日本での英語教育について (2)

英語教育はどうあるべきか、という投げかけに対しては何人からご意見を頂戴している。また数日前には読売新聞に関連した記事が出た。非常に幅の広い話題なので、いろんな視点があるのは当然なのだが、小生にはどうしても賛同できない点がくり返し現われる。それは 我が国の英語の普及率がほかの国より低いから英語教育に力を入れなければならぬ、という論説である。

物理的に他国と国境を接する欧州では、母国語以外の言語に接する機会は日常事であり、万能的な言語に対する要求度はわが国の様な島国とは比較にならないくらい高いだろう。その初めての試みだったエスペラントは普及せず、第二次大戦後英語が事実上の共通語になったとき、英語に対する障壁は非常に低かったはずだし、特にドイツ語は言語の構造自体、親和性が高い。大英帝国の属領だったアジアアフリカの諸国では、英語が半公用語化しているわけだから、その普及率は鎖国時代が長かった我が国よりはるかに高くて当然だろう。そういう歴史的背景を無視してまでこの普及率の高い低いを議論することに意味があるのだろうか。

その普及度合いというものがどうやって測定されるのか、具体的な方法は知らないが、かりに ”英語を理解できる人間の数を総人口で割った百分値“ と仮定してみよう。

そうするとまず ”英語を理解できる人間” の定義が必要であろう。この”英語の理解“ というのが英語を読むこと、に限定してしまえば、我が国の大学卒業者はともかく10年間は何らかの形で英語に接しているわけだから、程度の差はあろうが、ある程度のレベルは想定できる。しかし問題にする ”日本人の英語能力“ とは、これにとどまらず、今回の話題の提供者である下村君の問題意識から言えば、国際社会において、現実的に世界語である英語を駆使してほかの国々と対等に議論し交渉し成果を上げられる能力、すなわち会話力(小生はこれにプラスアルファが必要、という論者だが)であろうと考える。そしてこの”会話力“ の内容として小生は下記のレベルわけには説得力があると思っている。

 

  1. Survival Level

きわめて基礎的な、タイトルの暗示するように “なんとか生きていくのに必要な”会話能力。My name is Taro とか Where is the toilet ? などのレベル。

2.Tourist Level

パッケージツアーで出かけた先で、たとえばレストランで注文ができ、ショッピングも必要な範囲で可能。

3.Business level I

企業で働く人ならば、自分が担当する業務について、必要な情報交換とか、必要な要請ができ或いは先方の要求を理解できる。この分野では、図面や配線図など世界で通用するツールがある技術者のほうに利があるだろう。

4.Business level II

自分の専門分野だけでなく、企業人ならば会社全体を代表する立場での交渉や外部でのプレゼンテーションなどができ、現場で質疑応答にほぼ完全な対応ができる。

5.Social Level

特定の話題に限らず、その国固有の文化・歴史などに基礎的な知識をもち、一般の社会生活場面に問題なく対応できる会話能力を持つ。

6.Bilingual

日本語と全く同じレベルで会話・思考・行動ができる。

この分類を前提にすると、下村君が提起したグローバリゼーション時代に日本人が持つべき英語力とはどのレベル言うのだろうか。その時の “日本人” とはどのような人達を指すのだろうか。日本の英語教育はどうあるべきか、という議論はこの二つの面を確定してからの話であり、単にほかの国より水準(それ自身定義が明確でない)がどうだからといった議論は、そのどこかに(英語をわかることが教養の有無をあらわす)というような、なにかといえば横文字のいうことをありがたがる文部省の役人的発想があるのではないか。

自分の能力を自分で測定する、という事に意味があるかどうかわからないが、議論の参考として挙げると、小生は自己の能力はBnusiness Level II だと思っている。在職中に交際の範囲を広げ、渡米の機会があるたびにいろいろなシーンを積極的に摂取しようと努力はしたし、仕事で英語に触れる機会が無くなってからは会話學校には結構真面目に通ったほかに、語彙や会話のニュアンスをとにかくめったやたらに読むことで増やそうとポケットブックの乱読を継続してはいるが、Social Level への到達は道遠し、という感覚である。

この論議のプロセスとして、次にどういう範囲の日本人がどのレベルの能力を必要とするのか、という過程を議論するのが順序であろう。すでに安田君などからはこの点についての指摘もあったが、改めて意見を聞きたいと思う。小生の場合、アメリカ企業が日本に作った環境での話だが、5000人規模、製造工場と日本全土(輸出については全世界市場)を顧客とした、いわば製造業としては典型的な企業において、日常の業務にあっては、英語での会話(当時すでにHP全世界の事業所で担当者同士内線電話で話し合える、国内ではまず実現していなかった、最先端のインフラがあった)が珍しくない環境にあっても、英語会話のレベルは特殊例を除けば、Business Level I くらいで問題なく機能していた。発足当時は通訳を常駐させてマネジメントレベルでの活用を図ったこともあったが、一年ほど経過したのち、当時の社長の、”エーゴができるのが目的じゃあねえんだ、コトバが通じなきゃ手でも足でも使え!“ という一言でいわゆる通訳という職種はいなくなった。エーゴができるんじゃなく仕事ができることが問題なんだ、という意識が全社的に確立された。管理者レベルでは、家族の都合で米国暮らしだったが日本で大学を卒業し兵役まで務めた二重国籍を持つた男がひとりのほか、外語大で英語専攻の、横河電機時代は殆ど米国駐在だったというSocial Level/Dual Language レベルが二人いただけだった。小生は当時、この二人のレベルは不可能だが、もう少し、高度の話ができる(本稿の用語でいえばつまり Business Level II ) にはなりたいもんだと思っていた。このあたりで起きたことは次稿で参考までに書かせていただく。

他方、いくつかの(先進、ということを売り物にしている)日本の有名企業で、グローバリゼーションを果たすために、という社長の一言で役員会の公用語を英語にした、という話がいくつかあった。小生、断言するがここの役員たちは会議の後、そっと、(それで、あれってどうだっけ?)という会話を交わしていると思う。形だけにこだわってみたところで会社が “国際化” するわけではないのだ、というのが今回の結びである。