ウクライナ・キエフのかつての姿  (HPOB 菅井康二)

今日(4/21)の深夜(午前2:50-午前3:49)に再放送されたので普通の人は視ていないと思われるが2019年取材し放映された番組である。画面での町並みと人々は現在のロシア侵攻後の状況とは全く異なる平和そのものにしか見えないのだが番組中の端々に2014年から続いてるロシアとの抗争の影が鮮明に見て取れる。アメリカの19世紀の作家アンブローズ・ビアスの「悪魔の辞典」の「平和とは国際関係について、二つの戦争の期間の間に介在するだまし合いの時期を指して言う」という言葉を思い浮かべた。それにしても番組に登場したあの人々は今どうしているのだろう?と考えるだけで胸が痛くなる。

世界ふれあい街歩き「ウクライナ・キエフ」
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乱読報告ファイル (22) Fast Attack -  ひょっとしてウクライナもこんな具合か?

数日前の報道ではかのブルース・ウイルスが引退、とあった。シュワルツェネッガー、スタローン、セガールなどとともにアクション映画で一時代を画した人たちだが、そのあとに売り出したのが エンドオブホワイトハウス で登場したジェラルド・バトラーである。彼の主演で数年前に封切られた ハンターキラー は反乱軍に拉致されたロシア大統領を米軍潜水艦が救出するという奇想天外なストーリーが面白く、潜水艦同士の不気味な闘いも見ごたえがあった。この作品は米海軍中佐で実際に潜水艦の艦長だったジョージ・ウオレスという人が書いたもので、潜水艦物といえばかの 眼下の敵 深く静かに潜航せよ レッドオクトーバーを追え などが思い浮かぶが、やはり現代のエレクトロニクス技術満載の軍艦の描写となると経験者が書いたものの迫力は違ったものだった。

そんな経験から、著者名にひかれて Fast Attack と Dangerous Grounds という2冊をアマゾンで買い、始めに読んだのがこの本だが正直言って、期待外れ、前作にははるかに及ばない出来栄えだった。しかし後半にでてくるロシアとアメリカ大統領の設定が、まさにたった今、ウクライナを挟んで向き合っているプーチンとバイデンをそのまま借りてきたのかというようで、読んでいると現在のウクライナ侵攻の具合もこうだったのではないか、と思わせるのにびっくりもし、ある意味で背筋が寒くなる感じでもあった。

この話ではウクライナではなくバルト三国のウイークリンクであるリトアニアへの侵攻が伏線にある。ロシアの大統領はアメリカを最初からなめきっていて好戦的な行動を繰り返すのだが、米国側は国際協調とか国連とか響きのいいことを繰り返し、国民の支持率優先の対応を繰り返す。ロシアは秘密裡に米国東海岸の軍港沖やパナマ運河に潜水艦によって機雷を敷設し、米国海軍が実質上動けなくしたうえでリトアニアへ侵攻してしまう。この危機を救うのが2隻の潜水艦の活躍なのだが、話はハピーエンドではなく、米国海軍で臨機の措置をとった責任者をこの大統領は更迭してしまう、という政治屋の理屈で終わるのだ。

ロシア大統領は電話で米国大統領を電話会談で、もう威張り腐ったアメリカを信用する国なんかない。そちらが勝手に冷戦などとでっちあげたり、ベトナムでは負けるし国家建設だのレジーム改革だの、結局はオイル会社の言いなりになっている間に世界はアメリカのいう事など信じなくなっていると面罵する。米国の優位性を否定しNATOは単なる社交クラブにすぎない、というのだ。そして次の電話会談では一方的にロシア軍の封じ込めによって米国軍は港を出ることはできなくした。もし公海上でロシア軍に敵対すればそれは開戦を意味する、と脅しまくるのだ。リトアニア大統領はひたすらに米国がNATOを指揮して救援することを哀願するのだが、大統領はこれに応えない。そして国務省や国防省の進言を退けてこういうのだ。”東ヨーロッパのちっぽけな畑のために核戦争を始めろというのか?それがロシアの望むところなのに。私は核戦争を始めた大統領として歴史に残されるのは御免蒙るよ”、と。いまウクライナ紛争が惹起しているのは、結局NATOも米国も社交クラブにすぎないではないか、という疑惑であり絶望なのではないか? そんな気を起させたのがこの本の後味である。

(面白いことに、カリブ海からパナマへかけて秘密裡に機雷を敷設するロシア海軍の旗艦がモスクワ、となっている。ウクライナが沈めたはずだよな?)

(ウイキペディア)ジョージ・ウォーレスは米国オハイオ州東部出身で、元海軍中佐。ロスアンジェルス級原子力潜水艦USSヒューストンで1990年2月から1992年8月まで艦長をつとめた。1995年に22年間の軍歴を終えて著作家に転じ、現在はヴァージニア州在住。ドン・キースは1947年生まれ。ジャーナリスト出身で、作家デビューは1995年。小説や軍事ノンフィクションの著作が30作以上ある。

閑のあるまま―”三大” 何とか,の話 (2)

この企画、先回に引きつづき投稿の多かった、旅先の話題を提供する。さすが、ワンダーフォーゲル、という感じがする。国際派?の保屋野君のメールから始めよう。

三大なにがし、考えているうちに投稿し遅れてしまいました。遅ればせながら、私の思い出に残る風景をご紹介します。観光地では、次の3か所でしょうか。

①   オランダ(アムステルダム) キューケンホフ公園のチューリップ

②   ノルウエー         ガイランゲルフィヨルド

③   アメリカ          アーチーズ国立公園のデリケートアーチ

ワンダー仲間も数多く訪問されているアルプスで選ぶならば

①   ツエルマット   スネガからのマッターホルン

②   グリンデルワルド バッハゼーからのシュレックホルン

③   シャモニー    ラックブランからのモンブラン針峰群

一方、国内では細分してみると

(滝)

①   北海道(天人峡) 羽衣の滝

②   尾瀬       三条の滝

③   立山       称名の滝

(山)

①   北ア・針の木岳からの剣・立山連峰(初めての北アルプス)

②   南ア・聖岳からの赤石岳(初めての南アルプス)

③   東吾妻山(景場平)からの磐梯山(高2の時、一人で登った安達太良~吾妻縦走)

(渚)

①   五島列島(福江島)高浜

②   沖縄       オクマビーチ

③   陸前高田     高田の松原(今はあの「奇跡の一本松」のみ)

一般的にいわれている ”三景“ はご存じの通り松島、天橋立、厳島だがこれを選定したのは江戸時代初期にいた儒学者林春斎だとウイキペディアは解説している。彼は例えば松島についてはさらに細かく、

「壮観」大高森: 東側。標高105.8m。松島湾。..

「偉観」多聞山: 南側。標高55.6m。七ヶ浜町の北…

「麗観」富山: 北側。標高116.8m。

「幽観」扇谷: 西側。標高55.8m。

等と著書 日本国事跡考 に書き残したそうだ。ウイキをめくってみて、日本三景観光連絡協議会、という団体まであることを知った。保屋野説に従ってみると、“滝” でいままで日本三名瀑、といわれてきたのは日光華厳の滝、和歌山は那智の滝、茨城は袋田の滝という事になっていて、お定まりの百名瀑、となると北端は北海道オシンコシンの滝(50m)から沖縄マリドウの滝(20m)までずらりと並ぶ。小生2年生のリーダー養成でタケノコ沢直登をわりあてられ、美濃島とふたりで “こりゃだめだわい” と引き返して怒られたタケノコ大滝はこの中には入っていない。”山“となればこれは各人千差万別、展望と記録と感傷と疲労とありとあらゆるものが要素になるだろうから敢えて保屋野説に甲論乙駁、いろいろあるだろう。たとえば:

(小川)小生メンバーの名古屋ゴルフ倶楽部からは御岳の遠望が一番から、12番からはマンションの隙間から聖岳のピラミッド山容が厳冬快晴の日に遠望されます。小生が発見し話題になりました。

(保屋野)
名古屋から聖岳が見えるとは・・・あの辺では「恵那山」が印象的でした。市街地からの眺望では、何といっても松本からの「常念岳」が一番ですが、酒田からの「鳥海山」も素晴らしい。車窓風景では、大糸線からの「後立山連峰」や小海線からの「八ヶ岳」が有名ですが、先日蔵王に行った際、東北新幹線からの日光連山、那須連峰、安達太良山、吾妻山と連続する雪山風景を楽しみました。

というような具合になる訳だ。この辺の話題なら何とかついていけるが、渚、となるとこれは勝負にならない。小生が行ってみたい渚なら ”地上より永遠に“ で バート・ランカスターとデボラ・カーがいちゃついた浜辺か、ノルマンディ上陸の激戦地 オマハビーチ くらいな発想しか出てこないからこれ以上言及はしない。

安田耕太郎君は彼の世界漫歩の結果を本に書いているくらいだから、彼の蘊蓄は著書を読んでもらうとして、小田篤子さんのいわく、

それぞれに思い出のつまった、皆様の三大風景、もっと若い時に知りたかったですね。私は海外へは始めの頃は子連れで出かけていましたので、安田さんの本を読み、羨ましく思った風景は……

①アタカマ砂漠で、ヒッチハイクしたトラックから見た満天の星

(私は①にあげたMt.アシニボインのコテージのベッドの窓のカーテンをパッと開けた時見えた、満天の星。ひとつひとつが大きく、流れ星も見え、感激しました。)最近は昨年3月の千畳敷の星空です。

②ボリビアの誰もいない5,400mの山に犬と登ったこと。

③独りで登られた、マチュピチユの山

絶対独りでは行けません、ふたりでも無理ですね。

3年前、OB合宿で西穂コースを選び、快晴のもと、笠ヶ岳の遠望をもってわが3000米にピリオドを打った小生としては、ミッキーのひとことは何とも言い難い感傷を引き起こした。時は流れる、かな。

“場所” のテーマが続いたので、”飲食“ についてはどうかと思っているのだが、現時点ではまだ2点頂いただけである。いろんな分野のエキスパートがおられると思うので、投稿を待ちたい。

 

エーガ愛好会 (136)善き人のためのソナタ  (44 安田耕太郎)

006年アカデミー外国語映画賞を受賞したドイツ映画。東ドイツの反政府勢力を取り締まる監視体制の犠牲になりかけた市民を、体制側の監視員が自由と人間の愛・芸術の崇高さに目覚め、最終的には救うという映画。冷戦下の冷徹な体制側の取り締まりとそれを潜り抜けようとする自由を求める反体制側の緊迫感溢れるストーリー展開は、残虐な殺戮シーンなどはないが、見応え充分だ。舞台は1984年、東西の壁が崩壊する5年前の東ベルリン。戦後の東西冷戦下、東ドイツでは国民を統制するため、国家保安省(シュタージ・Stasi、ソ連時代のKGBと同等)が徹底して国民を監視していた。10万人の協力者と20万人の密告者が、全てを知ろうとするホーネッカー独裁政権を支えたという。共産主義体制の下、個人の自由な政治思想は許されず、反体制的であるとされた者は逮捕され禁固刑が課される……。東ドイツは、そんな暗く歪んだ独裁国家だった。

シュタージの秘密捜査員ヴィースラー大尉は、国家に忠誠を誓い、反体制的な思想を持つ市民の捜査と、後輩の育成に力を入れている。監視と尋問を得意とするヴィースラーは、次の任務として反体制派と目される劇作家ドライマンの監視を命じられる。手際よく彼のアパートに盗聴器を仕掛け、そのアパートの屋根裏部屋を拠点に、徹底した監視を始める。無感情に盗聴するヴィースラーの顔からは、人間味は見られない。

 

この指令には、ドライマンの恋人である舞台女優のクリスタを自分のものにしたいという、ヴィースラーの上司ヘンプフ大臣の私的な欲望が潜んでいた。そんなことは知らず、「国の裏切り者の正体をあばいてやる」との使命感を持ち盗聴に専念するヴィースラー。しかし、劇作家ドライマンと、その恋人クリスタの会話から紡ぎだされる自由で豊かな心に、次第に共鳴していく。毎日盗聴を続けていくうちに、ドライマンとクリスタの人間らしい自由な思想、芸術、愛に溢れた生活に影響を受け、冷徹なはずのヴィースラーの内面に変化が生じ始める。そして、ドライマンが友人の独裁体制に悲観した自死を悼み、友人から「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」という言葉と共に贈られた、善き人のためのソナタという曲を弾いたのだ。この美しいピアノソナタを盗聴器を通して耳にしたとき、ヴィースラーは心を奪われてしまう……愛し合っているはずの恋人同士、信じ合っているはずの家族や友人をも相互不信に陥れ、絆を引き裂いてしまう監視国家の理不尽さ、非情さ。それらに気づき始めるヴィースラーの心に、美しいソナタの音色が深く響く。そして彼は、人間らしい人間へと少しずつ変化していく。 

ドライマンと西ドイツのシュピーゲル誌の記者は東ドイツの知られたくない情報(ヨーロッパで一番多い自殺者数であったが、1977年に公表を辞めた)を誌面に載せることに成功する。当局側はドライマンを情報漏洩の犯人と睨み、漏洩した情報の活字をタイプライターの種類で特定して、秘匿しているに違いないタイプライターをドライマン宅に押し入り、隈なく家宅捜索する。だが、見つからない。恋人クリスタはドライマン宅のタイプラーター隠し場所を知っており、尋問を受ける。当局側は彼女が何か知っていると睨んだのだ。彼女は舞台女優剥奪や諸々の脅しに抗しきれず遂にヴィースラーに隠し場所を白状してしまう。ヴィースラーの上司も隣の部屋で白状の始終を聞いていて、直ちに監視捜索団をアパート部屋に派遣して白状された隠し場所(床下)を捜す。しかし、そこにはタイプライターはなかった。この2回目の家宅捜索にも現場に立ち会った、タイプライターをそこに隠した張本人のドライマン自身も驚愕する白状した恋人のクリスタは罪の意識にさいなまれパニック状態でアパートに向かうが、アパート前の路上でトラックにはねられて死去する。ドライマンは一部始終を目のあたりにして唖然として放心状態で彼女の遺体を抱き上げる。 

ヴィースラーは首尾良く事件を解決させえなかった責任を取らされシュタージを解雇され単純な郵便物開封の仕事に就く。ほどなくして翌年1985年、“ゴルバチョフがソ連共産党の書記長に選出” の新聞記事を目にする。それから4年後の1989年にはベルリンの壁崩壊を経験する。更に2年後、仕事の帰り、町の本屋の窓にドライマンの著書「善き人のためのソナタ」の広告をたまたま見かけ、中に入ってその本を買い求める。

絶体絶命の2回目のタイプライター家宅捜索時に、クリスタの自白で隠し場所を知ったヴィースラーは先回りしてアパートに忍び込み、タイプラーターを持って引き上げていたのだ。そのことをドライマンは確信して、著書の中に特筆したのだった。ヴィスラーの本屋の店員に「いや 私のための本だ」と言う時のヴィースラーの表情がはればれとして清々しい。

映画はフィクションであり、シュタージの冷酷さはこんなものではなかった、この映画で描かれていることは歴史的事実異なっているとの指摘もあったという。それは大した問題ではないと僕は思う。この作品が伝える当時の東ドイツを支配していた空気感は本物であったに違いない。当時の監視組織が振りかざしていた権力と、内部の倫理的な葛藤が好対照に描かれている。人間の中に存在する善と悪が、途方もなく複雑に交じり合い、そしてもつれ合うものであるかということを、描き上げた映画だった。見終わった後、哀しさと人間の温かさと歴史の重みが心に深く残る素晴らしい作品だ。ドイツ映画には馴染みがないので知らなかったが、ヴィースラーを演じたウルリッヒ・ミューエを始め、多くの一流俳優が出演しているということだ。

(平井)私も見ましたこの映画。フランスでは「もう一つの人生」というタイトルでした。とても心に残った映画でした。このような世界と時代があったのだなと、感慨深くも考えさせられた映画でした。

随分前にお友達とベルリンに行ったのですが、ベルリンの壁の崩壊から数年は立っていましたが、東ベルリンに入ると走っている車のスタイルも旧式で建物は古く、貧富の差は明らかでした。昼間からカフェにたむろする酔っ払いのおじさんたちがいて、更に友人とはぐれてしまい、西ベルリン側に帰って来る時に、小学生ぐらいの不良の女の子二人に絡まれそうになって、傍にいた紳士が追い払ってくれたので無事でしたが、とても怖い思いをしました。自由がない世界は荒むのですよね。20世紀にあんなに苦しい体験をしながら、21世紀に入っても尚且つ争いを止めない人類は何か度し難いですね。

(編集子)この映画自体は見ていないが、本稿は五木寛之が直木賞を受賞し世に出た作品、”蒼ざめた馬を見よ” を思い出させる。妙に正義感を振りかざすのでなく、国家観に振り回される個人の在り方を追求したこの作品に影響されて五木作品はだいぶ読んだ。”青年は荒野を目指す” とか ”デラシネの旗” “凍河” ”内灘夫人” などというタイトルが浮かんでくる(なぜだったかわからないが、代表作とされる ”青春の門” には惹かれることがなくて未読である)。映画ではニューシネマ、なんていう時期だったろうか。

“蒼ざめた” では、 圧制下にあり、強固な反体制で知られる作家が、自分の名前を偽って作られた贋作を理由に当局に逮捕される。しかし彼の良心は、”書くべき人が書くことができなかったーそれが私の罪なのだ。この本は私が書くべき本だったのだ"と言わせて、冤罪を逃れようとはしない。安田君の解説からの推論なのだが、この映画のテーマも同じなのではないかと思うのだ。

(そうすると―認知症予防に始めたドイツ語がようやく ”中級″ にたどり着いたレベルの人間のいう事ではないのだろうとは承知の上で言うとー VOM という前置詞を ”のために” とするのは誤訳ではないのか、と思うのだがいかがだろうか。VON が持つ本来のニュアンスからすれば、善き人 ”による” であって、特定の読者のためではなく、圧制に苦しむ同胞の中で、なお、”善き人” 足らんとする勇気のある人 ”による” 音楽なのだ、というのではないか、と思うのだが)。

コロナはこれからどうなっていくだろうか  (42 河瀬斌)

先が見えてこないコロナ問題について医療の現場からドクター河瀬の展望を書いて頂いた。船曳先輩からの貴重な情報と合わせて、われわれなりに正しい認識を持つようにしたいものだ。
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1)いつになったらコロナは終わる?
昨年の今頃、ある雑誌に全部で5年ほどかかるだろう、という文を投稿させていただきました。その理由の一つは、過去のペスト、コレラなどの世界の疫病の歴史で、感染が収束するまで5年ほど要していること、今回のウイルスは変異を繰り返すのでその位かかるだろう、という予測などから得たものです。Pandemicになってすでに3年経過しておりますが、あと2年ほど必要でしょう。
2)変異はどうして起こるのか?
ウイルスが無数の分裂増殖を繰り返す中で、多くの遺伝子の間違いが起こるのが変異です。感染が盛んにできる環境では変異も旺盛に起こっているのです。その大部分は消滅してしまう変異ですが、ウイルスの生育に都合の良い遺伝子変異が起こった場合、それらが生き延びて新しいウイルスが増殖する(現在のオミクロンBA2, XEなど)。
3)ワクチンが効かなくなる変異が起こらないか?
変異はコロナをまるで変幻自在の妖術者のように仕立てており、いつかワクチンも効かないウイルスが出現するかもしれませんね。
しかし専門家の意見(大阪大学免疫学、宮坂昌之先生)ではコロナウィルスにワクチンや抗体が効かなくなるような変異は起こらないだろう、ということですので、安心してください。
4)中国の厳しい「ゼロコロナ政策」でもなぜ感染が防げない?
それはウイルスが他に感染しやすい潜伏期間とPCRが陽性になる時期にずれ(遅れ)があるからです。すなわち1回のPCR検査では陽性かどうかわからないことも多いのです。PCRは繰り返せばウイルスの存在を99.9%知ると言われています。しかしそれでも100%ではないので、上海のような大きな人口の都市では検査の漏れが生じ、ロックダウンしてもオミクロンなどの感染力が強い場合は偽陰性となった人から食料配給や監視役などの業務を介して感染を広げてしまうのでしょう。
5)それでは今後世界はどうなる?
免疫学では「感染力の強いウイルスほど自滅するのも早い」と言われています。現在のオミクロン変異株は感染がどんどん早まっていますので、いずれウイルスの自滅も早まるでしょう。それまでワクチンを定期的に打ち、重症化を防いでいれば、いずれこの疫病は感染しても無症状か、罹っても軽くなり、インフルエンザ程度の疾患になってゆくでしょう。またワクチンを打たない若者でも繰り返し感染して自己免疫を獲得( I 型インターフェロンが作られる)してゆくでしょう(ただしその過程で後遺症を残すこともあります)。現に欧米ではそうなりつつあり、予防マスクもしないようですので、日本も今後は国境での規制が次第に緩和されると思います。
 ただし問題はワクチンのできない途上国で、そこから新しい変異株が輸入されることが問題です。結果として世界中ではCOVID-19ウイルスはなかなか完全には消滅しないため、急にワクチンをやめることにはならないことでしょう。ですからワクチンは一時的と考えず、今後は国産ワクチンの増産に力を入れるべきでしょう。個人カードの入力項目に基礎疾患やワクチン接種の項目を加えることも必要でしょう。またコロナ以前は健康保険制度の維持のために病院を潰すことばかり考えていた政府は、非常時の医療体制がいかに重要で早急には感染ベッドを増強できないことが身に染みたことでしょう。
6)コロナの長期流行が影響していること:
教育と文化:まず第一に影響を受けたのは学生の生活でしょう。友人ができにくかった、授業が十分でなかった、留学のチャンスを奪われたことなどは若者の将来にわたってその生き方に陰を落とすでしょう。また古き良き日本の伝統文化、祭、花火、舞踊、音楽などは今後保護しないと衰退の一歩を辿りますので、皆で支える必要があります。
働き方改革:いろいろな職種でリモートワークが進んでいます。最近の学会もハイブリッドといって現地参加だけでなく、学会発表を自宅のパソコンで見て質問もできる、という時代になりました。これによって自由な時間が増えたため、自宅の環境を見直すようになりました。帰宅途中で飲めないので自宅で飲む習慣がついたこと、アウトドアの指向など、コロナは今までの日本人の生活習慣を変えていますので、これらはコロナによる良い面の影響と言えるでしょう。

近場で春を感じてきました  (小学校クラスメート  市橋由美子)

 

元気にちかばの散歩 先日は板橋さんと目黒自然教育園に行ってきました。さくらはるの野草がきれいでした。かたくりの花と一輪草です。  これから近場てはあざみ  銀欄  金蘭が咲きだします。

(編集子)小生は満州から引き揚げの翌年昭和22年に大田区立赤松小学校に入学した。当時は戦後の教育制度も混乱していて、先生方も今では想像できないご苦労があったはずだが、小生の入ったクラス担任五十嵐智先生の情熱的指導によって今日の僕らがあると思っていて、人数も会う機会も減りはしたが依然、長い付き合いをさせてもらっている。市橋君は旧姓小林、通称コバユミ、長身で我が2組の、今風に言えばマドンナ的存在だった。五十嵐先生は九十歳後半だがまだ矍鑠としておられる(先生と小生がアメリカからお送りしたグレープフルーツの奇蹟については2年ほど前、本稿でご報告した。今先生はいつ花が咲くか、と心待ちにしておられるということである。

スイスー銃所有率が極めて高いのになぜ乱射事件が起きないのか (HPOB 菅井康二)

平均的な日本人が考えているよりも21世紀の世界はかなり物騒であり野蛮な輩(政治指導者etc.)も存在していることが鮮明になった。我が国の周囲を見回してみても問題を解決するための「話し合い」が通用するとは思えない国々が存在しているということを認識する必要もある。日本列島は天然資源には乏しく魅力ある耕作地の面積が小さいとはいえユーラシア大陸東端に位置する諸国にとっては太平洋への出口の要害の地になっているということも事実である(地図の南北を逆さまにすれば良く解る)。4年も前のスイスに関する記事ではあるが敢えてここに紹介する。現在は徴兵制はともかくとして大人になる前の義務教育において国防意識に関する教育と基本的な銃器の取り扱いの訓練を組み込む必要性の有無を議論するべき時ではないだろうか。下記をご一読いただければ幸甚。

現時点で欧州旅行を考える人に   (普通部OB 田村耕一郎)

友人の赤阪清隆氏から届いた情報の一部を欧州旅行を考えておられる方々へのご参考までにご紹介する。

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3月22日から昨日4月5日までの二週間、デンマークとフランスを訪問してまいりました。デンマークは、会議に出るための出張、フランスは私的なパリ旅行でした。今この時期に欧州を訪問したらどういうことだったかを事実に即して詳しくお伝えするのは、そろそろ海外旅行を再開したいと思われる方にはご参考になると思います。 

 まず、ウクライナ危機の影響です。予約済みのヘルシンキ経由デンマーク行きフィンランド航空は、ロシアの上空を通過できなくなったので、キャンセルになりました。フィンランド航空の手配でJAL便に変更になって、ロンドンまでは出発日前に確保できたのですが、それから先のフライトは、私が羽田空港に着いてから、JALのカウンターの人たちが懸命に探してくれて、英国航空が確保できました。フィンランド航空の帰国便もヘルシンキ以降はキャンセルになり、予定より一日遅れのJAL便に変更になりました。 羽田出発の際のJALカウンターでは、パスポートとワクチン接種証明(3回)を見せただけで、追加的にPCR検査陰性証明は必要ありませんでした。

 JAL便は、羽田から北東方向に進み、アンカレッジ、北極圏、グリーンランド、アイスランド上空を飛ぶこと15時間40分で、ロンドンヒースロー空港に着きました。機内では、マスク着用が義務付けられましたが、ヒースロー空港では、マスクをしている人は少数で、英国人とおぼしき人はマスクをしていませんでした。コペンハーゲン行きの英国航空は、びっしり満員でしたが、マスク着用は必要ありませんでした。

 コペンハーゲン空港では、ウクライナの婦人と小さな子供が泣きながら抱き合っている映像が、繰り返し繰り返し大きなビデオに写されて、寄付の呼びかけが行われていました。デンマークでも、その後のフランスでも、テレビのニュースはウクライナの惨状を伝えるものが大半でした。デンマークの公の建物には、ウクライナの国旗を掲げているところがたくさんありました。両国とも、市民がロシアのウクライナ侵略に憤ると同時に、ウクライナとの連帯を示そうとしている様子がうかがえました。 コペンハーゲンの海岸沿いのホテルに泊まったのですが、ホテル内でも市内でも、マスクをしている人は、まったくいませんでした。春の日差しを浴びて、川沿いの小綺麗なレストランのテラスで、オープンサンドイッチなどの食事を楽しむ人々がいっぱいでした。マスクをしていて奇異な目で見られることはありませんでしたが、こちらはあまりに多数に無勢なものですから、日本とは逆に、マスクを外す同調圧力を無意識に感じるほどでした。マスクを外すと、「私も皆さんと一緒」という友愛感のような感じがするのです。危ない、危ないとは知りつつも、ついマスクを外したくなり、現に気がついたら外していたことがしばしばありました。 

 デンマークの人口は、583万人で、そのうちコロナ感染者数は、なんと5割以上の300万人強。デンマーク人の友人によると、「もう家族も、友人も、誰もが感染 したし、たいがい重症化しないから、インフルエンザ並みの感じになっている」とのことでした。マスクをしていないタクシーの運転手に、「コロナに感染したか?」と聞いたら、「もう二度もかかったよ、アハハ」という屈託のない返事でした。 しかし、そうはいっても、我ら日本からやってきた短期出張者にとっては、感染したら大変です。帰国できなくなります。マスクをすべきか、外すべきか、ハムレットよろしく悩む毎日でした。 

 この会議の後、パリに、ルフトハンザ航空に乗って、ミュンヘン経由で行きました。搭乗の際にワクチン接種証明を見せただけでしたが、機内では、マスク着用が義務づけられました。すべてEU加盟国なので、パリ入国手続きは、まったく何もありませんでした。 バリに着いたのは3月26日でしたが、街に入ると、マスクをかけている人はごく少数に見えました。3月14日に市内でのマスク着用義務や、レストランなどでのワクチンパスの提示が解除されたばかり(ただし、地下鉄など公共交通機関ではなおマスク着用が義務付け)の時期にあたりました。気温が20度近くにも上がるうららかな春日和で、パリの人々は開放感に浸っているような印象を受けました。 

 しかし、インターネットで調べると、フランスのコロナ禍は、まだまだ収束するには程遠い状況でした。フランスの人口は、約6700万人で、そのうちコロナ感染者数は、2440万人といいますから、4割近くに上っていました。パリ到着当初では、フランス全土で一日あたり平均12万人もが感染している状況でした。再び感染者が増えつつあり、私の最後の滞在日となった3月31日は、新たな感染者数が17万人にまで増えていました。 それでも、レストランやカフェなどを見る限り、マスクをして入る客は私ぐらいしかなく、雰囲気としては昔のパリに戻った様子を見せていましたが明らかに、パリを訪れる外国人観光客の数は、以前より減少したままの模様でした。セーヌ川を巡回する観光船バトームシュにも、空いた席が目立っていました。再びルフトハンザ航空でデンマークに戻りました。搭乗には、パスポートとワクチン接種証明の提示が求められただけでしたが、機内ではマスク着用が義務づけられました。コペンハーゲン空港では、入国手続きは一切ありませんでした。フィンランド航空のフライトがキャンセルされたこともあって、コペンハーゲンの街に再び数日滞在したのですが、やはり、見事に誰もマスクをしていませんでした。今回は、この大きな街で、たぶん私ひとりだけがマスク!それでも、PCR検査を控えておりましたから、意地でもマスクを外しませんでした。  

  日本帰国にあたっては、出発前72時間以内のPCR検査の陰性証明書、誓約書の提出、スマートフォンの携行と必要なアプリの登録、そして質問書への回答という煩わしい手続きが必要でした。ただし、今年の3月3日から、3回のワクチン接種証明を持っている日本人には、日本入国の際の検査で陰性であれば、自主待機はもとめられなくなり、これは嬉しいニュースでした。なにせ、昨年9月の欧州からの帰国時には、2週間もの自主隔離が必要だったのですから。  しかし、まだ残っているPCR検査というのは、不安とストレスがたまる、なんとも嫌な手続きでした。コペンハーゲン空港にあるメディカルセンターで、検査を受けたのですが、検査結果が知らされるまでの2時間は長かったですね。なにせ、感染者がやたらと多い国々で、しかもマスクをしていない人たちとの密な空間をくぐり抜けてきたわけですから、3回のワクチン接種済みとはいえ、感染してもまったく不思議ではありませんでした。

  同メディカルセンターでは、厚労省の様式に従って検査結果を出してくれて、2時間待ちだと約3万3,000円もしました。時間はありましたので、もっと待ち時間が長くて安い検査結果の入手の手もあったのですが、一刻も早く結果を知りたいと焦る気持ちがありました(昨年夏フランクフルトで、24時間待ちの、安価な検査結果にした時の長く不安だった経験を思い出しました)。陽性の結果が出たら帰国便には乗せてもらえません。陰性になるまでに何日ぐらいかかるのか、どこかに「隔離」されるのかどうか、その場合はどこで隔離されるのかなど、まったく見当がつかないものですから、メディカルセンターの係の人に聞きましたら、「陽性の場合はドクターから指示があります」とだけのつれない返事。不安は、否が応でもつのりますよね。

   デンマークも、フランスも、ワクチン接種証明さえあれば入国可能なのに、日本の水際対策はなお厳しいですね。以上のような精神的圧力を日本人にもかけているのを、厚労省の皆さんは良く理解されているのでしょうかね? デンマークでもフランスでも外国人観光客が徐々に増えつつありましたが、日本ではまだ一切認められていません。そろそろ、わが外務省も、せめてG7先進国並みにするよう、水際対策の一層の緩和に向けて頑張ってもらいたいと願うばかりです。 

  今回の欧州旅行を振り返りますと、「まだ怖いな」というのが本音です。欧州各地では、コロナ感染が収束する気配を見せていないのに、重症化する人が少なくて、「インフルエンザみたいなものになった」として、行動制限の緩和が急速に進んでいます。これは、現地に住む人にとっては十分理にかなった措置と思われますが、短期間訪問する外国人にとっては、コロナ感染の危険性がなお残っている状況と言えます。私のように、定年退職者で、日本に帰国しても直ぐやらなければならない急務がない、「気ままな」酔狂人は別ですが、日本に仕事があったり、家族や家のことなど心配事を抱えて予定通り帰国しなくてはならないような人は、今少しの間、リスクの残る欧州観光旅行は慎重に考えられた方が良いのではないかと、老婆心ながら申しあげます。   特に、日本政府が、前述のPCR検査陰性証明を帰国の際の条件にしている間は、気をつけられた方が良いですね。インフルエンザとは違って、陰性証明が無いと帰国便に乗せてもらえないのですから。

(河瀬)赤坂氏の欧州旅行の話は大変参考になりました。欧州へはウクライナ戦争で昔のようにアンカレッジ経由になった(昔を思い出します)。しかも欧州ではCOVID-19はインフルエンザ並みの扱いでマスクせず、旅行中感染する危険も高く、帰りに義務付けられているPCR検査が陽性になると一週間帰国できなくなる。「行きはヨイヨイ帰りはこわい」という二重苦なのですね。日本の現状ではおいそれとは欧州並みにはできないでしょう。

 これで日本は再び世界の僻地となったので、観光客や留学生が来ないわけですね。そろそろ欧州へ行きたかったのですが、当分諦めましょう。

 

 

追悼:ジャック・ヒギンズ

今朝の読売はジャック・ヒギンズが亡くなったと報じた。享年92歳、冥福を祈りたい。

仕事を辞めた後、きっかけは何だったか思い出せないのだが、鷲は舞い降りた を見つけて読み始め、ほぼ1年の間、新刊と言わずブックオフと言わず探しまくってほぼ20冊、ヒギンズ節に熱中した。その後、どうせ読むなら原本を読んでみるか、と Eagle has landed  を苦労して読んだのが今も続けているポケットブックハンティングだ。その手始めになった鷲の原本はまさに手あかにまみれ、第一ページから辞書と首っ引きだった苦闘のあとをのこして赤線だらけである。

“鷲は舞い降りた” と、ァリステア・マクリーンの 女王陛下のユリシーズ号 は第二次大戦を背景とした小説の白眉だと思っていて、いつか来ることではあったが彼の逝去はやはり心に染みる。

小生にとっては、この欄でも書いたが、違うジャンルとはいえアルファベットシリーズ26冊の快挙を目前になくなったスー・グラフトンの急逝とともに悲報である。ただヒギンズは有名な多作家であるが、正直、ここ数年の新著にはみるべきものもなく、あきらかに衰えを感じていた。だからおすすめのリストには超売れっ子作家になるまえの、いわば中期の作品しかあげない。

”鷲” とならんでヒギンズの真骨頂だと思っている作品には、第二次大戦秘話、という分野では 狐たちの夜(Night of the fox),  どちらかといえば海洋冒険ものに近い 脱出航路 (Storm Warning)、それと僕の最も好きな作品として 廃墟の東 (East of desolation) なんかがある。ブックオフにはよく見かけるヒギンズもの、を試してみることをお勧めする次第。いずにせよ、また時代は一つ、冷酷に進んだ感じがする。

 

エーガ愛好会 (135) 折れた矢     (34 小泉幾多郎)

この映画こそインディアンを野蛮人としてではなく、心の痛みを感じるハートを持った人間として描いた最初の映画として評価される。監督はデルマー・デイヴィスで、この後「去り行く男1955」「襲われた幌馬車1956」「決断も3時30分1957」「カウボーイ1958」「縛り首の木1959」とたて続けに西部劇の名作を作っている。

この作品でアカデミー賞に酋長コチーズに扮したジェフ・チャンドラーが助演男優賞、カラー撮影賞にアーネスト・パーマー、脚色賞にマイケル・フランクフィーがノミネートされたが、残念ながら受賞には至らなかった。この作品が作られた1950年と言えば、赤狩りの真最中で、よくぞインディアンに同情的で斬新な画期的な作品が作られたものと思ったら、この脚色を書いたのが、マイケル・フランクフィートではなく、その友人で、赤狩りで追われたリベラル派のアルバート・モルツが名前を借りて影で書いたそうな。

物語りは1870年、アリゾナは白人とアパッチ族との間に流血の惨事が絶えなかった。金鉱を探しに来たトム・ジェフォーズ(ジェームス・スチュアート)は傷ついたアパッチ少年を助けたことから、アパッチもまた公正を重んずることを知り、単身アパッチの本拠に乗り込み酋長コチーズを訪ね和睦を申し込んだ。最初は郵便関係から、白人にとっての郵便は、アパッチにとっては狼煙で、どちらも心を伝えることが共通ということから始まり、グラント大統領から派遣されたハワード将軍(ベイジル・ルイスデール)を入れての和平に漕ぎつけた。ジェフォーズは部落滞在中、アパッチの少女ソンシーアレイ(デブラ・パジェット)を愛るようになり結婚する。その間インディアン側はジェロニモ等が蜂起したり、白人側はインディアンを嫌うベン・スレイド(ウイル・ギア)等が、コチーズ、ジェファーズ、ソンシーアレイが談笑しているところを襲い、ジェファーズは傷つき,ソンシーアレイは死んでしまう。逆上したジェファーズは捕虜にした白人に飛びかかろうとするが、コチーズの一言「私は仲間の死を耐える。妻の死を耐えろ。」で思いとどまった。最後の言葉も印象的「私はコチーズだ。民と子供らを裏切らない。二度と戦いは起こさせない。お前にも。」

アカデミー賞にノミネートされただけにカラー撮影は山岳地帯を中心に、美しいし、音楽もその景観にマッチして、インディアン調のエキゾティックなメロディが心地よく響く。 主演のジェームス・スチュアートは本来善意の塊のような純

粋無垢の男を演じてきているが、この頃から一転して、西部劇の強いヒーローを演じている。これはタフガイというよりも、強くなければならないと思って懸命に努める普通の男であり、そこが実に魅力的なのであった、と喝破したのは、先日91歳で亡くなられた映画評論家佐藤忠男氏の言葉。ジェフ・チャンドラーは酋長を好演したが、ラジオ俳優出身からか素晴らしい声の持ち主で期待されていたが50歳になる前に若死にしてしまい残念。デブラ・パジェットも可憐なインディアン娘で、どちらかというとエキゾティックな役柄が似合ったように思った。

(編集子)“折れた矢” Broken Arrow にはほかの意味がある。ウイキペディアから転載する。

ブロークンアローは核兵器の紛失、盗難、または不慮の爆発や投下、発射、それらに関連する事故や事件を表す言葉だ。核兵器にそんな事が絶対にあってはいけないし、そんな事件聞いたことが無いと思うかもしれない、しかし、戦後の米ソの冷戦と核開発競争、イギリスやフランス、中国、インド、パキスタンと各国が核兵器の開発、配備を進めた1950~1990年代には「ブロークンアロー」という言葉がしばしば飛び交っていたのだ。冷戦期には米ソ連共に自国の艦船、潜水艦、爆撃機に24時間核兵器を搭載し、いつでも攻撃できる臨戦態勢を敷いていた。多くの核兵器が配備され世界中に散らばる中で事故や過失は決して少なく無く、1950年代以降に少なくとも32件の「ブロークンアロー」が起きている。

この意味での“折れた矢”がテーマになったのが1966年の Broken Arrow, 日本題名 ”ブロークンアロー” として公開された映画である。ジョン・トラボルタが悪役、なかなかスリルのある作品だった。トラボルタは憎らしい笑いを常に浮かべていて、本稿でも紹介した、ウインチェスタ銃73 のダン・デュリエを彷彿させる好演だった。