テレビ番組で 新撰組血風録 を見たほうが早かったのか、燃えよ剣 を読んだのが先だったのか、今では判然としないのだが、この本が当時、サラリーマン生活に飽きてきてぼんやりとしていた編集子の毎日にとって、うまく表現できないのだがある種のカタルシスとなったのは確かだったと思う。その後しばらくは司馬遼太郎を読みふける期間が続き、日本史に興味を持たなかった自分に近代史の一面を知る機会をもたらしてくれた。そういう意味でも、この 燃えよ剣 はどうしても見なくてはならなかった作品だった。
幕末に日本に滞在していたフランス武官のブリュネとの対談、という形のイントロは意外だったが、映画そのものは司馬が創造した七里研之介という人物の取り扱いと、もう一人、作者の創造であるお雪との別れ方を除けば、土方のセリフまで含めてほぼ100パーセント、原作に忠実な映画化である。
その意味では満足なのだが、土方像となるとどうしてもずいぶん以前の話だが、テレビ朝日の放送番組 ”新選組血風録” での栗塚旭との対比をしてしまう。結果を言えば、今度の作品で岡田土方が徹底してバラガキ気質を貫いたのに対し、栗塚土方は原作にはなかった(と思うのだ)、陰影というか現実をシニカルにとらえた演技があった。また本作がカラー作品であり、明らかに海外での公開を意識した作りであったためか、池田屋事件の描写がそうであるように鮮血が飛び散った描写などがオーバー気味で、かたやテレビはモノクロであった以外に抑えた演出だったと感じる。土方の最後はセリフまで原作通りなのだが、最後の行動描写がなんだか西部劇の焼き直しのようで不満が残った。物足りなかった。この場面は別のテレビ番組(名前は定かでないが、たしか 土方歳三最後の日、というような単発番組だった)でのシーンが圧倒的だった記憶がある。
司馬原作では、七里研之介というキャラクタは徹底して悪役で、いわば添え物なのだが、この作品ではつなぎ役として最後まで登場する。これは土方との間に剣を通じて生じた一種の連帯感みたいなものを感じさせようとした結果(英語のサブタイトルが真の武士、という表現になっていることからの勝手な解釈)だと思うのだが、見る人によって評価は違うとしても小生には余計な配慮だったように思える。一方、原作にはない松平容保や一橋慶喜の懊悩の描写は全体のストーリー把握という意味ではよくできていると感じた。
肝心の新撰組そのものの描写ではテレビ番組のほうが(もちろん時間という制約はあるので映画のほうには同情すべきだが)はるかによくできていた。特に斎藤一とか、原田左之助といったメンバーのいくつかの挿話が思い出された。テレビではあまりあか抜けしない舟橋元がつとめた近藤勇像がいかにもそれらしかったのに対して、鈴木亮平が“バラガキ上がりの人物としてはスマート過ぎた。ただ土方との彼の別れ方、特に最後まで伸ばした小指が離れていかない、小さな演技が印象に残った。これはこのシーンの背景の設定(荒涼とした野原に刻まれた一本道)がよかったとも言えるかも知れないが。
見終わって、小生の偽らざる感想を言えば、岡田准一、健闘したがやはり栗塚土方には一歩、及ばなかった、といえるだろうか。
(注) 新撰組血風録は、小生のほれ込んだ栗塚旭の土方版【1965年】のほか、何回もテレビドラマになっている。上記した短編もの以外、小生は見ていない。一度、渡哲也版を覗いて見たことがあるが興味がわかなかった。本章で触れているのは、徹頭徹尾、1965年製作の作品である。