北海道 ”夏” 2017 後編 (39 堀川)

知床

私が今夏の最大の目標にしていた、知床の硫黄岳と羅臼岳の縦走物語である。その背景に、昨年の6月から7月にかけて大雪山系黒岳から十勝岳、富良野岳へと6泊7日を掛けてソロでテントおよび避難小屋利用で縦走を敢行した時、忠別岳辺りから美瑛の小屋まで相前後してソロで歩いていた4人が、1年後に再会して一緒に知床の山を登ろう! と言うことになったことがあり、それが実行されたということだ。お互いソロなので勝手にマイペースで歩いているが、クマのことやら長い行程での苦労やアドバイスをテン場や避難小屋で話してうちに、だんだんと親しくなてきた。その中の一人、裏磐梯のペンションのオーナーのIさん(60歳代)が、音頭を取って下さり、大阪からSuさん(40歳代)、東京からSnさん(20歳代後半)、そして私の4人が知床半島、ウトロに、2017年7月6日(木)午後4時に集合することになった次第である。山で知り合い、その後も一緒に山に行くと言う、出来そうでなかなか出来ないことが実現。山仲間は本当に良いものだと改めて感じる。

 

2017年7月6日(木)

Iさんはフェリーで苫小牧に来て、私を拾うために昨夕旭川にわざわざ来てくれた。そこで今日は朝から二人でウトロを目指す。途中、女満別の空港で東京からのSnさんを拾いウトロの民宿へ3時半ごろ到着。追っかけ、大阪のSuさんも到着。再会を喜びながらも明日からの準備で羅臼岳から下山する岩尾別温泉の駐車場に車を1台置きに行き、帰ってきてから再会の祝杯を挙げた。

 

7月7日(金)

早朝、朝食も取らずに出発。コンビニでおにぎりやバナナを購入。1泊2日の行程なので食料の割合は全体的に少なく、ザックの重さは水も入れて20Kg位だろう。硫黄岳の登山口は、川全体が温泉で有名なカムイワッカからで、駐車場に着いて登山準備しながら、と一人が上を見るといた、いた。50mほど先にクマさんがお出迎え。我々の登っていく方向に登っていったので、ほっ! ちょっと、緊張感をもって、各自クマ鈴を付けて登山開始する。今日は行程は登山口⇒(4時間40分)⇒硫黄岳⇒(1時間25分)⇒知円別岳⇒(1時間)⇒南岳⇒(40分)⇒二ツ池のテン場 合計7時間45分となっているが、さほど暑くもなく快調に、やや、コースタイムより早く硫黄岳に到着。周辺は大爆発の跡が生々しい。でも、高山植物が気持ちを和ませてくれる。

 

知円別岳を超えると今までの荒々しい景色から一変して緑が多くなり、高山植物が咲き乱れ別天地の様相、楽しい縦走が続く。私はメンバーに迷惑を掛けないように必死で歩いているが、他の3人は余裕の表情。南岳に着くと今日のテン場の二ツ池が見えてきた。ここからコースタイム40分と思っていたらコースも変わっていて、道はハエマツの根っこを跨ぎ跨ぎ歩かなければならずえらく疲れる。時間も1時間以上かかって到着。疲れた! でも、テン場は最高の雰囲気。水も煮沸すれば問題ない。心配なのはクマさんだがフードロッカーもあり、4人いるのでクマも寄っては来ないだろう。各人でテントを張り、各人で夕食の準備をする。一見無駄なように思えるが、もともと4人ともソロなので違和感は無い。各人のスタイルで4人4様だ! 夜は満月で何とも幻想的で素晴らしいテン場に泊まれて幸せ感一杯である。月が明るすぎて星があまり見えないのが残念だ!

 

7月8日(土)

今日も天気は素晴らしい!フードロッカーから食料品を戻し、4人4様の朝食をとる。テント撤収から出発までは皆動きに無駄がない。今日の行程は、テン場⇒(30分)⇒オッカパケ岳⇒(1時間10分)⇒サシルイ岳⇒(1時間10分)⇒羅臼平⇒(1時間)⇒羅臼岳⇒(45分)⇒羅臼平⇒(2時間40分)⇒木下小屋(岩尾温泉)合計7時間35分。歩き始めてすぐに私の体調が思わしくない。熱中症の感ありで身体が重いのだがゆっくりしたペースにスローダウンしてくれて気を使ってくれる。有難い! 次第に体調も良くなり、適当に雪渓あり高山植物あり、何よりも景色が素晴らしいの一語に尽きる、素晴らしい稜線歩きを楽しみながら羅臼平に到着。よし、ここから羅臼岳往復1時間45分、しかも空身で行けるのでなんとか行けそうだと気を引き締めた時に、リーダーIさんが、バテタから自分はここで待っていると言う。え~、と思いながら・・・Iさんが私を気遣って言ってくれたものと解釈し、私も居残ることにする。20年くらい前に登っているので今回は行かなくても良しとした。年寄りは無理をしない。が鉄則です。何よりリーダーの心遣いに感謝するが、若い二人は1時間20分ほどで往復してきた。素晴らしい脚力だ。そこからは4人そろってわいわいとおしゃべりをしながら、十分に休みコースタイムより早めに下山、コーラで乾杯‼ 旨い!!素泊まりの民宿へ。夕食は漁師の経営する居酒屋へ行って大いに盛り上がる。楽しい! 良い仲間に恵まれ、天候に恵まれ、感謝、感謝の2日間であった。

7月9日(日)

民宿で朝食後、知床五湖へ行き、一昨日、昨日と縦走した硫黄岳から羅臼岳まで全山を一望してウトロに戻ってきた。楽しかった4人での山行はここで解散し、Iさんは大雪山へ、Suさんは日高の山へ、Snさんは斜里岳、阿寒岳へ。私は斜里岳と釧路湿原で終日カヌーでの川下りを楽しむ予定で、来年もぜひ誘ってください、とお願いした。

 

撮影場所がずれているが、左端が硫黄岳、右端が羅臼岳である。(連山をイメージして下さい)

 

 

虫の知らせか・・・??

斜里岳にはSnさんと同行の予定だったが、明日から天気は崩れるとの予報と同行するとSnさんに迷惑を掛けそうな気がして、急きょ取りやめ、一人で川湯温泉に行き英気を養って釧路湿原のカヌーの川下りに集中しようと考えた。知床斜里駅の観光案内所で川湯温泉のホテルを予約してJRで川湯温泉駅へ。のんびり風呂(温泉)に入り、夕食を食べて部屋に戻った時に娘から「お母さんの具合が悪く、入院させます」との連絡がはいった。ショートステイ先で具合が悪くなり、最寄りの病院に行ったがその病院から救急車で昭和大学藤が丘病院に入院さすことになったとか・・・う~ん。マイッタ‼ それからどうやって帰るか、釧路からか、女満別からか・・・飛行機の予約が取れるか? 翌日のホテルのキャンセル。カヌーのキャンセル等々。

1時間位掛かったが、今は、すべてスマホで出来てしまうのだ。素晴らしい! お陰様で翌朝JR川湯駅発の始発で釧路へ。バスで空港へ、全日空の1番機9時55分に乗って11時40分には羽田着。1時30分には家内の入院先に到着。「お父さん‼ 私をほったらかしにしないで帰っていらっしゃい」と言うメッセージだったのかもしれない。(退院は8月3日 病名は腎盂腎炎であった)

これで、私の2017年の夏山は終わったことになる。今日にいたるまで、泊りがけの山行は全て中止し、家内の介護に専念している。次回は、高尾でゆく秋を楽しみたい。

”ハードボイルド”文学について (その1)

僕は小学校の頃から本を読むのが好きだった。小学校時代は少年向けの名作シリーズがほとんどだったし、中学ではラグビーの練習が結構きつかったので、本格的に本を読みだしたのは高校へはいってからだった。シュトルムとかヘッセとかいう定番の名著を何冊か読み、次は”魅せられたる魂”か”ジャン・クリストフ”か、と考え出したころ、クラスのある仲間から、ミステリー小説、というのを吹き込まれた。明治風に厳格だった父親も旧制高校育ちの兄も”推理小説”などというのは悪書の一歩手前だ、くらいに思っていて、僕にも多少の躊躇はあったものの、彼(菅原勲)の勧めで、当時売れ始めた早川書房のポケットミステリで”矢の家”という作品を読んだ。1930年代、イギリスで高名な文学者たちがいわば手すさびに推理小説を書くのが流行だったころ、メイスンという高名な(僕はその本領を読んだことはないが)作家の書いた、典型的な本格推理ものだった。この本では、僕は話の筋よりも本の持つ雰囲気(とうことはいかに翻訳がよかったかということなのだが)にすっかり参ってしまって、そうか、ミステリも面白い、となり、次に手に取ったのがクリスティの”アクロイド殺人事件”だった。この本では、結末の意外さにただ呆然として、一瞬,本当に本を放り出したものだった。

この”アクロイド”が僕をミステリの世界に連れ込んだきっかけなのだが、それからはクイーンだ、カーだ、ヴァン・ダインだと名作をただ読み続けて、”ジャンクリ”も”魂”も”チボー家”も、当時のインテリ志向の人間には必読とされていた本は結局今日まで読まずにきてしまった。しかしある日、全く知らなかった”ハードボイルドミステリ”という存在に出会わなかったら、本格推理小説熱もいずれ冷め、純文学志向に戻って、今頃はひょっとすると斜に構えてドストエフスキーでも語るようなことになっていたもしれない。

さて、その”ハードボイルド”との出会い、である。

どういうものか、僕の人生で何かの転機、という不思議にたびたび登場するのが、慶應高校1年で同じクラスにはいった田中新弥なのだが(極め付きは義兄弟になってしまったことか)、ある日、(おい、これ、すごいぞ)と声を潜めるようにして教えてくれたのがミッキー・スピレーンの”裁くのは俺だ”だった。にくいことに彼はこの本の〝アイ・ザ・ジュリー”という原題をひけらかして、あたかもどうだ、わかんねえだろいうように僕の敵愾心?を誘ったものだ。何が”すごい”のか。何ということはない、ラスト数ページに展開される、犯人の悪女が探偵を誘惑して自分を見逃させようと一枚一枚服を脱いでいく、その描写の事だったのだ。今では中学生だって驚かない程度のシーンだが、当時としては、声を潜めていうくらいの衝撃だったのである。だがそれ以上に、この誘惑があっても動ぜず、冷然として自らこの悪女に銃弾をぶち込むラストはやはり強烈だった。今考えると、スピレーンの作品がミステリー小説というジャンルに入るのかどうか、疑問があるのだが、それはともかく、本の解説にあった、”ハードボイルド”という文学のカテゴリがあるのを知るきっかけを作ったのは間違いなく”裁くのは俺だ”だった。

これに続いてスピレーンの一連の作品が流行りだしたころ、また新弥が今度は”野獣死すべし、こいつはほんとにすごいぞ”と言い出した。一部によく知られている大藪晴彦の出世作である。読んでみると、たしかにそれまでに読んだ”推理小説”とは全く違った文体のものだった。しかしストーリーとして優れているとは思えなかったし、新弥が”すごいぞ”といった描写もたくさんあったが、読み終わってしまえばそれまで、というのが感想であった。大藪にはそのほか多数の作品があるが、いずれも暴力と銃器に関するマニアックな書き込み以外の印象はない。ただ、この本のようなスタイルの小説が”アメリカン・ハードボイルド”と言われるものだ、という事を知ったという意味ではひとつの転機ではあったようだ。しかし、まだ当時〝銃と酒と裸の女を書けばハードボイルド”、というような風刺もあって、この段階ではまだ巷間でも認知は低かったし、僕の読書性向を決めるものではなかった。

そこで、この”ハードボイルド”とは何ぞや、という議論になる。これは文学愛好者やその道の専門家にいろいろな説があるようだが、主に二つの面が指摘されている。

第一は、それまでのいわゆる”本格推理小説”、というものに対する一種のアンチテーゼとしての”推理小説”の書き方、という点である。”アクロイド殺人事件”に代表されるように、”推理小説”の主題は何よりもまず、フーダニット(WHO DONE IT)すなわち殺人の犯人は誰か、であり、それと表裏一体になるのだがハウダニット (HOW DONE IT)),例えば完全な密室でどうやって人が殺せたのか、その仕掛けは何か、ということにある。特に1930年代を中心に書かれたものはこの”ハウ”に重きを置くために、およそ現実性に欠ける環境やメカニズムを背景にするようになって、たしかに論理を追及していくというインテリ好みの面白味はあっても現実の世界では起きえないようなことが描かれ、物語の終わりになって、名探偵が関係者を集めてとうとうと論理を述べ、真犯人を名指しする、というのが定番になっていく。これに対して、もっと現実の社会に立ち戻って、平凡な警察官なり探偵が足を棒にして現場や社会の裏側を歩き、物証を集めて犯人にたどり着く。多くの場合、犯人もまた、平凡な社会の一員であることが多い、という流れができたのはある意味で当然であろう。このいわば推理小説の変化のひとつのかたちとして、主人公(多くの場合探偵あるいは警官)をより現実的なものにしていくと、今度はその主人公にどういう性格を持たせるか、にも視点がいく。それまでの名探偵はいわば一種の天才か或る種の変人であり、その私生活やら性格描写に力点が置かれることは少なかったし、読者の報も超能力者を自分の周りにいる人間とは期待しなかった。この”探偵の人間化”ということ、すなわち安楽椅子に座った推理機械と生身の人間との違いを考えていく過程で、より現実的な、ビジネスライクな、行動的な人物像が作られていくことになる。その中で、より”行動”と”自己主張”と”個性”とを強調した小説作法が作られていき、それにアメリカ的な個人第一の倫理とが加味されて”ハードボイルド・ミステリ”が生まれたのだというのが第一の点である。”ハードボイルド”という形容詞は今や推理小説の分野に限らず、社会通念の一つとなっているが、当初は必ず”アメリカン”という限定詞がついていたことも記憶されるべきだろう。

第二の点は、これは我々素人が云々できる範囲を超えているのだが、その文体、スタイル、にかかわることである。”アメリカン・ハードボイルド”を論じている文章にまず必ず引き合いに出されるのがヘミングウエイだ。それはハードボイルド作家の書き方の手本になったのがヘミングウエイの文体だということなのだが、このような議論はまず英語を母国語として多くの著書を読み、かつまたアメリカ文化を経験した人か、あるいはこの分野を専攻している文学者にして初めていえることであり、われわれ門外漢はそれを受け入れるしかない(所詮、蟷螂の斧とは知りながら、僕もヘミングウェイの文章を読んでみようと思い立ち、”Farewell to Arms”とか“The Sun Also Rises”など数冊に挑戦したことがある。第一次大戦後の世界意識の変革期、その時代の若者の不安や絶望や社会のありようはそれなりに心を打つものがあったが、さてその文体なりスタイルなりがどうだ、といわれてもこればかりは無理な話だった)。

この分野の専門家といえば、現代アメリカ文学者のひとり小鷹信光には”私のハードボイルド” ”ハードボイルドアメリカ”という文字通りこの問題に特化した2冊と、ほかにも関連として”アメリカ語を愛した男たち” ”ハードボイルド以前”などという著作があるし、ほかにも僕が目を通したものでいえば青木透”ハードボイルド”とか郷原宏の編さんになる”ギムレットには早すぎる”などは軽いタッチで”さわり”を解説してくれたものがある。もちろん、ほかにも参考文献はいろいろあるようだ。

しかし、”誰が為に鐘は鳴る”のヘミングウエイをハードボイルド作家だという人はいない。文体だけでなく、もっと違う文学としての価値があるからだ。そうすると、”ハードボイルド”といわれる作品には、文体以外にもなにか共通するものがあるはずだ。それは今、話をとりあえずミステリに限るとすると、これらの作品に登場する人物、主人公の人物の描き方にあるのではないか。アメリカン・ハードボイルドの作家と言えば、御三家ともいわれるダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、そしてロス・マクドナルドがまず登場するのだが、そのチャンドラーの”長いお別れ(The Long Goodbye)”の中に、主人公探偵のフィリップ・マーロウが親友の警部に、なぜおまえはそんなにこの事件にこだわるのか、と言われてこう答える部分がある。

私はロマンティックな人間なんだよ、バー二―。夜中に誰かが泣く声が聞こえるといったらなんだろうと思って足を運んでみる。そんなことをしたって一文にもならない。常識を備えた人間なら……..他人のトラブルには関わり合わないようにつとめる……テリー・レノックスが死んだことを知った時、私はキッチンにいってコーヒーを作り、彼のためにカップに注いでやった……..そんなことをやっても一文にもならない。君ならそんなことはしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ…(村上春樹訳 ”ロング・グッドバイ”)

前に述べたように、”ハードボイルドとは何ぞや”については多くの専門家の意見があるのだが、一愛好者としての僕にはこの一節が”ハードボイルド”の真髄を語っているように思われる。ハメットは30年代のサンフランシスコを、マクドナルドは第二次大戦から現代までの、北部カリフォルニアを主な背景とした作品で知られる。チャンドラーの舞台は主にロスアンゼルスだが、時代背景はその中間にあたる。この三人が描こうとしたアメリカ、それも東部エスタブリッシュメントの社会とは違う西部の社会と人間模様はそれぞれに違っているのだが、ハメットがどちらかと言えば主人公の”ハードボイルド的”行動を中心に据えた、きわめてストレートな書き方なのに対し、チャンドラーは上記の一節に明らかなように、行動的ではあるがより人間的でありかつ性善説的な視点で優れた小説を書いた。マクドナルドになると戦後のアメリカ中級社会に起きて来た麻薬の問題とか家族崩壊と言った深刻なテーマが増える。それぞれにメインテーマは変わっているが、このマーロウの独白にこめられた思い入れは共通しているように思える。この3人についてはよく知られているし、特に”長いお別れ”はミステリの分野を超えて、現代英語文学の最高峰という評もあるくらいだから、これ以上云々することはやめよう。翻訳も清水俊二に名訳があり、ほかにも双葉十三郎、小鷹信光、などあり、最近、村上春樹が新訳を書き続けている。僕の好みとしては清水訳が一番好きだが。

蛇足だが、この3人の大家の作品はいくつかが映画化されている。僕らの時代に公開されたものとしては、チャンドラーのマスターピースのひとつ”大いなる眠り (TheBig Sleep)”が”三つ数えろ”というタイトルで、かのハンフリー・ボガートとローレン・バコールの主演で、またもうひとつ、”さらば愛しき女よ(Farewell my lovely)”がロバート・ミツチヤムの主演で作られている。ローレン・バコールについては今更言うまでもないが、この”さらば”の悪女で出たシャーロット・ランプリングの妖しい美貌は忘れられない。”長いお別れ”もエドワード・グールドで出たが、原作に忠実でないし、何しろミスキャストで期待外れだった。ハメットの代表作”マルタの鷹”もボガート、マクドナルドの”動く標的(The Moving Target)”はポール・ニューマンが主演している。この中では、何といっても”さらば”がロマンチックな雰囲気と音楽がミツチヤムの茫洋とした演技とあいまって、素晴らしかった。いずれもまだDVDで版があるはずだ。

長くなったがここまでが書きたいことの前段というか前提である。僕も大学時代はこれでもかなりまじめに専攻した社会思想史の文献を(山とスキーの合間を縫って、である、もちろん)読んでいたし、会社勤めが意外なことに外資系になったためにそれなりの負荷もあって、余暇に読んだのは、その乾いた文体が好きだった五木寛之とか、歴史の知識を広めるための手っ取り早い手段として司馬遼太郎をよみあさったくらいであった。本来の趣味としての読書にのめりこんだのはむしろ退職後のことであり、その退職後のいわば生きがいのひとつとして、”ハードボイルド文学”とのかかわりあいをこれから書いてみたい。

 

 

ナンカナイ会 夏の集まり (36翠川幹夫)

卒業時60数名居たワンゲル同期生仲間も事故や病魔に襲われて、50名を割っている(正しくは48名)。我々の年次は偶々だが90%以上が首都圏在住で、新年とお盆時期に年2回の「例会」を持ち、30人前後が集まって同じような話を繰り返しながら語り合っている。野外では、昭和40年代初めから始めたゴルフも数名から十数名で今でも延々と継続し、高尾山など近郊の野山にも月1回程度集まって出かけている。登山や スキーはワンゲル全学OB会で合宿形式で運営されているが、流石に我々年次の参加 人数は減って来た。

そんな中で昨日(8月24日)、都内、四谷で「夏の集まり」と称する例会を開催、28名が集まったが他に一人、日程を間違って(翌日と勘違いして)no-show。特に話題が ある訳ではない。3~4卓の丸テーブルを回りながら、最近やったこと、見たこと聞いたことなど語り合い、聞いた話は後で全て忘れてしまうような時間を過ごしている。次は来年早々の「新年会」である。

私のC&W

(伊川望 47年)

私たちの年代(?)ではカントリー&ウエスタン(C&W)( 俗称鼻にかかった歌声が特徴?)と称し、銀座5丁目の「ナッシュビル」に時々通い、 ハットとブーツに憧れておりました。

背負子と交換でネスケから入手した5弦バンジョー( 最後までチューニングが上手くできませんでしたが…)を抱え、浮かれていたバブル期を懐かしく思い出しました。

ジャイさんが西海岸で活躍されていた時代に、 私はバブルの恩恵を全身に浴び、疲れ知らずの日々( 連日連夜のお付き合い)を過ごしておりました。

次のブログを楽しみにしております。

伊川拝

追伸①長い間「ウィリアムハンク(?)のユアーチキンハート(? ?)」と思い込んでおりました。

追伸② ナッシュビルで最後に見たステージは高木ブーのバンドでした。

追伸③写真の掲載も如何でしょうか( 例えばグレンキャンベルのジャケットの写真があれば…)

追伸④「アカズの山歩き」も中々面白いブログです。クマ、 アカズ夫妻の“馬鹿が付くほど”の体力には呆れますが…

 

棒道のこと

ジャイ様

ブログ第一信拝読いたしました。「棒道」、イヤー懐かしいですね 。ブンヤ屋として最初の赴任地が甲府。3年半の在任中は信玄公( 山梨では信玄と呼び捨てにせず、必ず「信玄公」という) の話はいろいろ聞かされていましたが、なかでもロマン溢れる「 棒道」の話はよく耳にしました。八ヶ岳での遭難取材のついでに、 小淵沢町役場に寄って、「棒道」の所在を聞いたりもしました。 その頃(50数年前)はまだ町内に「上ノ棒道」 のほんの一部が残っているだけでした。

私が新聞記者になったきっかけは、当時読売新聞のコラム「編集手 帳」を15年以上書いていた、高木健夫という評論家の自宅に大学 4年の時、新聞スクラップづくりのアルバイトに通ったのが縁でし た。甲府に在任中、高木さんが、八ヶ岳西麓の長野県原村に別荘を 建てたので、よく出かけていました。その別荘の近くに、信玄の棒 道が通っていたと村長から聞かされ、調べてみたがどこだかわかり ませんでした。

その後、東京本社の社会部になり、3年先輩の小学生の息子が夏休 みの自由研究で、信玄の棒道を見たいというので、小淵沢町内に残 っていた棒道を案内しました。草藪になった部分を探して歩きまし たが見つかりませんでした。その先が今では、ジャイさんの別荘の 前にハイキングコースとなっているとは奇遇ですね。 その周辺は、とくに紅葉がすばらしいとか。10月になったらゴル フを兼ねて、棒道の散策を楽しみたいと思います。  初田正俊