”置き配とタブレット” 追論2  (36 大塚文雄)

本論を補足する意味で、小生現在執筆中の本から関係する部分を抜き書きしましたのでご一読ください。同書脱稿しましたが出版まではまだ少し時間がかかります。自分の経験から書いた主題はインタンジブルス(無形資産)ですが、本の題名に入るかどうかも分かりません(表紙は出版社が決める領域だそうです)。

 

日本は欧州主要三ヶ国と競いあっていて生産性はそれほど低くない

たしかに日本のGDPは長期にわたり良い数字ではないし、GDPを指数とする経済成長率も低くなります。そこに、日本国民一人当たりGDPは参加38ヶ国中の20位あたりが定位置というOECD情報が加わり(第十六章参照)、日本の生産性が国際的に低いと考える日本人が多くなりました。マスメディアでは常識扱いです。

これは欧米で何年も生活し、欧米人社員と仕事をしてきた肌感覚とは合いません。そこで、ADA思考法で2019年の順位表を読み込んでみました。日本の一人あたり名目GDPは、欧州主要三ヶ国(ドイツ・イギリス・フランス)と4万ドル台で競いあっていて、日本人の生産性がそれほど低いとは思えないのが結論です。

表①はOECD発表の上位22位までに絞り、人口と人口密度を加えたものです。1位から12位までには小人口・低人口密度の国が並んでいて、13位から22位までには人口5,000万以上の国が並んでいます。

表②は22位までを人口の多い順に並びかえたものです。人口5,000万人以上は7か国で、米国を除くと、一人当たり名目GDPが4万ドル台なのは日本と欧州主要三ヶ国(ドイツ・イギリス・フランス)だけです。

参考表③は人口一億人以上の13ヶ国の一人当たり名目GDPで、米国と日本が群をぬいていることが見てとれます。欧州主要三ヶ国と日本は50年間一人当たり名目GDP競争をしてきたのです。

 

 

 

 

 


1950年代に労働組合が「ヨーロッパ並みの賃金」というスローガンを掲げ、「追いつき追い越せ」が日本の流行語になりました。

グラフ①から追いつき追い越せたのは、25年後の1980年頃です。それからさらに25年後の2010年頃に、欧州主要三ヶ国が日本を抜き返したことがわかります。意識の外にあったとは言え、日本と欧州主要三ヶ国は50年の長きにわたり1人当たり名目GDP競争をしてきたことになります。

 

”置き配とタブレット” 追論     (44 安田耕太郎)

ブログ拝読しました。思わず大きく 膝をたたき ました。全く同感。言ってみれば、概ね同一民族による均質性の高い文化・習慣を歴史的に長らく維持し育んできた島国国家・日本の特長・美点を挙げられたと理解します。その多くは日本では当たり前な普通のことでも外国からみれば稀有な驚愕することのようです。

海外から初めて日本に来て驚いたと彼らが指摘することを追加すれば、一つには、現金が詰まった無数の “自動販売機“ が野放図に道端に設置されている事実。最近、自動販売機荒らしが報告されるようにはなったが(外国人の犯行だと目されている)、彼らにとっては信じがたい驚愕する日本の現実。この類の日本独自の美点とも云うべき事例をあげれば枚挙に暇がないが、2~3挙げると、海外から来日した取引先の外国人は、建物の工事現場を見て皆驚いていた。周囲を幕で覆い美観対策のみならず、安全面での対処法にも目をむいて驚く。犬の糞を踏まずに散策できる公園。海外旅行においては命・パスポート・クレジットカードの次に大事なスマホを紛失したが、本人の許に届けられ泣かんばかりに感激した外国人旅行者。彼らにとっては夢のような国。テレビで報告された事例では、紛失したあと帰国した外国人の母国にまで届けられたこともあった。

いわば温かい人間の血が通ったアナログ的な美点を誇りに感じるべき日本人は、現在、便利さ・効率性・労働生産性を追求するいわばデジタル的な会社経営のみならず社会運営を強いられているかのような呪縛に陥っているように見える。それが、社会の進歩と発展と直結していると錯覚するきらいがある。大間違いだ。

日本が挑戦すべきは、例にも挙がった日本のアナログ的美点・習慣を維持しつつ(無意識に維持され)、如何にして貧困化の流れを食い止め、経済発展・成長路線へ国を社会全体を方向転換させるかということに尽きる。安全、安心で裕福な住みよい社会が究極なゴールだ。言ってみれば、アナログとデジタルが究極的に効率よくブレンドしたハイブリッドな社会を目指すべきだと思う。二つは決して二律背反の矛盾することはなく、労働生産性を追求した結果、失業した労働者の仕事・職を確保する新たな雇用機会を新しい産業を興すことで吸収する必要があろう。時間は暫くかかるが、世界的に観て競争力のある付加価値を産む産業の育成、日本の産業構造転換・労働人口の適切な配置・分配、大きな新規雇用機会の創出などを達成せねば貧困化には歯止めがかからない。

日本の現状は、“ 貧すれば鈍す “、” 悪貨は良貨を駆逐する” のスパイラルに巻き込まれている気がして、更に危険が増幅する可能性も大いにありうる。上手く方向転換させなければ、結果はさらなる貧困化をもたらし、そして何百年と維持・運用されてきた長い歴史と文化の土台の上の成り立って来た、このブログ交信でも挙げた幾多の素晴らしい(世界を驚愕させる)日本の美点を犠牲にしかねないということだ。貧困、失業者に歯止めがかからず、“ 置き配” や “自動販売機” は盗難の危険が心配になる社会に決してしてはならない。政・官・産業界・民・教育界・家庭・・全ての関係者・国民にとって突きつけられ挑戦しがいのある課題であろう。

エーガ愛好会 (118) タワーリングインフェルノ  (HPOG  小田篤子)

キャストが豪華:  ポール·ニューマン、スティーブ·マックウィーン、ウィリアム·ホールデン、フレッド·アステア、フェイ·ダナウェイ、そして皆様がお好きな、「慕情」のジェニファー·ジョーンズも。
タイタニックの高層ビル版でオーナーの娘婿が、予算削減の為に、設計士の指定より性能の低い受電盤を使ったことで出火します。消防隊長のマックウィーンと設計士役のポール·ニューマンの活躍にハラハラドキドキ。
この出火原因を作り、我先に逃げようとした娘婿役はリチャード チェンバレン。昔TVドラマなどでとても人気があり、ハンサムで爽やかな素敵な人で私もファンでしたが、今回は一番嫌な役でした。前回の「悲しみは空の彼方に」のトロイ·ドナヒューのように。
先月、新聞に読者からの❬映画を巡る物語❭が4回連載されていました。そこに載っていた71歳の男性の投稿の一部分です。
” 70歳まで建設関係の仕事に従事した私の一番の映画は、就職間もない頃に封切られた「タワーリング·インフェルノ」です………建設技術者として安全な建物を考えるきっかけを作ってくれました……来賓の客が次々に命を奪われる場面が衝撃的で、脳裏に強く焼き付き… 人生の座右の銘として「安全な建物」の出発点となった作品です。
(安田)「慕情」コンビのジェニファー・ジョーンズとウイリアム・ホールデンの皺の増えた熟年振りには人間は歳をとるんだと染み染み知らされました。有名俳優の揃い踏みは懐かしく、彼等・彼女達の映画を思い出します。テレビドラマ「ベン・ケーシー」と人気を二分し「ドクター・キルデア」のチェンバレンを映画で見たのはこの一本だけ。アメフトの英雄、裁判中のシンプソンも出演していた。スパイ物テレビドラマ「0011ナポレオン・ソロ」のヴォーンも懐かしい。
「・・インフェルノ」に加えて、海の「ポセイドン・アドベンチャー」、橋梁のシーンが忘れ難いソフィア・ローレン、アリダ・ヴァリ、エヴァ・ガードナー、往年の三美女が一堂に揃ってパニックに陥る「カサンドラ・クロス」、これら三本の高層ビル・豪華客船・列車を舞台にした怖い映画はそれぞれ1974年、72年、76年の制作。更に豪快キャストのオリエンタル急行殺人事件」は74年制作。スリルを全面に押し出し、それに人間模様を描いた映画が多く制作された時代だったのですね、70年代は。制作費も半端ない大作揃い。ヴェトナム戦争も終焉(1975年)が近づき、アメリカンニューシネマの波も一段落した頃にこれらの映画が世に出たのは興味深い。「ゴッドファーザー72年 & 74年」、「フレンチコネクション71年」もこの類の仲間だったのでしょうか?
(武鑓)タワリング インフェルノ」は小生も懐かしく好きな映画の一つです。
1973年1月サンフランシスコに駐在赴任しましたが、丁度、その頃本作品を撮影中のようでした。ある晩、シスコのダウンタウンのCalihornia St.にあるBank of Americaのビルの側を通りかかったら、ビルがライトアップされ消防車も来ており大勢の人が集まっていました。映画撮影中とのことでしたが、その時は映画の題名もこんな豪華俳優が出ている映画とも知りませんでした。その後、映画が公開されて現地でも観たはずで帰国後も字幕入りで映画館やTVでも観ましたが、毎回退屈しません。
シスコを舞台にした映画は数多くあり、皆さんよくご存じのS.マックイーンの「ブリット」やC.イーストウッドの「ダーティーハリー」などはTVで上映される度に観て、家内からよく飽きないものと呆れられています。
(編集子)いやあ懐かしい名前ですな。ブリットで出てくる通りは覚えがあるところがあったし、ダーティハリーの何作目だったか、コイタワーと思しきあたりも出てきたな。いやいや。

”置き配” と タブレット

仕事を辞めて数年してから、一念発起してポケットブックを原文で読み始めた。その一つのきっかけがアマゾンの存在である。学生時代から社会人5年生くらいまでの間、年に数冊は原書を読むことにしていたが、その本はすべて丸善まで行かなければ買うことができなかったし、たまたま店にあった本を買ってくるだけだった。しかしアマゾンという仕掛けを知ってからはその便利さに完全にはまってしまって、月に一度くらいはポケットブックを届けてもらうようになり、最近は “置き配” という方法で本が届く。誠に便利であるし、配送業者にしてみれば時間と手間の削減、硬くいえば労働生産性の向上に効果があるのはよくわかる。

しかし考えてみるとこのような方法はその社会環境に左右される。言いかえれば、よく調べたわけではないが、世界広しといえども、”商品、家の前に置いておきましたよ“ で配達が済む国はわが国だけではないだろうか。届け物を玄関先においても盗難にあう心配をしないで済む国、工事現場に材料やら機械やらを置いて帰っても翌朝にはちゃんとある国、さらに最近夫婦して経験したのだが、どこへ置いてきたかも覚えていないスマホがきちんと戻ってくる国。犬を連れて散歩する人がシャベルに袋まで持って後始末をする国。欧州の先進文化圏にはほとんど行ったこともないので断言しないが、少なくとも米国には全く存在しない安心というものがこの国では至極当然のことになっている。そういう文化があるからこそ、”置き配“ による生産性の向上ができるわけだ。

”我が国の労働生産性は低すぎる“ ”先進国ではこんなことはない“ ”日本はだからダメなんだ“ 一連の識者と呼ばれる先生方は異口同音に発言される。労働生産性、とは要は付加価値、わかりやすくいえば売上金額をそれにかかわる人数で割った比率のことなのだから、その人数が減れば当然向上する。この手の議論には全く経験がないので判然としないのだが、生産性、を上げるために人手を減らす。そこまでは問題ない。しかしそこで ”減らされた“ 人の雇用はどうなるのか、その結果が引き起こす社会現象はどうなるのか、生産性とたとえば失業率とか犯罪発生率とかの関連、そのあたりについて、かの識者先生方のお考えはどうなのだろうか。

コロナ対策で始まった(と理解しているのだがどうもコロナが収まっても続くだろう)現象の一つに、レストランでのタブレット注文、というのがある。これも工数削減に確かに効果があるだろうことは素人目にも確かである。しかし、である。ま、仕事途中にかきこむランチならともかく、一息入れようかというつもりの場での一つの楽しみはやはり店の雰囲気であり、それが一番よくわかるのが店員さんの応対であり、何気ない会話であり、なじみになれば冗談の一つも交わす、というものなのではないか。それが無機質なタブレットに置き換わってしまう、この大げさに言えば喪失感(!)というか断絶というか、たまらなくつまらない。ここまでやるのなら、言ってみれば自動販売機の前にすわるのと同じではないか。

生産性の分母にあたる人数については、レストランの話はともかく、日本における雇用形態と関連があるのは当然で、アメリカ流の hire and fire が前提ではない。この日本的雇用形態についてもうんざりするほどの議論があるのは承知しているが、基本的に個人を尊重しながら社会の調和を考える日本文化は存在し続けるだろうししてほしい。”個人の自由“ を尊重するからマスクはしない、というような理屈ばかりの議論がまかり通る国では、結局, ”置き配“ は実現できないだろう。

 

 

 

エーガ愛好会 (117)   ミザリー  (44 安田耕太郎)

「ホラーの帝王」の異名を持つスティーヴン・キング原作の「Misery」(悲惨の意)の、1990年制作の映画。彼の人気小説「キャリー」、「シャイニング」、「スタンド・バイ・ミー」などに続くサスペンス ホラー・ストーリー。1994年には彼の原作「Rita Hayworth and Shawshank Redemption」(邦題:刑務所のリタ・ヘイワース)による映画「ショーシャンクの空に」(The Shawshank Redemption)が人気を博した。「ミザリー」も彼ならではと唸らせる。原作小

スティーブンキング

説の方が、映画より場面を想像して膨らませられるだけ、より不気味で怖かった。それでも映画も充分に怖い。彼がこの小説を執筆したのはロンドンへと飛ぶ機内で見た夢に出てきた話を基に一挙に書き上げた由。当時、キングはアルコールと薬物中毒の治療を受けていて、看護婦の世話になっていたところから、主人公の女性を看護婦とした、と言われている。

穏やかで人の良い中年女性役の多いキャシー・ベイツの怖く不気味な怪演が光る。オタクおばちゃんの演技がうますぎる。喜びで浮かれまくっている時のはじける笑顔と、いきなりサイコパス顔に豹変する落差が凄まじい。笑顔と恐怖の顔が繰り返され、次第に恐怖が増幅していく仕掛けになっている。正気と狂気、微笑み・優しさと恐怖の対比による相乗効果は特筆もの。ヒッチコック監督のサイコパス映画「サイコ」1960年で精神病質者を演じたアンソニー・パーキンスの役名はノーマン・ベイツどちらの ”ベイツ“ も不気味で怖かった。キャシー・ベイツ42歳時の映画で、アカデミー主演女優賞に値する好演だ。以後、出演機会が増え確固たる位置を占める女優となる。「タイタニック」、「ミッドナイト・イン・パリ」でも好演していた。

ベイツに翻弄される作家役を、「ゴッドファーザー」「遠すぎた橋」(A Bridge Too Far)などで豪放な役を演じた50歳のジェームズ・カーンが魅せる。彼の両映画出演写真添付。キャシー・ベイツの好演が全てのようではあるが、相手役を演じたカーンの演技も秀逸で、ベイツに対する恐怖や痛みの表現と逃れるための必死の行動があって「ミザリー」は成立している。カーン演じる作家は著作「ミザリー・シリーズ」で知られた存在。映画の題名「Misery」“悲惨“ と ”小説内のヒロイン名“ の両方を掛けている。巧妙だ。更に、アニーが可愛がるペットの豚の名前もミザリーだ。ファン心理からくるサイコパス女性の狂気を描き、異常なまでに作家を追い込み占有したい欲求に駆られ、それが裏切られた際の恐怖に満ちたヒステリーを演じたキャシー・ベイツには脱帽だ。彼女の狂気から必死に逃れようともがく作家との間の死闘ともいうべき攻防は見応えがある。

物語は、雪に閉ざされた小さな家の中で起こる密室に近い映画舞台設定は、ヒッチコックの「裏窓」1954年、オードリー・ヘップバーン主演の「暗くなるまで待って」1967年のサスペンス映画と同じだ。いやが上にも両主役俳優の名演技と演出が際立つ舞台設定だ。 映画の最後に近く主人公が小説を執筆していたシーンで、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番が流れていて、ホラーを和らげるかの雰囲気を醸し出すが、そのすぐ後にポールとアニーの命を懸けた血みどろの決闘が始まる。印象的な場面だった。

”遠すぎた橋”のジェームス・カーン

(保屋野)「ミザリー」、初めて観ました。ホラー&サスペンスというジャンルなのでしょうか。気違い女に監禁された作家が、いかに彼女から逃れられるか、という筋立てで、ハラハラドキドキ感もありました。

主役のキャシー・ベイツはこの気違い女の役でアカデミー主演女優賞をとったそうです。作家役のジェイムス・カーンも雰囲気のある良い俳優だとおもいます。出演はほぼこの二人だけ、という安上がり?の映画ですね。

私はホラー映画が苦手でほとんど観ませんが、この映画や「サイコ」はサスペンスの要素が強く、まあまあ面白かったです。さて、私がこれまで観た映画(少ないですが)の中で、最もハラハラドキドキしたものは「逃亡者」でしょうか。~テレビの方が面白かったですが。あとは「ポセイドン・アドベンチャー」や「恐怖の報酬」あたりかな。

(船津)安上がりの映画。気持ち悪さで引っ張っていく。何となくホラーでも無いしサスペンスでも無いしつまんねー映画。

エーガ愛好会 (116) シノーラ  (34 小泉幾多郎)

1900年のニューメキシコのシノーラという所を舞台に、土地所有権をめぐって繰り広げられるガンマンたちの死闘を描く。あの「荒野の七人」「OK牧場の決闘」等決闘3部作で名高いジョン・スタージェスの監督で、主演がクリント・イーストウッドというのだから期待は高まる。イーストウッドはマカロニウエスタンから帰還して10作目、「恐怖のメロディ1971」で初監督、「ダーティハリー1972」に出演、「荒野のストレンジャー1973」での西部劇初監督を控えての意気軒高の時期だけに、名監督との作品で何かを得たい気持ちがあったのではなかろうか。舞台や主演者から何となくマカロニウエスタン的色彩が色濃く感じられるが、それなりに楽しめた。小気味よい音楽で始まるが、音楽監督が「ダーティ・ハリー」等のラロ・シフリン。背景も素晴らしく、カリフォルニア州ローンパイン(アラバマヒルズ)にロケし、雪を頂く山々に囲まれた岩だらけの風景をブルース・サーティースが撮影と、スタッフはいずれもが一流の顔ぶれで占められている。

権力と結びついた名目だけの保安官(グレゴリー・ウオルコット)と街の支配者ハーラン(ロバート・デュヴァル)たちの気まぐれによって流れ者や弱者が制裁を受けるように、此処シノーラの街でもジョー・キッド(クリント・イーストウッド)は拘置所にぶち込まれた。メキシコ人も自分たちの住んでいた土地を訳の分からぬ理由をつけられ、牧場主たちに奪われてしまったことから、チャーマ(ジョン・サクソン)とその一味が乱入、土地の証拠物件を焼かれた仕返しに書類を焼いて砂塵の中に消える。ハーランは腕を見込んだキッドを含む凄腕ガンマンによる追撃隊を確保しチャーマ一味の後を追う。チャーマがいる岩山に囲まれた山村でのハーランのメキシコ人への迫害ぶりに、キッドは村の娘ヘレン(ステラ・ガルシア)と結託、メキシコ人側につくことに。最後正当な裁判を受けることを条件に、チャーマ、ハーランのそれぞれの一味をシノーラの街へ戻すことに成功する。残念ながら正当なる裁判が開けるような状態ではなく、チャーマ一味とハーラン一味との銃撃戦となる。キッドは列車を暴走させ、酒場にいるハーランの部下たちの中へ突っ込み、浮足立った部下たちをやつけることに。裁判所に入ったハーランに対し、裁判官の席に立ったキッドが、裁判官と死刑執行人としてハーランを撃ち殺すのだった。

雄大なロケーションとガンアクション、高性能ライフルでの遠距離射撃、機関車の酒場突入等クライマックスの見所も多く、イーストウッドの若々しく颯爽とした恰好良さ、ロバート・デュバルの悪役ぶりも堂に入り堪能したが、スタージェス監督の冴えがもう一つでした。イーストウッドからもマカロニ・ウエスタンのセルジオ・レオーネ、「ダーティ・ハリー」のドン・シーゲルのことは恩人ということを聞くが、ジョン・スタージェスについては聞かない。

(編集子)ロバート・デュバル はやはり ゴッドファーザー での初見参の印象が強く、どうもこの映画ではミスキャストではなかったかという気がする。ジャック・ヒギンズの名作 鷲は舞い降りた で準主役のラードル大佐を演じたところまでは記憶にあるが、往年のテレビシリーズ コンバット に出ていたとは知らなかった。ローンパインはカリフォルニア中部のサンジョアキンバレーに位置し、デスヴァレーとかマウントホイットニーなどへの入り口にある街で、パイン(松)は見かけなかった気がするし、むしろ ローン、という形容詞のほうが印象に残った、編集子の印象としては冴えない印象が残っている。

 

第六波 到来したのに?     (34 船曳孝彦)

第5波の波が収まってきたころ新聞コロナ川柳欄に投稿し、10月9日に掲載された、“第6波今でしょ対策立てるのは” と警告を発していたのですが、前回情報(31)で危惧していた通り、第6波対策は有効打を打っておらず、爆発的に感染者が増えています。

新変異株オミクロン株が出現し、世界的に猛威を振るったデルタ株に入れ替わって拡散しています。感染力は数倍とも10数倍ともいわれ、幸いにして重症化率は低いようですが、政府や東京都が唯一の対策としたコロナ病棟では収拾がつかず、しかも非コロナ救急・重症患者の診療に支障が出始めています➊。

首相を始め厚労省、東京都、果ては基本的対策専門分科会長までもが、支離滅裂な発言を繰り返し、日本の医療は無茶苦茶になっています。

第5波までにあれ程指摘されてきた検査体制の拡充がなされておらず❷、PCR検査、抗原検査をやらずに臨床症状だけで感染者と見做してよい(政府)➌、濃厚接触者は本人が届け出をする(都) ❹感染者本人が濃厚接触者に直接連絡する(都)❺、濃厚接触者の特定や入院調整の司令塔であるべき保健所が、予想を上回る対象者数に人員を4,5倍の最大限に増員しても追いつかずパンク状態となり❻、保健所の検査は高齢者施設か同居家族に絞るとか❼ 濃厚接触者のリストアップを患者所属会社に一任する➑など自らの業務を放り投げようとしています。感染が疑われる素人が自分で検査をしようとしても検査キットが品不足で入手できず(検査難民)しかも先進国では信じられない野放図な料金が請求される➒、抗原検査の精度にも問題があり、専門家でさえ陽性、陰性の判断から次のPCR検査か入院かの判断が難しいといわれるのを素人が判断せよという❿、患者側からは発熱外来の予約は一杯で受け付けてくれず医療機関受診も出来ないとなったらどうしたらいいのでしょうか(受診難民)⓫。本来体調が悪い時に診察、治療を受けるのは患者の権利でもあります。これを検査も受診もせずに素人が判断せよといっている。もはや医療と言えず、文明国の生活とは言えません。

➊~⓫どれ一つとっても医療崩壊と言えます。患者数が減っていた数か月を無駄に過ごしたのが原因と思います。

新聞では『開業医を含めて総動員体制でオンラインや電話で問診し診断せよ』という意見がありました。感染症専門医でさえ、「検査なしで臨床症状だけから

診断するのは危険だ➊」といっているのに、「医者ならそれくらいできるだろう」というのは、あまりにも無謀というか、何十年と眼科医や皮膚科医として診療してきた医師にとっては無理な要求です。

このような社会情勢では、陽性者数、濃厚接触者数ともにあやふやで、オミクロン感染の統計自体への信頼も失墜することになり、欧米から冷たくあしらわれるでしょう。

人数制限はするが人流制限はしないなど、政府は突き放し、東京都は軽症・無症状患者は自宅待機せよと放棄しています。『ほとんどの人は自宅療養で治る病気というイメージに変えようという意図の確信犯的迷走なのではないか』という意見も見られました。例えば他の株と比し、重症化率が4分の1としても感染力が4倍なら重症患者数は同じです。従って未だ科学的に立証されていない段階での軽視可能イメージは危険です。

ともかく大変な事態になってきました。ワクチンの第3次接種は、英、韓、仏、豪、米などの54~25%(これらの国では発生率のピークを越えつつあります)と比較し本邦では僅か2.5%と、大きく遅れています。2次接種率では78.7%と優れた数値でデルタ株脱出にも先行できたのに、予め計画して行うことの不得意な国なのでしょう。2次との間隔を9か月と決定したころの縛りがまだ効いているのでしょう。ワクチンの第3次ブースター接種はオミクロン株に対しても有効です。

皆さんなるべく早く第3次ワクチン接種を受けてください。 今、感染ないし濃厚接触者となると大変です。ステイホームせざるを得ないかもしれません。

(コロナとは関係ありませんが、今年正月のー筆者のー写真です)

ところで先輩、おいくつでしたっけ?

 

M.M のこと ー 2022年1月に

 

いにしえの賢哲は 人生とは川の流れだと言った。

流されず川床に残る石を想い出というのだ、とも。

 

遠からず河口にたどり着く俺の流れにも 数多くの石が並んでいる。

ど真ん中に顔を出して未だに川浪をけたてているのもあるし

底深く黙って砂をかぶっているのもある。

お前の石は そう、右岸にちょっと寄ったあたりのへこみ

岸辺から垂れている草に触れようかと 例のように はにかんで沈んでいる。

 

成人式前年の師走

(好きなのかな?)と思っていたひとりの少女を見送ってこのかた

俺は一切の宗教というものを信じなくなった。

 

流れの右岸 草に触れるようにはにかんで座っているその石は

燕 赤倉 五色 焼額

俺のクリスチャニアを追いかけてきては繰り返していたときのように、

(前傾しすぎじゃねえか?)と問いかけてくる気がする。

 

いままでどうしても出来なかったが

ゆうべ

俺はお前のメアドを delete した。

 

 

エーガ愛好会(115) 悲しみは空の彼方へ     HPOG 金藤泰子

母親二人が娘を深く愛しているところは同じなのですが二組の親子が送る、全く異なる半生が描かれていました。1940年代のニューヨーク コニーアイランドが舞台。

海岸で知り合った二組の母と娘が同居することになりました。
一方は白人ラナ・ターナー(エマ)の母と娘サンドラ・ディー (スージー)、母親は女優志願者ですが、なかなか役が取れず毎日オーディションに出かけ、家では宛名書きの内職をする毎日。 優しい恋人ジョン・ギャヴィン(スティーブ)が求婚するのですが、エマは夢を諦められないと言う。
やがてエマは女優として成功し華やかな生活を送るようになります。
娘は母親が留守がちで寂しい思いもする日々でしたが、同居しているアニーに面倒をみてもらえます。 娘の卒業プレゼントに母親は馬を贈り、自分が留守の間、久しぶりに現れたスティーブに娘の面倒を見て欲しいと頼みます。娘スージーはスティーブと乗馬をしたり食事ダンスをして楽しい夏を過ごします。 名声を得、女優人生に満足したエマは、10年記念の恋人スティーブと結婚する事になったのですが、思春期に成長した娘は、優しい母親の恋人に恋心を持つようになっていました。 娘は遠く離れたデンバーの大学へ行く決心をします。

もう一組の母親は黒人アニー、捨てられた元夫が白人で、娘スーザン・コナー(サラジョーン)の肌の色は父親と同じ白色でした。
黒人の母親アニーが家政婦の役割をしてエマの家で共同生活をする事になりました。
娘達は幼ない頃は何の違和感もなく仲良く生活していましたが
成長するに従い、娘のサラジョーンは、家の外では自分の母親が黒人である事を隠すようになります。
母親が娘に雨具を届けに行っても、小学校の教師はクラスに有色人種の子はいないという。 白人の素振りをしていた娘は、母親にどうして学校まで来たのかと怒ります。
母親は、知られて何が悪い、自分を恥じる事は何もないと娘に言うのですが、
娘は、どうしてあなたが私のママなのかと泣きながら母親を振り切ります。
母親は信じています。神のみ業には意味があると知るべき 肌の色が違うことにも
自分を恥じるのは罪、自分を偽るのはもっと悪いと。
でも、どう説明しても娘は傷つくだけと、自分の胸の中におさめます。

恋をする年頃になった娘サラジョーンは、恋人(トロイ・ドナヒューだったのです)に母親が黒人である事を知られ酷い暴力を振るわれ、惨めな姿で家に戻ります。 娘の姿を見て、母親アニーは愛する娘に、誰がこんな酷いことを!と聞き出そうとするのですが、
娘サラは、あなたのせいよ!あなたが自分の娘だと言い回るから、あなたがぶち壊したのよと母親に言い放つのでした。
母親の愛がどんなに深くても、どんなに愛していると言われても、娘は自分では変えられない運命を嘆きます。 娘は図書館に勤めていると言っていましたが、実はクラブでダンサーをしていました。 母親の血が流れているのを隠しながら・・・母親エマが娘に会いに行くたびに母親の肌の色のため、娘は職を失います。 やがて体調を崩した母親アニーが最後に娘に会いに行き、もう二度と来ないからと娘を抱き締め、涙する娘。

時が経ち、アニーは自分の葬儀を立派な葬儀にして欲しいとエマに頼みます。最後の審判の日に善き市民として裁かれたい 栄光の旅立ちへと。 この辺りからは、彼女が信じているの宗教の話になります。 遺言通り立派な葬儀が行われます。 教会で ︎この世の苦しみから神のもとへ ︎ゴスペルが切々と歌い上げられます。 参列者の数の多いこと。
家にいて家事をしていただけのように思われたエマは、熱心に教会や集会に通い、信じ深いたくさんの仲間たちがいたのでした。 棺を乗せた車が出発する間際に娘が戻って来てママ、許してずっと愛していたと泣きじゃくるのでした。
たくさんの人々に見送られ立派な葬列になりました。
(ALLCINEMA より転載)

 34年にC・コルベール主演、ジョン・スタール監督で映画化された当時のベストセラーのリメイク。その際の題はズバリ「模倣の人生」。正にそんなソープオペラ的できすぎの題材を、メロドラマの巨匠サークがてらうことなく真摯に映像化し感動を誘う。L・ターナーとJ・ムーアの二人の母親がそれぞれの娘を共同生活の中で紆余曲折ありながら育て上げる話だが、ムーアは白人の夫に捨てられた黒人女性であり、白人と見分けのつかない混血の娘がいる。未亡人のターナーは初め売れない女優だが、やがて人気が出て荒んだ生活を送るようになり、S・ディー扮する娘ともしっくりいかなくなる。最初の映画化を見ていないので比較は出来ないが、より黒人のムーアとその娘を大きく扱っていると思え、それゆえ感動も深い。空虚に生きるターナーの支えになり娘との橋渡し役になる恋人を演じるJ・ギャビンも好演。

(安田)ヤッコさんから送って頂いたDVDを遅ればせながら観ました。

  1. 映画の舞台は戦後間もない1940年代後半から50年代。資本主義を謳歌するアメリカの豊かさを目のあたりにさせられた。いかにもハリウッド全盛期を感じさせるインテリアやファッションの華やかさに、アメリカの絶頂期ともいえる50年代は眩くさえ映る。
  2. 人種差別による人間関係の難しさ、女性が夢をもって働くこと、母と娘の難しい関係、貧富、恋愛など色んなものが詰まっているが、多民族国家アメリカの永遠のテーマ「人種差別」の複雑さと悲劇に焦点を当てて描いている映画。60年後の今日にも存在する普遍的な人種問題を扱っている。
  3. 舞台女優の夢を追いかける白人シングルマザーと差別の中で生きる黒人シングルマザー、二人の母親と二組の母娘のコントラストが見事に描かれている。
  4. 黒人の母と白人の父から生れた娘は肌の色は白い。しかし、彼女は母親が黒人であることを隠そうとして、自分の血を卑下しコンプレックスと持つ。日本ではほぼ体験し得ない人物像とそこから自然発生的に起こる複雑な人間模様を、セクシー女優と謳われたラナ・ターナー(映像では驚いたことにアングルによって少しデボラ―・カーに似て優美にさえ見えた)と、主役といってもおかしくない黒人シングルマザーの二人が好演。
  5. 美しいラナ・ターナー(彼女の映画は初めて)演じる女優業も演出がやや粗削りで強引な印象を受けたし、時を経て一挙に大豪邸の自宅に住むなど話の筋の展開が恐ろしく早い。黒人の母親と肌の白い(外見は白人)の娘が直面する差別の描き方もやや短絡的な感じが否めなかった。短い時間では如何ともしがたいのか?
  6. 誠実に生きた黒人シングルマザーの葬式のシーンは大変印象的。有名なゴスペル歌手マヘリア・ジャクソンの歌が大変良かった。ウィキによると、黒人の公民権運動を指導し銃弾に斃れたマーティン・ルーサー・キングと並び黒人の人権運動に強い影響を与えた女性であったと、記述されていた。
  7. 原題「Imitation of Life」(模倣の人生)は邦題「悲しみは空の彼方へ」のニュアンスと違い、監督が描きたかったと推察する、人種差別に対する批判を鋭いタッチで描いた社会的メロドラマに相応しい題名だと思う。フランスの鬼才ゴダールも監督を絶賛したとのこと。

(編集子)映画とは関係ない提案だが、この愛好会もすっかり我々の日常に定着したようで、きっかけを作った当人としてはうれしい限り。顔合わせ(声だけしか知らない友人と顔を合わせる機会をアマチュア無線の世界では Eyball QSO と言い、大変うれしいこととされる)はまだできていないがもう百年の知己、といった間柄だ。そろそろ XX様 というのはやめませんか。Imitation of friends とでもいうのでは?

 

 

クリスティはお好き?   (普通部OB 菅原勲)

探偵小説、中でも本格探偵小説とは、殺人が起こり、その犯人を見つけ出すまでを描いた物語だ。作家は、あらゆる手練手管を使って読者を最後まで騙して犯人を隠蔽し、意外な犯人を持ち出して読者を呆気に取らせることに腕を振るう。それが成功すれば、万々歳と言うことになる。そして、そこに犯人探しの探偵役が絡んで来るのは言うまでもない。

如何に読者を騙すか、如何に魅力的な探偵を創り出すか、と言う基本的な点で優れているのが英国のA.クリスティーであることに異論はあるまい。しかし、だからと言って、それらの点でクリスティーが並み居る探偵小説作家(以降、作家)より抜きん出ているかと言えば、そうとは言い難い。例えば、S.S.ヴァン・ダイン(「僧正殺人事件」1939年)、ジョン・ディクソン・カー(「ユダの窓」1938年)、エラリー・クイーン(「Xの悲劇」1932年)、フリーマン・ウィルズ・クロフツ(「樽」1920年)などなど、この二点に限って言えば、多士済々で、枚挙に暇がなく、クリスティーはその中のほんの一人に過ぎない。しかし、逆にクリスティーほど広範囲に亘って読者を獲得している作家はどこを探しても見当たらない。それは何故なのだろうか。それは、クリスティーが、ただ単に、吃驚仰天の「アクロイド殺し」、極めて魅力溢れるエルキュール・ポワロなど以上のものを身に着けているからに他ならない。

それは何だろう。結論を言ってしまえば、それはクリスティーの探偵小説が、極端に言えば、実は、世の中の人間模様を濃厚に描いた風俗小説であって(断るまでもなく、ここで言う風俗とは、風俗営業などで使われる意味ではない)、そこに、探偵小説が塗されているからではないだろうか。その傾向は晩年になるに従って益々強くなって来る。また、クリスティーは、メアリー・ウェストマコット名義で「愛の小説シリーズ」を6冊書いている。小生、読んだことはないが、さぞかし面白いに違いない。つまり、意外な犯人、魅力的な探偵、それ以上のものが描かれ、万人に親しまれる内容になっていると言うことだ。ここにクリスティーだけが持っている独特の存在感がある。そう言う意味での最高傑作は、異論があるのは百も承知だが、ポワロではなく、ジェイン・マープルの「バートラム・ホテルにて」(1965年)ではないだろうか。いや、おっ魂消た「アクロイド殺し」(1926年)と言う人もいるだろうし、いや「ABC殺人事件」(1936年)だと言う人もいるだろう、「そして誰もいなくなった」(1939年)、「オリエント急行の殺人」(1934年)などなど、千差万別、百花繚乱、大いに結構。それだけクリスティーの作品が、極めて広範囲に亘って読者に受け入れられていると言う証拠でもある。上記のヴァン・ダインはどうか、カーはどうか、クイーンはどうか、クロフツはどうかと言えば、かれらは極めて限られた、それこそ本格探偵小説マニアに受け入れられているに過ぎない。小生もその末席を汚しているが、「ユダの窓」こそ理解の範囲を超えているが、「僧正殺人事件」、「Xの悲劇」、「樽」などは、確かに非常に面白かった。

ここで、小生のクリスティー読書歴に若干触れてみる。実は、「アクロイド殺し」を読んで、相反する二つの読後感を持った。一つは、こんな犯人、冗談じゃないと言うクリスティーに対する激しい怒り、もう一つは、そうであることで、まんまと騙され、完全にしてやられてしまったと言う自分自身に対する情けなさ。両方がない交ぜになって、以後、暫くの間、クリスティーから遠ざかっていたことがある。しかし、何が切っ掛けだったかは覚えていないが、久し振りに手に取ったクリスティーの正体が実は風俗小説作家であることに気付かされ、そこから再び熱心に読むようになった。ここでも極端を言えば、そこが、大変、面白くて、誰が犯人でどうやってやったかは、もうどうでもよくなってしまった。繰り返しになるが、クリスティーの最大の特徴は、単なる謎解き以上の魅力に満ち溢れていると言う一言に尽きるし、それこそが極めて広範囲な読者を獲得している最大の理由でもある。

最後に、本格探偵小説を読んで失望するのは、犯人、即ち、作家が無理に無理を重ねてでっち上げた犯行方法が、本当に実現できるものなのかどうかと言う疑問、そして、そのことに極度にかまけるあまり、物語りが疎かになって極めて平板なものになってしまうことなど、不満や失望を抱かせる例もあることだ。これでは、正に単なる作り物となる。ここにこそ、本格探偵小説が、クリスティー程の人気を勝ち得ることの出来ない最大の理由があるのかも知れず、一方、クリスティー好きの人にとって、世にいう本格探偵小説の史上最高傑作と言えども、いささかの興味をも抱かせない最大の理由があるとも言えるだろう。

(小田)はい、お好きです。

本と、HDに貯めているポワロ、ミス·マープルの映像と、(平井杏子著)「アガサ·クリスティを訪ねる旅」を比べて楽しんでいます。
私もミス·マープルの「バートラム ホテルにて」は、最後にホテルのメイドと刑事が仲良くなったりするTV版も好きです。このバートラム ホテルのモデルはロンドンの高級地区メイフェアにあるブラウンズ·ホテルかフレミングス·ホテルらしく、平井杏子さんはシオドア·ルーズベルト大統領が結婚式をあげ、アガサの姉も滞在したことのあるブラウンズ·ホテルに軍配を上げています。付近には日本大使館もあるようです。ロンドン駐在されていた児井様はご存知でしょうか?
松本清張、ダン·ブラウン、アーサー·ヘイリー等もきちんとしたストーリーで、引き込まれますが、背景か暗かったり、事件がグロテスクだったりで、私はやはり、アガサです。お勧めの「赤毛のレドメイン家」は是非読みます。
お返しに…… 三沢陽一著、「なぜ、そのウィスキーが死を招いたのか」(ウィスキーにまつわる短編ミステリー4編収録)はいかがでしょう。読んだことはないのですが、新聞に載っていましたので。
著者は東北大在学中に執筆を始め、「致死量未満の殺人」でアガサ·クリスティー賞を受賞しているようです。

(児井)小生もアガサは大好きです。彼女に限らず「推理小説」(映画化も含め)は数多く読み(観)捲くって来ました。

お尋ねのロンドン、メイフェアのホテルの件ですが、小生メイフェアの馬小屋を改装した小さな単身用アパート(?)Houseと称していましたが)に一年半ほど住んでいました。そこでブラウン/フレミング両ホテルについては名前だけは聞き覚えがあるような気おもいたしますが、前を通り過ぎるだけで、利用することも無く、何せ50年ほど前の事ですので、ほとんど記憶にありません。残念ですが、悪しからず。

余談ですが、一つだけ小生の自己紹介を兼ねてお話したいと思います。小生の遠縁に「兒井 英雄」(我が親父の又従兄弟に当たる)なる人物がおりました。当人は日活映画の大物制作者(producer)の一人で(後年映画界に多大な貢献をしたとして叙勲されております)、古くは「恋愛三羽烏」、近年は小林 旭の「渡り鳥シリーズ」等を手掛けていました。当人とは2,3度ほどしか会っておりませんが。一つだけ印象に残っていることは制作者は一種のギャンブラーではないかということです。と言うのは、作品が当たると家具を始め住居が宝の山となり、不作の場合にはそれらが一掃されてしまうからです。何とも因果な商売だなと思っていました。それはさて置きこの縁で当時の青春、活劇路線を奉ずる日活映画を数多く観て来ました。特に石原裕次郎の大フアンで彼の出演映画はほぼ全巻観ました。

(編集子)さすがわが師匠、スガチューの解説。何回も言うが、彼にそそのかされて小生がミステリに窓を開いたのは高校1年で同じクラスになって以来のこと。中学時代にはホームズ、ルパンは卒業していたが、これはむしろ世界名作文庫的な位置づけ(?)で読んだので、本格物第一号はクリスティと同時代の(本業は推理ものでは無い人だが)A.E.W メイソンの 矢の家 で、その次に読んだのがアクロイド殺人事件 だったと思う。それぞれ主張はいろいろだろうが、小生が 犯人の意外性という推理小説の第一義に感心した、という意味ではアクロイドについではウイリアム・アイリッシュの 幻の女 だった。このジャンルがアメリカで盛んになり、代表と言われるのがエラリー・クイーンとヴァン・ダインだと思うのだがこのあたりになると本家を意識してか、あまりにも込み入ったストーリーが多すぎると思う。その反動がこれも何度も書いたが、ハードボイルドミステリというわけだ。こっちなら小生も多少、話ができる気がするのだが。いずれにせよ、皆さん、ミステリを読みましょうよ!