人間年を取るにつれてそれまでは気にも留めなかったことがいろいろ気にかかるものらしい。本稿でも何回か、若い人たちの間で使われる、いわば現代語、について書いたことがあるが、今回は コミュニケーション という英語(ま、準日本語と言っていいのかもしれないが)についてのいちゃもんである。
先日、巨人戦の実況をみていた時、回のあいまのベンチの映像を見て、解説者が文脈はよく覚えていないのだが、投手とコーチが何やら話し合っている画像につて、”・・・・・こういう風な場面に経験の深いコーチとコミュニケーションをとることが非常に重要である” 云々としゃべっていた。言おうとすることはわかるのだが、なんでこんな場合にコミュニケーション、なんていう言葉をつかうのか、いつもながら違和感があった。 ”よく話し合う” とか、”意見を聞いてみる”などといったほうが自然ではないのか。なにか コミュニケーション ということのほうが程度が高いとか、そんな程度のことなのだろうが、こういう場面によく出くわす。僕がサラリーマン人生、まあまあ人並みにこなせたのは、なんといっても早い時期にこのコミュニケーション、というものの真のあり方を叩き込まれ、武骨に実践してきたからだと思っているので、そのことについて感想を書く(関係ないが、先日、KWVOB会の竹原君から、小生の愚痴話をなんと ”天下のご意見番” と持ち上げてもらった。気恥しいけれどもそんなことになればこのブログもやっている価値があろうかというものだ)。
僕が就職をまじめに考えていた時期は、まだまだ経営といえばアメリカのほうが優れていて日本は遅れているのだ、というような風潮が支配的だったし、なんだかMBAなんてのがいるらしい、どっかで講習を受けた方がいいんだろうか、なんて時代だった。その頃、日本経営の問題点は、物事が論理的に解決されない、万事人間関係やありていに言えば親分子分仁義で決まってしまうことが多い。これは直ちにアメリカのようにきちんとしたフォーマルなコミュニケーションで論理的に解決するようにしなければならないのだ、という空気が支配的だった。小生は新聞記者になる、という夢に見切りをつけてからは、サラリーマンならどこでも同じだろう、位にしか考えずに家族的社風、ということで会社を選んだので、職場の雰囲気にせよ意思決定プロセスにせよ、そんなもんだろう、位で納得していたものだ。だから2年経って新進アメリカ企業として評価の高かったヒューレットパッカードとの合弁会社に移籍が決まった時は学生時代に理解していた、フォーマルコミュニケーションに基づいた論理一点張りの会社になるのだろうと思い込んでいた。ところが、移籍して間もなく、親会社から派遣されてきたマネジメントチーム(ま、占領軍司令部みたいなもんだったな)から、”この会社ではインフォーマルコミュニケーションを重視するのだ” と言われたときはただひたすらにびっくりしたものだった。これは会社の二人の創立者、ウイリアム・ヒューレットとデヴィッド・パッカードが卓越した技術者であると同時に事業を成すのは人間であり、お互いの信頼だ、という思想というか信念の持ち主であったからだ。
小生自身体験したのだが、初めてヒューレットと話をする機会にえらく緊張して ”Mister Hewlett…” と呼んだら、 ”Mister Hewlett is my father. I’m Bill” と言われたものだ。これに倣って、会社ではお互いを呼ぶのに一切肩書を使うことをせず、課長だろうが部長だろうがつねに ”鈴木さん“”田中さん” と呼び合うことになった。このことが真の意味でのコミュニケーション、という土台を築き上げたのはまちがいない。当時の生産現場は中学出たての少女たちがずらりと並ぶ、典型的なシーンであったが、そのラインの中から、”ジャイさあん、ちょっとおしえて!”なんて声がかかったり、社長の横河さんが月末の出荷時期になると搬送場へ現われて、”俺にも箱詰めぐらいやらせろ”と冗談をいったりという、僕にとってみれば浅貝の小屋の雰囲気のような一体感があった職場だったのだ。(僕は当然ながらジャイ、ジャイさん、であり、英文では Gi Nakatsukasa とサインしたから、HP社取締役会議事録のどこかに Gi という名前が、例えば President Shozo Yokogawa や、もしかすると David Packard 、などと並んで残っているはずである)。こういう全体としてのコミュニケーションを前提として、マネジメントは目的を示し、職員はそれに向かって自発的に動く、というのがこの会社の基本原理であった。技術という面ではもちろん世界水準を行く優良企業ではあったが、この経営思想と実践とがHPという企業の真価だったのだ。
話が少しずれた。言おうとしたのは、今気軽につかわれるようになった、コミュニケーション、とはなにか、ということだ。”Bill and Dave” の哲学で貫かれていた時代(とわざわざいうのは、同じ名前の会社はいまも存在するが。その実態は今では全く違った企業文化の企業に変わってしまったからだ)のHP社にいあわせ、そこで教わった定義は言葉だけでなく表情や感情や身振り手振りやそういうものすべてを通じて人と分かり合うこと、というものだった。だから、単なる情報が伝達されたからコミュニケーションが成立するものではない、ということを言いたいのだ。 ”詳しくはホームページを見てください” といえば ”コミュニケーションはとれる” のか。。
IT技術の展開によって、いろんなメディア(媒体という意味だ)が登場し、情報を正確に速く伝える、という部分は確かに出来上がった。しかしそれだけでは真の意味のコミュニケーションが成立したとは絶対に言えない。資料情報の伝達だけでなく、人間同士の間にのみ存在し感知し理解できるなにかが伝わって初めてコミュニケーションが成立したといえる。ホームページというのは確かに優れた情報伝達の手段ではある。しかしまず第一にそれが成立するには情報の受け手が自分でアクセスするというアクションがなければ絶対に機能しない。送り手の方がどうしても先方に、確実に、送りての感情もふくめて、とどいてほしい、という立場にあるのなら、ホームページに載せました、というのでは完結できないのだ。だから、”ホームページにのせました”というだけですませられないものが、いかにIT技術が発展した社会にあっても存在するはずだ。
本気で ”コミュニケーションをとる” つもりであるならば、” それにはそれだけの含みがあり意味があるのであって、ホームページにのせたからすむ、ということではないものがあるはずなのだ。