

旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
新規感染者が東京3000,5000を超える日が近いと理解していたら、なんとあっと言う間に3000をこえ、全国では1万5千人を超える大変な勢いとなってきました。
爆発的蔓延と言ってよい感染拡大で、パンデミックの典型的な型を取ってきたようです。国は感染者全員を調べないのでハッキリはしませんが、デルタ型が大部分を占めるようになってきています。そのこと自体は必然的なものであり、本来ならデルタ型にもワクチンが有効なはずですが、問題はVirus がこのような旺盛な繁殖・蔓延をしている時は、変異を起こしやすいとされています。デルタ型から次の変異株(デルタ+等)になって、ワクチンが効かなくなる可能性もあります。Virusの詳細な検索、研究とともに、ワクチンについても研究を進める必要があります。
「家庭でのTV観戦で人流は減少する」などと都知事はいいますし、首相は「五輪と感染拡大は関係ない」といいますが、緊急事態宣言は酒類提供店規制だけであるかのように宣言に人出抑制効果はなくなってきており、現実はオリンピック開幕以来人出が減っていません。第1回目の緊急事態宣言時の人流の変化とは大違いです。一般市民のコロナ慣れ、緊急事態宣言慣れが広がっています。TVでオリンピックの番組を見ていますと試合の時の各国選手団、関係者は、まさに密な状態で大声を挙げて応援しており、オリンピック関係者に感染者が続いております。オリンピックと同時に一般市民の間にも拡散していることは明らかで、かっての『スペイン風邪』(本来スペインは無関係)の名前がついてしまったように、不名誉な『東京五輪風邪』などと呼ばれる程の世界的蔓延とならぬよう祈るばかりです。
幸いに致死率は高くなっていませんが、感染者増加で一番困るのは病床不足となり、医療崩壊を早めることです。中等症、軽症者も本来全員入院が必要ですから、物理的に全く入院出来ない事態も想定されます。インドのように病院前に寝転がされている事態を想像してください。病院ベッドをもっとコロナ患者用に回せという声は大きいですが、現実は既に厳しい状態となっています。
オリンピック競技中にも熱中症が出ていますが、そのほかに心筋梗塞、胃癌、脳梗塞などの患者さんの治療を手付かずで放置するわけにもいきません。
Virusの蔓延で人口の何割という感染者を生むようになるか、何とかVirusを抑え込むことが出来るか、今は日本人の、ひょっとすると人類の運命の分岐点かもしれません。 今の感染者の年齢層は、20,30,10代が主となってきております。彼らに1日でも早くワクチン接種を受けさせるよう国に要望するとともに、接種回避ムードを打ち消さねばなりません。街中街頭飲酒は勿論のこと、「店に入らなけりゃいいんだろう」と連れ立って歩く若者を説得することも必要です。
感染者の多くが比較的長時間、多人数で、会食しています。私たちも残念ながら我慢を続けましょう。
19世紀末ウィーンに富裕なユダヤ人家庭に生まれ、2
映画の話はさておき、ツヴァイクの著作の中で僕が特に愛読したのが「ジョセフ・フーシェ」。(Joseph Fouché)。フーシェは激動のフランス革命、ナポレオン第一帝政、フランス復古王政時代を生き延びた鵺(ぬえ)のような権謀術数に長けたフランスの風見鶏政治家だった。この時期のフランスは日本で云えば幕末から明治維新のような国家の背骨が変化する乱世の時代。激動の政治・社会情勢の中で、人間の本性が、特に生き抜いた人間の本性が浮かび上がる。それら個性的な人間は小説家が描く格好の対象となった。その一人がジョセフ・フーシェ。
ポレオン体制では警察大臣を務めた近代警察の原型となる警察機構の創始者。秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家としても知られ、権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って、政敵を倒し激動の時代を生き抜いた。特にナポレオンの百日天下崩壊後は臨時政府の首班を務めナポレオン戦争の戦後処理を行った。自己の主義主張を貫くというよりは、変幻自在の冷血動物「カメレオン」の異名を持ち、自己保身に巧みで激動の時代のいわば裏街道を巧みに走り抜けた達人だった。ちなみに明治維新後、大久保利通に推された薩摩藩の川路利良は初代警視総監を務め、フーシェの警察機構を参考にして「日本の警察の父」と呼ばれる。
フランス革命からナポレオン帝政に至る時代を彩った多種多様な人物の有為転変、毀誉褒貶を歴史の激動の変遷を興奮しながら読んだのがこの本であった。ルイ16世、マリー・アントワネット、ミラボー、ダントン、サン・ジュスト、ロベスピエール、タレーラン、ナポレオンなどのこの時代の寵児ほど知名度もなく、知らないまま読んだ「ジョセフ・フーシェ」に歴史の大きな波と分水嶺、人間の煩悩、性、権力闘争、権謀術数のダイナミックさに魅了された本であった。
ユダヤ人のツヴァイクはナチスの影に怯え、1933年故郷オーストリアを離れロンドン、アメリカへの漂泊の旅は始まり、逃亡の旅の末1941年にブラジルに住みついた。ここまで辿りついたものの、ヒトラーは必ず勝つと信じ、彼の運命はヒトラーの追求によって絶たれる、と信じ込みノイローゼに悩む。ウイーン育ちのヨーロッパ人の神経では、ブラジルの土地と文化に溶け込めず、もはや行くところもない絶望感の末自殺した(没1942年、享年60)。もう少し生き延びていれば、ヒトラーとナチスの終焉を知り、ノイローゼも吹き飛ばせただろうに、残念ではある。僕は密かに、菅義偉首相のことを「菅フーシェ」と呼んでいる。
学徒出陣の史実について、数年まえになるが小生のフェイスブックに紹介した記事を紹介する。文中にあるシャコ貝は慶応高校時代、小生が中司君とともに所属していた新聞会(ハイスクールニューズ)で一期上におられた亀井先輩の父上が保管され、のち塾に寄贈されている (注:FBの原文を転載)。
本日の日経新聞に「特攻学と残した肉声」の記事掲載されています
慶應義塾の学徒出陣で調査されているだけで、2226名の方が戦
今慶應では慶應義塾と戦争シリーズⅢ 慶應義塾の昭和20年展
今回は昭和20年に焦点を合わせて、幼稚舎から大学構内の爆撃の
http://www.art-c.keio.ac.jp/ne
もう一つは開戦16ヶ月前に慶應義塾の野球部がハワイへ親善野球
先日、船津君からオリンピックについての投稿があり、そこで、第二次大戦の末期、学徒出陣の壮行行事のことに言及があった。そのことでだいぶ前のことだが、感動した2冊の本のことを思い出した。
小生の亡兄は当時旧制高校の名門の一つ、旅順高校に在学中であと半年も戦争が長引いていたら彼もその一人になっていたかもしれなかった。戦争の悲劇はそれぞれの立ち場から語られるが、この学徒出陣に関して自身その一人であった阿川弘之が書いた 暗い波濤 はずっしりと心の中に入り込んだ、という感触をもって読み終えた記憶がある。正確な日にちは覚えていないが、勤め帰りに立ち寄った代々木駅前の書店で偶然目に留まって、最初の数頁を拾い読みしただけで手放せなくなり直ちに購入した。その時気がついたら財布に残ったのがわずか数十円で、冷や汗をかいたことも覚えている。
第二次大戦当時の我が国での大学進学は現在と違ってほとんどは恵まれた家庭環境のものに限られていて、大学生、といえば文字通りの意味でインテリといえる若者ばかりだったはずだ。それが突然、想像もしなかった環境に放り込まれ、士官として百戦錬磨のベテラン下士官や兵を統率しなければならなくなり、それまでは哲学や文学の世界でしか意識したことのない死という現実に直面する。そういう場面で若者たちが悩み恐れながら任務を遂行していく、そのプロセスが著者独特の筆致で淡々と語られる。戦争の悲劇、というものをいわば受動的な眼でしか見てこなかったものとして、その悲劇に突如主体的に取り組まなければならなくなった若者たちのいきざまが戦後の社会の中で埋没しかかっていた自分にはまさに衝撃的であった。サラリーマン生活も漫然と過ぎ、中間管理職の末席につながり始めた当時、この小説のもたらした感動はまだ心に新しい。
戦艦大和ノ最期 は大和轟沈の時まで乗員として乗り組み、奇蹟の生還を果たした,自身学徒出陣を経験された吉田満氏の体験がそのまま語られているという意味で、生々しさはやはり小説とは明らかに違う書物である。吉田氏自身が確実な死を面前にしての時間、たとえば年長の部下との最後の会話とか、沈没寸前まで端然として医学書を読み続けた医官の話とか、当時の士官の通例通り沈没する艦と運命を共にと自分を縛り付けようとした瞬間、(若いものが此処で死んでどうする。生きて新しい日本を作り直せ!)と司令官に突き飛ばされて海へ飛び込んだという一行など、生死のはざまで一知識人がどうふるまったのか、一気に読みこんでしまった。原文は当時では常識であったカタカナで書かれた文語体、それもまた臨場感を与えた一因であったろう。吉田氏は復員後日本銀行に勤務、要職を歴任されたが病を得て50歳なかばで逝去された。司令官との約束通り、生き抜いて日本の再建に奔走された後半生といえるのではないか。そういう意味で、戦後の日本をリードした先輩たちには、吉田氏と同じような、生死のはざまを超えて初めて得られた使命感があったのだろうと思い、自分の境遇を改めて考え直すきっかけになった。
この本は以下グーグルの一部を転記しておくが、その発行まで戦後の混乱のなかで紆余曲折があった。小生は初め、父の本棚で偶然にみつけた、著者としては不本意な形だったとおもうのだが、ひらがな表記のものだった。その後、陽の目を見た本来のカタカナ表記文語体の本文を改めて読み直し感激を新たにした。
戦艦大和ノ最期 は次の有名な3行で完結する。
徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、”大和” 轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米
今ナオ埋没スル三千の骸
彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何
吉田氏はこのほか、鎮魂戦艦大和 という別冊(講談社刊)でさらに詳しく大和でのほかのエピソードを書かれている(同書に 最期 も再録されている)。
(グーグルより転記)『戦艦大和ノ最期』は、雑誌『創元』掲載の予定が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲組織CCD(Civil Censorship Detachment)の検閲で全文削除され、口語体化するなど大幅に改変したものが細川宗吉の筆名で他誌に発表されるなどの紆余曲折を経て、1974年(昭和49年)まで数度の改稿を重ねて今日の姿となっている。リチャード・マイニアによる英訳版「Requiem for Battleship Yamato」(講談社、1985年)がある。ISBN 4770012292。
船津君の触れている学徒出陣で、学業半ばにして三田の山から戦地へ赴かれた慶應義塾の先輩方がどれほどおられたのか、塾当局にも正確な記録はないようだが、社会思想史を専攻,我々が在学中は平井新教授のゼミナールの助手を務めておられた白井厚名誉教授は英国留学の際、かの地の大学構内には戦没学生の追悼碑があることに感銘を受け、帰国後、塾当局の協力を得て塾関係で戦死された先輩方のリストを作成するというプロジェクトを推進された。その結果はいくつかの資料として結実したが、英国の例と違ってすべての資料を完全に当たることは難しく、また状況も明確にしようがないので、膨大な資料の突合せなどの末、推測で約2,200名の塾生または塾員が戦地で最後を遂げられた、と報告されている。白井教授のこの調査にはボランティアとして多くの塾員が参加されているが、KWV37年卒翠川(旧姓佐藤)紀子さんはその主要スタッフとして調査活動を積極的に支援されたことを付記しておく。
オリンピックが始まり、予想通り選手たちに感染者が出てきておりますが、都内を始め全国の感染者数は高止まりで、グングン増えてはいないようです。それでも地域によっては入院ベッドが満床となり入院させられない状況(医療崩壊)が出始めています。
ワクチンの効果が検証されたことで一安心で、われわれ(多くの方は2回接種を済まされている)は本来なら社会生活復帰可能のはずですが、TVを見ていますと、警備に重点を置いているオリンピックの会場付近を除いて、緊急事態が解除されたかのごとく、世の中に人が溢れています。あれだけ密になっていれば、接種後の感染だって起こりうるだろうと思います。政府の方針に迎合するわけではなく、医療崩壊を食い止めるため、社会倫理として、もうしばらく我慢しましょう。遅れに遅れている若年世代の接種が進めば、感染も下向きに転じるでしょうし、トンネルの先の光が少しは見えてきたと思います
昨日の全国新規感染者数は5397,東京で1979,1都3県で3463と、東京の感染者は第3波の時よりも増加傾向が強く、前週の1.38~1.87倍で、来週には2000を、8月初めには3000を超えるであろうといわれています。傾向として高齢者の比率が低下し、40,50代の患者が増加しています。問題はデルタ株(インド株)ですが、その比率は明らかにされておりません。
21日に厚労省アドバイザリーボード脇田隆宇座長のレポートが出ました。
最近の感染者調査で、7/5~7/15に2回接種を受けた人の感染は人口10万人に対し1.3人で、未接種者の27.4人の20分の1と言います。高齢者では0.9人、未接種者13.0人と、感染者が非高齢者に移行していることが出ています。
ワクチンによる予防効果が非常に高いということです。もちろん自然界、医療において100%、完全などということは望めませんので、2回接種後でも感染ゼロとはいきません。接種後の感染者130人中医療従事者が105人で、無症状50%、軽症46.2%、中等症3.8%、重症0でした。気道検体を調べた58人中16人でビールス検出が可能だった、感染の危険性があったということです。
残念ながら変異株分布の詳細は触れられていませんが、免疫を逃避する新たな変異株は確認されなかった、というのは朗報です。
(安田)「許されざる者」1992年は、「シマロン(Cimarron)1931年、「ダンス・ウイズ・ウルブス」(Dances with Wolves)1990年に続きアカデミー作品賞を受賞した3本目の西部劇映画。製作・監督・主演の一人3役のクリント・イーストウッドは脚本を映画製作の10年前に買い取っていたが、主人公の歳まで彼自身が達するまで製作を待ったという。彼が師と仰ぐ、映画製作の1992年直前に鬼籍に入っていた、2人の監督に捧げる映画だという。ドン・シーゲルとセルジオ・レオーネである。シーゲル作品は「ダーティハリー」「アルカトラズからの脱出」「マンハッタン無宿」「白い肌の異常な夜」「真昼の死闘」に出演。セルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタン3部作に出演。両監督映画は共にハリウッド社会では芸術性などの点で高評価を得られてなかったようだが、興行的にはなかなかの成功を収めたよだ。クエンティン・タランティーノなどはレオーネから多くを学んだと云っている。
(小泉)金曜日でなく月曜日なのに西部劇の放映は珍しい。今年の5月4日
(安田)今やハリウッドを代表する “巨匠” と誰もが認めるイーストウッドがアカデミー賞レースに絡むことは、本作を撮る頃まではなかった。1971年の初監督作品「恐怖のメロディ」から20余年、16本目の監督作品にして、4本目の西部劇である「許されざる者」は、彼の作品として初めてアカデミー賞の主要部門の対象となり、見事に栄冠を勝ち取った。「作品賞」「監督賞」「助演男優賞」(ジーン・ハックマン)、「編集賞」である。脚本を買い取ってから雌伏10年、満を持しての製作・監督・主演であったに間違いない。時も彼に味方した。1970年代以降は謂わば「終わった」ジャンル扱いされた “西部劇“ だったが、1990年に公開されたケヴィン・コスナー製作・監督・主演の「ダンス・ウイズ・ウルヴス」が大ヒットアカデミー賞を作品賞、監督賞など7部門を受賞した直後で、” 西部劇 “ を見直す動きが強まっていたのである。イーストウッドが心の底から渇望したアメリカでの評価 =アカデミー賞を得るためにも、これ以上ない好機であった。
映画の題名「許されざる者」(Unforgiven)の言葉の意味は、当事者にとっては許すことの出来ない乱暴な振る舞いや、不法な行動、無謀な企てという意味。この映画では、町で罪もない娼婦の顔をナイフでメッタ切りにして傷を負わせた牧童2人は「許されざる者」である。仲間の娼婦がかたき討ちにお金を出し合い2人の首に懸賞金1,000ドルを懸ける。伝統的アメリカ西部劇の虚飾をはぎ取り、「勧善懲悪」などとは程遠い世界観で綴られている。イーストウッドはセルジオ・レオーネと組んだマカロニウエスタンの名無し男の正義感のなさと残酷さ、ドン・シーゲル監督の「ダーティ・ハリー」のキャラハン刑事に見られる、殺人者と紙一重の危うい正義感の集大成として、この彼が言う「最後の西部劇」を作ったのだ。2人の恩師監督に捧げるというのはそう意味だと思う。
(小泉) ワイオミングのビッグ・ウイスキーという町が舞台。ジーン・ハッ農夫となっていたが、過去列車強盗や保安官殺しで名を馳せた伝説的ア
以上があらすじだが、イーストウッドが意図したことは?まずは開
(安田)ちなみに、僕が好きなイーストウッド監督作品は伝説の早生(享年34, 没年1955年)ジャズサックス奏者・チャーリー・パーカーの音楽と生涯を、フォレスト・ウィテカー主演で描いた、「バード」1988年だ。モダン・ジャズの創始者と言われる彼はあだ名をバード(Bird)といった。NYの有名なジャズクラブ「Birdland」は彼のあだ名に由来している。この映画は、フランスの「カンヌ国際映画祭」などで高く評価されるよりも、ジャズ人気の高い日本では映画祭などより早く話題になっていた。ジャズ界ではチャーリー・パーカーはサックス分野では神様に等しい存在。彼に続くジョン・コルトレーン(彼も早逝、享年41歳1967年没)がサックスの両横綱だと思っている。
(小泉)それにしてもこの映画のひたすら暗さを強調した映像、暴力と理不
冒頭と終焉の太陽の光に赤く照らされる子供二人との農家の佇まい
当日、まず昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席。日本国歌「君が代
壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)
慶應義塾大学は11月23日に三田山上で塾生出陣壮行会が行われ
作家 杉本苑子さんは、両方の式典で歌われた「君が代」、そして掲げら
きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつな
1940年東京オリンピックは、1940年(昭和15年、当時は神武天皇即位から2600年ということで紀元2600年とされた)9月2
オリンピックは何故か40年ごとに何かある。1940年東京オリ
ところが肥大したオリンピック。NBCTV局の都合で米国で目玉の
さてさて、エンブレム騒動から始まり開会式の音楽まで色々問題を
ブログで拝見するとジントニックがお好きな方が多いようですので、ご自分でお作りになる方へのアドバイスと多少のトリヴィアをお届けします。
ジンはいろいろなものがありますが(中司さんがスコットランドのバーで、日本にはないだろうが、本場はこれよ、と言われたと書かれていました)、”通” が飲む、とされているのはヘンドリックスというブランドです。一般のお店では入手が難しいので、アマゾンか楽天での購入になると思います。トニックウオータには、シュエップスが良いと思います。ただ日本で販売されているのトニックウォーターには、
(注)トニックウオータ本来の含有成分はキニーネといって南米原産の植物樹皮から取れ
(編集子)川島さんは多摩市在住、京王線聖蹟桜ケ丘駅から3分のところにあるオーセンティックバー ”アンノーン” のオーナーである。小生は昭和42年、当時まだ南多摩郡多摩町、と呼ばれた同地に住むようになったが ”ふるさと” というものを持たない自分にこの地がまさに自分の故郷、と思えるようになったころ、バー UNKNOWN がオープンした。以後今日までの付き合いである。長男は文字通り多摩生まれの多摩育ちだし、いまでも床屋(こういう名前もなくなるかもしれないが)は桜ケ丘のなじみまで足を延ばし、オーナーの親子三代との付き合いを楽しんでいて、多摩市、というか、桜ケ丘、は、ほかにも何かと縁が切れない、懐かしい場所である。
現在の京王線の駅名はもともと現地の地番どおり関戸と呼ばれたが、同社が住宅地を造成して現在の名前に変更されたものである。小生の現住所もまた、これに先立って同社が開発した住宅地の一角で、駅名もこの開発にともなって旧名金子から現在のつつじが丘、へ変更された。考えてみると偶然なのか京王電鉄に因縁があるのか、面白い。KWV32年卒の三枝先輩が同社社長として敏腕を振るわれていたころ、ビジネス上でのお付き合いもあった。京王さんは小生も極微細株主であるので事業報告を頂戴しているが、不動産事業部門も快調であり、そのうち、またどっかに住宅地を作るだろう。もしまたまた小生が引っ越すとすると、その駅名は今度は 落ち葉が丘、もしれない。
(蛇足)日本でハードボイルド小説隆盛のきっかけを作ったとされる作家群のひとり北方謙三に ”ブラディドールシリーズ” という作品がある。ブラディドール、という名前のバーに集まる、それぞれなにか翳を持った人物を主人公にしたストーリーが一人一作で描かれるが、そのひとりが偶然にブラディドールに立ち寄り、ジントニックを注文する場面がある。
”ジンはなににしますか”と聞かれて、”ビーフイータだけがジンさ”と気障に答え、”トニックウオータとソーダで割ってくれ” と注文を付ける。北方の作品には好きなものが多いが、著者が博識を見せびらかすシーンが結構あって、時として辟易することがあるけれども、このジントニック論議は結構気に入っている。ジャック・ヒギンズのシリーズに登場する殺し屋のショーン・ディロンはクルーグのノンビンテージしか飲まないとか、有名なところでは007の ”シェイクしたマティ二” とかいろいろあって、たぶんそのようなこだわりを持つ人間のほうがストイックに任務を果たす、ということの暗示なのかもしれない。小生にもそれなりにこだわりはあるが、およそストイックとはかけ離れているので、この説は成り立たないようにも思えるのだが。
最近新聞やテレビにひんぱんに登場する言葉で気になっているものがいくつかある。その中でも特に目につくのが AI ともう一つ DX という単語である。
AI とは Artificial Intelligence の略で人工知能という用語がよくあてられる。コンピュータの能力の向上の延長上で、ソフトウエア(最近はアプリという用語に代わっているようだ―これも多少誤用ではないかと思うのだが)に本来人間だけが持ちえる判断とか推測とかあるいは情緒などという要素を持たせられないか、というのが本来の狙いというか領域の話なのだが、いろんな場で政治家や企業の偉い人たちの AIを利用して、とか、AIに任せて、というような発言を聞くと、どこまで理解して言っているのかなあ、と思ってしまう。多くの、というかほとんどの場合、この種の話の中身は要は大規模なデータの収集とそこから得られる傾向や特質の分析、あるいは高速の処理、その結果の迅速な伝達、などというようなことであって、結果を導く論理があらかじめ明確にきまっているものである。得られたデータに基づいてコンピュータシステムに人間的な対応・判断をさせる、というAI本来のことのようには思えない。
ここまでは要は言葉の理解とか用法ということなので、言ってみればしょっちゅう起こりえる理解不足あるいは勉強不足の露呈、と言ってしまえばそれまでなのだが、今後本気になってAI本来の持つ能力が研究室をでて実社会で発揮されるとすると、そこに組み込まれる “人間” という要素、本能的反応やことに及んでの判断の基準、いろいろな感性的要素、判断に至るプロセス、といったことが “どのような人間” のものか、ということが問題になるのではないか。巨大なシステム系が巨大なデータベースから得た、人間らしい判断なのだ、といえば何だか客観性があるように聞こえるけれども、そこで抽出される、というかその根源とされる人間としてどんなことを前提にするのか、もっと具体的に言えば、どんな人種の、どんな文化体系の、歴史的背景の、もとでの反応をいうのか。こういうことを考えずに、あたかも AI なるものが完成されれば,無謬の判断がされるはずだ、というようなきわめて危険な議論に聞こえて仕方がない。
小生の杞憂かこじつけかわからないのだが、今使われている AI うんぬんという言動が、実はそういうものができない以上、誤謬はあり得る、あってもしかたがない、というようなアリバイ作りにこの言葉を持ち出すハチャメチャな論理にも聞こえるような気がしてならないのだが考えすぎか。このような近未来の話の前に、昨今の特にコロナとかワクチンなどを巡る政府の右往左往ぶりを見ていると、情報交換をファクスでやっているというような現実では、まずは堅実な情報システムが国家レベルで構築されることが必要で、その意味ではディジタル庁などという対策もなければならないのだろう。
その議論の延長になるのだろうが、DXという用語もよく聞く。Digital Transfomation のことを指すのだそうで、それはそれで結構なことだと理解する。今回のワクチン騒動なんかを見ていると、あれだけ大騒ぎして作ったマイナンバーカードですら満足に活用していないので、せめてその有効利用あたりから始めてもらいたいものだ。ただ今回のワクチン騒動の元凶は省庁のせめぎあいというレベルの話にあるのはまちがいないし、ディジタル庁なるものがこの頑固なセクショナリズムや先例第一主義の間で屋上屋を重ねることになるのではという危惧は捨てきれない。まだ始まったばかりなので取り越し苦労ならよいのだが。
さて、ここで話の落ちになる。
DX, という略号を聞いて、一番面白がっているのは間違いなくアマチュア無線をやってる連中(ハム)だろうと思う。この “ハム”(英語で Amateur という単語の発音が ハム と聞こえるところからきたというのだが、一方英語では大根役者をハムというからだ、という説もある)の世界では、DXというのは実は Long Distance つまり遠距離との無線交信を意味する。小生がおっかなびっくり、手作りの送信機に竹竿にひっかけたアンテナでやっていたころには、”DX” すなわち国外の局(たとえ目と鼻の先のグアム島やハワイであってさえ)と交信をする、というのは、文句なくあこがれであり、いつかは俺もDXサーと言われてみたい、と考えたものだった。しかし通信機器の発達に伴って、今では初心者にもプロと同じ性能を持つ無線機とか高性能のアンテナなどが簡単に手に入るようになったので、遠距離との交信も特別な条件とか制限がない限り、昔ほど困難なものではなくなりつつある。しかしなお、DX(通信)をやる、ということは技術だけで割り切れない、人間がだれでも持つ、”遠いもの、はるかなもの” へのあこがれを追い続ける一つのかたちであり、”DX” がハムの世界ではある種のステータスシンボル的意味を持ち続けている理由であろう。自然現象から発生する困難や時差や言語の違いなどと戦うスリルとある種の達成感、などが万事 ”ボタン一つで済むインタネットの時代なのにまだそんなことやってるの”、という風潮に対する一つの解答なのだと思う。
政府のディジタル庁の努力で制度改革が進み、DXにまでいきわたるようなすぐれた施策や対応が実現することを期待しようか。