嗚呼 80年    (普通部OB  船津於菟彦)

毎年12月8日になると太平洋戦争のことを書いています。今年は少し趣を変えて、傘寿を過ぎたわが人生を時代と共に振り返って見たいと思います。
ライカⅢbは1938年に作られました。日本は紀元2600年を二年後に控えお祭りムード。
しかし、その前年に日中戦争勃発!ドイツがロシアに侵攻。総ておじゃんに成り亜細亜で初めての東京オリンピックは返上。しかし、未だ米国と戦争状態になるとは誰も思って折らず、街は次第に物資が枯渇していたものの未だ未だ「今日は帝劇明日は三越」の時代でした。そんな1938年生をうけて、それはそれは幸せな人生を歩みました、と言いたいところですが!
                                                                                  ライカⅢbと生存競争中の坊やは日章旗の前掛け掛けて、父母は未だ歌舞伎を見てきたとか、雅叙園で宴会があったとかで、お土産を愉しめたときでした。(モノクロ写真をカラー化)
2041年12月8日。あれからもう80年経ちました。「油断」-ガソリンを断たれる-とか色々な制裁があったりして、あの大国に勝てると思い、無謀な戦いが始まってしまった。ハーバート大学に留学して、米国の経済的豊かさとか、「自由」など理解していたはずの山本五十六は短期決戦で、大東亜共栄圏から米国を従属させようとしていました。
下の写真は開戦25年に米国のタイム誌が作った、当日の新聞と開戦を伝えるラジオ放送のLPレコードです。この新聞の広告を見ても今と変わりませんね!こんな國に勝てるわけがありません。日本は「欲しがりません勝つまでは。贅沢は敵だ」の時代に突入。
米英蘭から中国から撤兵せよと迫られ、軍部は「勝った、勝った」で聞く耳持たず!国民も次第に戦勝に酔いしれていった。しかし、もう既に日本国内には資源・物資は枯渇し始め「欲しがりません勝つまでは」の時代に成り近くのお菓子屋さんへ行っても殆ど何も無く未だ珍しく干しバナナ何ぞが在り、買ってもらった記憶あり。米なども配給制になり、金属を総て「供出」家のトタン塀まで剥がして差し出していました。
学童疎開が始まり、父は子供のことを思い、自ら「都落ち」覚悟で信州に転勤し、。厳冬の総てが凍る上田市郊外の家を借りて「疎開」しました。
その翌年、国民小学校一年生に入学。戦闘帽に胸には名札。そして兄のお下がりの革靴にゲートル。入学式の日に校長先生から「今どこと戦争しているんですか?」と言う言葉に手お上げて「ハーィ米英撃滅」と答えたことを記憶しています。父のお陰で集団疎開して悲惨な経験はしないですみ、ガキ大将で野山を駆け巡っていました。冬は堆肥作りのために「落ち葉-カシャッパ」集め。夏は未だ一部養蚕をしているお宅もあり、その手伝いで桑畑で桑の葉取りとか、一日中か駆け回っていました。
その年の8月15日。暑い日でした。何やら天皇のお言葉があるとかで、正午から皆ラジオの周りに集まっていた。ラジオはよく聞こえなかったが、戦争が終わったと大人達は安堵の顔をしていました。何時もの手伝いであぜ道を一升瓶を抱えて山羊の乳をもらいにの農家に向かって、生暖かい絞りたての山羊乳を抱えて帰宅したことをありありと覚えています。
その夜から覆いを着けた電灯が明るく輝き、当時の田舎は一戸・一灯・一ラジオと言われ、電灯の長いコードを台所に持って行ったり居間に持って行ったりしていましたが、当家は父が電力関係だったため当時として豊富に電灯はありました四角い木の箱に両側に鉄板を建ててメリケン粉をふくらし粉と共に入れパンを焼くなんて言う事もしましたね。総て自給自足が当然でした。
兄弟四人が大学とか高校とかに入学の時期になり、偶然焼け残った東京の元の家に小学校4年の終わりに転校してきました。未だ配給続き、うどん一杯にも食券が必要でした。そして中学に運良く入学出来、国電と都電を使い通学致しました。未だ未だ何も無い事態でした。天現寺に仮住まいの学校へ通いました!当時の天現寺と定期券。都電は四谷三丁目から品川へ行く都電で!天現寺は車庫に成って居るため渋谷〜とか中目黒〜とか3本走っていました。
その後、日吉に移り総てが新しい所に遷り、化学少年として理科の先生の小僧役をかって出て、化学の備品とか暗室の引伸器。真空ポンプとか総て新品を購入して、届く度に開梱して設置しました。暗室ではフィルムの現像に入れ込みコダックの現像レシピ本を購入してもらい端から作り必要な「毒薬」も含む試薬を自由に勝手使わせてもらいました。朝学校へ行くと先ず化学の準備室で「純水」を作るためブンゼン灯に火を付けて大きなフラスコに水を入れるのが日課でした。その装置に使うガラス細工なども致しました。全く自由な校風でした。有難う御座いました。
もう先生方も総て鬼籍に入られろくに恩返しもお礼もしていないのが気になります。
137億年前。一秒もかからないうちにビッグバンで点が宇宙に成ったという。そして色々な変哲があり太陽系が出来たのは宇宙誕生から80億から90億年後である。この80数年なんか137億年を24時間にすると、宇宙誕生の時のように1秒も無い間です。こんな事を書いた本が話題に成っています。「137億年の物語」クリストファー・ロイド著 1968年英国生まれ。ケンブリッジ大学で歴史を学んだ後、サンデータイムス紙の科学記者として活躍。地球の歴史を文系と理系の両方の眼から見る本書を自分の子どもたちのために書下ろし、世界的ベストセラーです。

まぁそんな自由な校風でのほほんと10年間過ごし、文学部の建築史を谷口吉生さんに美術史は三輪福松さんの謦咳に接し、単位にも成らないのですが、そちらの方が真面目に出席しました。研究所と言う名称になりマスコミ界に多くの人材を輩出致しました。辛うじて落ちこぼれ者は新聞研究所卒業証書は戴きました。

青田買いの始まりで「商い屋」に就職。こおりを背負って歩き回ることは無かった物の時は新製品時代。重厚長大の当時花形の鉄鋼部門を担当させられ、当時鉄鋼製品の新製品が毎週のように鉄鋼メーカーが発売し、サー売れの時代でした。
あのNY貿易センタービルにも八幡製鉄開発のH型鋼が使用されています。売り始めたときは鉄骨材としては中々使ってくれず、建物杭に基礎材として売り込んだのですが、そんなことで鉄工所には良く通いいっぱしの建築士のように原寸検査とかに立ち会ったり、現場に行ったりで、そこらの一級建築士と渡り得るような感じでした。今から考えると恐ろしい。耳学問で原寸検査の時、これではボルトが入らないのではとか。現場でどうやって組み立てるのとか。入社した頃は未だ現金取引が当たり前で、建築会社は暮れには餅代とうことで二回支払ってくれたり優雅な時代でした。
そして世は重厚長大から情報産業へと移り変わり、通信の自由化に伴い第二の通信会社とか自動車電話会社とか国際通信会社とか、はたまた宇宙通信のため衛星の打ち上げとか!色々な新規事業に参画させてもらいました。

鉄鋼での新製品の売り込みと同じで回線問屋-海鮮問屋-と揶揄されながら通信回線を売りまくりました。振り返ると面白かったでした。今や昔ですね。

コロナで在宅勤務で会社・工場に出社しないでも経済が動いてく時代になってそれが当たり前になってくるような兆しがあります。
2021年東京オリンピックは開催できるかどうか危ぶまれては居ましたが、何とか無観客という無謀なやり方で終わりました。何れにしてもコロナウィルス蔓延旋風で世界の仕事の仕方が大きく変化して、企業もどう先を読むかによって収益が大きく変化しそうな時代になって来ています。
世界史の上でも2021年は大きな転換期に成って居るのでは無いか。新型コロナウィルス蔓延旋風の「お陰で」否応なしに働き方の改善か、冠婚葬祭の簡素化とか、生活様式もガラリと変わっていくと思います。
今や世界はGAFAの脅威だとか、中国のIT戦略とか争いの仕方も代わってきています。それぞれの分野で市場を席巻している企業です。そして自動車は電気で自動で動く時代へと変転しています。
この分野で日本はどう勝ち抜いていくのか。半導体で見一時は世界一でしたが、今やビリ。どうやら世界の「お客様」が何を求めているのか?を忘れて「商い屋」をやっているのでは。伊藤忠兵衞が反物を担いで、当時一番の商業都市堺へ売りに行き、そこで新しい物・田舎で必要とされる物を見つけ背負って帰る。そして堺で求めている物を自分の目で見て、それを又持ち込む。これが「商い屋」の原点だと思います。ソニーも小型ラジオやウォークマンの二ーズを米国で嗅ぎ取って販売したのに、今や総て後追い。これが80年の時間の結末とはね。
傘寿を記念して巴里旅行をしました。モンサンミシェルと憧れだったコルビジェのサボア邸なども観て参りました!写真はロアール河畔の古城の前でコンタックスⅠ型我が生年より前に作られたカメラを構えています。
(因みに来たるべき2022年-令和4年-は寅年。於菟とは「寅の事なり」と漢和辞典に出ています。年男です。森鴎外の息子さんに森於菟さんが居られ寅年です)