目につくコトバ ー AI と DX について

最近新聞やテレビにひんぱんに登場する言葉で気になっているものがいくつかある。その中でも特に目につくのが AI ともう一つ DX という単語である。

AI とは Artificial Intelligence の略で人工知能という用語がよくあてられる。コンピュータの能力の向上の延長上で、ソフトウエア(最近はアプリという用語に代わっているようだ―これも多少誤用ではないかと思うのだが)に本来人間だけが持ちえる判断とか推測とかあるいは情緒などという要素を持たせられないか、というのが本来の狙いというか領域の話なのだが、いろんな場で政治家や企業の偉い人たちの AIを利用して、とか、AIに任せて、というような発言を聞くと、どこまで理解して言っているのかなあ、と思ってしまう。多くの、というかほとんどの場合、この種の話の中身は要は大規模なデータの収集とそこから得られる傾向や特質の分析、あるいは高速の処理、その結果の迅速な伝達、などというようなことであって、結果を導く論理があらかじめ明確にきまっているものである。得られたデータに基づいてコンピュータシステムに人間的な対応・判断をさせる、というAI本来のことのようには思えない。

ここまでは要は言葉の理解とか用法ということなので、言ってみればしょっちゅう起こりえる理解不足あるいは勉強不足の露呈、と言ってしまえばそれまでなのだが、今後本気になってAI本来の持つ能力が研究室をでて実社会で発揮されるとすると、そこに組み込まれる “人間” という要素、本能的反応やことに及んでの判断の基準、いろいろな感性的要素、判断に至るプロセス、といったことが “どのような人間” のものか、ということが問題になるのではないか。巨大なシステム系が巨大なデータベースから得た、人間らしい判断なのだ、といえば何だか客観性があるように聞こえるけれども、そこで抽出される、というかその根源とされる人間としてどんなことを前提にするのか、もっと具体的に言えば、どんな人種の、どんな文化体系の、歴史的背景の、もとでの反応をいうのか。こういうことを考えずに、あたかも AI なるものが完成されれば,無謬の判断がされるはずだ、というようなきわめて危険な議論に聞こえて仕方がない。

小生の杞憂かこじつけかわからないのだが、今使われている AI うんぬんという言動が、実はそういうものができない以上、誤謬はあり得る、あってもしかたがない、というようなアリバイ作りにこの言葉を持ち出すハチャメチャな論理にも聞こえるような気がしてならないのだが考えすぎか。このような近未来の話の前に、昨今の特にコロナとかワクチンなどを巡る政府の右往左往ぶりを見ていると、情報交換をファクスでやっているというような現実では、まずは堅実な情報システムが国家レベルで構築されることが必要で、その意味ではディジタル庁などという対策もなければならないのだろう。

その議論の延長になるのだろうが、DXという用語もよく聞く。Digital Transfomation のことを指すのだそうで、それはそれで結構なことだと理解する。今回のワクチン騒動なんかを見ていると、あれだけ大騒ぎして作ったマイナンバーカードですら満足に活用していないので、せめてその有効利用あたりから始めてもらいたいものだ。ただ今回のワクチン騒動の元凶は省庁のせめぎあいというレベルの話にあるのはまちがいないし、ディジタル庁なるものがこの頑固なセクショナリズムや先例第一主義の間で屋上屋を重ねることになるのではという危惧は捨てきれない。まだ始まったばかりなので取り越し苦労ならよいのだが。

さて、ここで話の落ちになる。

DX, という略号を聞いて、一番面白がっているのは間違いなくアマチュア無線をやってる連中(ハム)だろうと思う。この “ハム”(英語で Amateur という単語の発音が ハム と聞こえるところからきたというのだが、一方英語では大根役者をハムというからだ、という説もある)の世界では、DXというのは実は Long Distance つまり遠距離との無線交信を意味する。小生がおっかなびっくり、手作りの送信機に竹竿にひっかけたアンテナでやっていたころには、”DX” すなわち国外の局(たとえ目と鼻の先のグアム島やハワイであってさえ)と交信をする、というのは、文句なくあこがれであり、いつかは俺もDXサーと言われてみたい、と考えたものだった。しかし通信機器の発達に伴って、今では初心者にもプロと同じ性能を持つ無線機とか高性能のアンテナなどが簡単に手に入るようになったので、遠距離との交信も特別な条件とか制限がない限り、昔ほど困難なものではなくなりつつある。しかしなお、DX(通信)をやる、ということは技術だけで割り切れない、人間がだれでも持つ、”遠いもの、はるかなもの” へのあこがれを追い続ける一つのかたちであり、”DX” がハムの世界ではある種のステータスシンボル的意味を持ち続けている理由であろう。自然現象から発生する困難や時差や言語の違いなどと戦うスリルとある種の達成感、などが万事 ”ボタン一つで済むインタネットの時代なのにまだそんなことやってるの”、という風潮に対する一つの解答なのだと思う。

政府のディジタル庁の努力で制度改革が進み、DXにまでいきわたるようなすぐれた施策や対応が実現することを期待しようか。

ハムの世界でのDXとは外国局との交信(と交信証の交換)をいう