そのひとつがAI という用語の氾濫である。AI、とはなにか、といえば、日本語では人工知能、という用語があてられるがもともとは英語であるから、英語版のウイキペディアなどを見てみると、the theory and development of computer systems able to perform tasks that normally require human intelligence (通常は人間の知性を必要とする仕事を行うコンピュータシステムの理論と開発)あるいは intelligence demonstrated by machines, as opposed to the natural intelligence displayed by animals and humans(動物あるいは人間がおこなう固有の知的行動を機械が代わって行うこと)と定義される。またほかの文脈では discernability (識別能力)という用語も用いられている。
現代はITの時代であると言うときのIは information であり、その意味は情報、ではあるが知性、inteligence ではない。
コンピュータが企業などの実社会で使われ始めた時代には information のもとになる data という用語が用いられていた。現在ではどこの企業や組織であっても、コンピュータを扱う部署は情報処理課、とかIT部、などと呼ばれるだろうが、60年代まではデータ管理部とか、ズバリ電子計算機課、などという呼称がふつうであった。つまり生のデータを集めてあらかじめ定めた方式によって処理をするという人力作業の効率化高速化することから始まって、システムの高速化・大規模化によってその処理結果を高度化し、単なるデータの集積から人的判断処理の補助へと効果が、データではなく情報と呼べるものになってきた。そのプロセスがさらに高度化され、人間とのインターフェイスも数字や文字の羅列からグラフィック処理やシユミレーションなどが手じかになった結果、information technology ITという現実ができた、というのが現在の情勢だろう。しかしコンピュータのもたらす効果が intelligence というレベルになっているのは、言語処理とか翻訳とか医療行為の一部などといった限られた領域のそのまた一部である。コンピュータシステムの能力・効果はまだ information process というレベルであり、新聞記事に気安くAI によって処理をする、などと書かれていることの大半はまだまだ人間の discernabiility を置換するまでのレベルになっているとは思えないものがほとんどだと思われる。
僻目かもしれないが読者に誤った期待を抱かせないためにも AI という用語の使用にはもっと厳格である必要があるように思うのだがどうだろうか。もっともコンピュータの使用が一般化されはじめた段階でも電子頭脳、などという用語がまかり通っていたものではあるのだが。
As I walked out in the streets of Laredo As I walked out in Laredo one day I spied a young cowboy all wrapped in white linen Wrapped in white linen as cold as the clay
I see by your outfit that you are a cowboy These words he did say as I boldly walked by Come sit down beside me and hear my sad story I’m shot in the breast and I know I must die
It was once in the saddle I used to go dashing Once in the saddle I used to go gay First down to Rosie’s and then to the card house Got shot in the breast and I’m dying today