![]() 800年前鎌倉に創建され、その後500年前に、この地 新羽に移ってきた真言宗のお寺で、横浜七福神の恵比寿神でもあります。花の寺として知られ、四季いろいろな花が咲いてますが、今は春の彼岸に咲くことから中日桜と名付けられた桜が満開でした。桜の蜜を吸いに来るのか、小鳥がたくさんやってきてました。 桜には、うぐいすか、メジロか、と思っていましたが、寺の住職さんに聞いてみましたら、ヒヨドリという鳥とのことでした。 ![]() ![]()
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長崎紀行
先般”タウンウオーク”の企画でも書いたが、日本も知らないところばかりである。残された時間に、どれだけの街を尋ねられるかわからないが、まずは近代史の原点たる長崎へ行ってみようということに夫婦一致、珍しく直ちに準備にかかり、この14日から2泊3日の旅を試みた。

長崎、と言ってもそこに抱くイメージは人によってずいぶん違うだろう。すべての国民共通の意識は原爆被害の聖地ということとしても、クリスチャンにとっては伝来時点からの殉教者の地、食通にとっては独特の料理や食材であり、はたまた思案橋ブルースから前川清まで数多いだろう。僕の場合は徹底して明治維新とのかかわりあいである。高校時代に日本史を選択しなかった僕の歴史知識はまず90%が司馬遼太郎の小説からのものだから、”竜馬がゆく”と”坂の上の雲“と”燃えよ剣“と”翔ぶが如く”、この4編がメインテキストであり、単発の作品なら“酔って候”に描かれたわき役ともいうべき人物像や、後日譚としての”峠”なんかも入ってくる。映像で言えばこれは何と言っても栗塚旭の”新選組血風録“に尽きる(新選組!も面白かったがすこし座興にすぎる感じがした)。
だから親しんできた遼太郎文学にたいして僕なりの意識を確定する、けじめをつける?、ということも今回の目的だった。オヤエの興味は当然とはいえ、大聖堂だったり本場ちゃんぽんだったりグラバー邸だったはずであるが、ま、3日間、ほぼ8割は足で歩いた旅だった(中心部には路面電車もあるのだが、端から端まで歩いても、高尾山二往復くらいのアルバイトであろうか)。
今考えてみて、これは夫婦一致した見解なのだが、長崎は “優しい” 街、というのが今回得たイメージである。第一に街路がほかの街のように碁盤目という感覚が全くなく、縦横斜めに優雅に伸び、坂がたくさんあって、それこそ ”坂の上”に何があるかと思わせる。ほんのりした夢がある。清潔である。それとなにより人が優しい。それも観光地ずれした人工的な優しさでなく、ほのぼのとした会話ができる人たちばかりだったのがなんとも嬉しかった。
維新前夜のありようが見つかるかと長州山口を初めて訪れたとき、第一印象として思い浮かべたのは ”山紫水明“ という一句だったが、そのわりに人々には硬質な感じがあり、萩はなんだか人を寄せ付けないような感じがしたし、高知はぼくには明るすぎた。開国当時の歴史をたどるとすればあとは鹿児島と会津若松にはどうしても行かなければならないが、そこはどんな印象を持っているだろうか。土方歳三終焉の地、函館・五稜郭は如何。
今回の第一の目的は坂本龍馬がかの“海援隊”を組織した、”亀山社中”の建物であった。オリジナルそのものではないが、発見された古い図面をもとに忠実に古材を使って再生された、ま、今の感覚で言えば4LDKサイズだろうか。上がってみて愕然とし、かつ感激したのは、竜馬が盟友中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、絶命した京都近江屋から伝えられたという屏風と掛け軸があり、そこに飛び散った竜馬の血痕がはっきりと残されていたことだ。あえてしなかったが、手で血痕にふれることすらできた。これはまさに時空を超えた衝撃だった。
最後の日に余った時間をぶらぶら歩いていたら、蘭学者高島秋帆の自宅跡、というのに遭遇した。オランダから砲学を学び、日本での製造に成功、多くの若者が西洋の近代武器を学ぶ礎をつくりながら無実の罪に問われ、12年間蟄居させられた。もしこのブランクがなければ、近代化はもっと早く進んでいたのではといわれた人物である。
現地へ行くまでは、ま、お定まりの古い家と何かの遺品くらいだろうと思って行ってみたのだが、予想に反して、そこは空き地だった。春日の下の、ただの空き地。広さはおそらく三百坪くらいか、古くからの低い石垣に囲まれ、井戸の跡が数か所、ほかに礎と思しきものが散在しているだけ。むろん幾つかの説明板はあったが、まさにそれだけ。

なかほどにある石塀を回ってみたら、庭のはしに深紅の椿がただ1本、みごとな花を惜しげもなく落としていた。もちろん樹齢から言って当時のものではないが逆に昔に向きあった現代の魂が何かを問おうとして果たせない、その悔しさを吐露しているようで、見ているうちに息苦しくなってきた。この空き地が空き地であるからこそ持ち得る、歴史をつくりながらその結実をわがものとしえなかった人間の恨み、悲しさを表す雰囲気をそのまま、長く伝えて行ってほしいと思ったことだった。椿が散った後、夏草は何を語るだろうか。
原爆記念館は初日に訪れた。ここも広島とは違った、静かな、優しい雰囲気を持ち、ただ、祈りに徹した雰囲気であった。広島を訪れたときに誰しもが持つはずの、戦争への怒り、といういわば外向的な感情よりも、人間の持つ悲劇性を静かになだめよう、という内向的な感じがあった。浦上(爆心地)に存在する数多くのキリシタンの足跡がそのような感じをさらに強くさせるのだろうが。
グラバー邸や出島も一応訪れたし、ちゃんぽんも皿うどんも名物海鮮料理も食べた。カステラも文明堂だの福砂屋なぞは二級品ですよ、と地元の人が言っているブランドをまとめてを買い込む。。。。つもりだったがなんせ高いのに閉口。しかし、確かに上品で甘すぎず、うまいものだった。グラバー邸のあたりは出島がオランダ人専用から解放され、外国人特に英国人が居住した地域であり、いくつかの面白い発見があった。


そんなわけで、観光旅行そのものも満喫できたが、僕には明治維新の背後にあった事柄を改めて感じなおさせた旅だった。今月からはじめたタウンウオークだが、もし、その延長プランがゆるされるものなら、再度、仲間とともに訪れてみたいと思わせる、いい旅だった。帰りは羽田から調布までのほうが長崎―羽田のフライトより長かったが。

こんどは本物の春らしいよ (34 小泉幾多郎)

先日、ニューイヤーパーティの芝パークホテルの傍にある芝公園に梅林があると聞き、ちょっと寄ってみました。この梅林、規模は小さいものの、新宿角筈にあった銀世界と呼ばれた梅林を明治41~42年に移植した由緒あるものだそうで、その横に、都指定史跡の丸山古墳という丘陵があり、眼前に東京タワーや増上寺等が眺められました。伊能忠敬測地遺功表とか大野伴睦記念碑の虎やらが、そぐわぬように建っており、中腹には円山随身稲荷神社という立派なお稲荷さんがありました。東京タワーを背景にした梅林の写真等をご笑覧下さい。 傑作、ありがとうございました。芝公園にこんないい場所があるとは知りませんでした。 オヤエの実家の寺がパークホテルのすぐ近くでよくこのあたりに行きます。次回、 季節が合えば僕らも行ってみようと話しております Gi ![]() ![]() |
寅さんに会って来たー同期タウンウオーク第一回報告
酒井政蔵先輩とか百名山二百名山のつわものはともかく、ワンダーにいたおかげで、世の中の多くの人よりはいろんな場所を訪ねて来た。しかし70年以上住んでいるわが東京に関しては、城南から都心の一部くらいしか知らない。意地になっているところもあるが、東京タワーにも上ったことはない。まして城北城東と言われる地域に至っては西も東も分からない、という現状に発奮,一念発起して、まずは城北は柴又あたりを歩こうかと思いついて企画したが一度は雨のため断念。考えてみたら同期の連中にも同じ思いの仲間がいるはず、と、例によっておせっかいな企画を立てた。いわく、”タウンウオークプラン”。高尾山でも遠くなった連中も誘えるかと、まず歩くのは街なか、参加申し込みなど不要、都合により中途切り上げ自由、食べるものだけは土地の名物。ただし連絡の関係もあるので、参加意思を表明した人に限ってリストを作って連絡する、いうのが骨子である。第一回の参加希望を確定、2月28日、寅さんのふるさと柴又をたずねた。
メンバーは安東、浅海、深谷、岡、翠川夫妻、鮫島夫妻、田中(新)、高島、山室、横山夫妻、吉牟田の16人という予想以上の大舞台になった。型どおり帝釈天まいりと彫刻、庭園拝見、山本亭、寅さん記念館、山田洋次ミュジアムと定番コースを歩き、残念ながら冬季運航停止の矢切の渡しを展望。

食事は横山隆雄先輩(この人は飲食の舞台には必ず重要な役目を果たす天命を受けているらしい)のおすすめ、塾員の経営するうなぎ屋で満腹。ここで流れ解散とし、三々五々、通りの商店街をぶらついて帰宅した。次回は月島でもんじゃ焼きはどうか、という雰囲気である。川を渡れば古戦場、夜はブリックあたりになるのではないか?


2月月いち高尾報告 (39 堀川義夫)
寒のぶり返しで寒い朝でした。おまけに空はどんより、気温は上がらず寒い高尾山行でした。でも、この季節ならではの雪の薄化粧を楽しみ、全員、元気に高尾山登頂!! 素晴らしいかな、この老人パワー!!
日 時 2018年2月22日(木)
一号路 中司、吉牟田、高橋良子、翠川夫妻、平松、岡沢、多田、浅野
稲荷山コース 堀川、蔦谷、伊川、関谷 以上13名
例によって10時に京王線高尾山登山口に集合。わずかな霧雨が降っていて、中にはこの天気では中止にするのではと淡い期待をもって私に予定通りに行くのですかと聞いてきた人もいましたが「当然! 行くよ!!」と言うことで、岡沢をリーダーとする一号路組と堀川リ―ダートの稲荷山コースに分かれて10時10分行動を開始。
何時もの細田小屋はこの状況ではやっていないと判断して久しぶりに目的地は高尾山頂上。両コース共に雪の薄化粧を楽しみながら12時頃に山頂で合流。
本来なら山行中のお酒は名目上ご法度ですが、今日は寒さに耐えかね、山頂のやまびこ小屋でおそばを食べたり、おでんに熱燗を個々に楽しみ、12時40分、安全なルートを選択して頂上から3号路経由薬王院、女坂、ケーブル山頂駅へ。疲れた人、足が痛い人、膝が痛い人は無理せずケーブルで下山してください、との呼びかけに応ずる人は皆無で全員舗装された一号路を下山。予定よりはたく2時40分ごろ何時もの天狗に集結して楽しい2次会。わいわいと食べて、飲んでお一人様2000円。16時解散! 今日もワンダーパワー全開。楽しい一日でした。
春は名のみの?
(34 小泉幾多郎)

大倉山公園の梅林では、2月17日18日の土日が梅まつりとかで、結構、人出で賑わったらしいですが、そのあと、ちょっと覗いてみたら、それほどの人出もなかったですが、今年は寒さのせいか、開花が遅れたようで、満開にはなっていませんでした。 (別項参照) 2月22日、高尾山はまだ真冬でした! ![]() |
山荘雪下ろしプラン (現役 渡辺眞之)
2月も終わりが近づいてきたが、この冬の寒さは相当なものだと感じる。先日は大寒波で関東の水道にも凍結が発生し、千葉に住むある後輩は終始給湯器を頼りにあらゆる管の解凍に走り回っていたそうだ。無論山荘も例外ではない。
去る2月3日から4日に雪かきワークキャンプを実施した。積雪量は昨年に劣らない量で、北側の低い軒はもう雪の山に飲み込まれていた。お忙しい中OB7名、現役11名、ジャリ研1名にお集まりいただき、平成30年最初の大仕事が始まった。内容は毎年同じで今年も南面以外の壁が全て露出するまで雪をかく。北面から東面(上水タンク側)での作業は毎年核心部となっている。周囲を坂に囲まれているため壁沿いのバケツリレーでしか排雪ルートが作れないためだ。そのため今年も屋根の下にできた巨大な雪山を切り崩し、壁沿いに1m程の道を拓く。それを足掛かりに東面の雪をリレーして旧道まで送り出す。ゴリ押しではスタミナが持たないため、効率よいルート取りとスコップ持ちに負担がかからない排雪体制が重要である。これらの知恵は歴代のOBの皆様が熟知されており、沢山の学びがあった。かくして一同の獅子奮迅の働きにより3時間で全ての作業を終えることが出来た。
ワークキャンプの楽しみは夜の打ち上げにあると言っても過言ではない。昨年に引き続き今年も福島屋さんでご挨拶と懇親会を行い、手作りの熊汁をご馳走して頂いた。いつまで続くかはわからないが現役が浅貝の人と関われる貴重な機会であるため、今後も何かしらの形で続いてほしいと思う。山荘に戻ると打ち上げが待っている。今年は青椒肉絲の他に、妹尾昌次さんより鯛茶漬けを振る舞って頂いた。胡麻とほうじ茶が香ばしく、現役一同舌鼓を打っていた。宴は深夜まで続き延々と飲み語らい泥のように眠ったことで、翌朝、WCではおそらく初の現役一同寝坊という結果となった。
今回は初代山荘建設に関わったOBの皆様と共に作業でき、非常に有意義な時間を過ごすことが出来た。今年は山荘建設60周年だが、私が退いても優秀な次世代執行部と深い山荘愛を持つ山荘委員ら一同で大役を果たしてくれると思う。私も来年度以降も可能な限り山荘に関われるようにしていきたい。
追伸。雪かきWC後、苗場祭や山スキーで10日間入荘したが、あまりの寒さに生活中も水道の凍結が相次いだ。福島屋さんでは洗濯機の水道まで凍りついたそうだ。雪国の厳しさの一片をまた味わった気がした。
“管見妄語”を読んで
2月8日付週刊新潮の“管見妄語”に藤原正彦氏が”愚かなる小学校英語”というタイトルで現在進行中の小学校での英語教育について書いておられる。氏はこの政策はまさに世の中の流れなるものにおもねったとんでもない愚挙であり、その結果生み出される将来の日本人は英語の発音が少しばかり良いだけの、無許容で薄っぺらな日本人で溢れることになる、と警告している。小生はこの結論に120パーセント、賛同する。偶然なきっかけからアメリカ系企業でサラリーマン人生を終えた立場から、実践に基づいた確信にもとづいてそう信じている。
外国人の英語の程度はサバイバル、ビジネス、ソーシャル、バイリンガルという4段階に区分できるそうだ。サバイバルレベルとは、とにかく目先をいわば生き延びるだけの会話が成立する段階で、パッケージツアーに組み込まれている程度の会話能力。ビジネスレベルになると、自分の専門領域、主婦ならレシピーを理解する、技術者なら回路や性能の議論ができる、財務担当なら業績を説明できる、といった段階になる。もちろん困難さは増すが、逆に専門家同士なら言語とは無関係に意思疎通が成立し得る。写真や建築図面や回路図やプログラムコードといったものが正確なコミュニケーションを保証するからである。議論の中身によっては、より抽象的な話も必要になるから、ここにはいくつかのサブレベルがあるだろう。ソーシャルレベルではこのような具体性がないものも対象になり、歴史や社会慣行や民族性や宗教などといったものの理解があり、咀嚼していないと目的とする情報や意見の交換ができないし、技術面でいえばそもそも会話自体がなりたたない。バイリンガルというのは、二つの言語が甲乙なく理解でき、その背景になる社会そのものが理解されている段階を指す。
日本人の英語力を高める、という意味の分からない政策は日本人がこの分類で言ったときにどのレベルに達することをゴールとするのだろうか。物理的に国境を接し、アルファベットとキリスト教とローマ帝国の遺産を共有するヨーロッパ諸国であっても、外国語ができないという人間のほうが多いだろうし、世界の指導的立場にある(はずだが)アメリカであっても、事情は同じである。世の中にあふれている”英語が苦手”、という感覚が何か悪いことなのか。それはそもそも、依然一部にある悪しき外国崇拝と日本人特有の自虐志向がもたらした雑音なのではないのか。一国の国民が他国の言語を理解しなければならない、あるいはそれができないからからそれを国家が主導するのだという論拠は何か。
僕が勤務していた会社は在勤当時従業員大体6千人くらいの規模で、メーカーでもあり販売会社でもあり、顧客も法人から一般個人までの広い客層を持っていた。だからそのありようはかなりワイドなもので、特殊環境であったとは思えない。あまり活動的でなかったとは言え労働組合もあった。しかし経営の実態は親会社のいわゆるグローバル志向のもと、英語による情報交換が絶対的に必要だった。日本人が運営しているが限りなくアメリカに近い環境だったといえる。電子メールの使用は始まったばかりだったが、社内電話は直に世界各地の事業所や客先と直接つながっていたから、電話をとったら英語だった、というのは日常茶飯にあったし、結果、日本人同士の間でも横文字があふれかえっている、皮相的に見れば世にいう“グローバル”的環境になっていたといえる。
このような環境の中で、我々の英語力は高かったのか。詳細な数字があるわけではないが、仮に6000人の社員がいたとして、僕の判定では、バイリンガルと言えるレベルの日本人は5人に満たなかった。ソーシャルレベルかな、と感じさせられる人もいたが、前歴にほかの会社で海外経験があるとか、外国で大学を出た、というような人たちで、これもまず10人とはいなかったように思う。自分自身の英語といえば、会社に入ってからやむにやまれず独学をし、幸運にもカリフォルニアに1年ほど駐在させてもらった程度だったが、自己採点では、言ってみればアッパービジネスレベル、くらいだったと思う。一時は日米合弁のモデルケースとまでいわれ、グローバリゼーションの先頭グループにいる、と自負していた企業でも”英語力”はこの程度だったのである。この中に藤原氏のいう ”発音のいい英語をしゃべる人”がもっといたら、会社の業績はあがったか。答えは絶対的にノーである。
この会社で “英語が必要” な職場はもちろんたくさんあった。技術系の多い環境だったから、文科系にくらべてなお英語に触れる機会は少ないまま社会に出た人がほとんどであった。それでもなんとか英語の資料や文献を読み、その大意さえわかれば後は自分の持つ力量で十分補うことができ、疑問があっても何とかあらすじさえ書けば、仕事は十分こなせるという自信を持つ人が大半だった。前述のレベルわけでいえば、ロワー、またはミドルビジネスレベル、だったろうか。すなわち、”発音が多少いい英語をしゃべる”ことよりも何よりも本業で勝負する実力が英語の壁を十分に超えさせたのだ。
社会人になってから英語を学ぶのは難しい、というのは単なるいいわけである。僕が工場現場で修業していたころ、上司の係長は帝国海軍の少年飛行兵で、もちろん、学校時代に英語教育というものを全く受けたことのない人だった。しかし持ち前の努力でそれなりの基礎英語を学び、担当部門の長として、まったく独力で ”英語らしきもの(本人の述懐だが)”を操って、日本のみならず、欧米の相手方とやりあい、だれからも尊敬されるようになった。彼のプレゼンテーションややり取りに同席したことは何回もあるが、まさに ”英語らしきもの“ で話をし、質問に応じた。相手も、彼が英語に関する限りは限界があるとわかるものの、実力と人柄とを尊重し、よほどのことがない限り、通訳を要求することはなかった。
一方、事業の拡大に伴い、アメリカ側の思惑で採用した日本人や、“日本語がわかる”人間を送り込んでくることも増えた。しかし僕が在籍したほぼ40年間のあいだで、仕事上関係があったそのたぐいのほぼ10人のうち、意味のある仕事をした人間は誰一人いなかった。一方、日本語は全くできなくても、日本人の間で尊敬され、見事な結果を上げて本国へ栄転した人間は、個人的に関係のあっただけでも10人はくだらない。言葉がわかる、という以前に何が必要なのか、という実例であろう。
ビジネスの分野の経験だけでの話になったが、”英語が喋れる“ ということ自体はいいことに違いないとしても、それ以前に個人の持つ実力や人間性こそが世界語である、という信条に間違いはと思っている。だから、藤原氏の、そういうものを培わなければならない青年期、その基礎を固めるべき少年期の教育こそが肝心であり、そのための時間を削って何の意味があるのか、という意見は正に正鵠を射ている、と考えるのである。
ただ、ひとこと付け加えさせていただくならば、”多少発音のいい”人間を育てるということもまた、実現不可能な空想に近いのではないかと思う。小学校の教師の方々の英語の実力がいかがなものか知らないが、英検一級を取得するのは小生ごとき多少の心得があってもかなり大変だった体験で言えば、失礼ながら三級ないしよくて二級程度の実力ではないか。このレベルの人たちに発音の模範を求めるのか。th の発音だの l と r はどうだとか、ということが仮にクリアできたとしても、もっと難しい、イントネーションやノンバーバルと言われる環境を含めた英語によるコミュニケーションの核心を”純”日本人に要求する方が無理というものだからだ。このあたりの実情を政府だか有識者だか知らないが無責任な論議をしてほしくないものである。
グレン・キャンベルのこと (40 武鑓宰)
今朝、 G.キャンベルの”By the time I get to Phoenix”は好きな曲の一つです。 (云われるように確かに「恋のフェニックス」 West Coast派カントリーソングがあるとしたら、 H.ウイリアムス他の主流派カントリーから泥臭さ、 て少し都会風で垢抜けしたカントリーソングの感じがして好きでし 小生もレパートリーに入れてスキー合宿などで唄ってみたいと思っ ゴルフと云えば、当時のプロゴルフで彼の名前を冠した「G. L.Aオープン」がロスで毎年行われており、 まだG. ![]()
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ブリューゲル展へ行ってきました (34 小泉幾多郎)
![]() 先日東京都美術館でのブリューゲル展を鑑賞する機会がありました。 フリューゲル一族は、ピーテル・フリューゲルを始祖に、子供、孫、ひ孫と150年にわたり画家を生み出してきた一族で、その追随者たちの作品約100点が風景画、風俗画、静物画など幅広く展示されていました。7章に区分して展示されていましたが、第6章静物画の隆盛と第7章農民たちの踊りについては、珍しく写真撮影可(1/23~2/18間のみ)ということで撮ったうち3枚を添付しました。 展示作品の中では、鳥罠と称するスケートをする人たちが有名ですが、同作品には100点以上の模倣作があるというから驚きます。この冬の風景に目を向けた自然描写や農民たちの踊り等人生を楽しむ農民の生活といった日常生活が描き込まれているところに人気があるようです。小さな絵も多く、いずれもがとことん細密に描かれていて、単眼鏡やオペラグラスを持参している用意のいい人も散見されました。昨年公開されたバベルの塔でも、塔の建設に携わる人々がゴマ粒ほどの大きさで描かれていたことが思い起こされことでした。 添付写真では、1番目青い花瓶に入った種々の花々では机上のカタツムリが気になります。ガラスの花瓶の傍には、てんとう虫や蝶が見られます。2番目七つの慈悲の行いとは、飢えた人に食べさせ、喉が渇いた人には飲ませ、旅の人には宿を貸し、服のない人は着せてやり、病気の人には見舞い、囚人を訪ね、死者は埋葬する、という行為が描写されています。3番目野外での婚礼の踊りでは、皆喜びに溢れ踊っているが、中央に座る花嫁だけが元気がなく、花婿も見当たらないが、花嫁は妊娠しているので踊っていないとのこと。農民の婚礼という6点連作も展示されていました。 ![]() ![]() |
僕は美術という分野は全くダメで、 ありがとうございました。 Gi |