を持っていないと使用できない(最上級のライセンスで使用される実質上の最高出力は1キロワットで、地方の放送局と同じくらい)。また電波を発射あるいは受信するためのアンテナにしても、航空機に搭載されるものは非常に能率の低いものに制限せざるを得ない(ハムの常識からいうと7メガヘルツを効率よく扱えるアンテナは原理上20メータの長さが必要)。こういうことから判断すると、浅野君が淵田機から直接ではなく、旗艦赤城かの転送だったのではないか、と疑っている気持ちもわかるが、ハワイから広島まで、この時間帯の電離層の具合から言って(7メガヘルツくらいだと、夜間のほうが電波は遠距離まで届く)この通信ができたのは(ハムの判断では)非常に幸運だったのでは、ということである。
(船津)門外漢ですから分かりませんが、二イタカヤマノボレは長波で送信
昨日が8日だったからそうではないかと思っていたが、1日遅れて今日のBS劇場は トラトラトラ である。何回か見ているので目新しくはないのだが、新聞に出ている番組紹介が主演を マーチン・バルサム と書いているのにちょっと驚いた。バルサムが演じたのは当時真珠湾軍港の海軍指揮官だったハズバンド・キンメル大将で、陸軍指揮官だったウオルター・ショート中将(ジエイソン・ロバーツ)とともに戦後真珠湾の防衛の責任を追及されることになる人物なので、筋書き上、重要であることはわかるが、山本五十六の山村総ほかもっと重要な役を演じた名優が沢山いるのに、という意味である。しかし念のため例によってグーグルをあさってみて了解した。グーグルの紹介記事の一番上にバルサムが載っていたからである。欧州戦線の最大の山場ノルマンディ上陸を扱った 史上最大の作戦(原題の The Longest Day のほうがはるかにいい、翻訳タイトルの失敗作だとおもうのだが)でも大物俳優が多すぎて、彼らのメンツを推し量ってクレジットタイトルはアルファベット順にしてあったが、おそらくこの作品も同じことだったのかもしれない。
さてこの映画と同時に、昨日、今日と80年たった今、というタイミングでいくつかの秘話が掲載されている(読売新聞)。そのことを書きたい。
一つは当日、空母から発進した航空機群とは別に、ひそかに湾内に潜入した特殊潜航艇5隻のことである。この5隻の戦果がどれほどあったのか、詳しく書いた資料はまだ見たことはないが、乗組員10名はいずれも戦死したとされていて、当時国内に発表された記事では 九軍神 となっていた。うち1名が経緯はわからないが米軍の捕虜になっていたからで、死すとも虜囚の辱めを受けるな、としていた当時の軍指導部にとって、開戦当日に起きたこの事件はあってはならないものだったからだ。今回、この捕虜となっていた酒巻少尉のご遺族のたっての願いが報いられ、九人の仲間たちの顕彰碑のかたわらに同氏の記念碑が建てられ、80年たって仲間たちと会えることになった、という記事である。大戦で亡くなられた方は数知れないが、このような軍機とか政治的理由などでその最後が圧殺されてしまった方々はほかにもあるだろう。ただご同情申し上げるほかにできることはないのだが。
もうひとつはこの映画のタイトルになっている暗号電信、トラトラトラ を搭乗機から打電した松崎大尉の話である。大尉が当日の指揮官淵田中佐の搭乗機に同乗しこの歴史的電信を発信したということをご遺族が語ったという記事だ(大尉はその後マーシャル沖で戦死された)。この場面は トラトラトラ でも代表的なカットで、オアフ島まで敵に会うことなく潜入した、田村高広演じる淵田中佐が ”奇襲成功だ、トラ トラ トラ や!“ と絶叫する。この作戦のすべては攻撃部隊が現地防衛軍の準備ができないうちに奇襲する、という一点にかかっていたからだ。
この真珠湾攻撃が、日本の正式な宣戦布告の前におこなわれたことから、treacherous attack として米国民の怒りを買い、ルーズベルト大統領が政治的優位に立つことを可能にした(ルーズベルト自身日本との対決はやむを得ずとしていたが世論はまとまっていなかった)、というのは事実であったし、映画でも情報部のブラットン中佐(エドワード・マーシャル)は攻撃のあることを確信して上申したにもかかわらず大統領が拒否したことになっている。山本は在米経験からアメリカ人がフェアプレイを最高の仁義と考えていることを知り抜いており、攻撃以前に公式な通知が必ず米国に伝えられることを最後まで要求していた。映画にあるように, 現地大使館に文書は届いていたにもかかわらず、単なる事務的な遅れで提出が間に合わなかった。この通告が事前に届いていれば、真珠湾攻撃は正規な戦争行為であり、現実の戦果はともかく、”ジヤップは卑怯ものだ“ という汚点を歴史に残すことはなかったはずだ。しかし史実は面白いもので、映画の中でも上記した酒巻少尉らが、湾口を警戒していた米艦ワード号から攻撃を受けたのは実はまだ ”トラトラトラ!“ が実現していなかったので、この日米開戦の第一弾を放ったのは米国、ということになるのだという。
映画とは全く関係ないがもうひとつ、この トラトラトラ はハワイ近海にいた母艦赤城にあてたものだったが、それははるか離れた広島県呉にいた戦艦長門でも受信された。映画では興奮した通信士官が山本の席に飛び込んで、”長官、トラトラトラ であります!“ と報告する。しかし山本はじっと目をつぶったまま微動だにしない。部屋には一瞬、静寂が訪れる。おそらく山本の胸中には(すでに通告が事前に届かなかったことは伝わっていた)、来るべき戦争がいやがうえにも難しくなった、ということがわだかまっていたのだろう(右の写真はグーグルに長門、として載っているものだが果たして本物か映画用の代替か、小生にはわからない。本当の長門は戦後、米国軍による原爆実験に使用されて悲劇的な最期を遂げている)。
もう一つ、多少、無線交信に知識を持っている小生として、日本戦闘機の発信した信号が広島にいた長門に、ハワイ―日本間の、この時間帯の電波伝搬状況で届いた、という事実が興味深い。この当時、戦闘機に搭載されていた送信機の性能はどんなものだったのか、とか、周波数はどのくらいだったとか、このあたりの博識をもって知られる浅野三郎くんの解説を期待すること大である。また関連して史実で言えば、この山本五十六は2年後、南方戦線で米軍機に撃墜されて戦死するが、これも実は現地の司令官が山本の旅程を到着地に知らせるべく打った信号を米国司令部が受信、現地の戦闘機に迎撃させたというのが真実である。当時の米国の通信機の性能ならばかくありなん、と納得するのだが。山本機を撃墜した米国のパイロット、ランフィーア大尉の回顧をどこかで読んだ記憶もある。いずれにせよ、当時世界の通信・情報技術がもう少し進んでいたら、歴史が変わっていただろうと改めて感じる。
ここでまた、時代は大きにずれるが、レッドオクトーバーを追え で、潜水艦ダラス艦長スコット・グレン(このエーガでまたこの俳優が好きになったのだ)がレッドオクトーバーの艦長(なんせショーン・コネリーであります)に発光器でモールス信号を送る場面がでてくる。最初のコンタクトぐらいはいいのだが、実に複雑な情報を伝えなければならないうえ、電信手には任せられないので ”俺のモールスはさびついてるんだが“ と自嘲しながら送信する。モールス信号には個々の文字だけでなく、意味を持った略号(誰でも知っているSOS のような)があることはあるが、それでもあんな複雑な意思が、専門の電信兵でもなくて伝えられるのだろうか、これも電信の名手浅野君の意見が聞きたいが、このあたりがやはり、エーガはフィクションである、という当然のことなのだろうか。
日米開戦にあたって改めて決めてあったいくつかの暗号の候補から、淵田中佐が自分が寅年であることと、”千里を走る”という意味でこの暗号 トラトラトラ を選択した、ということで、その縁起がこの長距離通信を可能にしたのかもしれないが。ついでに言えば、最終決定に先立って北太平洋を進んでいた旗艦に開戦日の最終決定を告げた電文が ニイタカヤマノボレ であったことは良く知られている。当時、台湾の高峰新高山は日本の領土にあったのだ。
ワクチンの2回接種を終わり、3回目の接種(ブースターというらしいです)が話題になっています。ご覧になった方も多いと思いますが、東京新聞の記事抜粋をご参考までに。
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新型コロナワクチンを2回接種してから数カ月がたち、
◆これが「ブースター効果」か
図の通り、抗体価の推移はジェットコースターのようだ。
喜んだのもつかの間、1カ月たつと半分以下に。
知人で横浜市在住の大学教員、鎌田素之もとゆきさん(48)=
◆急減から緩やかに
ただ、表計算ソフトでグラフ化してみると、「1カ月で半減」
本紙の産業医で、
◆未知の領域、個人差も大
抗体価がどれだけあればいいのか、
そもそも人によってワクチンによる抗体の獲得状況は大きく異なる
日本でも3回目の接種が始まったが、
まぁそんな自由な校風でのほほんと10年間過ごし、
鉄鋼での新製品の売り込みと同じで回線問屋-海鮮問屋-
しばらく遠ざかっていたBS劇場で、再見。いくつかのことが重なって、じっくりと観た。
一つはマイケル・ダグラス。彼の作品は正直言うとあまり見ていない。彼に興味があるのは、小生の年代ならそうだろうが、やはり ”カークの息子“ ということだろうか。たたき上げの俳優カーク・ダグラスを始めてみたのは 探偵物語、中学生の時である。普通なら中学生(そのころの)が見る映画ではなかったのだろうが、慶応普通部には教育の一環として生徒に映画を見せる、という授業時間があって、”聖衣“、かのシネマスコープ第一号、を観たのもそうだし、この映画もそうだった。”聖衣“ はキリスト教の一部を学ぶ、ということで意味はあっただろうが、探偵物語 が果たして教師同伴で中学生が見るべきものか、ということは父兄の間や教員の一部にも異論はあったらしい。何しろ姦通という、オトナであっても難しいことが背景になっている映画だったからだ。しかし今、すがめで見てみると、あれを選択した先生は実はカーク・ダグラスにほれ込んだからではないか、と思えるほど、15歳の少年にも衝撃を与えた俳優だった。それ以来、彼の黄金時代にはかなりの数の作品(史劇物は敬遠したけれども、あまり評判にはならなかったが御贔屓ドロシー・マローンと共演した ガンファイター は特に好きだった)を見た。その息子なのだから興味があって当然かもしれない。
しかしもう一つの興味は、松田優作、という俳優を改めてみてみたい、ということにあった。ただその理由は、多くの人たちがこの特異なキャラクタを持つ俳優、という目で彼を評価するのに対して、小生の単純な理由は 横浜ホンキートンクブルース をうたった歌手、としての彼を見たい、と思ったからだった。この歌のことを教えてくれたのはHP社の営業部門でただ一つのお荷物、といわれた事務用(当時はまだ事務用・技術用という区分があったのだ)コンピュータで悲鳴を上げていたころ、最大のカストマ(になるはずだった)C社とのルート開発に血の道を上げていたとき、先方の担当窓口だったS さ
んだった。出先で音楽を聴くとなればカセットテープくらいしかなかった当時、計画通りに事は運ばず、悶々としてアイダホ州はボイジーのモーテルのプールサイドでバドワイザー缶を片手に何回もこのブルースを聞いた。カントリーにも興味があった当時、いわばその本場にいながらなぜ、ヨコハマあたりの嘆き節を聞いていたのか、今思っても判然としない。しかしいかにも blue な気分にはぴったりしていたからなのだろうか。今自宅には原田芳雄版しかないがときどき、しんとした夜中なんかに気分を出して聞いている。
三つ目の理由はやはり高倉健。この映画と所々でごっちゃになるのだが、ロバート・ミッチャムが主演し、岸恵子も登場した ザ・ヤクザ というやはり日米にわたる犯罪捜査の話である。もともと、ブラックレインにせよヤクザにせよ、(言葉もわからんでこうは行くめえよ)という連続の、難しいことが好きな評論家先生方にはあまり評判のよろしくない映画なのだが、その中で、ある意味、(ああそうか、こういうことがアメリカ人のみる良き日本人なんだな)という役がご存じ健さんなのだ。この両方に登場して、全く瓜二つ、とでもいう役を淡々と演じている。英語も達者なものだ。健さん、といえば任侠ものを見なければならないのだろうが、小生は一本もみていないので、船津於菟彦はじめファンの方には肩身がせまいが、小生には 幸福の黄色いハンカチ とこの2本で十分、しっかりケンさんびいきになっている。
映画の筋書きそのほかについては特に書くべきこともない。ただ画面の血生臭さや爆音のなかで、この三つのテーマ、をあらためて味わった、ということか。