昨日の読売新聞に、かの 大間のマグロ の記事が載っていた。なんと ”一番マグロ” は2億円、1キロ当たり75万円だそうだ。先日、柄にもないがベートーヴェンにまつわる話題を提供した。音楽以上にわからないのはこの手のことだ。1キロ75万円、トロ握りにしていくらにつくのかわからないが、この味は1貫200円、なんていうマグロとそんなに違うもんなんだろうか.いずれにしても縁のない話なのだが、この記事でインタビューされた漁師さんのコメントが気になった。”本当に夢みたい。ちょっと高いけど、おいしくいただいてもらえればありがたい” という、まことに素朴だが心の籠った話だし、彼の心情はしっかりと伝わった。
だが、である。このコメントに一つだけ、言いたいことがあるのだ。それは いただいてもらえれば というところだ。彼は自分が釣り上げたマグロを食べてくれる人たちに感謝の気持ちを込めて、敬語を使ったのだろうし、そのこと自体にとやかく言うつもりはもちろん、毛頭ない。気になるのは、若い人たちの間で使われている敬語の中で、一番気にかかっているのがこの ”いただく” という動詞についてである。
少し以前のことだが、ある先輩のお宅にお邪魔して夕食をごちそうになった時のこと、夫人が ”どうぞ いただかれてください” と言われたのにまことに居心地の悪い思いをしたことがある。僕は言語学者でないから、間違っているかもしれないことをあえて言えば、”いただく” は 頂く とか 戴く というように、自分より上位のひとから受ける好意や温情などに対して自分の感情を表すときに添えるべき単語なのではないだろうか。この例でいえば、先輩からごちそうになる、ということに対して、その受け手である自分が使うべきものであって、その対象となるべき人、この例でいえば先輩夫人が相手にいただけ、というのはどう見てもおかしくはないか。このマグロの話も全く同じで、食べてください、という自分の行為を修飾する用語ではない。難しい理論は知らないが、80年を超える年月やってきた日本人の感覚でいえば、”食べてくれる相手” の行動にたいして敬意を払うのならば、その人の行為を修飾して、たとえば、召し上がる、というのが正解のはずだ。、
このような誤解のもとにあるのは、昨今の料理番組なのではないか、と思うのだが、その典型が ”・・・最後にソースをかけて頂きます” という言い方である。だって自分が作ったものを食べるんだから、なぜ 食べます ではいけないのだろうか。また、ペットを扱った記事や番組で自分のペットに ”たべさせてあげます” ”えさをあげます” というのか。これは ”食べさせます” ”えさをやります” ではないんだろうか。この用法が一般化して、食べる という基本的用語の活用系がすべて いただく に置き換わってしまったのではないか?
レストランで、何か複数のオーダーをしたとする。一度に出てくれば問題ないが、当然調理の都合などでデリバリが1回で済まないのはいわば当然だ。そういう場合、ウエイトレスがやってきて、確認をする。それは結構なのだが、ほとんどの場合使うセリフが ”ご注文の品、お揃いでしょうか” というのが当然のようになっている。客が何人かいるので、その人数が全部集まりましたか、と聞くならばこの言い方は正しい。そろうのは客だから、敬語を使うのは当然である。しかし注文された品を揃えるのは自分であって、この場合は ”ご注文の品、そろいましたでしょうか” というべきなのではないか。
古典落語というのか、耳慣れた話に登場して、なにか難癖をつける横丁の旦那。おれもそろそろその年齢なんだろうか?