やっと秋らしくなった―ピカソ美術館を巡って  (普通部OB 舩津於菟彦)

あれはバルセロナオリンピックの前年にスペインを訪ね、町をそぞろ歩きバルセロナの場末のピカソ美術館を訪ねた。泥棒横丁と言われるぐらいやや物騒な通りだが、少年時代から青の時代頃までの初期の作品がここでしか観られないのだ。

ピカソ美術館 (カタルーニャ語: Museu Picasso) は、スペイン・バルセロナのゴシック地区にある。パブロ・ピカソの友人で秘書を務めたジャウメ・サバルテスの個人コレクションとバルセロナ市所蔵のピカソ作品を基礎に1963年に開館、のちに画家本人やその家族・友人からの寄贈を受け、さらにコレクションを拡大し、ピカソの幼少期から「青の時代」の作品群、ディエゴ・ベラスケスの名作「ラス・メニーナス」を題材とした連作などがある。

ピカソ美術館 (ピカソびじゅつかん、仏:Musée Picasso) は、フランスの首都・パリの3区にある美術館。パリ国立ピカソ美術館 (Musée National Picasso, Paris) ともいう。その名のとおり画家パブロ・ピカソの作品を収蔵・展示している国立美術館で、パリ3区の南部に位置している。その収蔵品は、ピカソの遺族が相続税として物納した作品が中心となっており、1973年に死去したピカソが最後まで手元に留めていた貴重なものが多い 。「青の時代」と呼ばれている初期の代表作『自画像』をはじめとして、『籐椅子のある静物』、『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』、『浜辺を駆ける二人の女 (駆けっこ)』、『牧神パンの笛』、『ドラ・マールの肖像』、『接吻』などを収蔵している。

このほかにも世界には数多くのピカソ美術館がある。地名だけ上げると、
(ルツェルン) – スイス、(オルタ・デ・サン・ジョアン) – スペイン、
(ゴソル) – スペイン、ゴソル (カタルーニャ州) (バルセロナ) – スペイン、バルセロナ、 (ブイトラゴ・デ・ ロソヤ) – スペイン、ブイトラゴ・デ・ ロソヤ館 (マラガ) – スペイン、マラガ、(ミュンスター)- ドイツ、ミュンスター、(アンティーブ) – フランス、 (パリ) – フランス、 (ヴァロリス) – フランス、ヴァロリス。

そしてあの有名な「ゲルニカ」はスペイン・プラド美術館の特設館で厳重に保管されているのを厚いガラス越しで観た。今はマドリード市内、国立ソフィア王妃芸術センターに展示されている。スペインの内戦後も国内ではテロが続いたが、1975年11月20日にフランコが死去したあと、アメリカの近代美術館で保管されていたものが1981年、スペインへの返還が実現した。

この偉大な絵描き「ピカソ」の未だ日本に未公開の絵が何と独逸からやって来ている。多分混雑しているだろうと午後3時頃訪ねたら空いていて、独り占めで暫く絵を観て居られる境地を得られた。そしてピカソ以外に大好きな「パウル・クレー」がそして「アンリー・マティス」今にも折れそうな「アルベルト・ジャコメッティ」の彫刻なども堪能できる。ピカソだけかと思い出掛けたら、パウル・クレーの作品が沢山展示されていてこれだけでも一つの展示会が出来るぐらいである。ベルリン国立美術館群のひとつであるベルクグリューン美術館の改修に伴い、比類のないコレクションにより、20世紀美術の精髄を初めて主要作品がまとまった形で国外に貸し出される本展は、貴重な展示の機会。まだ見たことのないピカソ、35点が日本初公開。コレクションから精選した97点の作品に、日本の国立美術館の所蔵・寄託作品11点を加えた合計108点で構成、97点のうち76点が日本初公開である。

 

 

 

奥日光のアサギマダラ (55 宮城裕之)

 

ジャイさんのブログにアサギマダラの話が出ていましたので、連絡しました。今年の山の日(8月11日)に、日光にある燕巣山と四郎岳に登りましたが、その際にアサギマダラに遭遇しました。地元のカメラマンの方に教えていただいたのですが、登山口から10分ほど歩いた四郎沢にフジバカマの群生地があり、そこにアサギマダラが繁殖して、9月初旬に東南アジアに向けて飛翔するとのことでした。

                   2022 年 8 月 11 日(木)燕巣山~四郎岳山行報告

山の日なので、奥日光にある燕巣山(2222m-栃木 100 名山)と四郎岳(2156m/群馬 100 名山)を目指しました。天気は比較的良かったですが、太平洋に台風が発生したせいか、北側尾瀬方面は雲が多く展望はありませんでした。日光白根山・丸沼スキー場などは良く見えました。丸沼駐車場から四郎沢に向かう途中で、大きなカメラを持った人に出会い、話を聞くと、この先堰堤 3 つ目を超えたあたりにフジバカマの大群生地があり、そこにアサギマダラという蝶が産卵に集まり、9 月初旬に東南アジア方面に向けて飛んでいく(1400~2000km)という、ロマンあふれた話を聞きました。

実際に行ってみると、早朝のせいか数は少ないですが、フジバカマの大群落があり、アサギマダラが飛び交っていました。帰るころには 14:00 過ぎでしたが、数は増えていたようです。
燕巣山・四郎岳は円錐形をした見た目の良い山ですが、その登山道は直線的でかなりの斜度があり,登りも下りもかなり苦労しました。四郎沢のルートは、赤布があり、気を付ければルートを失うことはないと思われますが、ところどころで、赤いビニールテープを目印につけてきたので、次回に役に立つと思われます。また燕巣山の下りで転倒し、左手首につけていた鈴を落としたことに気づかず、登っていく登山者に捜索を依頼、見つけたら白のレボーグに届けてくださいとお願いしたところ、下山したら、車に届いていて感激でした。

日程:2022 年8月 11 日(木)
1. 山域:日光
2. 目的:県境の道を歩く
3. 登山ルート;丸沼温泉駐車場~四郎峠~燕巣山~四郎峠~四郎岳~四郎峠~丸沼温泉駐車場
4. 天候:薄曇り、晴
5. 参加メンバー:手塚(宮城友人)、宮城
6. 行動記録;(距離:13km, 時間:7.5 時間(休憩含む)
AM5:20 手塚さん自宅(鹿沼) 出発。
6:45 丸沼温泉駐車場着。トイレは丸沼湖畔亭の建物隣にあ
る。広い駐車場には車少なく 10 台程度。
7:00 出発。 四郎沢を渡渉。ここで大きなカメラを提げた人から、この先堰堤を 3 つ超えたところに、フジマダキの花が群生しており、その花の蜜を求めて、アサギマダラという蝶が大量発生しているとのこと。アサギマダラはここで産卵、孵化した後に東南アジアに向け 1400~2000km 飛んで移動していくとのロマンあふれる話をきいた。

(中略)

今回も燕巣山・四郎岳の登山者は少なく 10 人程度で、静かな山行となりました。四郎沢入り口付近で出会った人の助言により、アカギマダラという蝶の存在を知り、400匹くらいの集団で東南アジアまで飛行するという貴重な話を聞けて、また落としたはずの鈴が届けられたりして、登山者の優しい人情にも触れることができて、とても楽しい山行となりました。参考までに今回の花と蝶を調べてみました。

フジバカマの仲間 ~ アサギマダラを呼ぶ植物
日本人ならフジバカマ(Eupatorium japonicum)という植物の名前を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。山上憶良が万葉集で歌を詠んで以来、秋の七草の一つとして知られていますが、実際に野原で見かけたことがある方は少ないかと思います。本種は日当たりのよい河原の湿った草地などに自生する多年草(宿根草)で、近年河川の護岸工事により自生地が消失し、環境省のレッドリストで準絶滅危惧に指定されています。分類学的にはヒヨドリバナ属で日本には他にヒヨドリバナ、サワヒヨドリなど8種が知られています。和名の由来は花が藤色で花びらが袴(はかま)の形をしているからですが、その他諸説あるようです。属名の Eupatorium(ユーパトリューム)は紀元前1世紀頃、小アジアのユーパトール王がフジバカマの仲間を薬用植物として好んで用いたことに因みます。現在も蘭草(らんそう)と呼び漢方薬に利用されます。乾燥すると桜餅の葉のような芳香を放つため、昔は匂い袋などにも利用されたようです。フジバカマの名で販売されているほとんどは雑種で、本種よりも丈夫で大きくなります。分類にもよりますがフジバカマの仲間は北米を中心に 500 種以上あり、ユーパトリュームとして販売されています。
2m以上にもなる大型強健種のアトロパープレウムや、斑入り葉の美しいピンクフロスト、銅葉のチョコラータ、箒のような葉をもつグリーンフェザー、中国に自生するムラサキフジバカマ(濃色フジバカマ)、花が玉咲きのものや葉の切れ込みが深く美しい羽衣という品種などがあります

フジバカマと渡りの蝶
フジバカマの仲間にはアサギマダラという蝶のオスが好んで訪れます。まだよく解明されていないようですが、フジバカマに含まれる物質〝ピロリジジンアルカロイド〟の摂取が性フェロモンの分泌に必要だからと言われています。アサギマダラは旅をする蝶としても知られ、台湾や東南アジアなどから日本へやってきます。中には 2500km もの長旅をして日本に飛来したものもいるようです。
特に近年、この蝶の飛来ルートを全国的に調査研究する活動が盛んになり、フジバカマ類が日本各地で植栽され注目を浴びています。中でも日本各地に多く自生するヒヨドリバナは、丈夫で花期も8~10 月と長いためよく植栽されるようです。

(編集子)宮城兄の原文がやや大きいので要点のみを転載させていただく。この画面に拾ったスナップはほんの一部で、かなりの数の写真が Googlo Photo に収容されている。ご興味のある向きは小生あてメールいただければ宮城兄に連絡、直送していただくことができる。

 

 

エンディングマーク 

エーガ(英語映画になってしまうが)のおわりに出る END  の文字。これでこのエーガは終わり。これ以上はなし。はっきりしたひとつの終わり。エンド、というコトバはほぼ日本語にもなりかけている、意味明瞭な単語である。

しかし面白いことに同じように準日本語といっていい ハッピーエンド という英語は和製の誤用で、HAPPY ENDING といわなければならないのだそうだ。END と ENDING はどう違うのか。このあたりのニュアンスは小生ごときに分かるはずもないのだが、しいて類推すれば、ENDといった時には文字通りすべてが、自分の意志とは無関係に終わった、という客観的事実の確認であり、それ以上ではないのだが、ENDINGは言ってみれば終わりの始まり、というか、終わった、という事に対して、言い方は変だが何か主体的な感じ、つまり、自分が終わらせたのだ、というような感覚があるのではないだろうか。

今月末で、長いもので十数年、自分なりに楽しんできた府中カントリクラブをやめることにした。もともとはアンチゴルフ党だったのだが、四十を超えて数年した時点で、それまで全く自分とは関係のないと思い込んでいた営業部門への転身を命ぜられ、それと同時に上司から、これからは客先との付き合いで必ず必要になるからゴルフをやれ、という圧力がかかった。サラリーマンの悲しさ、あえて嫌ですとも言えず始めたゴルフだったが、始めてみればそれなりに面白くだいぶ熱を上げた時期もあった.。しかしもともと運動神経に優れていたわけでもなし、典型的なダッファで今日まで来た。今、別に辞めなければならない事情があるわけではないし、小生が初めてクラブを握った時からの師匠である会社の後輩A君やワンダーの友人からも、もったいないし、のんびりやればまだまだできるのに、という忠告が相次いだ。

忠告はありがたい。しかし、もし、このまま、一ダッファとして過ごしていても、いずれ、体は言うことを聞かなくなる日が来る。いつかわからないが、それは自分にとってのひとつの END だ。ENDING ではない。それがいやだった。

実は4年前、スキーをやめた。これもいろんな筋からまだやめるな、と言われたものだ。運動不得手の自分としても、都会の人間としてはまあまあのレベルだというひそやかな自負もあったのだが(一応、SAJ一級はもっていたのですぞ)、なによりもここ数年、雪、それも輝く新雪、それまで自分を高揚させてきた場面に、感動しなくなった自分に気がついた。ゲレンデで安全第一に、仲間との交流の場として、というスキーはもちろんあるし、その方がまともな考え方だという事はわかっていた。しかし、雪を見ても感動しなくなった、という事実がいやだった。つまり END ではなく自分の ENDING にしたかったのではないか、と、今になって理屈をつけているわけだ。

今の時点で、自分のライフワーク(ワークというのが適切かどうかわからないが、ま、目をつぶるまでにやり遂げたいこと)は三つ、ある。これを ENDでなく ENDING で終わらせたい。それがこれからの生きがい(この単語はきらいなのだが、ほかにいいコトバがみつからない)になるのだろうか。

アサギマダラの話      (会社時代友人 齋藤博)

10月16日付「八ヶ岳南麓の秋」とタイトルしたブログに、アサギマダラの事が書いてありました。今日のヨミウリ・オンラインに下記のような記事が出ていました。(https://www.yomiuri.co.jp/national/20221020-OYT1T50020/(無料記事)。

長距離を移動する蝶として知られる「アサギマダラ」が広島県福山市沼隈町の「平家谷花しょうぶ園」に飛来している。28日頃まで見られるという。
PRの一環として、アサギマダラの休憩所にしようと、餌となるフジバカマを昨年から園内の一角約500平方メートルに数万本植栽して多くのアサギマダラを呼び込んだ。
10月初旬にフジバカマの開花が始まると多くのアサギマダラが飛来するようになった。園を管理する担当者は「群れではなく、単独で長距離を移動する蝶。どうやって餌となる花を見つけているのかは謎とされるなど、ロマンあふれる蝶を多くの人に知ってもらいたい」と話す。

 アサギマダラは、羽の模様が鮮やかな大型の蝶で、広げた羽の幅は約10センチ。羽化後4~5か月の生涯に春から夏にかけて日本列島を北上し、秋から冬にかけて南下する。数千キロもの距離を移動した個体もいるという。

(飯田)

「八ヶ岳南麓の秋」のアサギマダラの記事に興味があり拝読しました。私の住む兵庫県でも六甲山にアサビマダラが飛来して、それを見に行くグループがおります。

ところで私はアサギマダラではないですが、ひよんなことから一昨年に(国蝶)オオムラサキのNHK1分間のニュースを追って、兵庫県丹波の森のオオムラサキの会に所属しました。関連のことを「エーガ愛好会」にGIさんにUPして貰いました(2021年7月)ので、もし時間があったらご笑覧下さい。

その後、今年の5月に丹波の森オオムラサキの会の会長と会食をしてもらった会員証のオオムラサキ・バッチ(添付)です。私は蝶々などの昆虫類を収集捕獲する趣味は、これからの社会で最小限に制限して一方で、それらの生存環境を整える活動に共感して及ばずながら支援して行く積りです。小さい頃は長野県安曇野市で6年間過ぎしていたので昆虫類、鳥類などに対する関心は人一倍強く、当時は捕獲して標本作りをしていましたが、今では出来るだけ自然の中で観察することが大事だという気持ちです。

 

(

(斎藤)オオムラサキとアサギマダラとは、なんとなく似てるなと思って調べてみると、系統樹上では、わりと近い種なんですね。ともにタテハチョウ科に属しています。写真で見るオオムラサキにしろ、アサギマダラは、とまった姿ですので、羽を下げています。オオムラサキ会の会員証は、今まさに飛び立たんといった姿でしょうか。

私の住む近くに「しながわ花街道」という勝島運河沿いの散策路がありまして、そこには、「ジャコウアゲハ」という珍しい黒い蝶が沢山います。
近所の人たちが「ウマノスズクサ」という、ジャコウアゲハの幼虫が食べる草を育てています。また、幼虫を踏まないようにと看板を出したり、監視をしたり、ボランティアで保護活動をしています。区は全く興味が無いようで、あくまでも個人の活動です。人通りの多い散策路なんですが、皆さんあまりこのことを知りません。ウマノスズクサの臭い匂いに顔をしかめて通る人がほとんどです。アゲハは、結構素早いので、写真もなかなか撮れません。

コロナ第八波に備えよう   (普通部OB 篠原幸人)

今日は仕事の帰りに六本木を少し歩きました。人の多いことにビックリ。外人さんの、特に少しお年を召した方のカップルがいやに目立ちました。皆さんお元気にマスクもほとんどしないで歩いておられ、それが不自然に見えなくなったのは何故なのでしょうか?

一方で、もう第8波のことを心配する報告もあります。多分11月末ぐらいから来年2月ぐらいの間かな~。ひと昔前のオミクロンBA1型なのか、今のオミクロンBA.4・5型か、それとも次の更なる新しい変異株なのかも気になります。特にその病原性(罹患した時の重症度)が、現在のBA.4・5型よりも強い株だと厄介ですね。それに今年はインフルエンザも同時流行するかもね。そうなったら今の政府の考えている各人が自分で診断して自宅療養しなさいという甘い見通しは根本的にひっくり返るかもしれない。 皆さんはワクチンを何回打ちましたか? まだ一回もなんて人も、私の周囲にもわずかにおられますが、大体3-4回はお済みでしょうね。

政府は前回の接種から5か月という当初の案を撤回し、前回接種から3か月後なら次のワクチンを打っていいと規則を変更しましたが、朝令暮改内閣としては良い決断だったかもしれません。 しかし、逆に勘繰ると、一時代前のBA1型対応ワクチンがまだ余っているから、早く在庫を失くしたいという腹かと勘繰りたくなったりして。 今、出回っているワクチンはもう従来型のワクチンではなく、BA1型あるいはBA4・5型と、従来型の両方に効果が期待できる2価ワクチンと呼ばれるものです。それなりに効果は期待できます。しかし、次の第8波として何が来るか分からない点が非常に気になります。

もう一つ、皆さんが知らなければならないのは、ファイザー社製のワクチンにはBA1対応とBA4・5対応の2種類がありますが、現在日本にあるモデルナ製ワクチンはまだBA1対応しかない筈です。それも知らないで、接種会場に行くなんて、最低ですね。無論、第8波にどんな型のコロナが来るか不明ですから、今回は何を打つかは大げさに言えばロシアンルーレットみたいなものかも知れません。

私は前回の接種は2022年7月7日でした。もう3か月経過しましたが、今後の第8波の様子を見て接種5か月後の12月ごろに考えたいと思っています。その頃には若し8波が始まっていればどのタイプのコロナ株か分かっているでしょうから。打たなくても大丈夫なんてことにあれば万々歳ですが、今の状況がかわらなければ、ファイザーのBA4・5型+従来型のワクチンにするでしょう。

インフルエンザは毎年1月から2月いっぱいがピークです。従ってインフルエンザの予防接種はあまり早くやっても意味がありません。ピークのころに効果が薄れている可能性があるからです。コロナとインフルエンザの予防接種の間隔は、余り根拠はありませんが、一週間も空いていれば十分かと思います。従って、インフルエンザの予防接種も11月末か12月初めでコロナ予防接種と重ならない週を選ぼうと思っています。

これらの日程や接種するワクチンの種類は、なかなか自分の都合で決めるのも難しいでしょうが、何らかの参考にしてください。あくまでも今後のコロナ感染の推移によっては流動的であることは当然です。しかし、まだ毎日コロナによる死亡例は報告されています。特に持病のある方はまだまだ安心しないでください。

 

しっくりこない新聞記事について・続編

先日、気になっていた新聞記事のことを書いたら、話があれよあれよという間に拡大してしまい、メル友グループの中で言葉遣いとかアクセントとか、面白い話題を提供してもらった。その中で、HPOBの菅井君が言っているようにコトバ自体は時ともに変わっていくものだし、現在のように科学技術が人間を置き去りにして変化していくあいだに、感覚もそれを表現する手段としての言語も変わっていくのは間違いないと思う。しかし一方では、やはり自分の時代、という感覚はあるものだし、時代の変化に伴うコトバについていけない、あるいは行きたくない、というような思いもどこかにあるのではないか。有名な 明治は遠くなりにけり、という一句を昭和に置き換えてみることもしばしばある。人間はふたつの時代には生きられない、という龍之介だったか寛だったかのコトバを僕は真理だと思っている一人なので、余計そのような変化に敏感なのかもしれないのだが(もうひとつ、えらそーに言ってしまうと、僕は 二つの時代に生きられる人間 というのはどちらの時代にも真剣に生きられない人間、だと思うのだ)。

いくつかのメールの中で、KWV42下村君が指摘された、国会中継などでよく耳にする、 “……となってございます” という妙な言い回しには小生も困惑するし、いかにも役人コトバらしくて好意が持てない。また同じように違和感が深いのは “いただきます” という文句がめったやたらに使われることである。 そもそもこのフレーズは相手の立場を尊重した丁寧語だったり、食事などの時に使う場合は誰であれ食事を食べさせてくれる人や環境に、単純に感謝を表したりするものだと思うのだが、どうもあの見掛け倒しのいんちき総理大臣が トラストミー とか 少なくとも本土並み、なんて誰が考えても無理な論理をふりまわしながらせめて大向うの歓心を買おうとでもおもったのか、妙な丁寧語を連発しはじめてからではないか。ただ “します” といえばいいだけの場所に本人は丁寧語のつもりらしいが、結果としては慇懃無礼、かえって馬鹿にされたような気持ちになってしまうことが多い。

日常生活の場でも、この “いただきます” が妙な使い方だと思うのが料理番組だ。料理が完成したとき、たとえば、ソースをかけて、….食べます“ といえばいいのに ”……いただきます“ というのはおかしくないか。料理が出来上がったら食べるのは自分であって、他人から頂戴するものでもない。こういう言い回しを重ねている間に本来の意味がかわってくるのか、自分がいただく、のだから、と考えたのか、”あなた、どうぞ、“いただかれてください” と、中年すぎの婦人から言われた時には目をむいてしまった。”召し上がってください“ というゆかしい日本語をご存じないのか。親の顔が見たいものだと思ったことだった。

“いただく” の延長なのかもしれないが “…….あげる” という動詞も妙な使い方をされているひとつではないか、と思うことがある。自分の子供に面と向かって ”バナナをあげるよ“ というのは当たり前だが、第三者と話をしているときに ”娘にバナナを上げる”、とか、さらに愛犬家が例えば友人に向かって、自分の犬に “フランスパンをあげるの” というのはおかしくないか。決してワン君を蔑視するのではないが、この場合は ”パンをやる“ のではないだろうか、と思うのだが。

話はちと変わるが、先回この話題は ”新聞記事で“ という限定詞をつけて書いた。高校時代、新聞会という部活動をしていたときの感覚があったからだ。その意味での付けたりなのだが、記事の内容ではなく、新聞紙面の作り方について、最近 ”!“ と思うことがあった。

新聞記事は特殊な業界紙などを除けば、縦書きの文章が、紙面に10段ないし11段くらいに右から左へと配置される。そして写真とか見出しなどが多くの場合、数段の場所をとって縦書きの文章の間、各所に置かれるから、紙面全体を左右を通してある一つの段が貫通することはない。

船津君と小生が所属していた高校新聞では、記事を書くほか、実際の紙面の割り付けを考え印刷所に指示する作業もあったが、この段階で厳しく言われたのは、右から左へ、縦書きの見出しや写真で遮られない、つまり左右貫通してしまう段がある紙面は ハラキリ と称してあってはならない、ということだった。この常識は今はもうないのか、先日、購読している読売の紙面で、忌むべき(といまだに思っているのだが)ハラキリを発見してしまった。編集作業まで高度に機械化されてしまった時代、よき時代の慣習は顧みられないのだろうか。

世の中、コトバが代わるように人々の美意識や伝統とか慣行に対するある種の敬意、などというものもまた、変わってしまうのだろうか。スマホにテレビ全盛の世の中だが、小生にとって新聞というのはある種の魔術的(?)魅力を発揮しつづけているので、こういうことが気になるのだろうか。

エーガ愛好会 (173) パリは燃えているか #2 (普通部OB 舩津於菟彦)

『パリは燃えているか』(パリはもえているか、仏: Paris brûle-t-il?、英: Is Paris Burning?)は、1966年のアメリカ・フランス合作のオールスターキャストによる戦争映画。ラリー・コリンズ、ドミニク・ラピエールによるレジスタンス(共産主義者とドゴール派)と自由フランス軍によるパリの解放を描いたノンフィクション作品の原作をルネ・クレマンが監督した。脚本はゴア・ヴィダルとフランシス・フォード・コッポラが担当している。
ジョージ・パットン将軍

1944年8月7日から、8月19日のレジスタンスの蜂起開始、アメリカ軍の援護を受けて、8月25日のフランスの首都パリの解放に至るまでを描く。
物語はドイツ軍の降伏に貢献したレジスタンス運動を中心にしている。主な登場人物は、レジスタンスのアンリ・ロル=タンギー大佐やジャック・シャバン・デルマス大佐、ドイツ軍のディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍、アメリカ軍のジョージ・パットン将軍、自由フランス軍のフィリップ・ルクレール将軍などである。映画の終盤、降伏前にパリを破壊しろというアドルフ・ヒトラー総統の命令が下ったが、

コルティッツ将軍

最終的にコルティッツ将軍は命令に従わずに連合国に無条件降伏し、パリを破壊から守った。パリ側のドイツ軍本部内でうち捨てられた電話機からヒトラーの「パリは燃えているか?(命令通りに破壊したか?)」との声が聞こえていた。

時は1940年6月22日、フランスは戦うこと無くして無血で独逸軍は巴里を占領されフランスは降伏した。
フランス軍の敗北は、具体的に言うと、ドイツ軍の機動戦車部隊の急襲と急降下爆撃機による空爆に対してフランス軍は第一次大戦と同じ塹壕戦による防衛という古い戦術しかとらなかったところに原因があった。またマルク=ブロックは、司令官の無能や、参謀と部隊指揮官の対立(軍隊官僚制の欠陥)、部隊間の情報連絡の不備(ドイツ軍はオートバイを活用したが、フランス軍にはなかった)、装備の不備、動員の混乱、イギリス軍への不信などを告発しているとマルク=ブロック「奇妙な敗北」で書いている。
北部をドイツ軍に占領され、ドイツに協力するヴィシー政府が成立。それに対するレジスタンスが開始され、ド=ゴールはロンドンから抵抗を呼びかけた。4年間に渡り独逸に支配された巴里はロンドンに亡命したド=ゴール将軍がドイツに対する交戦を宣言、自由フランスを組織した。親ドイツ政権のヴィシー政府に対するレジスタンス(抵抗運動)は激しくなっていったものの、当初はバラバラであったが、次第に国内ではフランス共産党が組織化した運動が主力となり、ド=ゴールの自由フランスは国外からの活動が主であったが、自由フランスがアメリカ・イギリスと共にアフリカに上陸してドイツ軍に勝利を収めるなど、力をつけていった。国内と海外でのレジスタンスに統合の動きが生まれ、1944年6月2日にはド=ゴールを首班とする共和国臨時政府が成立し、6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸、8月25日にパリが解放された。そんな時のことをドキュメンターリーフィルムを交えてモノクロで長時間映画で米国・フランスの沢山の俳優がちょい役を含めて登場する!それだけでもなかなか面白い。
映画の終盤、降伏前にパリを破壊しろというアドルフ・ヒトラー総統の命令が下ったが、最終的にコルティッツ将軍は命令に従わずに連合国に無条件降伏し、パリを破壊から守った。パリ側のドイツ軍本部内でうち捨てられた電話機からヒトラーの「パリは燃えているか?(命令通りに破壊したか?)」との声が聞こえていた。
映画の制作は当時、公的機関(パリ警視庁と内務省)の両方から多数の承認が必要となった。また、シャルル・ド・ゴールによって厳しい監修が行われ、ド・ゴールは手紙に書いた規則に従うことを条件にパリでのロケ撮影を許可したという。特にド・ゴールはフランス共産党による解放で果たした活躍の描写を最小限に抑えることを切望しており、脚本のフランシス・フォード・コッポラは後に「露骨な政治的検閲だった」と発言している。その他、制作はフランス共産党とフランス労働総同盟の二重の支配があり、ド・ゴールまたは共産主義者のいずれかを怒らせるリスクなしに原作本のすべての要素を使用することができなかったとゴア・ヴィダルは感じたという。
(編集子)第二次大戦が我が国を現在の(いろいろ細かいことで問題はあるものの)平和国家、経済大国へ変貌させたのは歴史的事実であるが、戦争中での我が国そのものを題材にした映画は(戦中に作られた戦意高揚映画は別にして)戦争を背景にしたドラマは思い浮かぶが、史実を伝える(記録映画でないから、当然ドラマタイズされているとしても)映画は “トラトラトラ” 以外、あまり数は多くないのではないか。やはり ”敗戦”という事実が影響しているだろうことは想像に難くない。
これに対して欧州戦線の話はかなりの数を見てきた。小生の日本史の知識の多くが司馬遼太郎の小説に負うところが多いように、欧州戦線での第二次大戦の経過に関する知識の大半は映画によるところが大である。日米戦線を理解するのに役立った ”トラトラトラ” にあたる、欧州戦線を理解するベースラインになっているのが ”史上最大の大戦” と ”遠すぎた橋” の2本で、この2本に書かれた史実を詳述している ”バルジ大作戦”・”レマゲン鉄橋”・”炎の戦線エルアラメイン”・”空軍大戦略” をあわせた6本の映画で大体の流れが理解できた。この流れを背景とした作品は枚挙に限りないが、古くはボギーの佳作 ”サハラ戦車隊” から始まって、”パットン大戦車隊”、娯楽作品として小生のお気に入り ”狐たちの夜”・”鷲は舞い降りた” の2本、さらには “眼下の敵”・”深く静かに潜航せよ”・”駆潜艇K225” など、フィクション要素の高いものなら ”633爆撃隊”・”ナヴァロンの要塞”・”ナヴァロンの嵐”。一ひねりしたシリアスドラマとして ”ノルマンディ”(”史上最大の作戦”を実行したアイゼンハワーの秘話的な作品)なんかを思い出す。”パリは燃えているか” は史実中心のものでその意味では重要な作品だろう。

八ヶ岳南麓の秋    (グリンビラ総合開発HPから転載)

北杜市内某所のハウスに迷い込んできた様です。アサギマダラというらしく、よく見ると羽だけではなく体も水玉模様のようになっています。珍しい蝶なのでしょうか?初めて聞いた名前でした。

今日は一日弱でストーブをつけておりました。

まだまだ最近の気温に体が慣れていない感じがします。

(編集子)北杜市はオオムラサキで有名だがこの名前は初めて耳にした。南麓の里の秋もここ2年、憎きコロナのため味わうことができなかった。自然は悠々と時を刻み続けるようだ。

 

 

コキアを見に行っていました (42 保屋野伸)

海浜公園のコキア見学をしてきました。コスモスと共に丁度見頃で、大満足でした。まだ1週間ぐらいは大丈夫だと思います。今年が無理なら来年はぜひ訪れてください。

(下村)みごと! 写真の撮り方、構図が良いですね。癒されそうです。

(斎藤)昔の西部劇に出てくる転がる枯れ木はコキアか?と、ネットを探してみました。大外れかも。
西部劇の転がる枯れ木は、タンブルウィードという、名前もそのままに、回転草だそうで、特定の物を指すわけではないとWikiに書いてありました。枯れて風に転がる植物を言うそうです。風が強い日に、コキア(ホウキギ)が転がって飛んでいく姿を見ていたので、そんな回転草のイメージで思っていました。まあ、間違いではなさそうです。ホウキギは、薬草みたいな使い方もされるんですね。

ところで、国営ひたち海浜公園と言うと、私が学生時代、何人もの知り合いがそこに潜んでいました。米軍の水戸射撃爆撃場と呼んでいました。彼らの住処は、この水戸射撃爆撃場と、百里基地でした。射撃爆撃場は、ひたち海浜公園に姿を変え、百里基地は、茨城空港が間借りをしています。日本への返還は確か昭和48年か、49年です。

(保屋野)ひたち海浜公園の情報ありがとうございます。そう、昨日も風が強かったですね。公園から東海村の原発が間近に見えましたが、昨日一緒に行ったのが秋田時代の中学の友人(水戸在住)で昔東海村(動燃)で働いていました。

確かに、この公園は米軍の射爆場跡に誕生したのですが、その的の位置は春のチューリップ畑となっています。この公園は昭和記念公園によく似ていますが、チューリップはキューケンホフの庭師が設計した昭和記念公園の方が優れているかも。なお、昭和記念公園にもぜひ「コキア」(ほうき草)を植えてほしいものです。

(編集子)Tumbling Tambleweed は西部劇にはなくてはならない要素です。馬鹿にすると小泉さんに叱られますよ。落日ももうすぐという時間、街はずれで主役二人が対決する。その静寂の中をタンブルウイードがからからと音を立てて画面を横切る。これが紅葉だったり桜の花びらだったりしてはいかんのであって、あくまでこの草でなければならん。Tumbling Tumbleweeds というカントリーバラードもいい曲です。昭和公園にはむかねえだろうなあ。

円楽師匠の急逝と脳卒中について  (普通部OB 篠原幸人)

三遊亭円楽師匠が亡くなられ、テレビでもその追悼番組が行われています。しかし、何かその原因がはっきりしません。師匠が肺がんで急にテレビから姿を消されたのは皆さんよくお存じですね。その後、治療を経て高座に復帰されようとした矢先に今度は脳梗塞で倒れられました。その後、リハビリに精力的に取り組んでおられたようですが、お亡くなりになったのは脳卒中の再発なのか、肺がんの転移や悪化なのか、報道でははっきりしません。テレビの『笑点』の大ファンだった私はあの毒舌がもう聞けないかと、残念でしょうがありません。

脳梗塞は脳出血やクモ膜下出血とまとめて“脳卒中”と総称されます。“卒”は突然倒れることを”卒倒“というように”突然“の意味、”中“は毒に当たることを”中毒“というように”当たる”という意味。だから脳卒中は“脳の病気で突然なにかに当たったように倒れる病気”ということになります。この”卒中“という言葉は、本来は中国から来たのかもしれませんが、西暦760年、そうです、万葉集の時代ですが、その頃のわが国の書物にもう使われています。今から1200年前の日本人もすでにこの病気で倒れる人が多かったと思われます。日本人の国民病の一つですね。

この脳卒中のなかで、脳出血は大体高血圧をほっておいた方が罹りやすい病気です。クモ膜下出血は脳の動脈にできたコブのような動脈瘤が破裂しておこります。動脈瘤は事前にMRAという検査をすれば発見できます。だから脳出血とクモ膜下出血は現代では予防可能な病気に分類できると言っていいでしょう。

脳梗塞は脳の血管が詰まったり細くなったりして、その先に血液がいかなくなり、脳の一部が酸欠状態になっておこります。原因は多様で、高血圧・糖尿病・心房細動・脂質異常症・高尿酸血症などの他に、「がん」などがあって血液が固まりやすくなってもまた腫瘍細胞が脳に飛んで行って詰まっても起こります。円楽師匠もこんな状態だったんでしょうか?

脳梗塞は、更に、心臓にできた血塊が脳に飛んで詰まる心原性脳塞栓症、脳内の比較的太い血管が動脈硬化などで詰まるアテローム血栓性脳梗塞と、非常に細い脳血管が詰まるラクナ梗塞の三つに分かれます。このような分類がされるのは、それぞれで救急処置も再発予防法も大きく異なるからなのです。これが重要な点です。詳しい治療法の違いは、説明しませんが、どのタイプの脳卒中かは素人には区別付きませんし、医師でも専門家でないと、またMRI・MRAなどの装置がない病院でないと、診断は難しいことが多いのです。また血栓を薬で溶かすか、手術的に取り除くかの決定は、専門病院や大きな病院でないと困難なのが現状です。

片方の手や足が急に動かなくなった、顔が急に歪(ゆが)んだ、急に呂律が回らなくなり喋りにくくなった、急に体がふらつきまっすぐ歩けなくなった、突然今までに経験したこともない金槌で殴られたようなひどい頭痛が起こった、などは脳卒中のサインです。素人さんはすぐ「少し様子をみよう」とか、一瞬そのような症状が起こったが1-2分で軽快したので「まあ大丈夫だろう」と考えがちですが、脳は血流低下や僅かな出血にもとても弱い臓器なのです。

若し貴方が指を少し切って出血しても、暫く抑えているか、輪ゴムでも巻いて止血すれば、30分もたてば出血のとまり、一件落着でしょう。しかし脳の一部に出血が起こったらしいと首にロープをまいて締め上げれば5分と持たずにその方の脳機能は元に戻らず、亡くなってしまいますよね。この例でも分かるように脳はとても繊細で酸欠に弱い臓器です。だから心臓や肝臓と違って、頭がい骨という硬い骨で完全に覆われて守られているのです。おかしいと思ったら一分でも早くすぐ専門病院へ、そして適切かつ早期に治療できれば現代医学は脳卒中での死亡を激減出来ますし、また再発もかなり予防できることを知っていただけたらと思います。これだけは忘れないでください。

コロナワクチンの4回目以降の接種についての質問が来ています。しかし特に最新型コロナに対する最新のワクチンの功罪はまだデータ不足です。少し時間をください。またインフルエンザワクチンも打つかどうかの質問に関しては、私は今年も打つ予定であるという事が私の回答です。