実存主義、だとかサルトル、とか、そしてアルベール・カミュ、というフランス人の名前を聞いたのは高校2年のころだったと思う。多くの同年代の人たちがそうだったように、世界文学全集、なんてものをかじり、わかったふりをして議論をする仲間にも恵まれて精いっぱいの背伸びをする年齢だったけれども、実存主義とはどういうものか知ろうとか、文学作品を読もうという気にはなれなかった。そのころ一般に知られていた”実存主義“ のイメージが、酒場にたむろする黒っぽい装束の若者たちとむすびついていて、当時支配的だった西欧賛美の風潮に乗るのがいやだったからかもしれない。
慶応高校は3年次になると理系を目指すクラスと法文系を目指すクラスに再編成される仕組みで、同時に自由選択できる科目も増えていわば大学へのウオーミングアップを自分なりに組立てることができるようになっていた。この自由選択のコースのひとつで、エリッヒ・フロムの 人間における自由 を読むという講座があった。もちろんそれまで聞いたこともない名前であり、半分は興味本位の選択だったが、今振り返ってみるとこの本が僕の大学での(ワンゲル以外の、というほうが正しいが)ありかたを決めてしまった。経済学部ではありながら経済理論には身が入らず、3年次のゼミで社会思想史、という講座を選択し、結局、卒業論文に選んだのがこのフロムだったからだ。
社会思想、とは時代時代の社会のありかたの基本となるものの考え方であり、その歴史を紐解こうというのが社会思想史、と呼ばれる分野だから、広い意味では哲学の領域にも及ぶ以上、実存主義、という分野に興味を持つ仲間も結構いたけれども、結局、僕がサルトルの主著である 嘔吐 を読んだのは社会人になってからである。それがきっかけになってサルトルの友人でもあり仇敵でもあったというカミュにも手を伸ばしてみて、誰でもがそうだろうがかの 異邦人 を読み、有名な きのうママンが死んだ というイントロに衝撃を受けた。カミュのもうひとつの代表作は ペスト だろうが、異邦人 の持つ一種の迫力には及ばない、というのが感想だった。
今度この本を読んでみようかと思い立ったのはほぼ1年前なのだが、その後いろんなことに目移りがしてしまい、結局、コロナ閉塞期間まで持ち越してしまった。本を買った時には、カミュのものの考え方についての解説文献だろうと思っていたが、著者の石光勝氏は冒頭に今、日本の置かれている環境からわれわれが国の持つべき正義、というものを論じようとしていることがわかって、また興味をひかれたこともある。しかし結論から言うと、僕には石光氏の説く カミュの正義 というものはもう一つ理解できなかった。もちろん読者としての理解力の問題だとは思うが、同氏が話を分かりやすくしようということで同時代の映画作品(カミュなんて知らない から 西部戦線異状なし やら 天井桟敷の人々 やら 誰が為に鐘は鳴る をへて 愛について、東京 という作品まで合計32本)への反映を試みた結果が残念だが小生にはかえって煩雑であり、焦点が定まりにくかった。しかしカミュの思想の原点にある個人の自由、という概念について 異邦人 でムルソーが亡くなった母親の顔を見ることを拒否し、全くの理由もなくアラビア人を射殺するという行為がムルソーが持ち続けた自由の定義である、ということが不思議と腑に落ちたのだ。
実存、という用語は、サルトルがペイパーナイフの例を引いて書いた有名な一節のように、本質、あるいは砕いて言えば物事のありようとして人々が受け入れているものとの対比によって定義される。そして有名な 実存は本質に先行する、という定義になる。このことが、ナチの暴政から解放されはしたが新しい時代を展開する思想というものを探していた大戦後のフランスの若者にとって魅力だったのだろう。この本を通じて再認識したのだが、大戦後のフランスは共産主義に共鳴する人が存在感を増していたこと、そしてサルトルや実存主義のグループの多くが共産党員だったという事実(カミュも一時党員であった)である。実存、という思想は直ちに人間の、個々人の生き方、個人の自由の実現はどうあるべきか、という命題に行きつく。この解決が共産主義にいきついた、という論理はまだ僕の中では整理されていない。いないのだが、ここで、前述したフロムがその主著の中で、人間は生まれたとたんに死とどう向き合うかという課題を持つとし、このことを人間の持つ実存的二分性、という用語で語っていたことを思い出した。彼によれば、この二分性の持つ矛盾は個人が能動的に社会に参画することによってのみ解決される、とし、このかかわり方を彼の本領である心理学的用語によって、”生産的構え“ と定義した。一方、何が何だかよくわからないなりに読んだサルトルには、アンガジュマン、というフランス語が出てくる。例によってググってみたところを下に書いておくが、太字にしたあたりがフロムが定義した人間の生産的な在り方、と共通するように思えるし、実存主義と社会とのかかわり、そしてその根本にある、カミュが言おうとした社会正義、ということなのかなあ、というのが只今の読後感である。
(アンガジュマン)もともとは、契約、拘束などの意味だが、政治や社会の問題に進んで積極的に参加していくことをさすことばでもある。とりわけ第二次世界大戦直後に、サルトルがこの語を多用して以来、これは彼を中心とする無神論的実存主義のグループの思想と切り離せないものになった。 サルトルの哲学によれば、意識存在である人間は、めいめいが自由な選択によって過去を乗り越え、現に存在している自己を否定しつつ、まだ存在していないものをつくりだしていく。したがって人間のあり方は、現在の状態からの自己解放であるとともに、まだ存在しない目的へ向かっての自己拘束(アンガージュマン)であると規定できる。
(船津)
サルトルの哲学によれば、”意識存在である人間は、
あの頃コチトラは分けも分からずシモーヌ・ド・ボーヴォワール (Simone de Beauvoir)の「老い」を小脇に抱えて歩いただけ。
ペストと新型コロナウィルス蔓延旋風は世を如何に変えたか?又、
(菅井)
世界で死亡者数は5,000万-