(承前) ”トラトラトラ” の通信事情  (44 浅野三郎)

真珠湾の奇襲は現地時間1941年12月7日午前7時55分(日本時間同8日午前2時55分)で使用周波数は7635KHz(昔はkc・サイクルと表しましたが、現在はkHz・ヘルツと表記します)だそうです。そして搭載送信機は96式空3号無線電信機(写真参照)で出力150ワットとのこと。日の出を過ぎての現地時間8時近くでこの周波数帯の搭乗機からの信号が直接瀬戸内海の戦艦長門で受信できたか少々疑問です。ただし、高度にもよるのでしょうが飛行中の飛行機(エアーモービル)からの信号は思いがけず遠距離まで届きます。

これからは私見ですが、奇襲前に淵田中佐の搭乗機から松崎大尉が発信したのは
「全員攻撃せよ」を意味するト(・・ー・・)の連打だけ,攻撃終了後「奇襲成功」の意味のトラ(・・ー・・ ・・・)の連打だったのでは。

そして、旗艦赤城からの電文(写真)が呉の戦艦長門で受信されたのではと思われますが?(周波数等不明)なぜトラだったのかは山本五十六司令長官の生まれ年が寅(来年と同じ)との説もありますが、奇襲成功が「トラ」、失敗は「トサ」(・・ー・・ ー・ー・ー)、そして中止は「トム」(・・ー・・ ー)だったという話も伝わっています。

 

(編集子)ハムの世界での大先輩の解説を及ばずながら補足させていただく。 同じラジオでも短波と呼ばれる周波数になると電波は地球表面と上空にできる(季節や時間によって変わる)電離層と呼ばれる、いわば電波を跳ね返す鏡みたいなものの間で反射を繰り返すことでと遠距離まで到達する。インタネットの現代と違って、海底電線のない地点の間の通信は短波のラジオによることしかなかった当時、この短波帯の中でも始末のしやすかった7メガヘルツを使用する通信機が使われていたのは理解できる(周波数が高くなると部分品をはじめとして通信機の製作は難しくなる。当時の日本の技術や製造レベルから考えて戦闘機に搭載できるような通信機の大量生産はまだできなかっただろう)。現在、アマチュア無線の世界でもこの7メガヘルツ近辺の周波数は主要な戦場として使われているが出力150ワット、というのはそのアマチュア無線家の間では中級程度の技量を持っていないと使用できない(最上級のライセンスで使用される実質上の最高出力は1キロワットで、地方の放送局と同じくらい)。また電波を発射あるいは受信するためのアンテナにしても、航空機に搭載されるものは非常に能率の低いものに制限せざるを得ない(ハムの常識からいうと7メガヘルツを効率よく扱えるアンテナは原理上20メータの長さが必要)。こういうことから判断すると、浅野君が淵田機から直接ではなく、旗艦赤城かの転送だったのではないか、と疑っている気持ちもわかるが、ハワイから広島まで、この時間帯の電離層の具合から言って(7メガヘルツくらいだと、夜間のほうが電波は遠距離まで届く)この通信ができたのは(ハムの判断では)非常に幸運だったのでは、ということである。

(船津)門外漢ですから分かりませんが、二イタカヤマノボレは長波で送信されたとか聞いていますが。潜水艦から?

ボタン鍋で富士山を満喫しました   (44 安田耕太郎)

12月3日一泊で山梨県東部 道志村に位置する山梨百名山・鳥ノ駒山(とんのこまやま・1,210m)に登り、道志川渓谷を散策してきました。

170年前創建の養蚕農家を改築した藁葺き屋根の、「民宿100選」に選ばれたことのある民宿に泊まり、昔ながらの風情ある囲炉裏を囲み地元で狩猟された名物の猪肉煮込み(ボタン鍋)、鹿肉の刺身、岩魚などに舌鼓を打って堪能。
  鳥ノ駒山まで麓から標高差600m、登山中は25km離れた富士山の雄大な姿を満喫してのんびりとした17,000歩、4時間ほどのハイキングだった。夜間から朝は冷え込み気温は氷点下まで下がり、今朝は凍りついた地面を踏み締めて渓谷を散策した。遅い紅葉も愛でる幸運にも恵まれた。
オゾンを胸一杯吸って気持ちの良い晩秋のハイキングでした。
(菅原)浮世を離れ、男は黙って、ボタン鍋。

(保屋野)

鳥ノ駒山ですか・・・中々良い山ですね。

高幡不動尊の紅葉、私も一昨日行きましたが、今年の紅葉は色づきがイマイチですね。

今日は、来年2月に行く予定の同期蔵王スキーの宿予約をしたところ、主要な宿の多くが満室でビックリしました。やはり2年間の我慢が爆発したのでしょうか。何とか(少々高かったものの)予約はできましたが。ただ、コロナ第6波が来ないことを願っています。

エーガ愛好会  (104)  トラ トラ トラ !

昨日が8日だったからそうではないかと思っていたが、1日遅れて今日のBS劇場は トラトラトラ である。何回か見ているので目新しくはないのだが、新聞に出ている番組紹介が主演を マーチン・バルサム と書いているのにちょっと驚いた。バルサムが演じたのは当時真珠湾軍港の海軍指揮官だったハズバンド・キンメル大将で、陸軍指揮官だったウオルター・ショート中将(ジエイソン・ロバーツ)とともに戦後真珠湾の防衛の責任を追及されることになる人物なので、筋書き上、重要であることはわかるが、山本五十六の山村総ほかもっと重要な役を演じた名優が沢山いるのに、という意味である。しかし念のため例によってグーグルをあさってみて了解した。グーグルの紹介記事の一番上にバルサムが載っていたからである。欧州戦線の最大の山場ノルマンディ上陸を扱った 史上最大の作戦(原題の The Longest Day のほうがはるかにいい、翻訳タイトルの失敗作だとおもうのだが)でも大物俳優が多すぎて、彼らのメンツを推し量ってクレジットタイトルはアルファベット順にしてあったが、おそらくこの作品も同じことだったのかもしれない。

さてこの映画と同時に、昨日、今日と80年たった今、というタイミングでいくつかの秘話が掲載されている(読売新聞)。そのことを書きたい。

一つは当日、空母から発進した航空機群とは別に、ひそかに湾内に潜入した特殊潜航艇5隻のことである。この5隻の戦果がどれほどあったのか、詳しく書いた資料はまだ見たことはないが、乗組員10名はいずれも戦死したとされていて、当時国内に発表された記事では 九軍神 となっていた。うち1名が経緯はわからないが米軍の捕虜になっていたからで、死すとも虜囚の辱めを受けるな、としていた当時の軍指導部にとって、開戦当日に起きたこの事件はあってはならないものだったからだ。今回、この捕虜となっていた酒巻少尉のご遺族のたっての願いが報いられ、九人の仲間たちの顕彰碑のかたわらに同氏の記念碑が建てられ、80年たって仲間たちと会えることになった、という記事である。大戦で亡くなられた方は数知れないが、このような軍機とか政治的理由などでその最後が圧殺されてしまった方々はほかにもあるだろう。ただご同情申し上げるほかにできることはないのだが。

もうひとつはこの映画のタイトルになっている暗号電信、トラトラトラ を搭乗機から打電した松崎大尉の話である。大尉が当日の指揮官淵田中佐の搭乗機に同乗しこの歴史的電信を発信したということをご遺族が語ったという記事だ(大尉はその後マーシャル沖で戦死された)。この場面は トラトラトラ でも代表的なカットで、オアフ島まで敵に会うことなく潜入した、田村高広演じる淵田中佐が ”奇襲成功だ、トラ トラ トラ や!“ と絶叫する。この作戦のすべては攻撃部隊が現地防衛軍の準備ができないうちに奇襲する、という一点にかかっていたからだ。

この真珠湾攻撃が、日本の正式な宣戦布告の前におこなわれたことから、treacherous attack として米国民の怒りを買い、ルーズベルト大統領が政治的優位に立つことを可能にした(ルーズベルト自身日本との対決はやむを得ずとしていたが世論はまとまっていなかった)、というのは事実であったし、映画でも情報部のブラットン中佐(エドワード・マーシャル)は攻撃のあることを確信して上申したにもかかわらず大統領が拒否したことになっている。山本は在米経験からアメリカ人がフェアプレイを最高の仁義と考えていることを知り抜いており、攻撃以前に公式な通知が必ず米国に伝えられることを最後まで要求していた。映画にあるように, 現地大使館に文書は届いていたにもかかわらず、単なる事務的な遅れで提出が間に合わなかった。この通告が事前に届いていれば、真珠湾攻撃は正規な戦争行為であり、現実の戦果はともかく、”ジヤップは卑怯ものだ“ という汚点を歴史に残すことはなかったはずだ。しかし史実は面白いもので、映画の中でも上記した酒巻少尉らが、湾口を警戒していた米艦ワード号から攻撃を受けたのは実はまだ ”トラトラトラ!“ が実現していなかったので、この日米開戦の第一弾を放ったのは米国、ということになるのだという。

映画とは全く関係ないがもうひとつ、この トラトラトラ はハワイ近海にいた母艦赤城にあてたものだったが、それははるか離れた広島県呉にいた戦艦長門でも受信された。映画では興奮した通信士官が山本の席に飛び込んで、”長官、トラトラトラ であります!“ と報告する。しかし山本はじっと目をつぶったまま微動だにしない。部屋には一瞬、静寂が訪れる。おそらく山本の胸中には(すでに通告が事前に届かなかったことは伝わっていた)、来るべき戦争がいやがうえにも難しくなった、ということがわだかまっていたのだろう(右の写真はグーグルに長門、として載っているものだが果たして本物か映画用の代替か、小生にはわからない。本当の長門は戦後、米国軍による原爆実験に使用されて悲劇的な最期を遂げている)。

もう一つ、多少、無線交信に知識を持っている小生として、日本戦闘機の発信した信号が広島にいた長門に、ハワイ―日本間の、この時間帯の電波伝搬状況で届いた、という事実が興味深い。この当時、戦闘機に搭載されていた送信機の性能はどんなものだったのか、とか、周波数はどのくらいだったとか、このあたりの博識をもって知られる浅野三郎くんの解説を期待すること大である。また関連して史実で言えば、この山本五十六は2年後、南方戦線で米軍機に撃墜されて戦死するが、これも実は現地の司令官が山本の旅程を到着地に知らせるべく打った信号を米国司令部が受信、現地の戦闘機に迎撃させたというのが真実である。当時の米国の通信機の性能ならばかくありなん、と納得するのだが。山本機を撃墜した米国のパイロット、ランフィーア大尉の回顧をどこかで読んだ記憶もある。いずれにせよ、当時世界の通信・情報技術がもう少し進んでいたら、歴史が変わっていただろうと改めて感じる。

ここでまた、時代は大きにずれるが、レッドオクトーバーを追え で、潜水艦ダラス艦長スコット・グレン(このエーガでまたこの俳優が好きになったのだ)がレッドオクトーバーの艦長(なんせショーン・コネリーであります)に発光器でモールス信号を送る場面がでてくる。最初のコンタクトぐらいはいいのだが、実に複雑な情報を伝えなければならないうえ、電信手には任せられないので ”俺のモールスはさびついてるんだが“ と自嘲しながら送信する。モールス信号には個々の文字だけでなく、意味を持った略号(誰でも知っているSOS のような)があることはあるが、それでもあんな複雑な意思が、専門の電信兵でもなくて伝えられるのだろうか、これも電信の名手浅野君の意見が聞きたいが、このあたりがやはり、エーガはフィクションである、という当然のことなのだろうか。

日米開戦にあたって改めて決めてあったいくつかの暗号の候補から、淵田中佐が自分が寅年であることと、”千里を走る”という意味でこの暗号 トラトラトラ を選択した、ということで、その縁起がこの長距離通信を可能にしたのかもしれないが。ついでに言えば、最終決定に先立って北太平洋を進んでいた旗艦に開戦日の最終決定を告げた電文が ニイタカヤマノボレ であったことは良く知られている。当時、台湾の高峰新高山は日本の領土にあったのだ。

 

 

 

 

 

コロナワクチン3回目(ブースター)について    (44 菅井康二)

ワクチンの2回接種を終わり、3回目の接種(ブースターというらしいです)が話題になっています。ご覧になった方も多いと思いますが、東京新聞の記事抜粋をご参考までに。

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新型コロナワクチンを2回接種してから数カ月がたち、効果の低下が心配される中、ワクチンでできたウイルスを阻害する中和抗体がどのくらい残っているのだろうか。記者(54)=モデルナ製を接種=は月1回、取材で度々訪れる福島県の病院で自費で抗体の量(抗体価)を検査。傾向が見えてきたので報告する。(山川剛史)

◆これが「ブースター効果」か

 図の通り、抗体価の推移はジェットコースターのようだ。1回目接種後の1ミリリットル当たり約800ユニットから、2回目の接種後は約1万1000ユニットと13倍以上に急増した。「ブースター効果」とはこれかと実感した。数値は試薬によって大きく異なるが、同じ試薬を使った早期接種者のデータと比べると、上位の集団に入っていた。

喜んだのもつかの間、1カ月たつと半分以下に。また1カ月するとさらに半分近くまで低下した。

知人で横浜市在住の大学教員、鎌田素之もとゆきさん(48)=ファイザー製を接種=に同じ試薬の自費検査をしてもらっていたが、低下スピードは記者より速かった。

◆急減から緩やかに

ただ、表計算ソフトでグラフ化してみると、「1カ月で半減」の単純な直線ではなく、いったん急減した後は下げスピードが大幅に弱まったことが2人のデータに共通していた。「低空飛行ながら、しばらくは持ちこたえられそう」と少しほっとした。
本紙の産業医で、慶応大感染症学教室の長谷川直樹教授にデータを見てもらうと、「典型的なパターン。ワクチンの効果かどうかは分からないが、これまでコロナに感染してこなかったことは確かだ」。

◆未知の領域、個人差も大

抗体価がどれだけあればいいのか、変異株にも有効なのかも聞いたが、「はっきりしたことはまだ分かっていない。抗体があるに越したことはない。対抗手段はワクチンなどごく限られている」と話した。

そもそも人によってワクチンによる抗体の獲得状況は大きく異なる。記者の父親(87)にも2回接種後に同じ試薬による検査をしてもらったが、記者の5分の1の1ミリリットル当たり約2000ユニット。記者に病院を紹介してくれた福島県の白髭幸雄さん(71)は18分の1の約600ユニットしかなく、接種から約半年後の現在は約200ユニットまで減った。

日本でも3回目の接種が始まったが、医療従事者など早期に接種した人たちの抗体価は早かった分確実に下がっている。鎌田さんは「どういう人の抗体価が低いのか科学的なデータに基づき、3回目を進めてほしい」と話した。

嗚呼 80年    (普通部OB  船津於菟彦)

毎年12月8日になると太平洋戦争のことを書いています。今年は少し趣を変えて、傘寿を過ぎたわが人生を時代と共に振り返って見たいと思います。
ライカⅢbは1938年に作られました。日本は紀元2600年を二年後に控えお祭りムード。
しかし、その前年に日中戦争勃発!ドイツがロシアに侵攻。総ておじゃんに成り亜細亜で初めての東京オリンピックは返上。しかし、未だ米国と戦争状態になるとは誰も思って折らず、街は次第に物資が枯渇していたものの未だ未だ「今日は帝劇明日は三越」の時代でした。そんな1938年生をうけて、それはそれは幸せな人生を歩みました、と言いたいところですが!
                                                                                  ライカⅢbと生存競争中の坊やは日章旗の前掛け掛けて、父母は未だ歌舞伎を見てきたとか、雅叙園で宴会があったとかで、お土産を愉しめたときでした。(モノクロ写真をカラー化)
2041年12月8日。あれからもう80年経ちました。「油断」-ガソリンを断たれる-とか色々な制裁があったりして、あの大国に勝てると思い、無謀な戦いが始まってしまった。ハーバート大学に留学して、米国の経済的豊かさとか、「自由」など理解していたはずの山本五十六は短期決戦で、大東亜共栄圏から米国を従属させようとしていました。
下の写真は開戦25年に米国のタイム誌が作った、当日の新聞と開戦を伝えるラジオ放送のLPレコードです。この新聞の広告を見ても今と変わりませんね!こんな國に勝てるわけがありません。日本は「欲しがりません勝つまでは。贅沢は敵だ」の時代に突入。
米英蘭から中国から撤兵せよと迫られ、軍部は「勝った、勝った」で聞く耳持たず!国民も次第に戦勝に酔いしれていった。しかし、もう既に日本国内には資源・物資は枯渇し始め「欲しがりません勝つまでは」の時代に成り近くのお菓子屋さんへ行っても殆ど何も無く未だ珍しく干しバナナ何ぞが在り、買ってもらった記憶あり。米なども配給制になり、金属を総て「供出」家のトタン塀まで剥がして差し出していました。
学童疎開が始まり、父は子供のことを思い、自ら「都落ち」覚悟で信州に転勤し、。厳冬の総てが凍る上田市郊外の家を借りて「疎開」しました。
その翌年、国民小学校一年生に入学。戦闘帽に胸には名札。そして兄のお下がりの革靴にゲートル。入学式の日に校長先生から「今どこと戦争しているんですか?」と言う言葉に手お上げて「ハーィ米英撃滅」と答えたことを記憶しています。父のお陰で集団疎開して悲惨な経験はしないですみ、ガキ大将で野山を駆け巡っていました。冬は堆肥作りのために「落ち葉-カシャッパ」集め。夏は未だ一部養蚕をしているお宅もあり、その手伝いで桑畑で桑の葉取りとか、一日中か駆け回っていました。
その年の8月15日。暑い日でした。何やら天皇のお言葉があるとかで、正午から皆ラジオの周りに集まっていた。ラジオはよく聞こえなかったが、戦争が終わったと大人達は安堵の顔をしていました。何時もの手伝いであぜ道を一升瓶を抱えて山羊の乳をもらいにの農家に向かって、生暖かい絞りたての山羊乳を抱えて帰宅したことをありありと覚えています。
その夜から覆いを着けた電灯が明るく輝き、当時の田舎は一戸・一灯・一ラジオと言われ、電灯の長いコードを台所に持って行ったり居間に持って行ったりしていましたが、当家は父が電力関係だったため当時として豊富に電灯はありました四角い木の箱に両側に鉄板を建ててメリケン粉をふくらし粉と共に入れパンを焼くなんて言う事もしましたね。総て自給自足が当然でした。
兄弟四人が大学とか高校とかに入学の時期になり、偶然焼け残った東京の元の家に小学校4年の終わりに転校してきました。未だ配給続き、うどん一杯にも食券が必要でした。そして中学に運良く入学出来、国電と都電を使い通学致しました。未だ未だ何も無い事態でした。天現寺に仮住まいの学校へ通いました!当時の天現寺と定期券。都電は四谷三丁目から品川へ行く都電で!天現寺は車庫に成って居るため渋谷〜とか中目黒〜とか3本走っていました。
その後、日吉に移り総てが新しい所に遷り、化学少年として理科の先生の小僧役をかって出て、化学の備品とか暗室の引伸器。真空ポンプとか総て新品を購入して、届く度に開梱して設置しました。暗室ではフィルムの現像に入れ込みコダックの現像レシピ本を購入してもらい端から作り必要な「毒薬」も含む試薬を自由に勝手使わせてもらいました。朝学校へ行くと先ず化学の準備室で「純水」を作るためブンゼン灯に火を付けて大きなフラスコに水を入れるのが日課でした。その装置に使うガラス細工なども致しました。全く自由な校風でした。有難う御座いました。
もう先生方も総て鬼籍に入られろくに恩返しもお礼もしていないのが気になります。
137億年前。一秒もかからないうちにビッグバンで点が宇宙に成ったという。そして色々な変哲があり太陽系が出来たのは宇宙誕生から80億から90億年後である。この80数年なんか137億年を24時間にすると、宇宙誕生の時のように1秒も無い間です。こんな事を書いた本が話題に成っています。「137億年の物語」クリストファー・ロイド著 1968年英国生まれ。ケンブリッジ大学で歴史を学んだ後、サンデータイムス紙の科学記者として活躍。地球の歴史を文系と理系の両方の眼から見る本書を自分の子どもたちのために書下ろし、世界的ベストセラーです。

まぁそんな自由な校風でのほほんと10年間過ごし、文学部の建築史を谷口吉生さんに美術史は三輪福松さんの謦咳に接し、単位にも成らないのですが、そちらの方が真面目に出席しました。研究所と言う名称になりマスコミ界に多くの人材を輩出致しました。辛うじて落ちこぼれ者は新聞研究所卒業証書は戴きました。

青田買いの始まりで「商い屋」に就職。こおりを背負って歩き回ることは無かった物の時は新製品時代。重厚長大の当時花形の鉄鋼部門を担当させられ、当時鉄鋼製品の新製品が毎週のように鉄鋼メーカーが発売し、サー売れの時代でした。
あのNY貿易センタービルにも八幡製鉄開発のH型鋼が使用されています。売り始めたときは鉄骨材としては中々使ってくれず、建物杭に基礎材として売り込んだのですが、そんなことで鉄工所には良く通いいっぱしの建築士のように原寸検査とかに立ち会ったり、現場に行ったりで、そこらの一級建築士と渡り得るような感じでした。今から考えると恐ろしい。耳学問で原寸検査の時、これではボルトが入らないのではとか。現場でどうやって組み立てるのとか。入社した頃は未だ現金取引が当たり前で、建築会社は暮れには餅代とうことで二回支払ってくれたり優雅な時代でした。
そして世は重厚長大から情報産業へと移り変わり、通信の自由化に伴い第二の通信会社とか自動車電話会社とか国際通信会社とか、はたまた宇宙通信のため衛星の打ち上げとか!色々な新規事業に参画させてもらいました。

鉄鋼での新製品の売り込みと同じで回線問屋-海鮮問屋-と揶揄されながら通信回線を売りまくりました。振り返ると面白かったでした。今や昔ですね。

コロナで在宅勤務で会社・工場に出社しないでも経済が動いてく時代になってそれが当たり前になってくるような兆しがあります。
2021年東京オリンピックは開催できるかどうか危ぶまれては居ましたが、何とか無観客という無謀なやり方で終わりました。何れにしてもコロナウィルス蔓延旋風で世界の仕事の仕方が大きく変化して、企業もどう先を読むかによって収益が大きく変化しそうな時代になって来ています。
世界史の上でも2021年は大きな転換期に成って居るのでは無いか。新型コロナウィルス蔓延旋風の「お陰で」否応なしに働き方の改善か、冠婚葬祭の簡素化とか、生活様式もガラリと変わっていくと思います。
今や世界はGAFAの脅威だとか、中国のIT戦略とか争いの仕方も代わってきています。それぞれの分野で市場を席巻している企業です。そして自動車は電気で自動で動く時代へと変転しています。
この分野で日本はどう勝ち抜いていくのか。半導体で見一時は世界一でしたが、今やビリ。どうやら世界の「お客様」が何を求めているのか?を忘れて「商い屋」をやっているのでは。伊藤忠兵衞が反物を担いで、当時一番の商業都市堺へ売りに行き、そこで新しい物・田舎で必要とされる物を見つけ背負って帰る。そして堺で求めている物を自分の目で見て、それを又持ち込む。これが「商い屋」の原点だと思います。ソニーも小型ラジオやウォークマンの二ーズを米国で嗅ぎ取って販売したのに、今や総て後追い。これが80年の時間の結末とはね。
傘寿を記念して巴里旅行をしました。モンサンミシェルと憧れだったコルビジェのサボア邸なども観て参りました!写真はロアール河畔の古城の前でコンタックスⅠ型我が生年より前に作られたカメラを構えています。
(因みに来たるべき2022年-令和4年-は寅年。於菟とは「寅の事なり」と漢和辞典に出ています。年男です。森鴎外の息子さんに森於菟さんが居られ寅年です)

エーガ愛好会 (103) ブラック・レインー横浜ホンキートンクブルース

しばらく遠ざかっていたBS劇場で、再見。いくつかのことが重なって、じっくりと観た。

一つはマイケル・ダグラス。彼の作品は正直言うとあまり見ていない。彼に興味があるのは、小生の年代ならそうだろうが、やはり ”カークの息子“ ということだろうか。たたき上げの俳優カーク・ダグラスを始めてみたのは 探偵物語、中学生の時である。普通なら中学生(そのころの)が見る映画ではなかったのだろうが、慶応普通部には教育の一環として生徒に映画を見せる、という授業時間があって、”聖衣“、かのシネマスコープ第一号、を観たのもそうだし、この映画もそうだった。”聖衣“ はキリスト教の一部を学ぶ、ということで意味はあっただろうが、探偵物語 が果たして教師同伴で中学生が見るべきものか、ということは父兄の間や教員の一部にも異論はあったらしい。何しろ姦通という、オトナであっても難しいことが背景になっている映画だったからだ。しかし今、すがめで見てみると、あれを選択した先生は実はカーク・ダグラスにほれ込んだからではないか、と思えるほど、15歳の少年にも衝撃を与えた俳優だった。それ以来、彼の黄金時代にはかなりの数の作品(史劇物は敬遠したけれども、あまり評判にはならなかったが御贔屓ドロシー・マローンと共演した ガンファイター は特に好きだった)を見た。その息子なのだから興味があって当然かもしれない。

しかしもう一つの興味は、松田優作、という俳優を改めてみてみたい、ということにあった。ただその理由は、多くの人たちがこの特異なキャラクタを持つ俳優、という目で彼を評価するのに対して、小生の単純な理由は 横浜ホンキートンクブルース をうたった歌手、としての彼を見たい、と思ったからだった。この歌のことを教えてくれたのはHP社の営業部門でただ一つのお荷物、といわれた事務用(当時はまだ事務用・技術用という区分があったのだ)コンピュータで悲鳴を上げていたころ、最大のカストマ(になるはずだった)C社とのルート開発に血の道を上げていたとき、先方の担当窓口だったS さんだった。出先で音楽を聴くとなればカセットテープくらいしかなかった当時、計画通りに事は運ばず、悶々としてアイダホ州はボイジーのモーテルのプールサイドでバドワイザー缶を片手に何回もこのブルースを聞いた。カントリーにも興味があった当時、いわばその本場にいながらなぜ、ヨコハマあたりの嘆き節を聞いていたのか、今思っても判然としない。しかしいかにも blue な気分にはぴったりしていたからなのだろうか。今自宅には原田芳雄版しかないがときどき、しんとした夜中なんかに気分を出して聞いている。

三つ目の理由はやはり高倉健。この映画と所々でごっちゃになるのだが、ロバート・ミッチャムが主演し、岸恵子も登場した ザ・ヤクザ というやはり日米にわたる犯罪捜査の話である。もともと、ブラックレインにせよヤクザにせよ、(言葉もわからんでこうは行くめえよ)という連続の、難しいことが好きな評論家先生方にはあまり評判のよろしくない映画なのだが、その中で、ある意味、(ああそうか、こういうことがアメリカ人のみる良き日本人なんだな)という役がご存じ健さんなのだ。この両方に登場して、全く瓜二つ、とでもいう役を淡々と演じている。英語も達者なものだ。健さん、といえば任侠ものを見なければならないのだろうが、小生は一本もみていないので、船津於菟彦はじめファンの方には肩身がせまいが、小生には 幸福の黄色いハンカチ とこの2本で十分、しっかりケンさんびいきになっている。

映画の筋書きそのほかについては特に書くべきこともない。ただ画面の血生臭さや爆音のなかで、この三つのテーマ、をあらためて味わった、ということか。

ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルース – https://www.youtube.com › watch

カミュ論議について    (36 高橋良子)

本日ブログ拝見致しました。カミユは私の好きな作家の一人です。亡くなった主人が三田で学んでいた頃、サルトルの実存主義が全盛期の時代でしたから我が家にはサルトルと実存主義に関連する書物が沢山残されているのですが、その中
で私が読んだといえば「嘔吐」の一冊のみです。その中に吐き気という哲学の問題が出てくるのですが、いまだによく分かりません。ところが同時代の作家でも私はカミユが好きなのです。カミユは哲学者ではありません。

小説の手法もメルヴィルやヘミングウェイなどに学んだといわれていますので、文章が平明で親しみやすいのです。それにアルジェリアの貧しい家で育ったので
カミユの作品に登場する人間には善良さと温かさを感じるからです
カミユを理解するのに都合の良い、佐藤 朔先生の書かれた文章をご紹介いたします。

カミユの作品が今も尚愛されているのはなぜか?カミユの作品は清潔で誠実で、正義と反抗の思想につらぬかれているからである。彼の作品の中には不潔で、醜悪で鼻持ちならない悪党はいない。詐欺師も裏切り者も背徳者もいない。
罪に苦しむ者や罪を犯した者はいるが、いずれも悪人ではない。だから社会の裏面とか人生の泥沼のような場面はなく全体として写実的で観念的であり、寓話的な物語が多い。だから表現が適確で、文章が美しくても想像力が貧しくお説教風で、小説として厚みがなく面白味がないという批評もある。そして、カミユが言う人生の不条理の思想も体系的でない評する。しかしながら、今もつて読み続けらているのは、戦争やその他日々の敗北で深く傷ついた者は深く人生の不条理を知ることとなる。

カミユの作品の魅力が失せない訳はそこにあるのです

(編集子)白状すると、小生も 嘔吐 にでてくる、木の根を見ていて真実を悟る、という一節は何が何だか分からず、その意味では一応最後まで読んだ、という事実が残るだけで、到底この哲学の巨頭を理解したなどといえる段階ではない。しかしヨシコの示唆で、サルトル本体はともかく、カミュという人の作品が持つ意味はなんとなく分かったし、提示してくれた佐藤 朔の一節が、考えてみると今回もっともらしく読んだふりをした石光氏のいう ”正義” なのかも、と思ったりしている。

エーガ愛好会  (102) ダヴィンチは誰に微笑む  (HPOG 小田篤子)

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「ダ·ヴィンチは誰に微笑む」(The Savior for Sale) を観てきました。立川にも高島屋の中に”キノシネマ”が出来、都心まで出かけなくても済むようになりました。
ニューオリンズの名もない競売のカタログの”救世主(男版モナ·リザ)”の絵を見てひらめいた美術商が13万円で落札。30年来の友人の保存修復士に洗浄、修復を頼みます。本物 か分からないとする専門家もいる中、著名なオックスフォード大学美術史家や、ロンドン ·ナショナル ·ギャラリーの関係者は本物と判断し、展示会を開く。デカプリオも来場。その後別の画商が購入し、ロシアの富豪に157億円で売却、そして、サウジアラビアの皇太子と思われる人物がオークションで510億円で落札します。
ロシアの富豪も最後の落札者も全て代理人任せ。その後外交、政治問題にまで繋がり、内容はフランスの国家機密事項のようです。ルーブル博物館での、没後500年記念展覧会では展示されず、現在の所在は不明。関係者の証言で構成されたドキュメンタリー映画でした。
絵も有名になりすぎると飾られずに投資の対象となるのですね。

世界的エネルギー不足に対して  (普通部OB 田村耕一郎)

はたまた石油危機か?という不安が続きますが、関係情報を得たのでご参考までにご覧ください (出所:「宮崎正弘の国際情勢解題」)。

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世界的なエネルギー価格上昇の懸念を受け、石油備蓄の放出に関する報道が相次いでいます。各国の個別の対応のみならず協調行動の可能性も浮上しています。

エネルギー価格の上昇はバイデン政権にとって最も厳しい試練になる恐れがあります。しかし実際のところ、バイデン政権ができることは限られています。何か手を打つとすれば、戦略的石油備蓄(SPR)の放出しかありませんが、効果は限られます。しかし、少なくとも具体的な対応をとっているという政治的アピールは可能です。このため、おそらく米国としては、最大3,000万バレルの緊急放出ではなく、最大500万バレルの「テスト・セール」のような措置にとどめ(この場合、緊急事態宣言は必要なく、エネルギー長官の決定で足りる)、さらに中国や同盟国との協調放出を進めようとしていると考えられます。

米中首脳会談では共通の利益に向けた連携が強調され、エネルギー危機への対応にも言及がありました(明日の記事で説明します)。中国はもともと単独でもSPRの放出を行う姿勢を見せており、米国との協調を受け入れる余地は十分にあると考えられます。上記記事で述べたとおり、原油価格は落ち着きを見せているので、SPRの放出の可能性は高くないと考えられていましたが、このような首脳会談からの流れを見ると、可能性はやや高くなったといえます。

しかも、次項で述べるとおり、ビルド・バック・ベター法案を成立させる上でも、インフレ懸念に対応しているというポーズを見せることは重要です。実際、原油価格の高騰は収まりつつあるので、政権としては短期的な圧力を弱めれば足りるところ、こうしたメッセージを出すことはそれなりに有効とも考えられます。

(ビルド・バック・ベター法案の下院可決)

米下院がビルド・バック・ベター(BBB)法案をついに可決しました。220対213で、民主党の反対は1人(ジャレッド・ゴールデン議員)でした。以前に指摘したとおり、下院は11月19日までの可決を目指していましたが、民主党穏健派はその前に議会予算局(CBO)による歳出と歳入の試算結果を確認する必要があると主張していました。今回の可決は、CBOが前日に試算結果を発表したことを受けて行われたものです。

CBOの試算はバイデン政権(民主党)の試算と大きく異なりましたが、それでも穏健派の多数は納得し、法案は可決されました。なお可決前に共和党のケビン・マッカーシー下院院内総務が下院での演説としては最長記録となる8時間半の演説を行ったことも話題になりました。

バイデン政権の試算結果は州税・地方税(SALT)控除の上限引上げによる減税効果などを含めていなかったのですが、CBOはこれらを含めて計算しており、新規支出と減税の合計額は2.2兆ドル、1,600億ドルの赤字を生じさせるという結果になりました。このような大きな違いが出ることを見越して、バイデン政権はCBOの試算をあらかじめ批判するという異例の行動に及んでいました。

それでも下院では可決に至りましたが、問題は上院です。マンチンとシネマの両上院議員は法案を大幅に書き換えるでしょう。しかも12月には国防授権法(歳出削減の回避が必要)、債務上限、つなぎ予算の失効という立法アジェンダが立て込みます。これらの問題はドタバタを演じながら最終的に解決されるでしょうが、BBB法案の審議にかける時間は大きく制約されます。したがって、年内の可決は難しく、来年に持ち越す可能性が高いと考えられます。

バイデン政権は、かねてよりOPECプラスが増産しないことを批判していましたが、先週には、FTCに石油市場の操作を監視するよう指示しました。これらの措置は、産油国やエネルギー企業の投機的行動に矛先を向けさせることが目的で、やはり打つ手が限られている中で国民への政治的アピールのために行っているものです。今後もこうしたメッセージは繰り返されるでしょう。

また、先週、バイデン政権はメキシコ湾での石油採掘のためのリース権の入札を実施しました。もともと公約に従い、発足直後に国有地での石油・天然ガスの新規リース契約を停止したのですが、産油州から訴えられて敗訴していました。そして最高裁でも勝てないと見てこれを許可したものです。民主党左派を失望させる措置ですが、エネルギー問題について批判をかわしつつ、民主党左派にはBBB法案を可決させることで、最終的には納得させるという計算があるのでしょう。こうしたバランスをとった現実的な路線を続けることで苦境をしのぎ、BBB法の成立で挽回を狙う、というのが政権の戦略と考えられます。

エーガ愛好会 (101)  追われる男  (34 小泉幾多郎)

監督「大砂塵1954」のニコラス・レイ、主演ジェームス・キャグニー、ギャング役で有名だが、西部劇も「シスコ・キッド1935」「オクラホマ・キッド1939」「悪人の貢者1956」がある。

冒頭主題歌 Run For Cover が唄われ、ニューメキシコのアステカ遺跡国立公園の山と渓谷が美しき景観の中、キャグニーが馬を走らせる西部劇らしい雰囲気から始まる。直後人の気配にピストルを構える。此処から、初老と若者ジョン・デレクとの旅は道連れが開始。キャグニーは妻と息子に死別した過去があり、デレクと疑似父子の関係の心理サスペンスが善と悪、幸と不幸のせめぎ合いが主題となる。

出会いから、樹々の向こうに煙が立ち上り列車との遭遇で、二人が鷹を撃ったことから、強盗団と誤解され、シェリフとその街の追跡団に撃たれ、二人とも負傷、特にデレクは脚に大怪我を負うことになる。農場に担ぎ込まれるが、手当したその農場の娘がヴィヴェカ・リンドフォース。スウエーデン出身で当時第二のガルボかバーグマンかと期待されていたが、そこまでは行かなかった。エロール・フリン主演の「ドンファンの冒険1949」で王妃マーガレットに扮したのを見たことがあるが、それは美しかった記憶がある。

そのヴィヴェカとキャグニーが恋愛関係になり結婚する。街の人たちの信頼を得たキャグニーは、シェリフに推され、デレクを助手にする。ある日アーネスト・ボーグナインを頭とする強盗団に銀行が襲われ、追跡するも、コマンチ族の勢力範囲に入り込み町民たちは恐れをなし帰ってしまう。キャグニーとデレクのみで追跡するも強盗団もインディアンに殺されたりして、最後は、キャグニーとデレ
クとボーグナインの対決となる。デレクは一味と通じていたことが判るが、キャグニーがボーグナインに殺されそうになった時、良心に目覚めたデレクがボーグナインを撃ったが、ピストルが自分に向けられたと勘違いしたキャグニーに撃たれ倒れる。

以上二人の出会いから、父性の懐の大きさを感じながら、強盗団との対決と疑惑の裏切りが全編を覆いながらも、キャグニーの堂々たる振る舞い、悪漢に奪られた街の財産を取り戻すために命を張り、人のために尽くすというメッセージが伝わることで西部劇らしい終わりになった。

(編集子)ジェイムズ・キャグニイといえばまず思い浮かぶのがシカゴのギャング、というイメージだし、出てくればまず憎まれ役が多い名優だった。小生の好きなフォンダの ミスターロバーツ でもその憎々しさが面白かった記憶があるし、かたやボーグナインといえばこれまた掛値なしの敵役だ。特に 地上より永遠に でフランク・シナトラを殺してしまう軍曹役なんかが思い出される。このふたりの西部劇、ということになるとセーブゲキ党としてはぜひ見ておかなければならなかったのだが所用で見逃してしまったのが残念至極。

(飯田)小泉さんが纏めた「追われる男」をビデオ撮りしておいて昨日観ました。今月のBSシネマで、劇場では観ていなかったので、この一本を観たいと思っていた作品でした。

ジェームス・キャグニーが善人役として、珍しい作品で西部劇としてそこそこ面白いと思いました。ジャイさんもコメントしてましたが、キャグニーの映画ではジョン・フォード監督の「ミスター・ロバーツ」のヘンリー・フォンダに対する上官役が秀逸であり「ヤンキー・ドウードウル・ダンディ」が自分は好きな映画です。それに当時劇場で観た「白熱」は、もう一度是非観たいと思ってますが、テレビでは見たことが無いです。