情報の氾濫について―赤阪氏の論評を読んで

安田君経由で赤阪清隆氏の論評を拝見する機会があった。同氏の幅広い御見識には膝を叩いて同調することも多くあった。特に日本という国、というか日本人、が西欧文化の基本にある自己主張という事が苦手であること、は外資系会社を全うしてみて身に染みたことであったし、同氏のご意見には100%同意するものだ。そのために、英語で考えなおかつ日本人の心情を理解し発信する能力を持つ人の少なさを憂慮されることもその通りだと感服する。

同氏はこの点から論点を現代の情報発信のありように転じ、新聞というツール(メディアという用語が正しいのかもしれないが、論点がボケないように道具、という意味でこの語を使うことにする)の衰退、新しいインタネットやSNSの興隆にとってかわられつつある現状について述べておられる。若くして新聞記者を志したものとしてかなり複雑な心情であるけれども、この点についても同氏のご指摘は認めざるを得ない。このことは新聞ということに限らず、若者の活字離れというか本離れという別の要因から起きている現象と共鳴して起きている問題だと思う。

文字離れ、という現象は日本だけでなく世界規模で起きているわけだが、漢字文化圏すなわち日本、韓国、中国においては、”文字離れ” が引き起こす混乱はアルファベットしかない西欧圏の場合より、はるかに大きな問題であろう。漢字という記号が持つ、それ自体が表意文字であるがゆえに果たす機能が、“読まない” という行動によって破壊されてしまうと考えるからだ。”あおい” というコトバがアルファベットというか表音文字としての機能だけでとらえられ、”読む” という動作がなくなれば、それを漢字で書いた場合に ”青い” のか ”蒼い” のか ”碧い” のかはたまた ”藍い” のか、その単語そのものがもつニュアンスが伝わらなくなる。その意味で、”文字離れ” という現象が持つ意味は西欧社会の場合よりも深刻なもののはずだ。このことを単に 最近の若者は文字を読まない、困ったもんだ、という程度の関心ですませてよいものなのだろうか。また、情報が本や新聞というツールによって広まった時期から、ラジオというメカニズムを通じて耳から拾われる時期を、さらにテレビの普及によって、イメージがそのまま解釈される時代になった。そして今やインタネットによって個人が発信する情報のツールもまた、文字でなくイメージで送れるようになり、情報伝達のツール の変革については今やだれも否定できない現実になった。

此処までは赤阪氏のご指摘、問題意識に大いに納得する。しかし、同氏が結論的に指摘される、このような変革によって、個人がいろいろなツールを使って情報発信すること、それがこれからの情報社会を形作る、としておられることに小生は違和感を覚える。

赤阪氏がいわれるのが、”ツールが変わり、個人の情報発信が変化していく“ という事実の確認であればその通りだと思うのだが、この社会現象が ”文字を読まない、新聞を読まない“ という現実を(やむを得ずであろうとは推察するが)肯定というか黙認しようとしておられるのではないか、という不安を持つ。

新聞、ラジオというメカニズムを通すことによって、雑多な情報はある方向性を持った形で伝播する。ここでは新聞なりラジオ局なりの意見が反映されるから、個人の発信する個々の情報とは同一ではなく、その機関の意向が常に正しいという事はあり得ない。しかし個人個人が自分の解釈だけにもとづき、また悪意がある場合には捏造を含めて、情報を散布するということの恐ろしさを我々はもっと真剣に考慮すべきではないか。以前、本稿で大衆社会という、かつては社会学者の間で現代社会に混乱をもたらすであろう帰着として危惧されていたことがすでに現実化しているのではないか、という不安について述べた。政治形態として民主主義を基盤とする国家は、その基本思想のゆえに衆愚政治となりえる危険を避けられない。この冷酷な事実に重ねて、”文字を読まない“ 現象が高まってゆけば、社会は方向性や倫理性を欠いた情報の氾濫に支配されてしまう衆愚世界に堕落するであろう。

赤阪氏のご指摘は今起きている社会現象の説明として誠に正しいと思うのだが、その結果をいわばただ楽観的に、というか直線的に、個人の情報発信のもつポジティヴな面のみを強調されているのではないか、という印象を持ってしまった。すでにいろいろな局面で起きているフェイクニューズの氾濫をはじめとする諸問題にどう対処していくのか、ということについてのご見解を期待したいのだが。