Who are we ?

この本の著者のサミュエル・ハンチントンは2008年12月、惜しまれながら亡くなったアメリカを代表する政治学者である。僕は勤務先の日米合弁企業で上級マネジメントに連なるようになった80年後半から90年くらいまで、それまでとは違ったレベルで日米間の意識・感覚のずれになやみ、ともすればインフェリオリティコンプレックスとでもいうべきものにとりつかれていた。その時期、名著”文明の衝突”が日本に紹介され、一読して納得し、激励されたものだ。

本著 Who are we? は 最近、”分断されるアメリカ“ というタイトルで集英社から鈴木主税氏の訳で改めて紹介された。今度、原著を読もうと思ったのは、サブタイトルに ”アメリカ人のアイデンティ“、とあったからだ。僕らは日常、アメリカ、ないしアメリカ人について、かなり固定的な、つまり時々変なこともするが、基本的には移民によって建設された高邁な理想を追求する頑固な善玉、というイメージを持ってきたと思うし、それがアメリカ人のありかた、つまりアイデンティではないかと勝手に思い込んできた。それが最近はトランプの一連の反動政策、それに対抗する一般の善良な人々、というわかりやすい構図になった。トランプ悪玉説と言い換えてもいいかもしれないし、僕自身、そう感じてきた。しかし、この本を読み終えた今、”おい、トランプさんよ、あんたのやり方は気に入らねえが、あんたの気持ちもわからんでもねえなあ“と感じるようになったようだ。そのことを書いてみたい。

ハンチントンはある国民のアイデンティは、人種、居住する環境によって生まれる固有の文化、歴史、それとそういうものの結果生まれる民族性(ethnicity)、宗教、などによって決定されるとし、アメリカが特殊なのは、国の成り立ちがこのような要素に欠けていたからだという。アメリカ合衆国は、当時の高度の欧州文明を背負いながら、宗教的な理由によって移住してきた人々によって、いわばきわめて人工的に作られた。つまり固有の文化、歴史、民族という概念を持たないままに出現した。その結果、人々を結びつけるものが宗教しかなかった、ということが、世界にもまれな、きわめて宗教的な国を作った。そして、その後増加した移民(最近まではヨーロッパ人だけだったことに注目)の間の最大公約数が建国の過程から、英国文化とプロテスタント(Anglo-Protestant)の伝統的倫理観にならざるを得なかった。それが今までの米国人のアイデンティであった、というのだ。

へえ、と思うのだが、原著の末尾に著者は、たぶん結論としたかったのだろうが、ひとつのグラフを記載している。例によって意識調査の結果だが、横軸に神の存在を信じるか、その程度はどのくらいか、という指標を、縦軸に自分の国に対する愛国心がどのくらい高いかを原点を極小に取って、世界各国の反応の組み合わせをプロットしたものである。グラフはきれいな右上がりの形になり、右上隅にアメリカ、ポーランド、アイルランドがかたまって示され、この三か国では政治と宗教が濃密な関係にあることを示す。これに対して左下隅、つまり宗教と国民の意識にはほとんど関係がない、と考えるグループがあり、わが日本はここに位置する。これは感覚的に多くの人が納得するだろうが、面白いことにこの固まりにいるのがスエーデン、デンマークなどの北欧福祉国家、ベルギー、ドイツ、フランスなどのいわば欧州先進国と目される国々である。結果としていえば、問題含みとはいえ、アメリカ人の多くは、依然 Anglo-Protestantism の信奉者だということなのだろう。一方、わが国をはじめ欧州先進国の国民が自国に誇りを持っていない、ということにはならない。換言すればこれらの国民には宗教以外に確固たるアイデンティがある、という証左であろう。いい例が中国である。神について関心がないのは当然として(宗教の自由がない国だから)、国そのものに対する誇りは異常に高い。現在の政治路線がどうなのか、疑問はあるにせよ、ひとつの事実としては認めなければなるまい。

宗教にあまり関心のないわれわれには直感的に理解しにくいことだが、プロテスタント、すなわちキリスト教の主流であったカソリック派の世俗化・腐敗に”プロテスト”すなわち反抗した人々は実践において勤勉であり、高度な倫理を貴ぶ精神を持っていて、それが現在の資本主義の発展に結びついたと言われる。無限に近い資源と土地に恵まれた新興国家が資本主義の権化となったのはその結果であり(注1)、その現実の前に、欧州からの移民たちがアメリカという国の持つ信条(American Creed)に疑問を持つことは少なかったのだ、というのがハンチントンの前提となっている主張である。アメリカの信条、とは、トマス・ジェファーソンなどの“建国の父(Founding fathers)たちが起草した独立宣言と米国憲法で宣言された一連のことを指す。

ハンチントンがこの本で書こうとしたのは、このアイデンティが失われつつある、という危機感であり、その原因として挙げているのが、大別すると、いわゆるグローバリゼーションのもたらしたエリート層と一般大衆の間の懸隔、テキサス、アリゾナなど南西部におけるメキシコ人およびフロリダにおけるキューバ人の急増(本書では Hispanization という用語を使っている)、冷戦の終結によってアメリカに対する勢力がなくなったことと、それに代わる脅威として現れたイスラム民族の影響、ということになるだろう。第一と第三の影響については、比較的我々にも理解しやすいのだが、第二のラテンアメリカ人の問題についてはあまり知られていないのではないだろうか。この本はいろいろな団体によって行われた世論調査の結果をふんだんに使って客観性を高めようとしているが、数多くの数字のなかで、驚異的なものがあった。著者は2008年に逝去しているので、数字はすでに10年以上古いのだが、メキシコと国境を接する州にある20の大都市のうち、サンディエゴとユマをのぞいて、メキシコ人の人口比率は50%以上、10市以上でその比率は60ないし80%になっているという。メキシコの貧困層が南西部の労働力不足を補ってきたところまではよかったのだが、出生率が極めて高く、加えて不法入国も後を絶たず人口が増加の一途をたどっていること、メキシコには現在の米国南西部は戦争によって奪われたものだから、メキシコ人が帰っていくのは当然とする感情があること、さらに大きな問題はメキシコ人は法律によって両国の市民権を持ち、所得の大半がアメリカで消費されず本国に送金されてしまうこと、などが大きな問題であるとされる。

さらに衝撃的なのはマイアミのキューバ化である。メキシコからの移住が主として労働階級であるのに対し、キューバからの移民はかつてカストロ政権からの脱出者だったことから、高度に教育を受けたプロフェッショナルであり、フロリダに脱出定着後徐々に勢力を得た結果、いまや市長をはじめとした要職のほとんどがキューバからの移住者だということである。この人たちも同様に二重の市民権を持ち、本国から米国への圧力を働きかけられる立場にいることから、米国の議員は彼らの票をあてにした活動をせざるを得ない。メキシコからの圧力にくわえて、アメリカの南米化、というのが現在のアメリカにとってとんでもない課題なのだ、ということを初めて知ることができた。ここまで来て、トランプの”メキシコの壁”政策が単純至極な人種差別ではないことがわかってきた気がするのだ。

このような混乱の現実を前に、ハンチントンが提出した課題、すなわち、アメリカ合衆国がそのアイデンティを確立するための方策にはグローバル主義者やビジネスエリート層の唱える世界主義か、再び世界最大最強の国として他をリードする立場をとるか(ここで原著は帝国主義という用語を使っている)、あるいは一国主義(ナショナリズム)の三択が示される。わが親愛なるトランプ氏がいずれにすべきか、踏み迷っているのがその現実なのだろう。

 

ほかにも、この本を読んで、なるほど、とひざを打つことが多かった。国民としてのアイデンティ、などということは当たり前すぎて日本人には考えにくい話題なのだが、今のアメリカの混乱ぶりを知るにつけ、また安全保障に関してはその支援を頼らざるを得ない現実のもとで、もっとこの国を知らなければならない、ということを改めて感じた。

 

注1 マックス・ウエーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

奥武蔵の春:漫歩兼日帰りW調査 (51 斎藤邦彦)

51年卒が秋の日帰りを担当します

日帰りワンデルングは2回連続で雨のため中止となり担当学年の私達は「雨男の51年卒」と悪名を頂いております。春の日帰りワンデルングは5月19日(土)ということで案内されましたが、3度目の正直ということで晴天を願うばかり。

一方、秋の日帰りワンデルングは10月27日(土)という予定になっています。我々は総勢14人の少人数(実稼働5~7人)でありますが、幹事を引き受けるにあたって秋ワンでは「新たな山域コースの企画・開拓」にチャレンジすることにしています。勿論、48年以降の年次の方々のお力添えは欠かすことが出来ませんのでよろしくお願いいたします。

八徳(やっとこ)の一本桜

従来日帰りワンデルングは数箇所の山域の繰り返しで運営していましたが新たな山域として「奥武蔵」を取り上げています。西武鉄道が推奨しているガイド「西武鉄道で行くハイキング24選https://www.seiburailway.jp/railways/hiking/」を母体に様々なバリエーションコースを検討しています。同期で手分けし昨年の1月から4月にかけて約10回の調査行を進めてきており一通りの実査は終わりました。

BC予定飯能河原

ベースキャンプもいくつかの候補地の中から「飯能河原」を予定しています。飯能駅から徒歩15分で行くことが出来る場所で、夏には子供たちの水遊びで賑わう広い河川敷です。新たな山域の計画に向けて今後とも皆様方のご支援を頂くと思いますが深いご理解を賜りますようよろしくお願いいたします。

お花見ハイクを兼ねた.調査行(4月5日)

同じ調査行をするなら花の季節にということで、お花見ハイクを兼ねて西武秩父線の西吾野駅から「高山不動尊⇒関八州見晴台」のコースのバリエーションルートを調べに同期の五十嵐君と2度目の調査に行ってきました。

高山不動尊

今回はメインルートから離れて不動三滝のルートを調査しましたが三滝とも水量が少なく見応えの点で今一つかと感じました。巨大な伽藍を誇る「高山不動尊」は改修工事中でテントがかかっていました。10月15日に工事が終わると表示があったので予定通り終われば改修直後の堂宇を拝むことが出来ると思います。

お花見について、関八州見晴台の周辺は山桜、三つ葉ツツジ、ミツマタ、馬酔木等百花繚乱で見事な景色です。とりわけ三つ葉ツツジは真っ盛りで鮮やかに山を染めています。今回第一目標にしていたスポット「八徳(やっとこ)の一本桜」は残念ながら散り始めていました。見事な巨木ですが地元の人からはもう一日早ければというコメントをもらいました。

顔振峠枝垂れ桜

「八徳の一本桜」が終わっていたので第二目標地点の「顔振峠(こうぶりとうげ)の枝垂れ桜」まで粘って足を伸ばしてみました。ここは満開、まだまだ楽しめると思います。顔振峠から吾野駅は1時間弱のコースでよく整備された山道なので景色を楽しみながら安心して歩けるコースです。

居酒屋 ゆきやなぎ

下山後は飯能駅まで行き、私の好きな「お蕎麦居酒屋ゆきやなぎ」で一杯、10月27日の2次会の予約もしておきました。ちなみに植物の「ゆきやなぎ」は西日本では「こごめ花」といいます。

5月の春ワンが終われば秋ワンに向けてさらに計画の完成度を上げていきたいと考えていますが、来年以降どのように運営していくのか幹事団のなかで議論が必要になってくると感じています。

4月月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

何カ月ぶりかに‘月いち高尾’が晴天に恵まれ、歩いても汗をかかない程度で何とも心地よい里山歩きを楽しむことが出来ました。今月は高尾山から少し離れて八王子城跡とたま森林科学園を訪ねました。

日 時 2018年4月10日(火)

参加者 中司、吉牟田、高橋良子、遠藤、鮫島、岡、深谷、町井、岡沢、多田、蔦谷、河合、武鑓、藍原、堀川   以上15名

高尾駅北口10時集合。何時もと違って今回は出だしはタクシーを利用、到着順に4人づつタクシーで八王子城跡へ、10時30分頃城跡の管理棟に全員集合。

この日は、出発前に皆さんに悲しい知らせをしなければなりませんでした。35年卒の妹尾清次先輩が昨夜亡くなられたとのこと、皆さんにお伝えしました。

ボランティアガイドをお願いして、約1時間強城跡の案内をしてもらいました。その後ガイド付きでなければ通れない山道を案内していただき、城山登山道の五合目に出ました。そこからガイドさんと別れてほぼ30分程で頂上本丸跡に到着、心地よい風に恵まれながら昼食。12時40分に頂上を出て約40分で管理棟着。

再び呼んでおいたタクシーで多摩森林科学園へ。ここは100種類以上の桜の保存林があり、3月から4月末ま様々な桜が順次咲いていくそうです。それにしても桜が早かった今年で期待はしていませんでしたが、本当にびっくりするくらいの見事な景観を見せてくれました。写真をご覧ください!

3時20分に解散。12名は何時ものてんぐへ。さほど歩いた感覚はなかったのですが、2万歩以上歩いたそうで結構疲れました。でも、生ビール最高! 心地よい春の里山歩きでした。

5月の月いち高尾は 5月23日(水)です。5月13日ごろにご案内します

アサ会花見に23人集結 (34 小泉幾多郎)

第22回ゴルフ大会記録

現在の形でのOB会が組織されて間もなく ”100人ゴルフ!”という掛け声も勇ましく開催されたKWVゴルフ大会は今回で22回目となった。夷隅CCから武蔵CCと開催地も変わり、22回目の今回は先年に続き府中CCでの挙行となった。参加人数は55名、最年長は32年の荻原、中村両先輩、最年少は51年の斎藤君で、年度別では37年が11名、47年が6名と世話役の菅谷、伊川両君のメンツを確保。かつて何かといえば最大人数を誇った36年も5名と減少し、41年の7名に席を譲った形となったのも、20年を超える歴史のわざであろうか。部外者として34年の椎名夫人壽子さんも参加されちゃっかりご夫婦にて賞品獲得。優勝は別稿のとおり学年ただ一人の参加であった佐藤充良君で主な成績は下記のとおりである。

優勝     佐藤充良 (48)  準優勝 矢部精一  (37)

3位     鈴木孝  (41)  4位  伊川望   (47)

BG     矢部精一 (37)  BB  小祝昌樹  (39)

BM     椎名亨  (34)

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KWVゴルフ大会 MYゴルフ史に残る満開の桜のもとでの優勝!

                          佐藤充良(48年)

3月30日、名門府中CCでの54名の大コンペで、図らずも優勝してしまいました。朝方は風のためやや寒かったのですが昼過ぎは半袖でもできるほどの絶好のゴルフ日和となりました。加えて18ホールすべてで見事な桜に囲まれたコースは、ゴルフもいいけど酒盛りを始めたくなるほどでした。

しかし、リタイアして参加できるようになっての初参加での優勝であることや、世間的には充分にシニアなのに、当日は54名中下からかぞえて3番目の若手?の私が並み居る諸先輩をさしおいて優勝するのは、若干空気が読めないヤツ感があるかもしれませんが、ここは素直に私のゴルフ史を飾る快挙として大いに喜びたいと思います。 私の計算によれば、当日の参加者(60代~80代)の平均年齢は約75歳、そしてその54名の平均スコアは107.5ストロークで、なかなかの成績でした。何と元気過ぎる集団でしょう!驚きです。

素晴らしい舞台を用意していただいた菅谷先輩、見事な運営をしていただいたリーダーの久米先輩、サブリーダーの加藤(37年)鈴木(47年)両先輩と事務局長の伊川先輩、そして一緒にプレーした田端(47年)、大谷(47年)両先輩と齋藤さん(51年)に感謝します。

来年は幹事の一員として参加者に満足していただけるよう一生懸命努めます。引き続き府中CCでの開催の予定ですが、今回参加されなかった方もぜひ仲間とともに春を満喫し、若さを爆発させませんか!

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楽しませてもらいました!

                         椎名 亨 (34年)

 

KWVゴルフ会青年団     (51 斎藤邦彦)

「定年後 田舎に帰れば 青年団」という川柳を聞いたことがあります。今回のKWVゴルフ会では私(51年卒)が「青年団」のなかでも2番目に若いという立ち位置で、錚々たる諸先輩方のお仲間に入れていただき感謝しております。このコンペが大好きで毎年楽しみにしています。

最初に参加したのは5年前でそのころは清澄CCで開催されていました。かつては「百人会」と呼ばれたこの大会は私にとってさすがに敷居が高く、その年の私の参加姿勢は「トーチカ(ザリガニ)作戦(恐る恐る前進して近寄り、危険を察知すると腰を引いて一気に退却する。)」というものでした。

その際ご一緒させて頂いたのが30年卒の宮本雅司さんでした。ラウンド中からいろいろお話しいただきましたが、驚いたことに宮本先輩は私の職場の女性社員と同じ小唄の先生に習われていること、私の以前の職場で扱っていた印刷用紙の調達の紙問屋の会長でいらっしゃることなどが分かり、会話が大いに盛り上がりリラックスした雰囲気のなかで一日を楽しむことが出来ました。(さらには20年以上の先輩に都内まで車で送って頂きました。恐縮しました。)

なんと私はその日のコンペで準優勝し、翌年の幹事団の一員を仰せつかることになりました。この頃から世話役として本格的に参加するようになったと思います。翌年は予期せぬ4月の大雪でゴルフ場がクローズ、2年続けて準備会を開催しました。39年卒の榊原リーダーを中心とした準備会では様々な情報を頂くことが出来、OB活動に理解を深めるのに大いに役立ちました。

その後もこの大会は参加のつど多くの先輩方から退職後の生活等に関する助言を頂く良い機会となり、退職すれば「黄金の時代」が始まるなどと激励されてきました。また今回は41年卒の久米さんから岡山朝日高校の先輩の41年卒の佐藤さんを紹介していただきました。40年卒の武鑓さんも出席されていたので同じ高校の卒業生が3人も参加していたことになります。郷土を愛する私にとって非常にうれしいことです。

今年の大会は41年卒の久米リーダーのもと47年卒業の鈴木さんが幹事団の中心を果たされご伊川さんをはじめご同期の先輩方が5人参加されました。さらに48年の佐藤さんが優勝されるなど「青年団の活躍」が際立ってきたように思います。まだまだゴルフ好きの「青年団OB」の方はたくさんおられ「黄金の時代」を迎えられていると思います。より幅広い世代の参加で多様性の豊富な大会になるよう声を掛け合っていきたいと考えています。

夫婦でゴルフを楽しんでいます (41 久米行子)

3月30日、府中CCにて第22回KWVゴルフ大会に参加しました。スタート時は快晴ながら風を冷たく感じるような花冷えの天気でした。しかし、満開の桜が素晴らしくて幸せな気分になりました。キャディさんによると約3000本の桜があるということでした。下手なゴルフは置いておいて桜を多いに楽しんだ一日でした。

思い返しますと以前、夷隅CCでKWV100人ゴルフが開催されていた頃が私がゴルフを始めた時期でした。我が亭主殿は会社の付き合いもあり随分昔からゴルフを始めていたと思います。私はその頃はテニスに夢中でゴルフなど汗をかかないのはスポーツではないなどと思っていましたがテニス仲間が徐々にゴルフにスタンスを移し始め、それに伴い私もゴルフを始めました。50歳に突入する頃でした。始めるなら個人レッスンに行った方が良いと主人に勧められてレッスンに嫌々通っていました。それも今は昔の話で私も主人も大の練習嫌い、出たとこ勝負というゴルフです。主人はもともとアプローチとパッティングなど小技が上手で私は1Wが一番得意というよりアイアンが苦手なのです。

友人夫妻とラウンドしたりしますとご主人があれやこれやとうるさく指導をしていることがありますが大体最後は喧嘩になります。主人がそれを知ってか知らずか、もう少しアドヴァイスしてくれてもいいんじゃあないのと思う位一切助言はしてくれません。でも結局それがいいのかと思います。夫婦で楽しくラウンドする為にはお互いのプレーについて色々と干渉しない方が円満に進むようです。東富士CCに入って随分二人でラウンドしました。ゴルフに関しては全く主人とは勝負にならないので勝った負けたがないので気楽なものです。でも最近はレディスから打ってたまに主人をオヴアードライブすると秘かにほくそえんでおります。

夫婦で同じ趣味があるというのは楽しい事です。主人にとっては、昼とアフターゴルフで心置きなくアルコールを飲んで帰りの車の運転を私に任せるというのが私をゴルフに誘い込んだ主たる理由だったような気もしております。 昨日から始まったマスターズ、二人で松山英樹を応援しております。

JIJIのこと  補遺 1 (47 関谷誠)

スナック JIJI のこと

3月31日という日にちは日本の社会慣習上、特別な日である。学期の終わり、決算の締めの日、など、一つの事柄の終わりを示す区切りという意味を持っている。僕らも数え切れない多くの3月31日の想いを持ってきているはずだ。

ここでもう一つ、その ”特別な日” のことを書く。2009年3月31日である。僕らがOBになってからの ”部室” であった、スナック JIJI がその灯を落とした日だ。このことについて新たに書く代わりに、同期の文集、”ナンカナイ会 そのふみあと” に記載したコラムを転載する。この日以降、OBに加わった諸君に JIJI が果たしてくれた意味を実感してもらうことができないのが誠に残念であるが。

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            スナック・ジジ

銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。町並みは変わり、”いちこし”も”ジュリアン・ソレル”も”スイス”もなくなってしまったったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出は我々とともにある。

その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前はスナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女は演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。

この店の誕生には、1年上の”マックス”こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に請われ横浜、都橋の近くで”こけし”というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間によびかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた。ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ”と強く勧めたのだという。

住吉はいろいろな友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)からの紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなぞというものとは無縁、、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう”銀座マダム”とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、”慶応”、それもどちらかと言えば”体育会(この場合はKWVも含めてだが)OB”,の何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。

何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にして見れば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む”プライドを持つことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに”おれたちケイオー”の場所だったのだ。

KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上、34年卒の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも ”それじゃ、ジジで”と云うのが決まりだった。

われわれの”部室”であった”スナック・ジジ”は、2009年3月31日、その”銀座の灯”を落とした。

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           JIJIのこと