年末ご一興までにお教えください! (40 益田)

ワンダー各位にお願いがあります。

十年疑問に思ってました。夏休み子供電話相談室に掛けるわけにも行かず。造詣深きに見えた、久米に聞きましたが、アインシュタインに聞いてくれと、軽く往なされました。

 天の河が銀河系であることは承知してますが、水金地火木土・・・以外の今天体に見える星は、全て太陽系の外なのでしょうか?(アンドロメダ等の銀河系外は承知してます。)それ程遠くない将来自分の目で確認する事が出来るんですが。 ある人が、「宇宙には、全地球上の砂の数より多くの星がある」と。押し潰ぶされそうになりますが、一方、どうにでもなれって気になります。

 ついでと言っては恐縮ですが、昔北極点を目指した探検家が、(どう北極点を確認したかは別として)帰る折、どうやって例えば、「東」を目指してのでしょう? 

(編集記)

わがネリカン君の悩みは大分深いようで、2度にわたって来信があったが、当方の知識を超える範囲で回答ができていない。硬軟、合わせて全KWVの知性からの回答メールを期待している。年末、万感を込めて夜空を仰ぐ季節になった。来年もまたよき年であれ、と祈る先はアンドロメダか宇宙戦艦ヤマトか?

 

甲州街道銀杏並木ウオーク

途中の横断橋から高尾山口駅方面

免許更新のため高尾署へいくことになった。どうせなら早起きして人の来ないうちに楽なコースを登って昼飯までに帰ろうと思っていたが、もたもたして結局月例と同じ電車になってしまった。高尾駅ににはいったとたん、ホームがハイカーで溢れているのに遭遇。あっさりあきらめて、甲州街道ウオークに変えた。

高尾山口駅の手前位から、八王子市の中心部まで見事な銀杏並木がある。工場勤務のころはいろんな機会で訪れることもあったのだが、月いち高尾、などと言ってるのにここの所歩くこともなかった。ちょうど天気が回復し、青い空を背景にハラハラ落ちる落ち葉などが取りたかったのだが、小生の技術ではとても無理。小泉さんでもおられればいい写真ができたのだろうにと残念。

徒歩約5000歩、途中で早昼(ほんとはトイレに行きたくなったため)、おろしハンバーグ、890円。何だかわからないが払ったのは1134円。今大揉めの消費税騒動がどう落ち着くのか急に心配になった。

スケッチをしている人もいた。才能のある人はうらやましい。

 

”むかし”の語り部として  その1

この12月で小生も81歳となる。いつの間にか、傘寿とやらもがやがやと仲間と騒いでいる間に過ぎてしまった。しかし年齢は確実かつ冷酷に現実に忍び寄ってきている。できる限り、ワンデルングは続けるつもりではあるが、他人に迷惑をかける危険は最小限にしたいと思い、昨年、まさに断腸の思い(こういう時に使う言葉かどうか不安はあるが)でスキーをやめた。2018年のOB夏合宿につづいて久しぶりに山荘祭に参加したが、たぶん、これで浅貝にいくのは最後になるだろうという気がして、半日、作業をさぼって周りをうろつき、卒業後大変お世話になったトヨシマにもそれとなく挨拶をしてきた。

小屋へもどって、若い人たちと何となく時間が過ぎていく間に、(俺たちが ”あの時代” について、もう少し、伝えておくことがあるのではないか?)という気持ちになった。もちろん、いろんな記録が整理され残されていることは知っているし、結構なことだと思っているが、その多くは事物の記録であり、その背景になにがあったのか、ということはあまり伝えられていない。今の学生生活、その結果ワンダーの在り方がぼくらのころと全く異次元にあることはわかっているつもりではあるが、若い人たち特に現役諸君が現在の在り方について考えてみるきっかけになれば、と思い、数回にわけて36年卒同期の文集 ”ナンカナイ会 そのふみあと” から、一部を抜粋し何回かにわけて紹介していこうと思う。今回は歴史的規模?の大人数入部に関してのことである。

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(文集第二章 ”美しから八幡平へ” から抜粋)

われわれが入部する前、すなわち卒業年度でいえば1957年次(中代孝史総務)まで、KWV は戦後の混乱期からの復興を成し遂げられた吉田晴彦(1948卒),平賀健吉(1950卒)、亀井昭伍(1952卒)、山戸和夫(1953卒)ほか数多くの先輩が築かれた、自主的、家族的雰囲気を持ったクラブ活動を基盤としてきた。ほかの大学のワンダーフォーゲルが体育会に所属しているのに対し、慶應はドイツに源泉を持つ広い視野にたった活動をする文化団体に所属する、という気概と伝統はその時代につちかわれたものだ。戦後の混乱期を脱し始めた50年代後半から、所属部員は大体40人から60人前後で推移し、その間に活動の基盤は個別に企画されるワンデルングへの自主参加におき、部全体行事としてベースキャンプ方式の合宿やスキー合宿(当時KWVでいうスキーとは今でいうオフゲレンデを滑走することとされていたようだ)、あるいは部創立の精神にたってワンダーフォーゲル活動のPRを目指す一般募集というような活動の基本原則が確立された。

しかしわれわれが入学する57年あたりから、大学生活そのものが開放的なアメリカ型のカレッジライフを志向する傾向が高まり、もともと学生の自主性を重んじ、先進的な立場にあった慶応のキャンパスがその先導的地位をしめるようになる。それに呼応して、それまでのアスリート系のクラブ活動が基本的に父権主義にもとづく体育会主導であったため、スポーツを愛しながら体育会入りをためらう学生を、より開放的な独立的なクラブが吸収するという図式ができた。その延長線上にあったのかどうか、明確な回答はないが、32年から40年くらいまで、まさに全国規模で各大学のワンダーフォーゲル部に入部希望者が殺到した(第12章参照)。決して慶応だけではなかった点が面白いのだが、何が原因であれ、我々と同じくKWVの門をたたき、入部を許可された1年生は現存する名簿によれば237人である(新注:この時点での部員数410名)。

いずれにせよ、現実にこの大人数を抱えて、当時の部運営に当たる4年生(中尾大三郎総務)は大きな課題に遭遇されたはずだ。それまでのゆるやかな、家族的な、ある意味では自律を前提としたやり方で350人になろうかという組織が運営できるのか、このあたりの事情を責任学年4年生(同期OB会:賛山会)メンバーはどのように対応しようとしたか。

”基本的には、俺たちには大変だという悲壮感みたいなものはなかったね。今まで通りやっていけば大丈夫なんだと思ってた”と小林良男(副総務)は楽観的だったようだが、中尾大三郎(総務)は、”最大の問題はこれだけの人数に対応できるリーダーが不足することだと思った。毎回のワンデルングにリーダーを割り付けるだけで大変で、日曜日の夜は”無事帰京”の電話が入るまで、ひやひやの連続だった”と述懐する。

入部したての我々にはこのような事情がわかるはずもなく、美ヶ原新人歓迎のあとから、いわゆる”プラン”と呼ばれたワンデルングへの参加が始まった。

(注)部として企画されたワンデルングは通称”公式プラン”または単に”プラン”と呼ばれ、これ以外仲間だけで実施したものは”プライベート”と区別された。

日吉、三田などの”部室”の壁に、数か月先までのプランがリーダー名と一緒に書かれた模造紙が貼り出される。希望者はその下に学年と名前を書き、一緒に示されている日にちと場所で準備会に出る。したがって誰が行くのか、前もってわかるしくみで、これが結構、1年生仲間内の競争心をあおったものだった。上級生が袖に誇らし気につけていた三色の正部員章をもらうために、いち早く5回、ワンデルングに出る必要があったからである。

しかし中尾総務ら上級生が恐れていただろう現象は早くも5月連休後のプランで起きた。大菩薩峠ワンデルングに、山歩きの経験に乏しい多くの新入生がネームバリューにひかれたからであろう大量に集中した(記録では63人)。とても通常のやり方では運営できないということから、いくつかの班にわけ、それぞれ3年生がリーダーとなる大規模なものになったが、山慣れしていない大集団の悲しさ、1年生の誰かが起こした落石で、日吉の役員部員だった酒井征蔵が顔面に裂傷を受けるという事故が起きた。このこともおそらくひとつの直接的原因となって、事後新人への指導プランが喫緊の課題とされ、新人キャンプ(FCと略称された)という仕組みができた。この辺りの事情を、のちに発行された”八幡平合宿報告書”はFC制度について次のように述べている。

(前略)これは本年度に至って急増した部員数の調整という事に応じたものであった。すなわち本年度の新入部員は前年度の倍以上の数字を示したのである。そこで部員の教育の意味を含め、又その数を出来るだけ淘汰しようとしたのである。その上新人強化に参加していない者は、下記合宿には参加させないとし、下記合宿のテント受入数、テント地の状況も併せ考慮したのである(後略)。

こうして、従来は毎回、先輩が親しく個人に伝授してきた基本的な事柄を、組織的に教育するような仕組みができた。第一回は裏高尾山の小下沢で行われ、当時まだ浅川と呼ばれた現JR高尾駅から、土曜日の午後、64名の新人と先輩部員が照り付ける甲州街道を歩いて現地に着き、テントの張り方、火のおこしかた、等々を教わり、翌日は景信山を越えて、陣馬経由藤野へ降りた。

この夏の立山―槍プランは、北アルプス縦走コースの中では重量級に属するものだが、ここでも1年生の集中現象はあった。2年、3年各1名、4年生3名に対して1年は中妻、浅海、飯田、美濃島,中司の5人。高校時代にまともな訓練を受けていたのは美濃島だけ,そのうえ、立山から上高地下山まで、晴天だったのは1日半だけという悪天候だった。しかしその行程の記憶よりも鮮烈だったのは、途次、強い風雨のためテントを断念して宿泊したスゴの小屋でのことである。我々の後に同様に退避してきた某大学WVのパーティのふるまいは、われわれには想像すらできない、先輩への絶対的服従、というより神格化、上級生による下級生へのサディスティックな”しつけ”というか”いじめ”そのものだった。”あのあと、お前たち、すっかり静かになったよな”とリーダーの小林良男は笑うのだが、事実、1年生の目に、KWVの伝統と雰囲気、しかも素人同然の新人を見事に統率する上級生に対して新たな尊敬の気持ちが湧いた瞬間だった。事実として、その後、世に悪名高い”しごき事件”で部員を死なせたのはこの大学である。また、のちのことになるが、他大学との合同ワンデルングに参加し、多くの大学が同じような体質なのを経験した吉牟田正稔は、”ホント、俺、慶應でよかったなあって思ったね”と語っている。KWVと創部以来友好関係の深い義塾山岳部でも同様の”慶応”の伝統があるのは、やはりそれが大学の矜持であるからだろう。

前に述べたように、急激な部員増加と部の運営の現実とのずれは少しずつ顕在化していたのだろうが、1年生という立場ですべて先輩まかせにでき、伝統の家族的雰囲気を満喫できたのは我々にとっては幸いであった。振り返ってみて、古き良き時代とでもいうべきものが味わえた、これが最後の機会だったのではないか、という意味で、美ヶ原新人歓迎とそのあとの八幡平夏合宿とはK W Vにとってもわれにとっても歴史的な意味を持つように思われる。

(以下、次回)

 

秋の奥武蔵日帰りW ― その2 

OB会が新組織になってから、年中行事として春秋2回の 日帰りワンデルングが定着し、卒業年度ごとの担当が始まってからしばらくは参加人数をひそかに競うようになっていた。”100人越え” が実現したのは、34年(CL 妹尾)担当の筑波山からだと思うが、その後は100人の参加が当たり前のようになってきた。大人数の代が漸減していく中で、今回もまた100人を超える参加者があったのは、若い年代にもこの行事が受け入れられるようになったからだと思われる。ご同慶の至りであり、今後ともこの盛況が続くことが望まれる。

分散Wのあと、BC地でいろんな顔を見られるのはこれとない楽しみである。若い人たちの中には、何度聞いても名前を覚えられない方もおられ、苦労するのも逆に言えば楽しみであるが。

ワンデルングの形として、伝統のBC方式が当初から採用されてきたが、全員が集合できる場所を確保するのがなかなか難しいようだ。今回は飯能河原という好適な場所が選定されたが、毎回のこととは言え、実行委員のご苦労もなかなかのものだったと思われる。特に今度は、CLの水村君が大阪在住でもあり、前日上京して現地に宿泊、翌日に備えてくれた。この前泊にはSLの佐藤君らも合流したようだが、そのほか、BC班のCL金子君や古賀、安藤君ら、担当2学年のご努力には感謝しかない。聞くところでは、当日提供された飯能特産の四里餅を人数分確保するにあたっては大変ご苦労があった由である。会の終了に当たっては今回の担当から来年担当学年へとバトンを渡す儀式?もあり、19年春の再会が待たれる。

当日はパーティ別ワンデルングには参加せずBC地直行の参加もあり、最古参は33年の上田、荒川両先輩だった。いつの日か俺たちが最高齢、てえ日が来るのかなあと思いつつ、終了後は飯能の居酒屋へ強制連行して久しぶりに(俺たちの)四年生! の怪気炎を聞かせていただいた。すっかり出来上がって勘定もすんだあと、はっと気が付いた!ここは新宿じゃなかったのだ、と。

秋の奥武蔵日帰りWーその1 (51 斎藤邦彦)

10月27日(土)◆第5班◆高山不動尊から関八州見晴台コース◆コースタイム3時間40分◆

 「雨男の51年卒」が4回目の企画(今回は新規山域の開拓)として挑んだ「2018年の秋ワン」でしたが、今回も天気予報が芳しくなく随分と気を揉みました。結果的には歩き始めてから天候が回復するというひやひやの「ヒットエンドラン」でしたが幸運にも雨に降られたパーティはなく、無事に『時の当番』の役割を果たし次の年代に襷を渡すことができそうです。

予定通り殆どのメンバーが8:25西吾野駅着の西武線快速急行利用。8:30集合:西吾野駅8:40⇒(パノラマコース1時間20分)⇒10:00石地蔵⇒(40分)⇒10:40高山不動尊10:50⇒(40分)⇒11:30関八州見晴台(昼食)11:45⇒(30分)⇒12:15子育て銀杏⇒(常楽院、三社峠経由1時間05分)⇒13:20休暇村奥武蔵「こもれびの湯」入浴14:00⇒(送迎マイクロバス5分)⇒14:05吾野駅14:10⇒(西武秩父線21分)⇒14:31飯能駅14:40⇒(20分)⇒15:00飯能河原BC集合。

準備体操と自己紹介の後、サブリーダ五十嵐君を先頭に意気揚々と出発。天候は雨が上がり次第に快方へと向かっている。国道299号に出て北川沿いに進み、西武線の高架をくぐった後、橋を渡って山道に取付く。高山不動に行くルートはいくつかあるが、今回はパノラマコースを辿り石地蔵を経て山頂へ向かう。

軽快な足取りで旧黒門跡を過ぎ順調に高山不動尊の石段下に出る。石段は約100段あり、とても急な勾配を足が張るのを堪えて登ったが、下りは危険なので迂回するように先輩方から助言を受ける。石段を登りきると本日の第一目標地点である高山不動尊の前に出る。不動尊は西暦654年の創建と伝えられ、「日野の高幡不動」「千葉の成田不動」の関東三大不動尊のなかでも最も歴史のある寺院である。「不動明王」や国の重要文化財「軍荼利明王」が安置されている堂宇は巨大で霧の中で荘厳な雰囲気を醸し出している。今年9月に修復が終わったばかりで大屋根はきれいになっているが、霧に煙る伽藍はあまりに巨大すぎで写真を撮ろうとしてもはみ出してしまう。

不動尊で一本のあと「奥の院」である関八州見晴台に向かう。頂上に到着する頃には薄日も差し始め暖かい日差しの下で頂上登頂、地名の通り晴天に恵まれれば都心から房総半島まで見渡せるそうだが残念ながらこの日は霧で真っ白、目の前の山も見えない。頂上の標識を中心に記念撮影ののち手短に昼食を摂る。下りは高山不動尊の急な石段は避け巻道を旧高山小学校横に降りる。そこには樹齢1200年と言われる大銀杏があり、乳房に似た大きな気根がたくさん垂れ下がっている。「子育て銀杏」と言われる所以であるが、ここで「大きい」とか「垂れてる」とか我が班のメンバーはこの日一番の盛り上がりを見せた。

本堂の常楽院から自動車道に出て三社峠を越えほぼ予定通りの時間で「休暇村奥武蔵」に到着(先輩方はさすが健脚揃い)、入浴や冷たい飲み物を楽しみ、休暇村のマイクロバスで吾野駅まで送ってもらった。

<後日談(翌日)>

当日悪天候を示唆する天気予報に慎重になられ欠席だった34年の林田新一郎先輩から翌日に暖かいメールを頂いたので以下原文を掲載。

斎藤さん 34年の林田です。天気予報にだまされて皆さんとご一緒出来ず残念でした。しかし貴君のコースガイドがあったので今日一人で高山不動も見晴台も行ってきました。晴天で良かったです。でも君のプランより3割増くらい時間がかかり、皆さんと一緒だったら迷惑をおかけしたと思うので丁度良かったかもしれません。   

<参加された方からのメッセージ>

(多田さん)昨日はお世話になりました。写真を早速お送りくださり有難うございました。BCまで行けなくて残念でしたが写真で実感しました。またの機会によろしくお願いいたします。

(長谷川さん)写真見ました。ありがとうございました。ジジババ登山の中、可憐な花の写真がさりげなく挿入され、高校生のハイキングの時のようです。L,SL皆様ご苦労様でした。

(三嶋さん)昨日はお世話になり有難うございました。シニアには適当なコースですね。新緑の頃も良さそうです。

(安藤さん)写真を送って頂き有難うございました。ちょっと幻想的なショットもありましたが全体的にはよく撮れていると思います。皆様とも久しぶりにお会いできて楽しくちょっと厳しい山行だったと思います。

(久米吉之助さん)早速写真をありがとうございました。久しぶりに歩き、今日は少々筋肉痛で体力の衰えを痛感しています。病み上がりであまり自信がありませんでしたが、皆さんのご配慮もあり何とか最後までついて行くことができました。これを機に年内に1~2度ほど近場の山を歩きたいと思っています。

(久米行子さん)昨日の山行決定は親睦委員会の暴走かと思いましたが家を出る時の土砂降りから一転歩き始めから全く雨具の心配もなくBC地は見事に晴れ上がっていて感激でした。お蔭様でL,SLの気配りの行き届いた山行で楽しい一日を過ごすことができました。当番年の方たちはさぞお疲れだったことでしょう。大変お世話になりました。

(猪俣さん)昨日は、大変お世話になりました。色々と多忙で暫く運動から遠ざかっていた我が身には「適当」どころではなくきつかったです。思い切って出かけていき秋の楽しい一日となりリフレッシュ出来ました。

 

 

秋になりました ー 漢詩をひとつ紹介します (36 坂野純一)

やっと秋らしい青空も見え始めてきました。
遠藤兄、後藤兄の紀行文も拝見していますが、みなさんお元気そうでうらやましい限りです。先般ミドリから 「下町タウンウオーク」のメールももらったのですが、今の体調では、とても参加できず情けなく、悔しい思いに替えて、秋の漢詩をご紹介して視たいと思います。

芭蕉の最晩年の句に「この道や 行く人なしに 秋の暮」があります。この句は、唐の詩人 耿湋の「秋日」と題する五言絶句から想を得たものと言われています。

返照入閭巷  返照 閭巷に入る

憂來誰共語  憂い来たって 誰と共に語らん

古道少人行  古道 人に行くこと少(まれ)に

秋風動禾黍  秋風 禾黍を動かす

夕日の照り返しが冷たく村里に差し込んでいる。  この静かな光景に憂が沸き起こってきたが、共に語る人もいない 。荒れた古道は、通る人もほとんどなくてただ秋風がさわさわと稲や黍を騒がせるばかりである。

元大蔵官僚で、池田隼人蔵相の時、事務次官を勤めた長沼弘毅という人がいます。旧制静岡高校から 東大法学部。講道館柔道七段 退官後は実業界ヘ転じ、博識で知られ、文芸評論家としても活躍。次官時代のエピソードとして、役所の仕事は午前中に終え、午後は労働法の研究、夜は宴会に付き合うこともなくシャーロックホームズの研究に没頭したと言います。アガサ クリスティーの翻訳でも知られます。

彼はこの詩では、「返照 閭巷に入る」〜夕日が赤々と村里を照らす、〜と叙景に、やや、具体性を持たせ、結句では「秋風」に配するに「禾黍」をもってしている。これでも淡々たる筆致で「ことば少なし」といえるであろうが、芭蕉は、あらゆる点景物を一切、切り捨てて「行く人」までも抹殺してしまっている。こういう句には、なにものかを登場させなければ、さびしくて堪らないものであるが、芭蕉は、思い切ったつっぱなし方で、寂寥の光景を力強く歌い上げている。「この道や」の初五などは、珠玉のごとく光っている。さりげない奔放さというのであろうか。あるいは、凝りに凝った遂行の跡というべ きであろう。 何れにしても脱帽。と評しています。

新潟出身で、早稲田大学を出た歌人に会津八一という人がいます。彼の歌集の中に「印象」としてまとめられた漢詩に想を得たものがあります。

かって唐人の絶句を誦しその意をもって和歌二十餘首を作りしことありちか頃古き抽斗よりその舊稿を見出し聊か手入れなどするうちにここに九首を録して世に問うこととなせり。或はこれを見て翻訳 というべからずとする人あるべしまた創作というべからずとする人あるべし。   これを思うてしばらく題して「印象」という。されど翻訳にあらず創作にもあらざるところ果たしてなにものぞこれ予が問わんと欲するところなり

そして前述の耿湋の「秋日」を次のように歌っています。

いりひ さす きび の うら は を ひるがへ し           かぜ こそ わた れ ゆく ひと も なし

亡父の残した八ヶ岳山麓の小屋に 三本のヤマモミジの大木があります。時期になると真っ赤に紅葉し、タイミングによっては赤、オレンジ、緑のグラデーションを見せてくれます。十年ほど前には これを楽しみに出かけていましたが、最近では、出かけるのが億劫になって、寒いことも重なりすっかりごぶさたです。

 

 

 

18日の単独行、もうひとりいたよ! (36 遠藤夫士男)

中止を知らずに月一高尾を一人で歩いてきました。

18日は快晴、10:00に稲荷コースからスタート、幼稚園、小学校低学年パーティー多数。11:05山頂。

頂上直下の階段上りでかいた汗を拭いて11:15発、紅葉平へ。紅葉が始まっているように見えるのは、どうも塩害による葉枯れの模様。昼食には早いので細田小屋の250円のなめこ汁をパスして小仏城山へ。

12:10城山小屋。残念ながら店休み。200円のなめこ汁とかき氷にまたもやあぶれ。握り飯も早々に小仏城山東尾根コースを下り、日影沢14:04のバスで高尾駅から帰宅。

約2万歩でした。

遠藤夫士男拝

高尾山へスケッチに行ってきました (36 後藤三郎)

三増峠遠望

天気予報がはずれたので家も近いことから今朝思い立って、単独で高尾山に出か けてみました。10:45分に高尾山口に到着、直ちに6号路(琵琶滝)から自 分のペースで歩きました。5-6組の元気な人に追い越されましたが、
12:05分位頂上に立つことが出来ました。天気は高曇りで丹沢の大山や主峰 (塔が岳)は雲がかかっておりましたがそれなりの眺望は楽しめました。

小学生の遠足グループや外人が目立ちました。昼食を軽くとり3号路を一気に下山して 3:00時に自宅(千歳烏山)に戻ることが出来ました。途中で父の故郷である 神奈川県愛甲郡愛川町にある三増峠(昔の武田と北条が戦った古戦場)が茶店か ら見えたので記念にスケッチを描きました。

(10月18日の経過)

昨日は残念でしたが歯医者と来客の予定を入れてしまっていたので参加できず、晴れた空を見上げて悔しい思いをしてました(中司)。

昨日も中止にしました。5回目の中止です。私が17日朝8時ごろ 八王子の一時間天気予報を見たら 10時から12時は小雨 18時からも雨でしたので 堀川 藍原さんと連絡し中止とし 参加者10人ほどに電話をし了解してもらいました。実際は 天気予報ははずれて 曇り時々晴れでした。 少し早まりすぎたかしれませんが皆にはご勘弁を。後藤さんは 当日雨が降りそうもなかったので ご自分の判断で一人でいったものです。また中川芳子さんは なぜか17日なぜ誰も来ないのかと思いながら 稲荷山コースを一人で歩いた来たそうです(岡沢)。

変更は知っていたのですが…以前は意識しなくても、変更できていたのですが;惚けがきたようで^-^保育園児100人と稲荷山コースを歩き、追い越されることはあっても、休んでいる人以外を追い越すことはなくもみじ台の楓は梢がうっすら初紅葉でした。お陰様で風邪っぽかったのが抜けました(中川)。

 

 

閑人会 四国ワンデルング報告 (44 安田耕太郎)

剣山山頂にて

還暦の年の槍ヶ岳からこれまで12年間、 S44閑人会は毎年夏から秋に山行を実施してきた。今年は9月下旬に四国の大塚国際美術館(6名) 剣山(15名) 石鎚山(18名) 道後温泉懇親会(20名) しまなみ海道サイクリング(11名)を楽しんだ。因みに槍ヶ岳以降行ったプランは有志のみ参加山行を含め、剣岳・立山、白神山地、富士山(2回)、キリマンジャロ、台湾玉山(新高山)、台湾雪山、ボルネオ島キナバル山、雲ノ平、白峰三山、四川省大姑娘山、白馬岳、熊野古道、白山、出羽三山と三田会夏合宿、春・秋W、浅貝詣、個人山行を加えると、結構な数だ。 

安田を含めて6人は一日早く22日、鳴門の大塚国際美術館を観るため徳島へ。世界25ヶ国・190余の美術館が所蔵する西洋絵画1000余点をオリジナルと同じ大きさに複製し展示する陶板名画美術館。
システィーナ礼拝堂

システィーナ礼拝堂(ミケランジェロ)は建物内部も実物大で複製!陶器の板の上に焼き付けるレプリカとはいえ世界の名画が実物サイズで一堂に会する。原画展示とは異なるが、ダ・ヴィンチの同題の2つの異なる作品「岩窟の聖母」はロンドン・ナショナルギャラリー所蔵とルーヴル所蔵が並べられ、ミラノの「最後の晩餐」は修復前と修復後が比較展示されている。

原画と違い色彩の劣化や変化は2000年間はないとのこと。写真撮影OK、触ってもOK! 万歩計の数字は裕に一万を超え、き登山前のいい準備運動にもなった。夕刻には本隊も到着、総勢15人となる。夕食後、徳島が誇る阿波踊りを見学。
24日8時過ぎレンタカー4台で剣山に向かう。2時間走って登山口の見ノ越1420mに到着。10時半 登山開始。と言っても1750m地点までリフトに乗る。 頂上955mまで標高差205m、百名山では筑波山 伊吹山 大台ヶ原と並び、最も登り易い山のひとつである。
石槌山頂にて

25日、西条駅前よりバスにて石鎚山登山口へ。西日本最高峰、富士山 立山 白山 大山 釈迦ヶ岳 大峰山と共に日本七霊山のひとつ。52年前の3月、笹ヶ峰から伊予富士 瓶ヶ森(吉野川源流)経由で頂上を目指したが、春のドカ雪で頂上直下二の鎖で断念。それ以来の雪辱戦。ロープウェイとリフトを乗り継いで、,300mの歩き出し地点・成就社に到着。霊山に相応しい佇まいを感じる。NHK「グレート・トラバース」でも紹介された人気の山、有名な一の鎖、二の鎖、三の鎖辺りは混雑を予想したが、三連休明けの平日で存外空いていてマイペースで登れたのは良かった。

石鎚山遠望

痩せた稜線がおっかない最高峰天狗岳への挑戦を思案するも、霧で視界が悪い上に、時間も遅くなってきて断念する。周囲を露払い・太刀持の峰々に囲まれ、深山幽谷ともいうべき風景に胸を打たれる。下山は登って来たルートの反対側をその日の宿・土小屋まで下る。予定より遅く午後4時頃到着。山中泊ということで期待してなかった風呂に皆 大喜び!前日登った四国のもう一つの日本百名山・剣山が女性的な山容であったのと対照的に、霊山の神秘性を醸し出す石鎚山の男性的な勇姿とその懐を歩けた感慨を胸に早めに床についた。

ピラミッダルな天狗山を望む

翌26日、土小屋(1400m)から松山へ向かうバスの車窓から厳かに天に向かって聳える三角形の天狗岳の威容を堪能して松山道後温泉の宿に入る。

松山道後温泉で2人が加わり集団は20人に膨らんだ。午後は自由行動で、松山城、司馬遼太郎記念館、秋山好古・真之生家、子規記念博物館、道後温泉本館などに各自足を延ばす。夜の坊ちゃんの湯での懇親会では、卒業後50周年を来年に控え、仲間が健康で斯くも楽しく和む宴会が出来る幸せ感に浸った。
 
道後温泉での親睦会

27日(6日目)朝、解散式後、11人はしまなみ海道サイクリングへ、予讃線・今治波止浜駅に向かう。21段〜27段の変速ギア付きロードサイクル自転車とヘルメットを借り、初体験の長距離サイクリング開始に逸る気持ちはツール・ド・フランス! 7つの島を通り尾道まで寄り道しなければ70Kmの道のり。島と島は西瀬戸高速道上の橋で繋がっており、高さが海面から45〜80mあり、たどり着く橋の上の走行は、五臓六腑の垢が全て吐き出される感すらする気持ち良さ!渡る橋の総延長は10Km。瀬戸内海の島内のサイクリング、潮の香りを嗅ぎながら自力走行で風を切る素晴らしさ!初日のハイライトは、世界で類をみない全長4Kmを超える三連吊り橋の来島大橋、中世 瀬戸内海を暴れまわった村上水軍本拠地と水軍記念館見学。自然の要害ともなった流れの速い渦潮の海流を、走行しながら真近に見るのは迫力満点。島と島を結ぶ橋以外は島内の一般道を走るためローカル色豊かな景色と雰囲気を愉しめ、外国人を含む多くのサイクラーが行き交う。しまなみ海道の特長は大部分が自転車専用道路であり、完備された標識が安全な走行を助けてくれることだ。初日は30Km程走り三つ目の島・大三島にある和風宿に投宿。半端ない瀬戸内海の海の幸に仰天した。

28日、天気晴朗にして波穏やかな瀬戸内海、絶好のサイクリング日和。この日は島中央の高いところにある天照大神の兄神を祀る大山祇神社を、汗をかきかき訪れる。島の大きさにしては不釣合いな程に立派な神社であった。途中、好事魔多し、1台がパンクしたが運良くレンタサイクル・ターミナルが近く、自転車の交換が出来て事なきを得た。生口島(いくちじま)は、唯一平坦な道路で海岸べりを快調に走り、島出身の画家平山郁夫の記念美術館を訪れひと息入れた。サイクリング二日目の宿泊地・因島へは5つ目の生口島大橋を渡って辿り着く。午後になっても快晴だった天気予報は翌日100%雨、台風24号の接近を知らせていた。雨中の自転車走行は御免被りたいと、翌日の走行は諦め二日目終了時点で返却することにした。返却場所から10Km以上離れたホテルへは一時間一本のバス、最寄り停留所まで迎えに来てもらい午後4時過ぎ到着。ペンションと言った方が正確な瀟洒な建築家ビル・ヴォーリス設計の広島の建築100選に挙げられる古いが素敵な建物。11人の贅沢な貸切宿泊。合宿の最終7夜目、素敵に美味しい料理を饗され大満足で最後の夜が更ける。夜半窓を叩く大きな雨音に何とはない安心感を胸に眠りに落ちた。因みに泊まったのは著名人も利用する「白滝山荘」。
白滝山荘にて記念撮影
 
29日(最終日、8日目)、天気予報通り雨。しまなみ海道全行程完走は断念せざるを得なかったが、走行距離はアップ・アンド・ダウンありの60Km、海面上50mの天空の橋を走る解放感の醍醐味あり、潮風を受けて爽快感一杯に漕ぐペダル回転数は毎日15,000余!未知なる体験は忘れがたい思い出となった。今治から尾道に至る各地には造船所があり、穏やかな瀬戸内海風景に硬派のアクセントを与えているのも「しまなみ海道」の特徴の一つだ。最終日は雨の中、バスで中国本土へ、新幹線で帰路についた。一日違いで台風襲来、間一髪だった。
 
登山、サイクリング、美術館と松山市街巡りに懇親会と、バラエティーに富むハードとソフトの組み合わせ、皆の和のたまもの!おまけに西日本豪雨の風評被害の影響緩和、旅行需要の喚起のため愛媛・広島両県にまたがり連泊した者に一泊あたり6,000円の補助金を支給する施策の恩恵を受ける幸運にも恵まれた。
あと何回皆で一緒に行けるか?来年の合宿はどこになるのかな?

慶応高校野球部はなぜ強くなったか? (50 YHP 菅井康二) 

(今年の甲子園での慶応高校の活躍は塾関係者にとって素晴らしいニュースだった。本稿の筆者は50年工学部機械工学科卒、YHP(現日本HP)でPC分野のエンジニアとして活躍、同時に長年にわたり高校野球マニアをもって任じている。同君はこのブログの出発時点から技術的サポートを提供してくれている間柄でもある。本稿について質問などある場合は下記まで直接ご連絡を歓迎)。

kohji.sugai@gmail.com   http://facebook.com/kohji.sugai

 

甲子園に翻る塾旗

今年の慶應義塾高校(以下塾高と略します)野球部は10年ぶりに春夏の甲子園に2季連続出場を果たしました。10年前の20089年は春・夏・春3季連続出場し今年の新チームも期待されていたのですが106日の秋季神奈川大会準決勝戦で9回表まで横浜高校を10でリードするもその裏に劇的なサヨナラ2ランホームランを打たれて惜敗しました。

1960年、後に東京六大学初の完全試合を達成した渡辺泰輔投手を擁してベスト8まで勝ち進みましたが、その後長きに渡り甲子園から遠ざかっていた塾高が2005年に選抜甲子園に45年ぶりに出場出来たのは、2003年に導入された推薦入試制度によって入学した才能に優れた生徒たちの活躍のお陰でした。この推薦入試制度での募集人員はトータル40名でスポーツ、文芸、音楽、などで優れた実績をあげ中学校の成績評価が38以上(9教科でオール5だと45になります)の者が出願資格を有するというものでした。塾高の野球部は40名中10名程度の枠があるようです。この推薦入試の第1期生の代のチームが秋季関東大会ベスト8という成績をあげ東京・関東から6校という枠の6番目というギリギリではありましたがいきなり選抜出場校に選ばれたことは多くの野球部関係者を驚かせました。

中越戦、宮尾遊撃手のサヨナラヒット

この制度導入以前は中等部や普通部で軟式野球をやっていた内進生達は当然のように塾高野球部に入部していたのですが「全国から野球エリートが入学してくるようになるとベンチ入りは難しい」と判断した運動能力に優れた一部の生徒がアメフト部に流れました。それだけが原因とは言いきれませんが塾高アメフト部は2005年のクリスマスボウルでは22年ぶりの優勝を果たし日本一に輝くという面白い結果をもたらしました。

横浜高校の前監督の渡辺元智氏や元野球部部長だった小倉清一郎氏は「慶應が本気になって(選手を)集め始めたら手強い相手になる」と危機感を抱いていました。世間的には「慶應(塾高)もついに全国から選手を集めはじめた」と見られているようですが実際にはそう簡単に言い切れるものとは言えません。

この推薦入試制度には大学のAO入試同様、慶應義塾としての矜持が保たれ、そこそこ勉強の出来る野球少年にとってはかなりの高いハードルのようです。横浜、東海大相模、桐蔭学園などのような神奈川の野球強豪校がやっている野球推薦入学制度、所謂「スポーツ推薦」は中学校時代の競技実績に基づき監督や指導者の判断で実質的な内定を出し、後に形式的な面接試験するというものです。塾高では内定は出さないので監督や部長は入学を希望している本人や保護者にどれだけ優秀な実績があっても合格の保証は出来ないので、落ちた場合のことも考えておくようにと念を押しています。実際にかなり優秀な実績を上げた選手でも不合格になった例があり、また当該部活の部長・監督など関係者は推薦入試の合否判定には加われないことになっています(それが原因で数年前に監督が「キャッチャーを6人も取ってくれた!」と嘆息していました)。通常、この種の推薦入試で合格した場合は当該部活に入部する義務が生じますが塾高の場合はそれもなく、従って塾高では大学と同様「スポーツ推薦」という言葉は使っていません。早実にも推薦入試制度がありますが、必要とされる成績が36/45と塾高よりやや低く合否の判定には野球部の監督の意向がかなり強く反映されているそうです。

38/45という内申点をクリアした受験生は面接とその場で与えられた題で少人数でのグループ・ディスカッションを行い、中学生時代の実績(野球の場合はチームが全国大会でベスト8以上のメンバー又は国際大会のメンバーに選抜された選手というレヴェル)と合わせて合否の判定がなされます。

雄叫び挙げてサヨナラホームインする善波捕手

中学時代に野球をやっていたが要求されるレヴェルの実績を上げられなかった受験生の中には陸上競技など他競技での成績との「合わせ技」で合格を勝ち取った生徒もいました。中学時代に野球をやっていた生徒が全国レヴェルの作文コンクールの成績でこの推薦入試に合格したのですが、2005年の選抜大会の初戦ではこの選手がサヨナラヒットを打ったということが私が記憶しているユニークな一例です。

塾高には授業料免除などの特待制度は全くありません。生徒の保護者という立場では大学を含めると7年間の学費、用具代や遠征の費用、さらに地方出身者の場合にはそれに食住の費用(塾高野球部は合宿所や寮は持っていません)なども加わりその負担は半端な金額ではありません。また野球強豪校のようなスポーツ・クラスは設けていないので、学力的な水準ををクリアした野球少年達とはいえ塾高の授業についていくのはかなり大変だそうで、成績も普通の生徒と同じ基準で評価されます(日大三高のスポーツ・クラスなどは教科書も一般のクラスとは違い、授業も中学校の復習程度の内容のようです)。野球部の部長や監督は成績の芳しくない野球部の生徒の保護者には留年するよりは安いので必要に応じて塾に行かせるなり家庭教師をつけてください」と言っています。現在でも塾高では試験成績の平均点が10点満点で6点に近い5点台の点数があれば進級できますが、5点台半ばで進級会議において、レギュラークラスの選手でも留年したり放校になったというケースが実際にありました。

大学入試が無いという大きなアドヴァンテージがあるにしても、塾高というそれなりの制約のある環境において神奈川や全国の強豪校に互する実力を養うということは選手・指導者双方ともかなり大変なことも事実です。

甲子園入場式