”どうして日本人はこうなんだろう”

いわゆる有識者とかその道のエキスパートとして知られる人たちが、日本の現状を先進諸国特に西欧社会のそれとを比較して論じることがよくある。たしかにそうだなあ、と納得する議論も多いが、中には(そんなに自虐的に考えるこたあねえとおもうがなあ)という論調も数多い。(日本では)(だから日本人はダメなんだ)(先進国では)といった議論である。これらの弁士を称して 出羽守 という。”日本では” と言い、決まって ”どうして日本人はこうなんだろう” と終わるからである。

昨日、度々引用するが読売新聞のコラムで、この (どうして日本人はこうなんだろう)というフレーズがきわめてポジティヴな意味で使われているのを発見してうれしくなった。いま国民的同情を集めている能登地震に関連してのトピックで、かつて不運にぶつかった東日本大震災のとき、救援に駆けつけてくれたスタッフに、救出された老人が、”ご迷惑おかけしてもうしわけありません” と言った、というエピソードである。また本欄でも一度紹介したが、同じような場面であわてて逃げだしたので、料金をはらっていなかった、すみません、と混乱の真っ最中に食事をしていた店に戻ってきた人がいた、という話もあった。

また、能登の震災とほぼ同時に起きた羽田の日航機から、全員が無事救出されたという事には、全世界から驚嘆の声があがっているという。インターフォンが使えず、一部のドアは使えない、という異常事態を見事に乗り切った機長以下のスタッフの沈着な対応も見事だったが、”荷物は持たないで、あわてないで” という指導にきっちりと対応した乗客の態度もまた賞賛されている(この部分の映像も見て感動した)。今まで同様の事故は海外でも何度か起きているが、いずれも我勝ちに荷物を抱えて脱出するひとびとで大混乱がおきていたそうだ。此処で、読売のコラムは言うのだ:どうして日本人はこうなんだろう? と。嬉しい疑問ではないか。

僕はこの ”どうして” の解答は、我々が子供のころから無意識に植え付けられている、けじめ、という感覚なのではないか、と思うのだ。日本という国では、個人と社会とのかかわりあいの濃密な関係を大切にする。そこには西欧文化の言う意味での個人主義とは異質の、”自分”という個人と全く同列に ”あの人も個人” という感覚を重視する。そこには自分と他人のあいだにはっきりしたけじめ、という意識が生まれる。だから、自分のために危険を冒してくれた、その個人に対して、”迷惑をかけた” という意識が生まれるのだろう。

”人様に迷惑をかけない” というロジックを、個人の尊重をないがしろにするものだ、という批判にすりかえてしまう論調をよく聞く。この議論は突き詰めて言えばなんでもかんでも自己第一、という議論になる。燃え上がる飛行機からの脱出にどうしても自分の荷物だけは持ち出したい、という動機になり、支援物資が届けば我勝ちに持ち出したり、日本では絶対に見ないことだが略奪行為になったりするのではないか。

最近、健康維持と称して早朝、甲州街道を歩く。京王線にしてふた駅分歩いてそこから電車に乗って帰る(5年くらい前までは往復歩いたのだが)と、ちょうどいわゆるラッシュアワーに差し掛かる時間帯になる。サラリーマンの皆さん、ご苦労様、という気持ちなのだが、どうも最近、そういう雰囲気があまり感じられないのだ。なぜだ、と考えてみて、周りの人たちが実はそうなのだが、それが僕らのイメージにある ”サラリーマン” 風でないのだ、という事に気がついた。ネクタイを締めてカバンを持って、というのが僕らのイメージなのだが、そういう人たちも今やネクタイなぞはしめず、ラフな、と言って悪ければスポーティな格好にザックを背負っているのだ、という事である。この風潮はコロナ下で必要に応じていやおうなしに始まった自宅勤務というか ”リモート” モデルと軌を一にした現代改革なのだろう。時間や通勤スタイルなどに関する自由度を増す、という意味ならばまことに結構だし、僕自身、ネクタイなんかは嫌いな方だったから、納得は出来る。しかし片や、現役真っ盛りの息子なんかを見ていると、スマホに追いかけられ、世界のどこにいても電話が追っかけてくる現実は確かに効率はいいだろうが ”個人” と ”社会” とのあいだにあるべき ”けじめ” がつくのだろうか、と心配してしまう。この事象はもちろん世界的な現象であって、出羽守に説教されるまでもないのだが、僕には今回の読売のコラムが使った意味で、(なんで日本人は) と言われれなくなる日の来ることが恐ろしい気がしてならない。.

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