今日(4/21)の深夜(午前2:50-午前3:49)
世界ふれあい街歩き「ウクライナ・キエフ」
https://bityl.co/BtJj
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
今日(4/21)の深夜(午前2:50-午前3:49)
世界ふれあい街歩き「ウクライナ・キエフ」
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数日前の報道ではかのブルース・ウイルスが引退、とあった。シュワルツェネッガー、スタローン、セガールなどとともにアクション映画で一時代を画した人たちだが、そのあとに売り出したのが エンドオブホワイトハウス で登場したジェラルド・バトラーである。彼の主演で数年前に封切られた ハンターキラー は反乱軍に拉致されたロシア大統領を米軍潜水艦が救出するという奇想天外なストーリーが面白く、潜水艦同士の不気味な闘いも見ごたえがあった。この作品は米海軍中佐で実際に潜水艦の艦長だったジョージ・ウオレスという人が書いたもので、潜水艦物といえばかの 眼下の敵 深く静かに潜航せよ レッドオクトーバーを追え などが思い浮かぶが、やはり現代のエレクトロニクス技術満載の軍艦の描写となると経験者が書いたものの迫力は違ったものだった。
そんな経験から、著者名にひかれて Fast Attack と Dangerous Grounds という2冊をアマゾンで買い、始めに読んだのがこの本だが正直言って、期待外れ、前作にははるかに及ばない出来栄えだった。しかし後半にでてくるロシアとアメリカ大統領の設定が、まさにたった今、ウクライナを挟んで向き合っているプーチンとバイデンをそのまま借りてきたのかというようで、読んでいると現在のウクライナ侵攻の具合もこうだったのではないか、と思わせるのにびっくりもし、ある意味で背筋が寒くなる感じでもあった。
この話ではウクライナではなくバルト三国のウイークリンクであるリトアニアへの侵攻が伏線にある。ロシアの大統領はアメリカを最初からなめきっていて好戦的な行動を繰り返すのだが、米国側は国際協調とか国連とか響きのいいことを繰り返し、国民の支持率優先の対応を繰り返す。ロシアは秘密裡に米国東海岸の軍港沖やパナマ運河に潜水艦によって機雷を敷設し、米国海軍が実質上動けなくしたうえでリトアニアへ侵攻してしまう。この危機を救うのが2隻の潜水艦の活躍なのだが、話はハピーエンドではなく、米国海軍で臨機の措置をとった責任者をこの大統領は更迭してしまう、という政治屋の理屈で終わるのだ。
ロシア大統領は電話で米国大統領を電話会談で、もう威張り腐ったアメリカを信用する国なんかない。そちらが勝手に冷戦などとでっちあげたり、ベトナムでは負けるし国家建設だのレジーム改革だの、結局はオイル会社の言いなりになっている間に世界はアメリカのいう事など信じなくなっていると面罵する。米国の優位性を否定しNATOは単なる社交クラブにすぎない、というのだ。そして次の電話会談では一方的にロシア軍の封じ込めによって米国軍は港を出ることはできなくした。もし公海上でロシア軍に敵対すればそれは開戦を意味する、と脅しまくるのだ。リトアニア大統領はひたすらに米国がNATOを指揮して救援することを哀願するのだが、大統領はこれに応えない。そして国務省や国防省の進言を退けてこういうのだ。”東ヨーロッパのちっぽけな畑のために核戦争を始めろというのか?それがロシアの望むところなのに。私は核戦争を始めた大統領として歴史に残されるのは御免蒙るよ”、と。いまウクライナ紛争が惹起しているのは、結局NATOも米国も社交クラブにすぎないではないか、という疑惑であり絶望なのではないか? そんな気を起させたのがこの本の後味である。
(面白いことに、カリブ海からパナマへかけて秘密裡に機雷を敷設するロシア海軍の旗艦がモスクワ、となっている。ウクライナが沈めたはずだよな?)
(ウイキペディア)ジョージ・ウォーレスは米国オハイオ州東部出身で、元海軍中佐。ロスアンジェルス級原子力潜水艦USSヒューストンで1990年2月から1992年8月まで艦長をつとめた。1995年に22年間の軍歴を終えて著作家に転じ、現在はヴァージニア州在住。ドン・キースは1947年生まれ。ジャーナリスト出身で、作家デビューは1995年。小説や軍事ノンフィクションの著作が30作以上ある。
この企画、先回に引きつづき投稿の多かった、旅先の話題を提供する。さすが、ワンダーフォーゲル、という感じがする。国際派?の保屋野君のメールから始めよう。
三大なにがし、考えているうちに投稿し遅れてしまいました。遅ればせながら、私の思い出に残る風景をご紹介します。観光地では、次の3か所でしょうか。
① オランダ(アムステルダム) キューケンホフ公園のチューリップ
② ノルウエー ガイランゲルフィヨルド
③ アメリカ アーチーズ国立公園のデリケートアーチ
① ツエルマット スネガからのマッターホルン
② グリンデルワルド バッハゼーからのシュレックホルン
③ シャモニー ラックブランからのモンブラン針峰群
一方、国内では細分してみると
(滝)
② 尾瀬 三条の滝
③ 立山 称名の滝
(山)
① 北ア・針の木岳からの剣・立山連峰(初めての北アルプス)
② 南ア・聖岳からの赤石岳(初めての南アルプス)
③ 東吾妻山(景場平)からの磐梯山(高2の時、一人で登った安達太良~吾妻縦走)
(渚)
① 五島列島(福江島)高浜
② 沖縄 オクマビーチ
③ 陸前高田 高田の松原(今はあの「奇跡の一本松」のみ)
一般的にいわれている ”三景“ はご存じの通り松島、天橋立、厳島だがこれを選定したのは江戸時代初期にいた儒学者林春斎だとウイキペディアは解説している。彼は例えば松島についてはさらに細かく、
「壮観」大高森: 東側。標高105.8m。松島湾。..
「偉観」多聞山: 南側。標高55.6m。七ヶ浜町の北…
「麗観」富山: 北側。標高116.8m。
「幽観」扇谷: 西側。標高55.8m。
等と著書 日本国事跡考 に書き残したそうだ。ウイキをめくってみて、日本三景観光連絡協議会、という団体まであることを知った。保屋野説に従ってみると、“滝” でいままで日本三名瀑、といわれてきたのは日光華厳の滝、和歌山は那智の滝、茨城は袋田の滝という事になっていて、お定まりの百名瀑、となると北端は北海道オシンコシンの滝(50m)から沖縄マリドウの滝(20m)までずらりと並ぶ。小生2年生のリーダー養成でタケノコ沢直登をわりあてられ、美濃島とふたりで “こりゃだめだわい” と引き返して怒られたタケノコ大滝はこの中には入っていない。”山“となればこれは各人千差万別、展望と記録と感傷と疲労とありとあらゆるものが要素になるだろうから敢えて保屋野説に甲論乙駁、いろいろあるだろう。たとえば:
(小川)小生メンバーの名古屋ゴルフ倶楽部からは御岳の遠望が一番から、12番からはマンションの隙間から聖岳のピラミッド山容が厳冬快晴の日に遠望されます。小生が発見し話題になりました。
(保屋野)
名古屋から聖岳が見えるとは・・・あの辺では「恵那山」が印象的でした。市街地からの眺望では、何といっても松本からの「常念岳」が一番ですが、酒田からの「鳥海山」も素晴らしい。車窓風景では、大糸線からの「後立山連峰」や小海線からの「八ヶ岳」が有名ですが、先日蔵王に行った際、東北新幹線からの日光連山、那須連峰、安達太良山、吾妻山と連続する雪山風景を楽しみました。
というような具合になる訳だ。この辺の話題なら何とかついていけるが、渚、となるとこれは勝負にならない。小生が行ってみたい渚なら ”地上より永遠に“ で バート・ランカスターとデボラ・カーがいちゃついた浜辺か、ノルマンディ上陸の激戦地 オマハビーチ くらいな発想しか出てこないからこれ以上言及はしない。
安田耕太郎君は彼の世界漫歩の結果を本に書いているくらいだから、彼の蘊蓄は著書を読んでもらうとして、小田篤子さんのいわく、
それぞれに思い出のつまった、皆様の三大風景、もっと若い時に知りたかったですね。私は海外へは始めの頃は子連れで出かけていましたので、安田さんの本を読み、羨ましく思った風景は……
(私は①にあげたMt.アシニボインのコテージのベッドの窓のカーテンをパッと開けた時見えた、満天の星。ひとつひとつが大きく、流れ星も見え、感激しました。)最近は昨年3月の千畳敷の星空です。
②ボリビアの誰もいない5,400mの山に犬と登ったこと。
③独りで登られた、マチュピチユの山
絶対独りでは行けません、ふたりでも無理ですね。
3年前、OB合宿で西穂コースを選び、快晴のもと、笠ヶ岳の遠望をもってわが3000米にピリオドを打った小生としては、ミッキーのひとことは何とも言い難い感傷を引き起こした。時は流れる、かな。
“場所” のテーマが続いたので、”飲食“ についてはどうかと思っているのだが、現時点ではまだ2点頂いただけである。いろんな分野のエキスパートがおられると思うので、投稿を待ちたい。
006年アカデミー外国語映画賞を受賞したドイツ映画。東ドイツの反政府勢力を取り締まる監視体制の犠牲になりかけた市民を、体制側の監視員が自由と人間の愛・芸術の崇高さに目覚め、最終的には救うという映画。冷戦下の冷徹な体制側の取り締まりとそれを潜り抜けようとする自由を求める反体制側の緊迫感溢れるストーリー展開は、残虐な殺戮シーンなどはないが、見応え充分だ。舞台は1984年、東西の壁が崩壊する5年前の東ベルリン。戦後の東西冷戦下、東ドイツでは国民を統制するため、国家保安省(シュタージ・Stasi、ソ連時代のKGBと同等)が徹底して国民を監視していた。10万人の協力者と20万人の密告者が、全てを知ろうとするホーネッカー独裁政権を支えたという。共産主義体制の下、個人の自由な政治思想は許されず、反体制的であるとされた者は逮捕され禁固刑が課される……。東ドイツは、そんな暗く歪んだ独裁国家だった。
シュタージの秘密捜査員ヴィースラー大尉は、国家に忠誠を誓い、反体制的な思想を持つ市民の捜査と、後輩の育成に力を入れている。監視と尋問を得意とするヴィースラーは、次の任務として反体制派と目される劇作家ドライマンの監視を命じられる。手際よく彼のアパートに盗聴器を仕掛け、そのアパートの屋根裏部屋を拠点に、徹底した監視を始める。無感情に盗聴するヴィースラーの顔からは、人間味は見られない。
この指令には、
ドライマンと西ドイツのシュピーゲル誌の記者は東ドイツの知られ
ヴィースラーは首尾良く事件を解決させえなかった責任を取らされ
絶体絶命の2回目のタイプライター家宅捜索時に、
映画はフィクションであり、
(平井)私も見ましたこの映画。フランスでは「もう一つの人生」
随分前にお友達とベルリンに行ったのですが、
(編集子)この映画自体は見ていないが、本稿は五木寛之が直木賞を受賞し世に出た作品、”蒼ざめた馬を見よ” を思い出させる。妙に正義感を振りかざすのでなく、国家観に振り回される個人の在り方を追求したこの作品に影響されて五木作品はだいぶ読んだ。”青年は荒野を目指す” とか ”デラシネの旗” “凍河” ”内灘夫人” などというタイトルが浮かんでくる(なぜだったかわからないが、代表作とされる ”青春の門” には惹かれることがなくて未読である)。映画ではニューシネマ、なんていう時期だったろうか。
“蒼ざめた” では、 圧制下にあり、強固な反体制で知られる作家が、自分の名前を偽って作られた贋作を理由に当局に逮捕される。しかし彼の良心は、”書くべき人が書くことができなかったーそれが私の罪なのだ。この本は私が書くべき本だったのだ"と言わせて、冤罪を逃れようとはしない。安田君の解説からの推論なのだが、この映画のテーマも同じなのではないかと思うのだ。
(そうすると―認知症予防に始めたドイツ語がようやく ”中級″ にたどり着いたレベルの人間のいう事ではないのだろうとは承知の上で言うとー VOM という前置詞を ”のために” とするのは誤訳ではないのか、と思うのだがいかがだろうか。VON が持つ本来のニュアンスからすれば、善き人 ”による” であって、特定の読者のためではなく、圧制に苦しむ同胞の中で、なお、”善き人” 足らんとする勇気のある人 ”による” 音楽なのだ、というのではないか、と思うのだが)。
元気にちかばの散歩 先日は板橋さんと目黒自然教育園に行ってきました。さくらはるの
(編集子)小生は満州から引き揚げの翌年昭和22年に大田区立赤松小学校に入学した。当時は戦後の教育制度も混乱していて、先生方も今では想像できないご苦労があったはずだが、小生の入ったクラス担任五十嵐智先生の情熱的指導によって今日の僕らがあると思っていて、人数も会う機会も減りはしたが依然、長い付き合いをさせてもらっている。市橋君は旧姓小林、通称コバユミ、長身で我が2組の、今風に言えばマドンナ的存在だった。五十嵐先生は九十歳後半だがまだ矍鑠としておられる(先生と小生がアメリカからお送りしたグレープフルーツの奇蹟については2年ほど前、本稿でご報告した。今先生はいつ花が咲くか、と心待ちにしておられるということである。
友人の赤阪清隆氏から届いた情報の一部を欧州旅行を考えておられる方々へのご参考までにご紹介する。
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3月22日から昨日4月5日までの二週間、デンマークとフランスを訪問してまいりました。デンマークは、会議に出るための出張、フランスは私的なパリ旅行でした。今この時期に欧州を訪問したらどういうことだったかを事実に即して詳しくお伝えするのは、そろそろ海外旅行を再開したいと思われる方にはご参考になると思います。 まず、ウクライナ危機の影響です。予約済みのヘルシンキ経由デンマーク行きフィンランド航空は、ロシアの上空を通過できなくなったので、キャンセルになりました。フィンランド航空の手配でJAL便に変更になって、ロンドンまでは出発日前に確保できたのですが、それから先のフライトは、私が羽田空港に着いてから、JALのカウンターの人たちが懸命に探してくれて、英国航空が確保できました。フィンランド航空の帰国便もヘルシンキ以降はキャンセルになり、予定より一日遅れのJAL便に変更になりました。 羽田出発の際のJALカウンターでは、パスポートとワクチン接種証明(3回)を見せただけで、追加的にPCR検査陰性証明は必要ありませんでした。 JAL便は、羽田から北東方向に進み、アンカレッジ、北極圏、グリーンランド、アイスランド上空を飛ぶこと15時間40分で、ロンドンヒースロー空港に着きました。機内では、マスク着用が義務付けられましたが、ヒースロー空港では、マスクをしている人は少数で、英国人とおぼしき人はマスクをしていませんでした。コペンハーゲン行きの英国航空は、びっしり満員でしたが、マスク着用は必要ありませんでした。 コペンハーゲン空港では、ウクライナの婦人と小さな子供が泣きながら抱き合っている映像が、繰り返し繰り返し大きなビデオに写されて、寄付の呼びかけが行われていました。デンマークでも、その後のフランスでも、テレビのニュースはウクライナの惨状を伝えるものが大半でした。デンマークの公の建物には、ウクライナの国旗を掲げているところがたくさんありました。両国とも、市民がロシアのウクライナ侵略に憤ると同時に、ウクライナとの連帯を示そうとしている様子がうかがえました。 コペンハーゲンの海岸沿いのホテルに泊まったのですが、ホテル内でも市内でも、マスクをしている人は、まったくいませんでした。春の日差しを浴びて、川沿いの小綺麗なレストランのテラスで、オープンサンドイッチなどの食事を楽しむ人々がいっぱいでした。マスクをしていて奇異な目で見られることはありませんでしたが、こちらはあまりに多数に無勢なものですから、日本とは逆に、マスクを外す同調圧力を無意識に感じるほどでした。マスクを外すと、「私も皆さんと一緒」という友愛感のような感じがするのです。危ない、危ないとは知りつつも、ついマスクを外したくなり、現に気がついたら外していたことがしばしばありました。 デンマークの人口は、583万人で、そのうちコロナ感染者数は、なんと5割以上の300万人強。デンマーク人の友人によると、「もう家族も、友人も、誰もが感染 したし、たいがい重症化しないから、インフルエンザ並みの感じになっている」とのことでした。マスクをしていないタクシーの運転手に、「コロナに感染したか?」と聞いたら、「もう二度もかかったよ、アハハ」という屈託のない返事でした。 しかし、そうはいっても、我ら日本からやってきた短期出張者にとっては、感染したら大変です。帰国できなくなります。マスクをすべきか、外すべきか、ハムレットよろしく悩む毎日でした。 この会議の後、パリに、ルフトハンザ航空に乗って、ミュンヘン経由で行きました。搭乗の際にワクチン接種証明を見せただけでしたが、機内では、マスク着用が義務づけられました。すべてEU加盟国なので、パリ入国手続きは、まったく何もありませんでした。 バリに着いたのは3月26日でしたが、街に入ると、マスクをかけている人はごく少数に見えました。3月14日に市内でのマスク着用義務や、レストランなどでのワクチンパスの提示が解除されたばかり(ただし、地下鉄など公共交通機関ではなおマスク着用が義務付け)の時期にあたりました。気温が20度近くにも上がるうららかな春日和で、パリの人々は開放感に浸っているような印象を受けました。 しかし、インターネットで調べると、フランスのコロナ禍は、まだまだ収束するには程遠い状況でした。フランスの人口は、約6700万人で、そのうちコロナ感染者数は、2440万人といいますから、4割近くに上っていました。パリ到着当初では、フランス全土で一日あたり平均12万人もが感染している状況でした。再び感染者が増えつつあり、私の最後の滞在日となった3月31日は、新たな感染者数が17万人にまで増えていました。 それでも、レストランやカフェなどを見る限り、マスクをして入る客は私ぐらいしかなく、雰囲気としては昔のパリに戻った様子を見せていましたが明らかに、パリを訪れる外国人観光客の数は、以前より減少したままの模様でした。セーヌ川を巡回する観光船バトームシュにも、空いた席が目立っていました。再びルフトハンザ航空でデンマークに戻りました。搭乗には、パスポートとワクチン接種証明の提示が求められただけでしたが、機内ではマスク着用が義務づけられました。コペンハーゲン空港では、入国手続きは一切ありませんでした。フィンランド航空のフライトがキャンセルされたこともあって、コペンハーゲンの街に再び数日滞在したのですが、やはり、見事に誰もマスクをしていませんでした。今回は、この大きな街で、たぶん私ひとりだけがマスク!それでも、PCR検査を控えておりましたから、意地でもマスクを外しませんでした。 日本帰国にあたっては、出発前72時間以内のPCR検査の陰性証明書、誓約書の提出、スマートフォンの携行と必要なアプリの登録、そして質問書への回答という煩わしい手続きが必要でした。ただし、今年の3月3日から、3回のワクチン接種証明を持っている日本人には、日本入国の際の検査で陰性であれば、自主待機はもとめられなくなり、これは嬉しいニュースでした。なにせ、昨年9月の欧州からの帰国時には、2週間もの自主隔離が必要だったのですから。 しかし、まだ残っているPCR検査というのは、不安とストレスがたまる、なんとも嫌な手続きでした。コペンハーゲン空港にあるメディカルセンターで、検査を受けたのですが、検査結果が知らされるまでの2時間は長かったですね。なにせ、感染者がやたらと多い国々で、しかもマスクをしていない人たちとの密な空間をくぐり抜けてきたわけですから、3回のワクチン接種済みとはいえ、感染してもまったく不思議ではありませんでした。 同メディカルセンターでは、厚労省の様式に従って検査結果を出してくれて、2時間待ちだと約3万3,000円もしました。時間はありましたので、もっと待ち時間が長くて安い検査結果の入手の手もあったのですが、一刻も早く結果を知りたいと焦る気持ちがありました(昨年夏フランクフルトで、24時間待ちの、安価な検査結果にした時の長く不安だった経験を思い出しました)。陽性の結果が出たら帰国便には乗せてもらえません。陰性になるまでに何日ぐらいかかるのか、どこかに「隔離」されるのかどうか、その場合はどこで隔離されるのかなど、まったく見当がつかないものですから、メディカルセンターの係の人に聞きましたら、「陽性の場合はドクターから指示があります」とだけのつれない返事。不安は、否が応でもつのりますよね。 デンマークも、フランスも、ワクチン接種証明さえあれば入国可能なのに、日本の水際対策はなお厳しいですね。以上のような精神的圧力を日本人にもかけているのを、厚労省の皆さんは良く理解されているのでしょうかね? デンマークでもフランスでも外国人観光客が徐々に増えつつありましたが、日本ではまだ一切認められていません。そろそろ、わが外務省も、せめてG7先進国並みにするよう、水際対策の一層の緩和に向けて頑張ってもらいたいと願うばかりです。 今回の欧州旅行を振り返りますと、「まだ怖いな」というのが本音です。欧州各地では、コロナ感染が収束する気配を見せていないのに、重症化する人が少なくて、「インフルエンザみたいなものになった」として、行動制限の緩和が急速に進んでいます。これは、現地に住む人にとっては十分理にかなった措置と思われますが、短期間訪問する外国人にとっては、コロナ感染の危険性がなお残っている状況と言えます。私のように、定年退職者で、日本に帰国しても直ぐやらなければならない急務がない、「気ままな」酔狂人は別ですが、日本に仕事があったり、家族や家のことなど心配事を抱えて予定通り帰国しなくてはならないような人は、今少しの間、リスクの残る欧州観光旅行は慎重に考えられた方が良いのではないかと、老婆心ながら申しあげます。 特に、日本政府が、前述のPCR検査陰性証明を帰国の際の条件にしている間は、気をつけられた方が良いですね。インフルエンザとは違って、陰性証明が無いと帰国便に乗せてもらえないのですから。 (河瀬)赤坂氏の欧州旅行の話は大変参考になりました。欧州へはウクライナ戦争で昔のようにアンカレッジ経由になった( これで日本は再び世界の僻地となったので、
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今朝の読売はジャック・ヒギンズが亡くなったと報じた。享年92歳、冥福を祈りたい。
仕事を辞めた後、きっかけは何だったか思い出せないのだが、鷲は舞い降りた を見つけて読み始め、ほぼ1年の間、新刊と言わずブックオフと言わず探しまくってほぼ20冊、ヒギンズ節に熱中した。その後、どうせ読むなら原本を読んでみるか、と Eagle has landed を苦労して読んだのが今も続けているポケットブックハンティングだ。その手始めになった鷲の原本はまさに手あかにまみれ、第一ページから辞書と首っ引きだった苦闘のあとをのこして赤線だらけである。
“鷲は舞い降りた” と、ァリステア・マクリーンの 女王陛下のユリシーズ号 は第二次大戦を背景とした小説の白眉だと思っていて、いつか来ることではあったが彼の逝去はやはり心に染みる。
小生にとっては、この欄でも書いたが、違うジャンルとはいえアルファベットシリーズ26冊の快挙を目前になくなったスー・グラフトンの急逝とともに悲報である。ただヒギンズは有名な多作家であるが、正直、ここ数年の新著にはみるべきものもなく、あきらかに衰えを感じていた。だからおすすめのリストには超売れっ子作家になるまえの、いわば中期の作品しかあげない。
”鷲” とならんでヒギンズの真骨頂だと思っている作品には、第二次大戦秘話、という分野では 狐たちの夜(Night of the fox), どちらかといえば海洋冒険ものに近い 脱出航路 (Storm Warning)、それと僕の最も好きな作品として 廃墟の東 (East of desolation) なんかがある。ブックオフにはよく見かけるヒギンズもの、を試してみることをお勧めする次第。いずにせよ、また時代は一つ、冷酷に進んだ感じがする。
この映画こそインディアンを野蛮人としてではなく、心の痛みを感
この作品でアカデミー賞に酋長コチーズに扮したジェフ・チャンドラーが助
物語りは1870年、アリゾナは白人とアパッチ族との間に流血の
アカデミー賞にノミネートされただけにカラー撮影は山
粋無垢
(編集子)“折れた矢” Broken Arrow にはほかの意味がある。ウイキペディアから転載する。
ブロークンアローは核兵器の紛失、盗難、または不慮の爆発や投下、発射、それらに関連する事故や事件を表す言葉だ。核兵器にそんな事が絶対にあってはいけないし、そんな事件聞いたことが無いと思うかもしれない、しかし、戦後の米ソの冷戦と核開発競争、イギリスやフランス、中国、インド、パキスタンと各国が核兵器の開発、配備を進めた1950~1990年代には「ブロークンアロー」という言葉がしばしば飛び交っていたのだ。冷戦期には米ソ連共に自国の艦船、潜水艦、爆撃機に24時間核兵器を搭載し、いつでも攻撃できる臨戦態勢を敷いていた。多くの核兵器が配備され世界中に散らばる中で事故や過失は決して少なく無く、1950年代以降に少なくとも32件の「ブロークンアロー」が起きている。
この意味での“折れた矢”がテーマになったのが1966年の Broken Arrow, 日本題名 ”ブロークンアロー” として公開された映画である。ジョン・トラボルタが悪役、なかなかスリルのある作品だった。トラボルタは憎らしい笑いを常に浮かべていて、本稿でも紹介した、ウインチェスタ銃73 のダン・デュリエを彷彿させる好演だった。