image_pdf

冒険小説への招待

”アメリカ人が冒険小説を書くとハードボイルドになる”ということがいわれるが、これが単に文体とかスタイルのことをさすのか、作品の本質をいうのかはよくわからない。ただ、島国として常に海洋と向き合ってきた単一民族イギリス人と、内陸開拓に邁進した多民族国家のアメリカ人とでは、”冒険”ということの本質が大きく異なっていた(きた)のではないだろうか。いろいろな理屈を考えて美化をしてみても、双方とも弱肉強食、他民族の征服の結果今日があることに相違はない。ただ確固とした社会通念と階級社会が存在し,騎士道精神というものを誇りとするイギリス人にとっては、その”冒険”の結果を単に物質的な利益のみならず大英帝国の威厳ということに帰結させる意識が常にあったように思えるのに対し、先住民族を殺戮することによって得られる物質的利益のみが、ありとあらゆる背景を背負ってこの国にやって来た異文化人をつなぐ唯一の共通項であったアメリカ人の”冒険”とでは、社会的、文化的な背景が大きく違ったのではないだろうか。

”大西部”の征服が終わり、太平洋に顔を向ける時代になっても、銃のみが共通言語であり、金銭的成功のみが社会的地位を決めるという文化、その結果として人々の間に生まれた一種のニヒリズムはアメリカ社会にそのまま残っただろう。このような社会にあって、”冒険”とは国の威光とか騎士道精神などといったものは無用の、常に実利を求めることに他ならなかったはずだ。この大変動の結果に生まれた西部の諸都市、特にゴールドラッシュの中心であったサンフランシスコ周辺において、それまでの汎欧州的文学に対抗して、いわば無頼の匂いをただよわせる”ブラックマスク派”の文学が生まれ、ハードボイルドへ展開していったのはそういう意味で当然だったように思えるし、そのような環境の中ではここで議論する意味での”冒険”ということに価値を見出す機会もなかなか生まれなかっただろう。そのあたりが識者をして”アメリカ人に冒険小説は書けない”といわしめたのではないか、というのが僕の論点である。

知識不足と論理の飛躍を承知でいうと、このような環境に一石を投じたのは、僕らの時代では”レッド・オクトーバーを追え”だったのではないか。アメリカが世界をリードしている軍事技術をテーマとする、という発想がこの後から続々と新しい作家作品をもたらしたことに間違いはない。ヨットを操ってひとり大海に挑む、という発想から、軍という巨大組織が活動する大規模なオペレーションの中での個人の物語、というあざやかな展開の中に、”アメリカ人の冒険”が位置づけられたのだ。トム・クランシーの軍事オタクぶりには多少抵抗もあって、この本を読んだ直後、仕事仲間の一人が米海軍で潜水艦の艦長だったことを知り、この話はどこまで信用できるのかたずねたことがある。詳しいことは忘れてしまったが、彼はある一点をのぞいてはクランシーの話は全く誤りがない、これは本物だ、と保証してくれた。それで一気にクランシーファンになってライアンものを次々に読んだ。クランシー作品は何本も映画になったが、やはり”レッド・オクトーバー”が一番躍動感があって面白かった。ライアンが少しハンサムすぎたのが難だが、007とは大違いの重厚さがあふれたショーン・コネリーもよかったし、サブキャラクターではスコット・グレンが印象に残っている。

前述した北上次郎は、現代の冒険小説作家は”70年の壁”というものを経験したのだという。米ソの対立が激しかった時代はそれを中心とした物語や人物造形(典型的な例が007シリーズ)ができたのだが、それがなくなった後の設定が非常に難しくなった、ということを指すらしい。クランシーが作り出した軍事技術もの、というのがもしかするとその”壁”を破壊したともいえるのかもしれない。

クランシーの成功のあとの大きな転換点として、ステファン・ハンターのボブ・スワッガーのシリーズが出て来た。退役したスナイパーの個人中心の話であり、軍事ものとは思えない心理描写も優れて、僕の定義による”ハードボイルド”に数えてもいいくらいのものだ。ただこれもやはり第一作が一番よく、最近の作品は無理してシリーズ化しているせいか、あまり感心するものがない。映画”極大射程”は原作に忠実だが、主演のマーク・ウォルバーグのアクションばかりが目立ちすぎな感じがして、僕のイメージする冷静なスワガーではなかったように思われる。銃器に関する描写は精緻でそれだけでもマニアには歓迎されたのではないか。

相前後していろんな軍事もの、FBI・CIAものなど、かなり乱読した結果、現在のお気に入りはリー・チャイルドの”ジャック・リーチャー”シリーズである。第一作”キリングフロアー”に引き続き、”アウトロー”など、このシリーズは現時点までで合計13冊だが、すべて原文で読んだ。文体論議になってしまうが、原文で読めた理由は”わかりやすい英語で書かれている”の一点に尽き、実は僕が”ポケットブックを3万ページ読む”

という”冒険”に乗り出すきっかけになった。その後、翻訳があまりでてこないが、そのうち2作が映画化されていてトム・クルーズの当たり役になるのではないかと思っている。

”軍事もの”のとなりにあるのがスパイもの、謀略ものといえる。007シリーズはあまりにも娯楽的で、”冒険小説”に入れるのはどうかと思われるが、フォーサイズの”ジャッカルの日”や”戦争の犬たち”、映画も素晴らしかった”オデッサファイル”も面白かった。相前後するころに流行ったのがロバート・ラドラムだが、何しろ筋立てが複雑で登場人物を理解するのが大仕事だった。複雑な割には僕にはジェイソン・ボーンシリーズ以外、あまり印象に残るものはないのだが、このシリーズは映画化したものもマット・デイモンがはまり役で楽しく見た。最近はデイモンが変わってしまって残念だが。

軍事もの、スパイものなど、大組織を背景にした作品とは違って、アメリカ人好みの一匹狼的人物が登場するのがデヴィッド・バルダッチのシリーズであるが、あまり翻訳を見かけない気がする。ほかには最近はマーク・グリーニーの”グレイマン・シリーズ”というのが人気のようだ。大組織が出てくるのは同じだし主人公がその組織に追われるという設定はラドラムのボーンシリーズに似ているが、どうも二番煎じの感を免れず、あまり気に入ってはいない。

ここまで書いてきて、大変な事を書き忘れたことに気がついた。冒険小説論議がまた後戻りするのだが、”これぞハードボイルド”と言わせる二人の事である。一人は冒頭に名前だけ触れておいたがジヨージ・ペレケーノス、もうひとりはごく最近あらわれたジョン・サンドロリーニ(John Sandrolini)という人である。ペレケーノスのほうはかなり登場は古くて、翻訳されたものも沢山あるが、サンドロリーニのほうは第一作が”愛しき女に最後の一杯を”というえらく長いタイトルで出ている。

現題は  One for our baby といたって短いのだが、翻訳者のほれこみようがうかがえる気がする。 第二作はまだ翻訳を見かけないが、”My kind of town” で、同じ主人公の設定である。この2冊はアマゾンで原本を入手して一気に読んでしまった。ただリー・チャイルドの場合と違って、イディオムやスラングが多く,週1度通っている英会話スクールへ持ち込んでインストラクタを質問攻めにしたこともあった。物語の設定としてあのフランク・シナトラがサブキャラクタで登場するのはご愛敬だが、まさにチャンドラーを彷彿させる傑作だと確信して、次を心待ちにしている。実に素晴らしい。

話を戻す。僕が読んだ”アメリカ人の書いた冒険小説”はここにあげたほかは伝奇ものめいたものが多いクライブ・カスラーくらいで、ほかにもミステリー系はたくさんあるのだが、ストーリーの面白さといった表面は別にして、印象に残るという意味では、”冒険小説”というジャンルに関する限り、”イギリスもの”に太刀打ちできるような作品にはまだ出会っていない。一番初めに仮説をたてたわけだが、やはりアメリカという文化に”冒険”というテーマはしっくりこないようだ。したがって僕の乱読リストにもイギリス人によるものが圧倒的に多い。先回書いたことと重複するが僕の遍歴を書く。

 

まず、大御所とでもいうべきなのがアリステア・マクリーン、かの”女王陛下のユリシーズ号”の著者である。これはHBミステリにおける”長いお別れ”に匹敵する、冒険小説の古典的傑作であり、翻訳もすばらしく、冒険小説というジャンルを離れても特記されるべき傑作だと思っている。映画にもなった”ナヴァロンの要塞”と”荒鷲の要塞”も同じ第二次大戦ものだが、”八点鐘の鳴るとき””黄金のランデブー”のような、本来の海洋冒険ものもある。

マクリーンと並び評されるのがデズモンド・バグリーで数多くの作品が日本でも広く紹介されてきた。中でも僕のお気に入りは”敵”と”ゴールデン・キール”、それと”バハマ・クライシス”。特にあとの2冊は爽快さを満喫できる、本来の”冒険小説”で、きざってみれば、デッキチェアでジントニックなどやりながら読むのに楽しい部類である。

日本のややハイブラウな(と自称している)読者に人気があるのがギャビン・ライアル、特に”深夜プラスワン”が、”ユリシーズ”と肩を並べる傑作だといわれている。ほかにも”ちがった空”とか”もっとも危険なゲーム”など多くの翻訳がでているがどうも爽快感にかけるようで、あまり僕の好みとは言えない。

筋書はともかく、本流ともいうべき大自然相手のスケールの大きいものはハモンド・イネスにとどめをさす。うるさいことを言わずにただイギリス流冒険小説、と言えばこの人の作品になるのではないか。”銀塊の海””大氷原の嵐””失われた火山島””蒼い氷壁”など、代表作のタイトルを並べるだけでも作風の想像はつく。ただ僕の読んだのは”メリーディア号の遭難”〝特命艦メデュ―サ”の2冊だけであるのであまり多くを語る資格はない。

イギリス伝統の海洋小説といえば英国海軍の伝統に関する”ホーンブロワ―シリーズ”とかそのほかのものが有名だが、僕は全く読んでいない。この系列かどうかわからないが、さすがブリティッシュネイビーと名高い国だけあって、第二次大戦ものにしても圧倒的に海軍さんのものが多い。ニコラス・モンサラットのThe Cruel Sea という大作は感動的だった。

余計なことかもしれないが、ここに挙げた作品は多くがだいぶ年期が入っているので新刊を買うのは難しいけれども、ブックオフで探すとハヤカワ文庫の中古本がたくさんあり、同好の仲間がいるんだなあと妙なところで嬉しくなる。大体100円前後で買えるし、是非お勧めしたい。原本に挑戦する場合はやはりアマゾンが便利だが、新宿高島屋に隣接する紀伊国屋書店は今までの新宿通りの店に比べてずっと在庫も種類も多いようで、立ち読みの楽しみが増えた。読書の秋を迎えて、”年甲斐もなく”冒険小説にカタルシスを見出す仲間が増えることを希望する。

妙高・火打    (50 実方・丸満・増田)

先の斎藤君の記事にふれてあった残雪期妙高の記録です

妙高・火打  2017年5月3日-5日

同期の丸満、増田と比較的安全な連休の雪山はどこかと検討の結果、60年卒笠原くんのアドバイスをもらい妙高・火打に行きました。

5月3日

快晴8:00前泊の増田、実方と長野駅で丸満と合流し実方車で笹ヶ峰へ。駐車場の周りは1m以上の積雪。10:00アイゼンを装着して出発。黒沢橋からは沢筋を進んで富士見平の上で稜線に出る。間違えたらしい。14:35高野池ヒュッテ着。積雪3m以上。早速の缶ビールは期限切れで空き缶持ち帰りということで300円。夕食はカレー&ハヤシで毎日同じらしい。夕食時、あれっと思ったらなんと57年卒篠原に遭遇!何でここにいるんだ!

5月4日 快晴

7:00毎日同じという中華丼の朝食後、篠原と合流し妙高に向け出発。大倉乗越はかなりの急斜面で怖かった。夏道と違い長助池まで下って北西側の沢筋をつめて北峰稜線に出る。ここも急斜面。10:10北峰着。南峯をピストンして北峰直下の鞍部で昼食。11:30下山開始。大倉乗越は雪崩の痕跡があり慎重に登る。黒沢池ヒュッテで本日下山の篠原と別れた。14:00高谷池ヒュッテに戻る。

5月5日 快晴

7:00中華丼の朝食後出発。天狗の庭から雷鳥平まで長いトラバース。そこから直登。危険個所なし。8:20火打山頂着。若き山ガール(写真参照)と写真撮影し、この上なく幸せなひと時を惜しみつつ下山。9:50荷物をまとめて高野池ヒュッテを後にする。12曲がり手前でルートをそれて急斜面をトラバースしたが雪が軟らかく危なかった。12:40笹ヶ峰登山口着。長野に出てこの日は後泊。いきさつは別にして遭遇した篠原と奥様を交えて、丸満が食材を卸している居酒屋で会食。

3日間快晴、嬉しかった篠原との遭遇、ほんとの山ガールとの出会い、と最高の連休登山でした。

会津駒・燧  (50 実方・丸満・増田)

会津駒・燧  2017年10月7-9

いつもの丸満、増田との秋プランです。

10月7日 雨

午後東京を出て桧枝岐の民宿に前泊。

夕食のイワナの刺身は初めてかな。

10月8日 晴

5:20民宿のおばちゃんに滝沢登山口まで送ってもらう。林道わきの駐車しペースはすでに満杯。  5:50出発。ガスっていたのがだんだんと晴れて、駒の小屋に着いた時には青空と360度の素晴らしい眺望。8:50駒ケ岳頂上。すぐに中門岳をピストン。中門は湿原の中であれっここがピークみたいなところ。10:30駒の小屋で昼食後キリンテに回るコースをとる。上越国境のようななだらかできれいな稜線を気持ちよく歩く。大津岐峠からキリンテに下る。予想以上に道が整備されていて非常に下りやすかった。14:15キリンテ着。バスの時間が中途半端だったので民宿のおばちゃんに迎えに来てもらった。休憩入れて8:25、コースタイムを大幅に短縮。 意外といけるねと自画自賛で得意(^^♪)。

10月9日 晴のち曇

4:40民宿発。尾瀬御池から5:30のバスで沼山峠へ。6:05出発。尾瀬ヶ原までのゆるやかな木道を下り、長英新道に入る。緩やかな登りからだんだん急になる。ガスっていたのが稜線に出るころから晴れてきて、曇りの天気予報に反して幸運。 9:40爼嵓着。昼食をとって柴安嵓をピストン。10:45御池に向かって下山。この辺からまたガスってきてなんて運の良いこと。12:50御池着。御池ロッジで入浴し帰路に就く。東北道は3連休の最終日なので想定通りの渋滞。加須で反省会。丸満は帰宅。  増田、実方は泊まりで翌日帰宅。

今回も晴れ! 桧枝岐の民宿も良かった。民宿泊まって、温泉入って、お土産買って、それぞれでスタンプもらって2000円のキャッシュバック!

得したような気が。。。

渡辺君へ     (36 中司)

私の三国山荘    (現役4年 渡辺眞之)

不肖ながら山荘委員長を務めるまでに現役の中でも一番の山荘漬けとなった私だが、初めて山荘を訪れた時はとにかく拍子抜けだった。普通部から山岳部に所属していた身としては山荘と言えば慶應吾妻山荘であった。数時間歩くと林の中から三角屋根が顔を出し、ストーブを囲みながら管理人さんお手製の食事を頂いた思い出を胸に新歓山荘に行こうとした。しかし先輩からは私服集合、バスで移動、BBQなどとても山とは思えない単語しか並んでいない。着いてみれば別荘のような佇まいの一軒屋。第一印象は合宿所であった。それ以降も山荘祭でBBQをしたり出し物をやったりと、当時はその程度の認識だった。

山荘に対する思い入れが出来始めたのは、初めてワークキャンプに参加した時からの様な気がする。手違いで鍵が出ておらず、町の服装のまま11月の寒風吹く山荘の庭で夜を明かすことになった。しかし少数精鋭で山荘を手入れして美味しいご飯を食べる雰囲気がいたく気に入ってしまい、以降のワークキャンプにも出るようになった。

山荘に打ち込めたもう一つのきっかけは山スキーだ。合宿やフリープランの体系がベースキャンプ集合型から少人数パーティー型へと変わり、また夏の活動においてはBC地を築く必要がなくなっている。上越には新人育成で毎年お世話になっているが、一方山荘へ立ち寄る時間や意義は中々生まれない。ところが山スキーはゲレンデ練習やシール練習において反復訓練を要し、BC地の存在は今でも重要だ。これらの背景もあり、現役にとって山荘の山荘たる使い道は専ら雪上訓練のBC地という考えが主流だ。山荘委員長の出自が殆ど山スキー組、そうでない場合でも雪山経験者から生まれている傾向からも、現代の山荘愛の生まれどころが山スキーにあるのはあながち間違いではないと考えている。

さて、来年は山荘建設から60年を迎えることとなり、今年の山荘祭は前年祭の様な立ち位置となった。今年の山荘祭は周年祭直前ということで、ワーク&クラフトを主題に山荘整備をする運びとなった。特に庭を掘って作った排水溝と旧道清掃は大先輩のワークキャンプには及ばないものの相当な労働となり、現役は終始汗を流しながらワークをこなし、屋外環境は大いに改善され、来年の周年祭はよい状態で迎えられると確信できるほどの結果となった。来年度以降ますます山荘が盛況となるよう今後も努力していこうと思う。今週末の雪囲いワークキャンプが楽しみだ。

(1年部員の伊藤主峰が撮影した今年の山荘祭うちあげの写真を掲載しておく。小屋の見かけは変わっても雰囲気はずうっと変わっていないのではないかと思う)

 

さらば愛しき女よ    (36高橋良子)

黄金の15年へ  (51 斎藤邦彦)

KWVを(大学を)卒業して41年が過ぎました。卒業後、子供達が小学生の頃までは時々家族で山歩きを楽しんでいましたがその後ほとんど山に接することなく仕事に(職場関係のつき合いに)どっぷり浸かって年を重ねてきました。KWVとの関わりも卒業30年目に連合三田会の世話役年次に日吉の講堂前で幹事をした程度で何の貢献もできず過ごしてきました。

一昨年あたりから同期の間で「春ワン・秋ワン」の世話役年次が回ってきそうだという話が持ち上がり担当できるかどうかの相談を始めました。取り敢えず「春ワン・秋ワン」の幹事役を51年度卒業組で引受けることにしたものの私個人的には体力に全く自信はなく昨年春から精力的に山歩きを再開し「山慣れ」に向けて取り組んでいます。毎月のように山歩きをし、年末には三国山荘の越年祭に参加し雪の三国山とムラキに登ってきました。

私は現在64歳で来年6月にはサラリーマンを卒業する予定ですが同期のメンバーも次第に仕事から離れようとしています。先輩方から伺うと「これから同期の集まりが増える。」「黄金の15年が始まろうとしている。」と楽しそうなお話が多く今後に希望が持てます。

同期の間では取組みの当初は半ば義務的に引き受けた「日帰りワンデルング」幹事でしたが、卒業後あまり交流のない友人も次第に輪に入るようになり、在学中に退部した人の再加入もあって同期も14人に、さらに秋ワンには11人が参加するという今回の最多勢力になってきました。秋ワンも具体的な準備段階になると結構気持ちが高揚します。

今回感じたのですが、我々はKWVという継続する大組織の偉大さと不思議な魅力と年齢的な活動タイミングの良さを併せ持った「洗練された仕組み」を享受しています。多くの先輩方が培ってこられたこの組織・運営体制・企画力等に改めて感謝いたします。

 

妙高・火打 山行記  (51 斎藤邦彦)

妙高山周辺はスキー場には何回か来たことはありますが、妙高山には登ったことはありません。今回登った「妙高山・火打山」は50年卒業の丸満さん、増田さん、実方さんの3人が今年のゴールデンウィークにアイゼンで登った記録がfacebookにあり、紅葉の季節には行こうと同期の五十嵐君と計画していたものです。健脚の登山者は一日で歩くとも言われる行程ですが、我々はのんびり登山が信条なので3日かけて歩きました。

◆1日目◆10月8日(日)◆歩程3時間35分◆

東京駅7:20⇒(新幹線かがやき503号)⇒8:43長野駅⇒9:00⇒(レンタカー1時間30分)⇒10:30笹ヶ峰登山口(1300m)10:50⇒(1時間)⇒11:50黒沢12:00⇒(1時間40分)⇒13:40富士見平14:30⇒(50分)⇒15:20黒沢池ヒュッテ(宿泊)

・深田久弥が日本で一番美しい高原の一つと称した「笹ヶ峰高原」から入山、天候は快晴。登山口からほどなくブナ・ミズナラ・ダケカンバ・イタヤカエデ・ナナカマド等の紅葉が進む樹林帯に入る。足元の熊笹とのコントラストが美しい。

・約1時間で豊かな水量を誇る黒沢の渓谷に架かる橋を過ぎ、名物「十二曲り」の急坂に取付く。「十二曲り」は登山道の名前としては有名だが思ったほどでもないと油断をしていたら、この上に続く「胸突き八丁」は過酷な急坂の難所で苦戦を強いられる。喘ぎながらやっと富士見平にある高谷池分岐。ここからは熊笹のなだらかな草原歩き。粘土質の山道はぬかるんでいるところが多くスパッツを着けてはいたが靴はどろんこになってしまった。私が30年前に赴任していた熊本ではこの状態を「じゅったんぼ」と言っていたのを急に思い出した。途中からは木道が整備されており黒沢池を見送り黒沢ヒュッテに到着した。

黒沢池ヒュッテは八角形のドーム型の優美なデザインの瀟洒な三階建ての建物だが従業員の応対が横柄であるとブログに散々酷評されている山小屋である。到着してみると小屋の管理人は何とアメリカ人に代わっており、ブログに書かれていた人物とは違う様で少し安心する。食事はカレーライスで特に美味しいというものではない。水が不足気味のため飲み物が高く缶ビールロング1000円、ペットボトルの水500円など今まで私の経験した山小屋の中では最高値である。

宿泊者の中に外人女性が二人いた。オランダ人とオーストラリア人の二人はお互いに連絡しあい自国から日程を合せてここにやってきたという。この二人昨年は同様にして上高地に来たというから日本の山に相当の憧憬を持っているらしい。我々はあらん限りの乏しい英語力で会話を続けていたがオランダ人の方は日本語が流暢であることが分かり話も弾んだ。日本の外国人向けの観光資源もまだまだ未開発のものが多いと感じる。

◆2日目◆10月9日(月・祝)◆歩程4時間35分◆

黒沢池ヒュッテ6:00⇒(1時間)⇒7:00長助池分岐7:15⇒(1時間30分)⇒8:45妙高山山頂10:00⇒(1時間)⇒11:00長助池分岐11:20⇒(1時間分)⇒12:20黒沢池ヒュッテ

ヒュッテの朝食は名物のクレープ、だが生地だけしかなくこれにジャムを塗って食べる。食べ放題で五十嵐君は7枚も食べていたが具材が入っていないクレープはそんなに食べられたものではない。

早々に出発、朝から快晴。今日は黒沢池ヒュッテから妙高山アタックの行程。アタックザックに水、雨具とラションを入れて出発。大倉乗越まで快調に登ると眼前に妙高山の威容が迫る。妙高山は昨年の11月に湊かなえ原作の「山女日記(工藤夕貴主演)」がNHKプレミアムドラマで放送されたのを見た。それぞれに複雑な人生を持った人たちが登山ガイドの工藤夕貴と山に登るというストーリーだが転落しそうになる女性をザイルで確保するシーンがここ大倉乗越だったかと思う。余談だが「山女日記」の続編が近々テレビドラマ化されるらしい。

大倉乗越から一旦長助池分岐まで下り妙高山に登り返すが、この登り返しの1時間半がかなり厳しい。すれ違う下りの人から励ましてもらったがこの言葉が最高に気に入った。「もうつらいところは通り過ぎていますからね!」と、まるで胃カメラ(内視鏡検査)の医者のようで思わず吹き出してしまった。その後の登りの苦しそうな人には私がこの言葉をかけ続けた。

妙高山の北峰・南峰とも登頂したが北峰は頂上が広く多くの登山者が憩いを楽しんでいた。この日は快晴で西に白馬三山から鹿島槍に至る後立山の山並みが、その奥に剣岳・立山が望めた。遠くにはどこから見てもわかるランドマークの槍ヶ岳や富士山も見ることが出来た。頂上でラションを摂っていると隣の7~8人グループから私のふるさとの強烈な「岡山弁」が炸裂し始め思わず「私も岡山です。」と参加してしまった。詳しく聞くと私の実家の近くの人も居た。

黒沢ヒュッテまで戻り昼食、何もすることがないのでまた飲んでしまう。小屋の滞在時間は長いが同宿の人達は話好きが多く退屈することはない。これも最近の登山ブームの大きな特徴の一つである。昨日の宿泊は新館だったが今日は本館二階に入れた。二階と三階は吹き抜けになっていて八角形のフロアに放射状に布団を敷いて寝る。案外広くて快適である。

◆3日目◆10月10日(火)◆歩程6時間20分◆

黒沢池ヒュッテ5:50⇒(1時間10分)⇒7:00高谷池ヒュッテ(荷物デポ)7:10⇒(1時間20分)⇒8:30火打山山頂8:30⇒(1時間)⇒9:30高谷池ヒュッテ(昼食)10:30⇒(45分)⇒11:15富士見平11:20⇒(50分)⇒12:10黒沢12:20⇒(40分)⇒13:20笹ヶ峰登山口13:50⇒(レンタカー1時間30分)⇒15:20豊野温泉「りんごの湯」(026-257-6161)15:50⇒(40分)⇒16:30長野駅17:03⇒(かがやき510号)⇒18:28東京駅

前日と同様、クレープの生地にジャムを塗って朝食は終わる。天候も何とか崩れていないので早々に出発。茶臼山、天狗の庭、雷鳥平を過ぎて頚城三山の最高峰火打山山頂へ。天候に恵まれ頂上からは北に日本海、南には高妻山、乙妻山その左には黒姫山をはじめ北信五岳が峰を連ねる。西には焼山、雨飾山、遠くには北アルプスもうっすらと見える。

早々に下山を開始し高谷池ヒュッテの前でコンロを点けラーメンとアルファ米で昼食、飲料水に関しては高谷池ヒュッテは黒沢池ヒュッテと同じような地形条件だがこちらは100円、ちょっとどうかと思う。富士見平から十二曲がりへ来た道を降りるが2日の間に紅葉が進んで見事な景色に変わっている。まさに黄金のアーチの中を快適に進み無事に笹ヶ峰登山口に到着する。

帰りは車で豊野駅前の豊野温泉「りんごの湯」に立ち寄る。ウェブサイトにはりんごが浴槽にたくさん浮いている写真が載っているので行ってみたが、りんごは入っていなかった。聞けば5のつく日即ち毎月5日、15日、25日限定だそうである。でも広々としたいい温泉で露天風呂も楽しめた。入浴後、レンタカーを返却し北陸新幹線にて帰路につく。

ハードボイルドから冒険小説へ

数えてもう20年は前になるが,ハヤカワから”冒険スパイ小説ハンドブック”というのが出た。なんでこんなものを持っているのかというと、推理小説からハードボイルドというものに寄り道をしてみて、その親戚筋にあたる冒険小説に興味を持ったからである。少年少女向け冒険小説というのはまず誰でも一冊や2冊は読んだだろうし、ロビンソン・クルーソーや十五少年漂流記などに興奮した記憶もあるはずだ。しかしそろそろ還暦(当時の話である、念のため)になろうかという人間が冒険小説なんてものよりもっと読むべきものがあるだろう、それでいいか。純文学に憧れながらそれを果たせなかったという引け目のような感情に何かの理論的支柱(大げさかな)が欲しかったということだった。ありていに言えばいい年をして冒険小説に入れ込むための言い訳である。

このハンドブックの初めのほうで、評論家の関口苑生氏は冒険ということを定義して、”リスクを冒し、肉体と精神のせめぎあいによる個人的な危険の連続という興奮の中で自らを成就すること”と言い、冒険小説の主要なテーマは ”成熟した男でさえさらにもう一回り成長し自己を獲得していく過程” である、と書いている。これを読んで安心した。俺にとってのドストエフスキーって言えるんじゃないか。ま、よし、という感じである。

さてこの本の中で、関口は”アメリカ人が冒険小説を書こうとするとハードボイルドになってしまい、イギリス人がハードボイルドを書こうとすると冒険小説になってしまうという説がある、とも言っている。関口の定義によるとこの両者はなにか相対峙するもののようにも思われるのだが、この本に収められている欧米の作家一覧表にレン・デントンという作家があり、そのサブタイトルが ”ハメット、チャンドラーの衣鉢をつぐ英国製ハードボイルド” となっている。僕も1,2冊デントンは読んだ記憶があるのだが、しっくりせずに該当部分を開いてみたら、”作風についていうと(注:ル・カレに比べてという文脈である)…..アメリカのハードボイルド派の影響が濃いデントンは、まったく新しい時代の語法で…..われわれ同時代に生きるものの内的リズムにぴったりあった世界を創造した”とあり、執筆者は稲葉明雄氏であった。稲葉はチャンドラーの短編など、数多くのHB小説の翻訳家として名高い人物であるから、この発言は文体に注目したプロの発言と解すべきだろう。またこのハンドブックに網羅されている欧米の小説群の中には、誰もがHBと考えるであろう作品は一点も選ばれていない。やはり、関口のいう冒険小説の定義と一致する部分が多いとはいえ、専門の人たちから言っても、この間にはやはり一線を画すものがあるのだろう。

ま、理屈はともかく、ハードボイルドミステリの大枠をなぞった僕に次の分野として”冒険小説”への開眼というのはしごく当たり前の展開であった。そのきっかけはジャック・ヒギンズの ”鷲は舞い降りた”である。このあと、ハヤカワ文庫を探し回り(中古品も多くあり、古いものもたやすく入手できた)、結果として20冊を超えるヒギンズものを読んでしまった。またこの”鷲”に刺激されて第二次大戦秘話的なものに猛烈な興味がわき、アリステア・マクリーン(”女王陛下のユリシーズ号” ”ナヴアロンの要塞”),ケン・フォレット(”針の眼” ”レベッカへの鍵” ほか)や、これらの本のあとがきなどを参考に、結果的にはみな英国人の作品になってしまったが、第二次大戦ものばかりを読んでいた。またこの乱読の結果として、まともな歴史書も読みたいと思い、英語の勉強もかねてかなりの大著に挑戦した。ノルマンディ上陸作戦については Anthony Beevor  の”D-Day”, それに続いた北アフリカ作戦は Rick Atkinson “An Army at Dawn”  と同じ著者による ”The day of battle”, John Randall  “The last gentleman of the SAS” の4冊、日本の敗戦については John Dower の Embracing Defiat”, David Pilling “Bending Adversity” の2冊であり、僕の第二次大戦についての理解はこの”冒険”によって大分深まった気がする。

話がずれた。一番読み込んだヒギンズ について多少ふれておきたい。彼は”鷲”で大成功を収めるまでの苦労 時代にはほかに3つのペンネームでいろいろな小説を書いているが、大別すると第二次大戦秘話もの、アイルランド独立動乱もの、昨今多いイスラムテロもの、そのほかのものに分けられる。このうち、最近5,6年に書かれたもの、特に”大統領の娘”以降のものはただ単に金儲けとしか思えない駄作が多いのは残念で、特に売れ筋の作家が良くやる手法だが助手的な人物を使い連名で出しているものなどはタイトルばかり大げさなだけで読むに値しない。金儲けに目が行ったら万事終わりかな、と思ってしまうものばかりだ。

しかしヒギンズの第二次大戦秘話ものには傑作が多い。中でも気に入っているのは”狐たちの夜”、”脱出航路” で前者はストーリーが面白く後者は敵味方を超えた人間味のある物語であることが気に入っている。そのほかの中から選ぶと、およそ専門家の評判にはならないのだが、”廃墟の東”と 初期の作品であるが”サンタマリア特命隊”である。両作とも主人公の孤独が心に染み入るように感じられ、数あるヒギンズの作品の中で僕流の”ハードボイルド”と言える傑作だと思っている。

ヒギンズの延長としてはデズモンド・バグリー、ハモンド・イネスなど、背景やストーリーはいろいろだが、これぞ”冒険小説”、という気にさせる作品をいろいろ読んだ。時間的な感覚がなくなっているのだが、僕の読んだ順番でいうとこの次あたりに ”アメリカ人の書いた冒険小説” が現われ始めた。次回はそのことについて書く。

 

 

 

 

北海道 ”夏” 2017 後編 (39 堀川)

知床

私が今夏の最大の目標にしていた、知床の硫黄岳と羅臼岳の縦走物語である。その背景に、昨年の6月から7月にかけて大雪山系黒岳から十勝岳、富良野岳へと6泊7日を掛けてソロでテントおよび避難小屋利用で縦走を敢行した時、忠別岳辺りから美瑛の小屋まで相前後してソロで歩いていた4人が、1年後に再会して一緒に知床の山を登ろう! と言うことになったことがあり、それが実行されたということだ。お互いソロなので勝手にマイペースで歩いているが、クマのことやら長い行程での苦労やアドバイスをテン場や避難小屋で話してうちに、だんだんと親しくなてきた。その中の一人、裏磐梯のペンションのオーナーのIさん(60歳代)が、音頭を取って下さり、大阪からSuさん(40歳代)、東京からSnさん(20歳代後半)、そして私の4人が知床半島、ウトロに、2017年7月6日(木)午後4時に集合することになった次第である。山で知り合い、その後も一緒に山に行くと言う、出来そうでなかなか出来ないことが実現。山仲間は本当に良いものだと改めて感じる。

 

2017年7月6日(木)

Iさんはフェリーで苫小牧に来て、私を拾うために昨夕旭川にわざわざ来てくれた。そこで今日は朝から二人でウトロを目指す。途中、女満別の空港で東京からのSnさんを拾いウトロの民宿へ3時半ごろ到着。追っかけ、大阪のSuさんも到着。再会を喜びながらも明日からの準備で羅臼岳から下山する岩尾別温泉の駐車場に車を1台置きに行き、帰ってきてから再会の祝杯を挙げた。

 

7月7日(金)

早朝、朝食も取らずに出発。コンビニでおにぎりやバナナを購入。1泊2日の行程なので食料の割合は全体的に少なく、ザックの重さは水も入れて20Kg位だろう。硫黄岳の登山口は、川全体が温泉で有名なカムイワッカからで、駐車場に着いて登山準備しながら、と一人が上を見るといた、いた。50mほど先にクマさんがお出迎え。我々の登っていく方向に登っていったので、ほっ! ちょっと、緊張感をもって、各自クマ鈴を付けて登山開始する。今日は行程は登山口⇒(4時間40分)⇒硫黄岳⇒(1時間25分)⇒知円別岳⇒(1時間)⇒南岳⇒(40分)⇒二ツ池のテン場 合計7時間45分となっているが、さほど暑くもなく快調に、やや、コースタイムより早く硫黄岳に到着。周辺は大爆発の跡が生々しい。でも、高山植物が気持ちを和ませてくれる。

 

知円別岳を超えると今までの荒々しい景色から一変して緑が多くなり、高山植物が咲き乱れ別天地の様相、楽しい縦走が続く。私はメンバーに迷惑を掛けないように必死で歩いているが、他の3人は余裕の表情。南岳に着くと今日のテン場の二ツ池が見えてきた。ここからコースタイム40分と思っていたらコースも変わっていて、道はハエマツの根っこを跨ぎ跨ぎ歩かなければならずえらく疲れる。時間も1時間以上かかって到着。疲れた! でも、テン場は最高の雰囲気。水も煮沸すれば問題ない。心配なのはクマさんだがフードロッカーもあり、4人いるのでクマも寄っては来ないだろう。各人でテントを張り、各人で夕食の準備をする。一見無駄なように思えるが、もともと4人ともソロなので違和感は無い。各人のスタイルで4人4様だ! 夜は満月で何とも幻想的で素晴らしいテン場に泊まれて幸せ感一杯である。月が明るすぎて星があまり見えないのが残念だ!

 

7月8日(土)

今日も天気は素晴らしい!フードロッカーから食料品を戻し、4人4様の朝食をとる。テント撤収から出発までは皆動きに無駄がない。今日の行程は、テン場⇒(30分)⇒オッカパケ岳⇒(1時間10分)⇒サシルイ岳⇒(1時間10分)⇒羅臼平⇒(1時間)⇒羅臼岳⇒(45分)⇒羅臼平⇒(2時間40分)⇒木下小屋(岩尾温泉)合計7時間35分。歩き始めてすぐに私の体調が思わしくない。熱中症の感ありで身体が重いのだがゆっくりしたペースにスローダウンしてくれて気を使ってくれる。有難い! 次第に体調も良くなり、適当に雪渓あり高山植物あり、何よりも景色が素晴らしいの一語に尽きる、素晴らしい稜線歩きを楽しみながら羅臼平に到着。よし、ここから羅臼岳往復1時間45分、しかも空身で行けるのでなんとか行けそうだと気を引き締めた時に、リーダーIさんが、バテタから自分はここで待っていると言う。え~、と思いながら・・・Iさんが私を気遣って言ってくれたものと解釈し、私も居残ることにする。20年くらい前に登っているので今回は行かなくても良しとした。年寄りは無理をしない。が鉄則です。何よりリーダーの心遣いに感謝するが、若い二人は1時間20分ほどで往復してきた。素晴らしい脚力だ。そこからは4人そろってわいわいとおしゃべりをしながら、十分に休みコースタイムより早めに下山、コーラで乾杯‼ 旨い!!素泊まりの民宿へ。夕食は漁師の経営する居酒屋へ行って大いに盛り上がる。楽しい! 良い仲間に恵まれ、天候に恵まれ、感謝、感謝の2日間であった。

7月9日(日)

民宿で朝食後、知床五湖へ行き、一昨日、昨日と縦走した硫黄岳から羅臼岳まで全山を一望してウトロに戻ってきた。楽しかった4人での山行はここで解散し、Iさんは大雪山へ、Suさんは日高の山へ、Snさんは斜里岳、阿寒岳へ。私は斜里岳と釧路湿原で終日カヌーでの川下りを楽しむ予定で、来年もぜひ誘ってください、とお願いした。

 

撮影場所がずれているが、左端が硫黄岳、右端が羅臼岳である。(連山をイメージして下さい)

 

 

虫の知らせか・・・??

斜里岳にはSnさんと同行の予定だったが、明日から天気は崩れるとの予報と同行するとSnさんに迷惑を掛けそうな気がして、急きょ取りやめ、一人で川湯温泉に行き英気を養って釧路湿原のカヌーの川下りに集中しようと考えた。知床斜里駅の観光案内所で川湯温泉のホテルを予約してJRで川湯温泉駅へ。のんびり風呂(温泉)に入り、夕食を食べて部屋に戻った時に娘から「お母さんの具合が悪く、入院させます」との連絡がはいった。ショートステイ先で具合が悪くなり、最寄りの病院に行ったがその病院から救急車で昭和大学藤が丘病院に入院さすことになったとか・・・う~ん。マイッタ‼ それからどうやって帰るか、釧路からか、女満別からか・・・飛行機の予約が取れるか? 翌日のホテルのキャンセル。カヌーのキャンセル等々。

1時間位掛かったが、今は、すべてスマホで出来てしまうのだ。素晴らしい! お陰様で翌朝JR川湯駅発の始発で釧路へ。バスで空港へ、全日空の1番機9時55分に乗って11時40分には羽田着。1時30分には家内の入院先に到着。「お父さん‼ 私をほったらかしにしないで帰っていらっしゃい」と言うメッセージだったのかもしれない。(退院は8月3日 病名は腎盂腎炎であった)

これで、私の2017年の夏山は終わったことになる。今日にいたるまで、泊りがけの山行は全て中止し、家内の介護に専念している。次回は、高尾でゆく秋を楽しみたい。