畦地梅太郎展へ行ってきた

僕らが卒業する前後の60年から70年代へかけて、”山と渓谷“ とか “岳人” あるいは ”岩と雪” などの山岳専門誌にくわえて、”アルプ” という雑誌が登場した。

雑誌とはいっても月刊、というような形ではなかったが、ほかの雑誌が登山そのものに集中し、内容も技術的なことやルートの紹介などが大半だったのに対して、山を歩く人、好きな人が書いた文章や写真、絵、だけを取り上げるという発想で、串田孫一を中心として、深田久弥、大谷一良、辻まこと、山口輝久などといったたちが趣向を凝らして作った、味があり、とても雰囲気のある本だった。ぼくらが一時期通っていた八方尾根 ”白い小屋” の発足秘話をオーナー夫人の大野榧さんが軽妙なタッチで紹介されていたのもよく覚えている。

その アルプ に山男をモチーフにして印象的な版画を発表していた畦地梅太郎の作品展が町田で開催されているのを、彼の長年のファンであるオヤエが見つけてきて、場所も近いし行こうか、という話になった。

どうせ行くなら近くで晩飯でも食おうか、というのは極めて自然なことで、それなら町田に住んでる仲間に聞くのが早い、とあいちゃんこと藍原君に連絡した。彼曰く、そんな場所は知りませんが、展示会にはご一緒しましょう、ということになり、結果として彼のバディである武鑓君、久米夫人のコブキこと行子さん、同期で小田急人をもって任じている岡と大塚両君(大塚は飲むほうだけ)とで出かけてきた。

結局、町田の名店さがしは断念して、ザンバこと山室兄に敬意を表してキリンシティで例のとおりの酒盛りになった。天狗の夜と多少違ったのは、アイルランド滞在が長かった大塚から なぜアイルランド問題が英国のEU離脱の障害なのか、ということについて解説があり、畦地作品鑑賞にくわえてなかなかハイブラウなひと時であった(”天狗の夜” にも多少の知的要素があってもいいかと思うが、ま、難しいか)。

( 注)山室はキリンシティで社長として敏腕をふるい”中興の祖とうたわれた(すこしほめすぎか).。雑誌アルプは昭和33年創刊、300号で惜しまれつつ廃刊。現在、中央線日野春駅近くにファンだった方が始められたアルプ記念館がある。

 

畦地梅太郎の作品は素朴で味があり、オヤエさんお気に入りと云うことも納得できました。
町田にあのような高名な版画家がいたこと知りませんでした。小生の近くに彼のアトリエが公開されているようなので、近いうちに散歩がてら訪ねてみます。
武鑓

 

やっと涼しくなった一日、「畦地梅太郎展」にお誘いを受け、楽しい絵が一杯で豊かな気持ちになりました。

久しぶりの町田版画美術館、、芹が谷公園の巨大噴水というか水車も懐かしくその後のキリンシティでは美味しいビールも味わえた上に大塚さんによるアイルランドの歴史などの講釈、文化的な一日でした。お誘い頂きましてありがとうございます。

加えて帰宅後ラグビーW杯の第一戦、手始めのロシア戦に圧倒的な日本の勝利、感激して泣けてきました。本当に忘れられない一日になりました。

余談ですが畦地梅太郎展で見た「涸沢」モンベルで購入した吉之助のTシャツの柄だと気が付きました。売店でその絵葉書を購入しまして帰宅致しまして吉之助のTシャツを見ましたらまさしく畦地作品でした。写真を添付致しましたのでご覧ください。   KOBUKI


 

 

夏合宿 ”反省しない会” のこと

OB会夏合宿には、恒例として山歩きではない、僕らのころの用語でいえば 里ワンデルング のプランが設けられている。第何回目のときだったか、鳳凰三山での時は小生が担当を仰せつかって、集合地青木小屋に近い里、ということで八ヶ岳山麓の周遊を試みたことがある(この時は大病を克服した40年河合君の復帰プランだったということでも印象が深い)。

そのプランだが、ここの所数年は、毎年、37年のイノキンこと猪股清郎君が主宰するプランに人気が高まっている。完全主義者のリーダーらしい完璧なプランをもとに、テーマを持ち、歩くだけではなく知的活動も含めて、ある意味ではワンダーフォーゲル活動の源泉ともいえるプランだ。それを優れたベテランクライマーでもある猪股君が主宰していることにKWVの伝統が息づいているようにも思える。

このプランは発足以来、オリジナルメンバーというかイノキン一家というか、毎年必ず参加する仲間も多く、さらにその終了後行われている反省会というか親睦会も参加者はプランの延長として楽しい時間を過ごしているようだ。この会は猪股君の発案で 反省しない会 と名付けられ、名代のエピキュリアンであるリーダーの好みに応じて、食通の店で開催されている。猪股君から八恵子あて送られてきた写真をみせてもらい、会の楽しさがあふれているものなので、借用して掲載させてもらうことにした。ちなみに今回の開催場所は神楽坂の おいしんぼ で湯葉料理を満喫したとの事である。イノキン君からの案内を紹介しておく。

各位
今日は楽しい会をありがとうございました。狭い会場でしたが、皆様の「知性」のおかげさまで、お話のレベルも熱く高く、単なる「打ち上げ会」を越えていた様に思います。
二次会も楽しかった。有難うございました。
写真、送ります。
猪股 拝

“とりこにい” の話 (36 後藤三郎  40 河合国尚 47 関谷誠)

ブログ読んだよ。粋な文章は昔からのものだね。トリコニ―は6番だったように覚えているが他にクリンカーとムガーという釘のような単純な鋲も沢山私の裏底には打ってあった。今日はこれから築地で夏合宿の第4班の反省会に赴きます。今週から秋のリーグ戦が始まるので暫くは土曜日は軟式野球を楽しみます。
最近はプレーヤーはダメでスコアラー)。
三郎
読ませていただきました。懐かしいですね。
兄に電話をしたら、そんな靴を履いていたかなぁ、と全然覚えていませんでした(笑)ジャイさんのことは懐かしがっていましたが。
私は覚えています。兄が荻窪駅の階段で「ナーゲル」を階段にかけ      滑って転んだ話があるのです。それも覚えていませんでした。何年も
前の話はおろかちょっと前の話でさえ、覚えていないのに、とぼやいて
いました。
デシ

  ありがとう。

  兄貴はコワモテの先輩だったよ!
  Gi

台風15号が関東を直撃の様で何もなければと願っております。(それとも八ツの方に避難されていらっしゃるかな!)

ところで、「トリコ二-」との懐かしい商品名に遭遇しました。

実は、8歳上の兄が、東大薬学部の学生時代、仲間と山・スキーを同好し、私の高校時代、その兄の仲間と、時たま、山やスキーに連れて行ってもらったのがKWVに入部した切っ掛けでしたが、兄が「トリコニー」の山靴を愛用していたのを覚えております。

(当時の私は流行りのキャラバン・シューズでした!)

KWVに入部して、飯田橋の双葉でビブラムの山靴を、親の金で、あつらえた時、「生意気に!羨ましい!」と云われたのを覚えております。商品名ビブラムは健在ですが、トリコニーもキャラバン・シューズも死語になってしまったのですね。

「昭和は遠くなりにけり」ですかね!

関谷

さらば愛しきアウトロー

不思議な映画だった。普通の映画なら見終わった後に、面白かったとかくだらなかったとか、凄かったとかなんとか、映写されたものに対していろいろな感情が湧くのだが、これにはそれがなかった。見た意味がなかったかと言えばそんなことはもちろんないのだが、考えてみると普通の映画にはその映画が切り取っている時代や世界や物語の背景などがあって、その中に自分をいわば投影してみている。見終わってみて、自分がその中にいない、いなかったことを実感して、改めてその映画を評価するのだが、この映画ではそれを見ている(いた)自分と見終わった自分との時間・空間的な隙間が感じられないのだ。つまり映画にあらわされた世界が自分の世界と区切られていないという気がする。

ロバート・レッドフォードは1936年生まれ、つまり小生と同い年(正確には数か月彼のほうが先だが)。アメリカが最高の時代に世の中に出て、ケネディからベトナム戦争をへてそれがもろくも潰えてしまった30年の空気を味わい、歴史が作られてゆく過程を目のあたりにしたある意味で同志でもある。そしてこれを最後に俳優稼業をやめる、と宣言して、自分がこれからどうしていきたいのか、それを画像にした、そういう映画なのだ。この映画には筋書きらしいものがない。タイトルから想像されるかもしれない悪人も一人も出てこない。活劇もなければお涙頂戴シーンもなければお色気話もない。じゃあ、なにがあるのか。

数日前のテレビで、かつて慶応野球部の最高のエースの一人だった天才投手志村が、”なぜプロに行かなかったのか” を語るのを見た。自分は野球が本当に好きだった。しかしいつかはそれと別れなければならない日が来る。その日を自分で納得して迎えたかったからだ、そしてそれが学生時代4年間の燃焼だったとわかったからだ、というのだ。感動した。それと同じ感動を、この映画は与えてくれた。レッドフォードが残る時間をどう生きるか、形はもちろんわからないが、それを費やしていく過程が自分に残された人生の燃焼のかたちと同じような気がしてならない。そんな気持ちにしてくれた2時間だった。

自分もいっぱしの映画ファンではあるが、こんな映画は今まで見たこともないし、たぶん、これからもないだろう。

 

東北被災地再訪 (34 小泉幾多郎)

今回のボラ活地激励訪問プランに参加してきました。8年前のボラ活動が、亀井先輩が、打ち上げ式で言っておられたように、KWVが文連所属が故の滅多にない素晴らしいプランだったことが今回のプランで、認識することが出来ました。写真も関谷さんから、12枚送ってもらい、今回の楽しく過ごした思い出がよみがえりました。

小生の写真は、偶々宿泊地小渕浜の夕日と虹を撮ったものがありましたので、送信しておきます。

(今回の 通称”ボラ活”再訪プランは無事終了し、曾遊の地で思い出はなしに花が咲いたようだ。詳細はリーダーの河合君が次号ふみあとに投稿されるはずなのでそちらをご覧いただきたい)

緊急! WANTED ! 

先の東日本大震災支援プランの ”その後の東北” を尋ねる企画が発表されたが、まだ予定人数には大分余裕があるとのことで、参加者を募集している。内容はすでにメールがとどいているはずだが、概要を再掲する。

KWV総力挙げてボランティア活動した多賀城、石巻牡鹿2か所は順調に復興を続けていますが、多賀城の現況を視察見学し、ホヤ漁用の土俵作りをした前網浜の漁師さん達を激励訪問したいと1泊2日のプランを企画致しました。「ホヤ漁が再開したら食べに来てください。」の約束を実現させましょう。ボランティア活動した有志の皆様や、震災当時のボラ活には参加出来なかった方も、是非奮ってご参加下さい。
尚、プラン最終日にはボランティア活動での物心両面からの絶大なる支援、又KWVの為長きに亘り心強いご尽力を頂きました亀井昭伍先輩(S27)と共に仙台で打上げ会を開催予定です。

日程: 2019年6月8日(土)~9日(日) 1泊2日

宿泊:牡鹿・小渕浜  割烹民宿「めぐろ」
行程:・6/8(土) 集合:仙台駅2F中央口改札前・各自10:20迄 ⇒
仙台東口バス駐車場発:10:30
東京⇒仙台 東京発「やまびこ」7:32/7:44/8:08のどれかで現地へ各自集合。

<貸切バスで移動>仙台-多賀城視察-牡鹿・前網浜訪問-民宿「めぐろ」。
多賀城下車見学(昼食)、牡鹿・前網浜漁業生産組合11名の皆様と激励歓談会を開催予定。6/9(日) 民宿「めぐろ」-鮎川浜視察-仙台-打上げ会/亀井先輩-解散・各自帰京。

前網浜の現況は、鈴木信男組合長を中心に総勢11名で新たに取り組んだ「定置網漁」と「ホヤ漁」で頑張っています。海も浜も整備され、祭等の伝統文化も再開。共に作業した牡蠣殻でのホヤ漁土俵作り、その土俵から採り立ての新鮮なホヤを肴に酒酌み交わし再会と復興を喜び、楽しい激励・歓談会を前網浜で催したいという計画です。

参加申込書先                *申込期日:4月30日(火)
卒年: 氏名: 連絡先:アドレス&携帯Or電話をS46石渡美知江までご連絡下さい。(  michie@q07.itscom.net / 090-7400-8761 (SMS可)

実行委員長:河合國尚(S40)  Sub.兼総合企画担当:田中 透(S41)
実行委員:石渡美知江(S46) 関谷 誠(S47) 伊川 望(S47) アドバイザー:菅谷國雄
(S37)

 

令和元年 憲法記念日 八ヶ岳南麓

小淵沢拙宅の山桜

父親が大事にしていた掛け軸の一本を覚えている。

駒とめて 暫しは我を忘れけり 朝日に薫る 山桜花

誰の作品だか覚えていないが、明治の元勲のだれかである。まさに 坂の上の雲の時代、といっていい香りがする。

令和の最初の憲法記念日、快晴、無風。釜無川左岸にひろがる農地は平和そのもの、日本の原風景のなかにたゆたっていた。

 

”クラブハウス” のその後 - ご意見をお寄せください

17日、OB理事会二次会でのほろ酔いのままで書いた ”クラブハウス” についての記事にここ10日間で頂戴した反応をご紹介する。紙面の都合で原文に多少手を加えさせていただいた。諾否に関係なく、実務上のことでお寄せいただいたメールは割愛する。

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(1)ジャイさんのご提案に大賛成です。有り難いです。
少し上品なジジも閉店してしまいましたし、銀座ブリックもギリギリ昔の雰囲気を残していますが、昭和のジジイがたくさん集まって大きな声で喋り、角瓶を飲み倒すのは少し憚れるように思っていました。都内の山荘またはアジトがあると楽しいと思います。ぜひ実現してほしいです。微力ですがお手伝いさせていただきます。
(2)素晴らしい案ですね。懸念するのは管理体制だと思います。願わくは少し料理ができるキッチンがあるといいな~と思います(笑)赤字が出たら誰が補填するのかな・・・?? 100人くらいから一人3~5万円集めて基金にしますかね?利用者は結構あるでしょうね?
(3)ご提案のKWV三田会クラブハウス設営の件、賛成です。
日頃のKWV仲間との山行など(特に海外遠征)で事前準備会をやる場合やチョットした打ち合わせする場所がなく、不便を感じていましたのでクラブハウスは利用価値大です。是非、実現してほしいものです。
KWV三田会の諸行事によく参加している方、各代代表などにジャイさんに声かけて頂き推進委員会を立ち上げたら如何でしょうか。
(4)プログ拝見、趣旨に賛同します。
前から、石田事務所に迷惑を掛け続けていると、気になっていました。
本件を進めるに当たって思いつく事は
●ワン・ルームマンションの賃借は容易なれど
 不特定多数の出入りには種々の制約・条件があり、融通の利く対称があるか
●契約の主体(執行部or発起人代表)、運営・管理の責任者をどうする
●独立したクラブ会計の開示・利用料の管理 等々、課題も多く、実現に向けて
有志で検討委員会を立ち上げては如何でしょう。
この際には現執行部のメンバーも必ず加わる事が必至です。

(5)KWV三田会で気楽にいつでも集まれる場所を持つことは望みであり夢でもあります。適当なところがあれば実現したいですね。否定的なことを言えばいろいろありますが検討してみるのは賛成です。集まれる所が難しければ書類、物品等を保管するトランクルームを借りるのも一案かと思います。

(6)ブログ拝見し、ご提案の件 しっかりと目を通しました。いつも 前向きで意欲的なご提案 有難うございます。
これだけ大きな会ですから、幹事の打合せや各学年ごとの懇親会など 活用の余地は大いにあると思います。
問題は お考えの通り適度に便利な物件・場所が見つかるかどうか?
費用負担をどうするか?でしょうか。
加えて 「10年ごとに 必要性を見直す」 と言うことを決めておけば その時の幹事が決断し易いと愚考します。(物件の契約条件にもよりますが)
10年後は S50年卒の若手(笑)が 後期高齢者で、人数はかなり少なくなりますね。

(7)気楽に集まれる場所があること。面白い企画だと思います。ただ、気になる点もあります。ひとつは、今年75歳になる我々42卒の代の集まりでも、健康問題で参加者が年々減少していることです。数年前までは最低でも10数名がすぐに集まりワイワイガヤガヤとやっていましたが、最近では5~6名しか集まらないことが多々あります。これからはもっと減っていくのではないか、借りた場所が宝の持ち腐れになってしまうのではないかという心配です。ふたつ目は、これまではKWVの各種集まりでも50年卒ぐらいから下の代の新規参加が少なく、数年後を考えますと借りた場所を維持管理していく人がいるのだろうかという懸念です。「使った人の自主管理」が原則ですが、それでも中心になって目を光らせている寮長(或は大家さん)のような存在が必要ではないかと思っております。私たちが元気な間はいいのですが、集まる仲間が減っている現状を考えますと、数年後が心配になります。もう10年若ければこのようなことは考えなくても良かったと思いますが・・・。逆に言うとこのような場所があれば参加者が増えるという期待もあります。S34年~37年卒などの代の方々が私たち以上にお元気にこのような企画をお考えになったり、また夏合宿やスキー合宿を引っ張っておられるのが、後に続く私たちの代の大きな励みになっておりますので。

(8)嬉しいご提案 待ってました~大賛成!今後は家から毎日お部屋に通いましょう。ホステスにして頂ければ、若返るわッ!

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いろいろなご意見をなるべくたくさん頂戴して、酔い覚めなどではない状態で現実に即した提案をしたい。もちろん、否定意見も大歓迎なのでお考えを、できれば5月末ごろまでにお寄せていただきたく思っている。特にOB会実務で苦労されている現執行部メンバーのご意見をいただければありがたい。

 

小泉先輩へ (横河電機OB 舟橋利信)

中司君と横河電機同期入社のものです。

彼のブログの 花隠し、花筏 記載の中に白幡池、菊名池のことが書かれていました。

私のふるさとの池です。菊名池は我が家から100m、今は埋め立てられ昔の1/10になっています。ボートが沢山浮かび、毎日のように給食の残りを橋の欄干から落とし鯉への餌撒きをしました。白幡池は我が家から1km弱釣りをよくしました。高校先輩の岸恵子の家がすぐ側。

両方とも我が幼少の頃の遊び場。懐かしき思い出。胸キュンです。ありがとうございました。

(小泉返信)

舟橋利信様の白幡池、菊名池を懐かしむ投稿をみました。懐かしき思い出、胸キュンとありましたが、こちらも何となく昔を思い出してしまいました。高校先輩の岸恵子ということは、平沼高校出身?小生は男女共学になって2年目の入学でした。折角男女共学の高校に入り、クラスも当然男女一緒だったのに、2年生になったら、どうも勉強に身が入らぬと曲解?する先生がいて、男女を分けてしまいました。ということでOBになってのクラス会は、今でも1年生の時のクラスでやっています。

 妙蓮寺か白楽あたりに住んでいたとしたら、もしかしたら中学校は、浦島丘中学?小生は当時、新子安在住で、歩いたり東神奈川駅まで電車に乗ったりして通ってました。高台で港が良く見えました。当時は漁師町?の学童が多く結構ガラが悪かった?

 ひょんなことで昔を思い出しました。こちらからもありがとうと言いたいです。

たまエンパワーと多摩電力について

地球環境問題や災害支援など、いろいろな形での運動があちこちで、地味だが確実な成果を上げてきているようだ。われわれOB会有志による大震災支援などもその一例だが、編集子の高校時代、会社時代を通じての親友、ヤマこと山川陽一君とご子息勇一郎氏が長きにわたって多摩地域に自然エネルギーの活用を広げようと努力されてきた結果が、雑誌 ビッグイシュー に掲載された。この雑誌はホームレスの人々への支援などを中心に活動している団体の発行のため、一般の目に留まることはあまりないようで、小生も今回はじめて読む機会を与えてもらった。ヤマのOKをもらったわけではないが、掲載ページの一部をご紹介する。

タイトルにした 多摩エンパワー、多摩電力 が山川父子が中心となって起こした、多摩地域に自然電力(ソーラー発電)を供給しようと始めた運動の成果である。彼らがどのような経過でここまできたか、についてはここでは祖述しないが、典型的なサラリーマン生活を卒業してなお、自然問題にみずからかかわり (同君は義塾山岳部OBで日本山岳会で環境問題についての指揮をし、一方では我々にもなじみの深い高尾山の植林活動の創立メンバでもある。36年鮫島君は高尾での活動に加わっていて旧知の間柄)、素志を貫徹した姿勢にはただ敬服するしかない。また勇一郎君は若くして自然保護にかかわる道を選び、豪州でそのための教育を受けてきたプロであり、ヤマの理想の実現に真正面から取り組んでおられる。今後の発展を祈りたい。さらにご興味を持たれた場合は小生あてご連絡いただければ山川君にご紹介する。

なおビッグイシューは一般書店では販売しておらず、山手線や都内JR主要駅、新宿では駅周辺のデパートなどで入手できる。発行元メールは info@bigissue.jp 。

また雑誌の発行元である 有限会社ビッグイシュー日本 の提唱するの運動には企業または個人単位での参画も可能であるらしい。