コロナ対策の現状    (34 船曳孝彦)

日本がコロナ感染世界ワーストワンになりました。

現在の感染者数が世界の感染者数のうち15%を占めこれがトップなのです。尤もゼロコロナを放棄した中国では感染爆発が起きており、感染者数など全く把握されておらず4億ともいわれますが、この国のことは分かりません(注)。

日本で今起こりつつある第8波は、増加傾向が最近頭打ちのようにも見られます。しかし重症者はともかく、軽症状者、無症状者が発熱外来にたどり着けず、自分でキットを買い、検査して保健所に届け出るという方式は、公衆衛生的には機能していません。自分で検査をするのも抵抗がありますし、検査で陽性となっても届け出ずそのまま放置という人が沢山います。従って発表数をはるかに超える感染者がいても、グラフの上では頭打ち傾向となっているのであり、日本の第8波は衰えどころか、今盛りです。実際皆さんの身近の方がどんどん感染していると思います。ワーストワンです。中国の対策と基本的に同じです。

では日本のコロナが特殊かと言えば、確かに流行している変異株が違います。日本ではBA5派生の3変異種が60%を占め、BQ 1系統が10%と少ないのに対し、欧米特にアメリカではすっかりBQ 1系統に移行したという違いがあります。国によって流行株が異なり、第5波、6波のように衰退の道を辿ってくれる幸運の兆しは見られません。むしろ現在政府が “経済” “経済”と海外からの呼び込みに必死になっていますと、BA系の1.3^1.5倍の感染力があるというBQ 1、BF系が増加する恐れがあります。

従ってこれをゲノム分析で分別し、対策を立てねばなりませんのに、厚労省は今もって壁を閉ざし、一般に情報を流さず、大学や民間研究所のデータ、ノウハウに背を向けています。ゲノム分析は、費用がコロナ発生当時の2%となり、アフリカ諸国でも行われるようになっているご時世ですが、日本では十分なノウハウを持ちながら、未だにタテ割りという官僚体制に拘り、諸悪を招いています。

欧米では、インフルエンザとの同時パンデミック、あるいは別のウィルス性呼吸器疾患(RSV)を加えてトリプルデミックが懸念されていますが、日本では今のところインフルエンザ流行は来ていません。マスク着用者が多いからという説もあります いずれにしても、もし罹ったら治療の流れに入り込めず、苦労することになります。感染しないよう十二分にお気を付けください。

(注)WHOによると日本の1週間の感染者は世界の15%を占め、世界一だとのことです。累積ではありません。

あの向こうに新年が待ってますね  (34 小泉幾多郎)

本年も早くもあとわずか、エーガの四方山話から音楽、絵画からW杯サッカー、野球、山やスキー、フランス紀行に旅行の話、はたまたウクライナ情勢等政治の話 、食欲の話、デジタルの話等々数え上げればキリがない。まあ皆さんの知識の豊富なこと。ついて行くのは至難の業というか、そのスピード感にもついて行けず、もたもたしているうちに話題は次に…。ということでなかなか話題に溶け込めずに傍観せざるを得ずに失礼している次第。返事をしないからと言っても、見ていない訳ではなく貴重な知識として受け取っていますのでご了承お願いいたします。何しろ有難く受け取り大いなる呆け防止の糧となっていることは間違いないことと感謝している次第ですので来年も宜しくお願いいたします。 腰痛やら不整脈やらで近所をぶらりと歩くのが精一杯。同じような写真ですが、今日ぶらりした近所の鶴見川畔からの富士三態をご笑覧下さい。コロナ禍お大事に、良いお正月をお迎えください。

 

エーガ愛好会 (184) ホワイトナイツ (34小泉幾多郎)

80年代東西冷戦時代に亡命したダンサーの話。当時の共産党全盛のソ連から米国
亡命がバレエダンサーニコライ・ロドチェンコ(ミハイル・バリシニコフ)、逆にベトナム介入や人種差別の米国からソ連への亡命がタップダンサーのレイモンド・グリーンウッド(グレゴリー・ハインズ)が主役。

バレーダンサーとして活躍しているミハイルが「若者の死」という舞台で喝采を浴びるところから開幕。その後所属する米国のバレエ団が、公演のため東京に向かうオリエント航空ジャンボ機の電気系統の故障で、折悪しくシベリヤへ緊急着陸。過去ソ連からの亡命の罪を犯したミハイルは、KGB幹部のチャイコ大佐(イエジー・スコリモフスキー)に身柄を拘束されてしまう。その監視役に命じられたのがグレゴリーで、この二人に友情が育まれると同時に、ミハイルの元恋人ガリーナ(ヘレン・ミレン)、グレゴリーのロシア人妻ダーリナ(イザベラ・ロッセリーニ)が絡む。と同時に二人のダンス場面が素晴らしい。グレゴリーの「ポギーとベス」でのタップ、ミハイルの最初の「若者の死」のバレー場面から始まり、グレゴリーと賭けをしながら片足で回転の踊りピルエットを11回やクラシクとタップという全く資質の違う二人が踊るシーン、David PackのProve me wrongという曲にシンクロしながら踊る等ミハイルの優雅さとグレゴリーの長い手足とリズム感が観ているだけで楽しい場面の連続。

二人がトレーニングを兼ねて踊る場面の何曲かの音源は日本製らしきカセットデッキで懐かしい。製品にHitachiの文字が見えた。最後は、米国大使館の協力のもとソ連から自由世界への脱出が、スリル満点でハラハラさせる。高所での宙吊りアクションやその背景の白夜の静まった薄明のロケーションが異様な緊張感を醸し出した。

監督のテイラー・ハックフォードは、2009~2013年全米監督協会長を歴任し、その作品に「愛と青春の旅だち1982」「Rayレイ2004」等がある。脇を固めたチャイコ大佐に扮するイエジー・スコリモフスキーはポーランドの名監督。ヘレン・ミレンは英国の名女優で、1997年に、この映画の監督と結婚している。グレゴリーの妻は、バーグマンの娘イザベラ・ロッセリーニと名優が揃いゴージャスな気品を漂わした。音楽は、バレエやタップがふんだんに流れるほか、アカデミー歌曲賞のライオネル・リッチーの「セイ・ユー・セイ・ミー」、フィル・コリンズ&マリリン・マーティンの挿入歌「セパレート・ライブス」等彩りを添えている。

(平井)私はDVDで見ましたが、面白い映画でしたね。ダンスが素晴らしかったです。もう10年ぐらい前になりますでしょうか、バリシニコフがパリで踊ったのですよ。もう流石に若い頃の回転はできないのですが、その表現力は涙が出る程素晴らしかったです。会場はスタンディングオベーションで、お花が舞台に投げられて、それを拾う彼のしぐさがまた美しい!忘れられない舞台でした。シャトレのパリ市立劇場でした。

(安田)封切り当時、映画館で観ました。冷戦時代の米ソの対立を背景にして物語は進みますが、ストーリーそのものに加えて、二人の踊り場面、特にバリシニコフの、が忘れがたい。バリシニコフは実際ソ連からアメリカへ亡命したバレー界の至宝でした。ライオネル・リッチーの「Say You Say Me」は映画のみならず、当時よく聴きました。

https://youtu.be/L79ZKIvHEa8

フィル・コリンズ & マリリン・マーティンの「Separate Lives」も良かった。

https://youtu.be/vmMinSOWKQk?t=5

ついでですが、ライオネル・リッチー以下当時のアメリカを代表する歌手たちによって歌われた「We Are the World」が好きでよく聴きました。今聴いても素晴らしい。冒頭、リッチーが一番手で歌い出します。アフリカの飢餓と貧困を解消する目的で「USA for Africa」というプロジェクトを立ち上げ、作られたキャンペーンソングで、作詞・作曲はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが共同で行い、プロデュ―スはクインシー・ジョーンズが担当。クインシーは映像動画では指揮を担当しています。

クリスチャンではありませんけど

(HPOB 小田)「我が家の玄関は添付の写真のサンタさん達がお出迎えです。星と小さなサンタはカナダで、笑顔のサンタのマトリョーシカはチェコのお土産です。大きな方のサンタは市民講座で作った物。他も道後温泉で買った檜のサンタさんなど、お土産物と手作りが、主です。ョーロッパも今年は省エネを要求されているようですが、日本の飾り付けも昔より華やかさが減ったように思います。

(44 安田)健やかな年の瀬と明るい新年をお迎えになられることを祈念致しております。

(飯田)我が家でもクリスチャンではありませんが、毎年のように飾りつけを致します。玄関にトナカイは、マッケンジー・チャイルド(ニューヨーク州の北部の街スキニアテレスで購入)。カップボードの上は多くはドイツで、一部はアメリカで購入した分で雑貨ばかりです。

(42 下村) クリスチャンでなくてもクリスマス飾りはなぜか気持ちを和ませてくれますね。寒ぞらのなか帰宅して玄関ドアを開け、パッと赤や緑のクリスマス飾りが目に入ると場面が一転、一挙に温かい気持ちになります。老夫婦2人だけのわび住まい、せめて見栄えだけでも温かくなるようにしていきたいと思います。温かい空間づくりの参考になりました。ありがとうございました。

(55 宮城)日光等、山沿いは大雪のようですが、宇都宮市内には全く雪はありません。クリスマスイブに、宇都宮北部にある古賀志山に登りましたが、歩き始めたら雪が降り出し、岩場を縦走しましたが、岩が滑るし、難易度が上がり、とてもスリリングな登山となりました。今年11月末に長男家族が住むヒューストンに遊びに行き、米国の景気良さと物価高騰に驚かされました。楽しいクリスマス&正月をお迎えください。

オーディオ界のデジタル化から見る (44 安田耕太郎)

「デジタル社会」ブログ記事について、ややポイントが外れるのを承知の上で僕が関係した電機業界、特に狭いオーディオ業界の視点から述べたいと思う。日本の右肩上がりの高度成長期と期をいつにして社会人となりバブル崩壊後暫くして退職したが、働く時期はちょうど日本経済が登り坂からピークの安定期、そして退潮に至る時期に重なったのは運が良かったとしか言いようがない。自力では如何ともし難いことばかりであった。

日本の右肩上がりの高度成長期と期をいつにして社会人となりバブル崩壊後暫くして退職したが、働く時期はちょうど日本経済が登り坂からピークの安定期、そして退潮に至る時期に重なったのは運が良かったとしか言いようがない。

戦後の日本の高度経済成長と共にオーディオ業界も歩を一にするかのように発展したが、先ずはアナログ時代であった。生音楽を聴くのと違い、オーディオは音の入り口であるSP・LPレコード、テープデッキから電気信号を音に変換して増幅する中間部分のアンプ、そして音を実際に出すスピーカー、これら全ての機器はアナログであった。’60年代から‘70年代にかけて一挙に成長拡大した。大卒初任給月額5万円の時代にも拘らず、一台10万円以上の機器が飛ぶように売れた。ボーナスと右肩上がりの年収に自信を得た月賦購入が主であった。年収増大を確信する明るい将来をまえにして人間は消費に走るのだ。現在とは真逆の世相と社会現象だった。’70〜‘80年代にかけて世界市場を席巻した日本メーカー・ブランドの多くは退場を余儀なくされ消えて行った。アナログの全盛期は’70年代後半から’86年の「プラザ合意」までの約10年間で、僕の勤めた日・米の会社2社はそれぞれ全盛期にはジャンボジェット機のチャーター便で太平洋を飛んで製品を運ぶほど活況を呈した。アナログ時代の花火の大団円のようであった。

デジタル機器が登場したのは、1982年10月1日に世界最初のCD Player がソニー、日立(LO-Dブランド)、日本コロンビア(DENONブランド)から発売された時であった。以後、機器のデジタル化が急速に進み、産業界の重厚長大から軽薄短小の波にも乗って、21世紀に入る頃までにはデジタル機器が市場を席巻するに至り、アナログは”その退潮は時の流れ“の中に埋没していった。

デジタル化イコール製品の軽薄短小化となり、デジタル機器の革命児は2007年登場のスティーヴ・ジョブズ率いるアップル社のiPhoneであった。将に軽薄短小の代表機器で革命的変化を再生音楽視聴にもたらした。パソコン分野の進化の過程で産み出された副産物が再生音楽の機器世界に大変革をもたらした。最初のデジタル機器CD Player登場(1982年)から15年を経ていた。音楽供給機器としてのiPhoneの登場は、関連機器にも大変革をもたらし、人々は音楽を重厚長大な機器で聴く代わりにヘッドフォン、イヤフォンや簡便小型システムで聴くようになった。iPhone的機器は実はソニーが先駆者として開発導入すべきであったと、日本人としては悔しい気持ちになる。ソニーはグループ内にレコードを取り扱うCBS Sonyを抱え、iPhoneの垣根を剝ぎ取った自由で無料で行える音楽配信を許すわけにはいかなかったのが、大きな禍根を残す要因となった。

このアップルの偉業は業界に大変革をもたらし、ハードウエアメーカーの合従連衡と淘汰を結果として生じさせ、弱肉強食の競争原理の下に退場して消え去ったメーカーは数限りなかった。業界の勢力図はアナログ時代とは似ても似つかぬ様相を呈している。勝ち組の筆頭アップルの創設者スティーヴ・ジョブズは地元の世界有数の大学スタンフォード大学の卒業式に招かれ、癌に既に侵されていた身で卒業生に云った、「Stay Hungry Stay Foolish」と。遺言であったろう。今後のデジタル分野の進化と変革は予想すら出来ないが、次代のスティーヴ・ジョブズが何をするのか予断を許さないが楽しみでもある。

僕の勤務した会社は、元々アナログ時代に成長した会社であり、デジタル時代到来に生き残りと社運を賭けて製品と市場の多様化に懸命に取り組んだ。一例を挙げれば、自動車業界へのアプローチであった。車内で良い音でオーディオを聴かせる戦略を自動車メーカーに売り込みを掛けたのである。愛知県のトヨタ自動車本社詣の結果、彼らの車(複数車種)にブランド付きのままオーディオ機器を搭載させることに成功した。自動車会社側も車の付加価値を高めて厳しい競争に勝たねばならぬ必要に迫られていて、謂わばウィンウィンの関係であった。昔と様変わりのデジタル時代の生き残りは進化するハードウェア技術、消費者性向の変化に対応して多様化しつつ競争力を支持するメーカーのみに可能なのであろう。

最後に、このブログでも指摘されたデジタルの持つ無味乾燥さの一例「レストランで注文をタブレットでおこなう」は、アナログ社会のもつ人とのスキンシップの血の通う温もりを排除していて味気なく、 “生きる”楽しさと豊潤さが便利さと効率の犠牲になっている一例として寂しい限りである。オーディオで聴く音楽もiPhone或いはその類の機器からヘッドフォンやイヤフォン経由では色気がなく寂しい。アナログ機器で聴く音楽は、機器を操作して楽しい、美しい機器を見て嬉しい、個性ある(金太郎飴でない、マクドナルドハンバーガーでない)音で音楽を聴くのは素晴らしい。音楽や食事など人生の悦びと直結する行為はデジタルではなくアナログで、と思う。一方では「デジタル・AI社会ですが、そんなに大上段に構える物ではなく、単なる伝える技術の進歩‐便利な道具に過ぎないではないか」、まさに至言功罪両方あるが、趨勢は便利さと効率さ追求であるのは疑う余地はない。

(編集子)諸兄姉のごとく鋭い耳を持っているわけでもなく、音楽そのものにこだわりがあるわけではない。だが、まあ、いい音、は聞きたい。アナログであれデジタルであれ、いずれも親愛なる電子君のなせるわざだが、硬い石の間を潜り抜けてくるやつよりも真空の中を飛ぶやつのほうがどうもロマンがあるような気がして、そうするとよくわからないなりにどうも真空管アンプのほうがいいように思えてきた。引退後、何台か真空管アンプを作った(原理はともかく、実際上はデジタル処理を真空管回路でやるのは現実的ではないから、当然アナログになる)。その記念すべき第一号の写真である。部品には凝りに凝って、整流回路には入手も大変だった専用管を使い、チョークコイルというばかでかいものを入れたりしたのでなんせ重いものになった。ファイナル6B4G シングル、スピーカは安田君には申し訳ないがパイオニア製である(一世を風靡した同社の終焉が本稿のあらすじにマッチするようだ)。スイッチを入れてもしばらくは球が温まるまで音は出ない。この数秒の静寂がいいんである。しばらくぶりにキャビネットから出したらほこりだらけだった。ご苦労、わが友。

エーガ愛好会 (183) 西部劇とはなにか? (普通部OB 舩津於菟彦)

セイブ劇とやらはなんじゃいなぁとブログを繰って見た。やはり米国の今昔物語で東から西へと開拓していったノスタルジー。まぁ暮れに成るとやる「忠臣蔵」かなぁ。

西部劇(せいぶげき)は、19世紀後半のアメリカ合衆国の西部開拓時代に当時フロンティアと呼ばれた主にアメリカ西部の未開拓地を舞台にした映画(テレビ映画を含む)や小説である。英語のWestern(ウェスタン)の訳語である。
1860年代後半・南北戦争後のアメリカ西部を舞台に、開拓者魂を持つ白人を主人公に無法者や先住民と対決するというプロットが、白人がフロンティアを開拓したという開拓者精神と合致し、大きな人気を得て、20世紀前半のアメリカ映画の興隆とともに映画の1つのジャンルとして形成された。

ブログでセイブ劇と繰って見ると第一次世界大戦後には ジェームズ・クルーズ監督 『幌馬車』(1923年)が製作された。この映画はスターによるヒーロー物語ではなく、自然の猛威や先住民と戦いながら西部の荒野を西へ西へと進む集団の物語で、それまでの西部劇とは全く違う新しい西部劇を作った。ジョン・フォードは1924年に大陸横断鉄道の建設を軸にした西部開拓叙事詩「アイアンホース」、1926年に『三悪人』を製作していた。
そして第二次大戦が終わって後に西部劇は黄金時代を迎えて、1960年頃まで多数の名作を生んだ。また多くの俳優が西部劇で主演を演じて、その中からゲイリー・クーパー、ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、グレゴリー・ペック、ジェームズ・スチュアートらの大スターが西部劇から育っていった。

西部劇が描く人物像は基本的に主人公は白人で、強く正しくて『勧善懲悪』をストーリーの骨子とし、そこへ応援に来たりする(陸軍の)騎兵隊は「善役」であり、それに刃向う先住民インディアンを「悪役」としたものが多い。そして劇中で描かれた白人とインディアンとの戦いには史実も多いが、戦いの原因(土地の領有権)に触れたものはほとんどなかった。
1940年代の半ば頃から、フロンティア精神を肯定してそこに主人公(ヒーロー)がいて無法者や先住民を倒す「西部劇」という一つの図式が崩れ始めた。1950年のデルマー・デイヴィス監督『折れた矢』は先住民は他者で白人コミュニティを脅かす存在という図式ではなく、先住民の側から描き、戦いを好むのではなく平和を求める彼らの姿を描いた。それは、当時黒人の地位向上を目指す公民権運動が次第に激しくなる時代に入り、人権意識が高まる中でインディアンや黒人の描き方が批判されるようになって、単なる勧善懲悪では有り得ない現実を浮かび上がらせ、それまでの西部劇が捨象してきた問題に対して向き合わざるを得なくなったことであった。
これが1960年代に入ると、公民権運動が高まると同時に西部劇の衰退を招くこととなった。1960年にジョン・F・ケネディが大統領に就任し人種差別の撤廃に強い姿勢で臨み、これに伴い従来の製作コードが通用しなくなり製作本数も激減した。そしてイタリアなどでいわゆるマカロニ・ウェスタンと呼ばれる多くの西部劇が作られ始めると、サム・ペキンパー監督『ワイルドバンチ』のようにマカロニウエスタンに逆に影響を受けた作品も数多く生まれた。

(編集子)西部劇映画の泰斗吉田広明氏は2018年に西部劇論という大著をあらわし、その副題を ”その誕生から終焉まで” としている。同氏はこの本の締めくくりとして ”1992年、クリント・イーストウッドは、自身、”最後の西部劇” と称する ”許されざる者” を発表する。この作品以降も西部劇が完全に作られなくなってしまったわけはないが、それらの作品はすでに前章に記したように………”許されざる者”に代わる新しさをもたらすことはなかった” と書き、イーストウッドを 西部劇に引導を渡した男 と定義している。同氏のこの本はかなり難解であり小生も拾い読み程度の理解しかできないのだが、彼は ”オルタナティヴ西部劇” というアイデアや、ギャング映画とその延長にあるいわゆるフィルムノワールと西部劇の親和性を説く。いろいろな論議があるが、編集子が愛するセーブゲキ、はかれの分類によると ”神話と化す西部劇” というジャンルに入るらしい。神話になってしまえばこれはもう現代に復帰はできないわけだ。だからセーブゲキはなくなった、という気持ちはないのだが。

 

”デジタル社会” ということについて

先に AI という用語の氾濫について書いたが、また、デジタル化、という文言が目に付くようになった。スマホをこともなげに扱う小中学生などとスクリーンを眺めてため息をつく高齢者群とのありようをデジタルギャップ、などと漫画化するマスコミにも現在の社会的混乱をあおる責任があろうが、このような議論でデジタル、という本来は極めて技術的な用語が妙な形で独り歩きするのも気に入らない。本稿では、この”デジタル“ という単語を(学術的正確性はとりあえず無視して)、

”各種の技術的・社会的情報をコンピュータが処理できる形に作り直し(この過程が本来の意味でのデジタル化)、電子通信装置を経由してコンピュータにより所要の処理加工を行い、その結果を必要とする受益者に配信するしくみ“

と定義してみよう。                           そうするとこの定義が最も容易に理解できる仕掛けの代表が電子メールであって、ツイッターにせよフェイスブックにせよユーチューブにせよ、いろんなしかけの原点がこのシステムにあることは間違いない。小生がこのしかけのはしりとでもいえるものに遭遇したのは1980年代後半、勤務先のヒューレット・パッカードで、それまでのテレックスと国際電話に代わる社内の通信手段として自社開発のシステム(HPメール)が定着したときだった。当時HPでは、このようなシステムを持っているのは国防省とIBMとわれわれだけだ、と豪語していたものである。その後 パソコンの環境が共通オペレーティングシステムの出現や、イメージや音声を取り扱える マルチメディア対応などによって ”コンピュータ“ そのものがいわば日用品化していく。このプロセスをなんとか理解し得たのが(その時代にももちろん多くのマニアが先駆的なユーザとして存在したが)がわれわれ、つまり企業人生をちょうど世紀の変わり目あたりに終了することになった世代にあたっていて、いわゆるデジタルギャップなるものの線が引かれるのもこのあたりなのではないだろうかと思うのだ。

仮にEメールがデジタル化の出発点であると仮定し、その普及率を ”アドレスを保有し、日常的に使用している人の割合“ と定義すれば、小生の所属する大学ワンダーフォーゲル部同期生間でのそれはおそらく90%くらいになるだろうが(中に一人、俺は主義としてこの種のものは持たん、という頑固なのがいるので100%には絶対ならない)、この率は卒業年度が上がるごとに急速に下降している。SNSと総称されるいろいろなしかけやスマホで使われるいわゆるアプリなるものが、Eメール文化の延長上にあるとすれば、そしてそれへの対応に困難を感じることが デジタルギャップ なるものだとすれば、もちろん個人差はあるにせよ、このあたりの年代でギャップの境界線が引かれるように感じられるし、これを一般論として拡張してもそれほどの誤差はないだろう。

デジタルギャップ、という意味を、マンガ的に取り上げられるように単に新しい技術に対応できない人がいる、という程度の話だとすれば、それは時間の経過とともになくなっていくことだから、深刻に悩む必要はない。しかしその範囲を個人の話から社会全体のデジタル化、というレベルに引き上げると、我が国のレベルはほかの欧米はもちろん近隣諸国に比べても絶望的に遅れている。それを最も端的に見せつけたのがコロナ騒動の時に起きた、現場と監督官庁とのやり取りがファクスでしかできなかった、という事実だろう。なんでこのような遅れが生じたのかについてはいろいろな議論があるので深入りはしないが、そのことに覚醒した政府行政の協力な指導(というより火事場のナントカ、というほうが現実か)によって、これから国のデジタル化が急速に進むことは間違いないだろう。

このデジタル化、によって何が生じるのか。日常生活に直結した商取引とか決済とか、その経済効果が明らかなものや地域格差の是正とか医療行政の改善、などにについては加速度的に実現していくだろうし、多少のマイナスがあったとしてもその効果にはプラスの結果が期待される。しかし実務的な場面を離れて、それがわれわれの文化や伝統にどう作用するか、ということと、さらに個人が得る社会的情報の質、およびそれを正しく得ることが出来るかどうか、という意味でみた、デジタル社会に生じるインフォメーションギャップとその結果については十分考える必要があるように思う。

第一の点についてはこれからの将来の世代に引き継がれることではあるけれども、すでにいろいろと感じることが起きてきた。卑近な一例として昨今、レストランなどで注文をタブレットで行う、というプロセスを挙げてみよう。これはもともとは接触を嫌うコロナ対策の一部として注目されたが、たしかに店の立場で言えば、労働力不足対策、現場と調理場の直結、エラーの減少、会計処理の容易さ、などとプラス効果がならぶだろうから、おそらく今後とも定着していくだろう。しかし、我々はなぜレストランやコーヒーショップに行くのか。それがただ、食事をとるだけのことであればいいのだが、そのほかに、なにかのくつろぎや束の間の解放感を感じたり、友人と触れ合う機会、ということがその意味だとすれば、それを演出するのが店の実力であり、店の味、雰囲気、といったひとつの文化だろう。それは客とウエイター・ウエイトレスとの会話やバーテンダーのジョークや、料理についての知ったかぶり問答といった、人間のふれあいで生まれる。そう思っているうち、先日も誰でも知っている高級ホテルの席で、白いテーブルクロスの上にタブレットが出てきたときには肝をつぶしたというか、ある意味で情けなかった。効率改善のための”デジタル化”でまた一つ、文化が破壊された気がしたからだ。これはほんの一例だが、こういうことは今後、いろんな意味で起きていく。レストランの話で展開すれば、僕らが学生時代に愛した喫茶店、”気に入りの店” で音楽を聴き、人生を説きあるいは恋をかたる、という場所だったものががすっかり減り、代わりにはスピードと安価だけを追求し ”飲食する場所“ のチェーン店が鎬を削るようになってしまった。悪貨が良貨を駆逐する、というのは言い過ぎだろうし老人のひがみだろうが、”明治は遠くなりにけり“ 現象はこのデジタル化によって、不可逆的に加速するだろう。文明の発達拡大と文化の変容衰退、という事を改めて感じる。

この文化衰退論は多くの場合、会話の遊び程度でとどまる文化ギャップだろうが、今現実の世界で起きている情報の氾濫、フェイクニュース(フェイクでなく正しいのがある、という前提なのだがその基準がなんであるかすらわからなくなり始めている)、かたや一見正常に見えるマスコミの報道、そういうものが従来とはけた違いの量とスピードで入ってくるようになるし、その影響は主婦の毎日の買い物から一国の政府まで及ぶ。このことはデジタル化によって加速拡大するが今までももちろん存在した。僕らが学生時代、多くののあこがれであった、自由の国、豊かな国のはずのアメリカではすでにこの現象が出始めていたのだ。慶応高校には当時、選択科目だったが社会情勢や哲学の入門的なことを学ぶ講座があり、そこで購読したのがエーリッヒ・フロムという当時新進の社会学者が書いた 人間における自由 という本だった。この本を読んだことがきっかけになって、小生は経済学部へは進んだのだが近代経済学とマルクス経済学、なんていう当時の花形の講座でなくいわば亜流の社会思想史、というゼミに参加して、結局、卒論もこのフロムをテーマに選ぶことになった。その最大の理由はあこがれの国アメリカに存在する翳の部分に興味をひかれたからだ。

フロムが 匿名の権威 と呼ぶ、情報の氾濫によって大衆の意識が左右され、社会が変わっていかざるを得ない現代社会のありように共感を覚えたからでもある。当時、メディアといえば新聞・ラジオ・テレビしかなく、情報も一方的に伝達された。それでも一般大衆を動機づける、といえばポジティブに聞こえるが、知らず知らずのうちに(流行の言葉で言えば民意?)社会の方向性が決まっていく、という社会を思想史の立場では大衆社会、という。それはエリートが理性で指導する(ことが少なくとも前提されていた)それまでの社会の在り方というものとは離れていく。したがって、フロムを含む社会学者にとって大衆社会の到来、ということはネガティブなものとしてとらえられていた。その末端をかじった小生もそう思ってきたし、今でもそう考える。

デジタル化された社会では、メディアというものの持つ力は、フロムたちが活躍していた時代よりもさらに強力になり複雑化していく。かつては一方的に与えられてきた情報がSNSの存在によって双方向性を持つ、すなわち可逆的なものになっていくのだから、理想的に言えば、このことによって直接民主主義社会が建設できるかもしれない、という途方もない楽観論もあるが、小生はそんな無邪気な受け止め方はできない。フェイクニューズというものがもたらすネガティブ要素を否定できないし、ハッキング行為に代表される、瞬時に完成する反社会行為をふせぐこともほぼ不可能になるだろう。さらに重要なことは、このような現象はいかなる国であっても起きえるし、政治的イデオロギーにも関係ない事象である。これがもしかすると、(著者の意味したこととは全く無関係だが)本当の意味での 歴史の終わり (フランシス・フクヤマ)であるのかもしれない。

(船津)先ずデジタルとは0か1で表す単なる記号にしか過ぎない。非常に便利な二進法。人は文字が無い時代はどの様なコミュニケーションだったのか。人の目を見て心で伝えるしか手段は無い。今回図らずもコロナ禍のお陰で「対面対話」の重要性に付いては気づいては居るが何とか出来ている。
要はデジタルとは単なる伝える手段の文字のへ補助にしか過ぎない。文字が出来て「伝える」事が無限とは言わないが可成り広がった。しかし、本心は伝わったてるのだろうか。小説と言う文学とてフェイクかも知れない。人は虚構の世界を泳ぐことが心と頭の浄化作用に成って居るのでは無いだろうか。

さてデジタル・AI社会ですがそんなに大上段に構える物では無く、単なる伝える技術の進歩-便利な道具-にしか過ぎないのでは無いか。人類は何故か欲望のために拡大し、際限なく欲望を望んでいる。これがそもそもの歴史の終わり かも知れない。ポルノも今では簡単に幼児といえども簡単に観られるし、どんなことでもパソコンを叩くと答えが出来る世である。要は人は「伝える力」の進歩に追いついていない部分が在り、デジタル化とAI社会が進み過ぎなのかも知れない。
その素晴らしい伝える道具を未だコントロールできていないのかも知れない。原子の火をコントロールできていないのと同じかも知れない。「デジタル化社会」はけして否定的な物で無く進歩した「伝える道具」だと思います。

(菅原)船津兄の、「さてデジタル・AI社会ですがそんなに大上段に構える物では無く、単なる伝える技術の進歩-便利な道具-にしか過ぎないのでは無いか。」に大賛成。これ以上難しいことは、ちーとも分からん。

(編集子)”文字の補助にすぎない” というとらえ方そのものが間違っているのではないですか。小生の論議はその効用やプラス面は大いに評価しています。ポイントは伝達の手段という事ではなく、それが伝える情報の膨張・氾濫が起こす事象についての認識の違いだと思っています。

(船津)元々情報はたくさん垂れ流されていたんですが、専門家とか特定の人しか見られなかったが、今やSNS時代。直ぐさま見た感じになれる如何に取捨選択の技を持つかだと思います。ポルノは観ないとか、フェイクかどうかの判断力が求められる。情報量が多くなることは進歩!

(編集子)貴兄の指摘されていることがまさに小生のポイントです。普通の人間には、ご指摘の ”判断” がなかなかできない、できなくなるほど多重的に情報があふれる。”わかった” と思ってもそれが自分で判断したことではなく膨大な情報によって作り出されたもの(かも知れない)。そのこと自体は今既に起きていることですが、これが双方向性をもつ事でさらに複雑化し混乱してしまう。そのことが問題だと思うのですが。

 

 

エーガ愛好会 (182) ワイルドガン (34 小泉幾多郎)

制作が2015年とは、西部劇としては最新作。

冒頭女性の悲鳴から始まる。あとで判ったが、主人公の母親が、二人の子供のうちの一人、どうやら出来の良い方が川に溺れて死んでしまったことの悲しみの悲鳴とのことだ。この場面はいらなかったように思えるが、原題Forsakenが見捨てられたの意味なので必要だったのか?良く判らないが、悲鳴の後、ティロップと共に、生き残った方が、従軍後ガンマンだったが10年振りに山道の景観の中を馬と共に故郷ワイオミングへ舞い戻ってきた場面になる。西部劇冒頭よく使われる場面だが、いつ見ても詩情感溢れる気分になると共に、自然と西部劇の中に入っていくことが出来る。

実家の母親は既に他界、父親サミュエル・クレイトン(ドナルド・サザーランド)がおり、息子はジョン・ヘンリー・クレイトン(キーファー・サザーランド)で、実の親子共演。息子ジョンは、戦争に従軍後流れ着いた街で悪党たちと銃撃戦になった折、流れ弾で子供を死なせたこと等から銃を持たない覚悟。神父をしている父サミュエルとは過去の経緯から中々折り合いがつかず、かっての恋人メアリー(デビー・ムーア)はトム・ワトソン(グレッグ・エリス)に嫁ぎ子供まで。街は悪徳不動産屋ジェームス・マッカーディ(ブライアン・コックス)がならず者を雇って、住民に立ち退きを迫る等その横暴は激しさを増していた。

拳銃稼業から足を洗った息子ジョンの心の葛藤が克明に描かれる。父親との相
容れない関係とその修復が押しつけがましくなく描かれ、実の親子であることが尚更興味深く見られる。相手への対応に常に配慮を欠かさない態度を貫いているにも拘わらず、元恋人の夫の嫌がらせな発言やら、悪人たちの横暴がもういい加減にしてもらいたい暗い雰囲気が悶々と続くが、父親が瀕死の怪我を負わされるに及び、ヒューマンドラマから最後の10分が爆発的ガンさばきでの憂さ晴らしに突入。次々と子分達を殺し、最後にマッカディも倒す。狙われる身になると悟り、父に開墾した土地を託し、ジョンは旅立つ。後にメアリーが亡くなった墓標に、彼女がジョンに託した赤いリボンかけられていたことが余韻に残る。

 

ヘアドライヤーにまつわる話

写真は何であるか。ヘアドライヤーである。形からして古いものである。正確に言うと1980年、松下電器から販売された製品。これが今なお、拙宅の洗面所においてある。その話である。

編集子は卒業と同時に 株式会社横河電機製作所(当時の社名)に入社した。日本経済が大飛躍を始めた時期、多くのいわゆる法文系の友人は金融・商社などへの就職がほとんどで、メーカーを目指す連中はビッグビジネス志向であり、横河のような地味なしかも技術系優先を標榜する会社を選択した小生は当時のトレンドからいえば変わり者だったのだろう。事実、高校時代の親友たちで工学部へ進んだ連中からは、なんだオマエ、横河にいくんならなんで小金井(工学部)へ来なかったんだ、とあきれられたものだった。しかし人間万事塞翁が馬、ではないが、入社面接でお会いした横河正三さんのお目に留まったのか、3年目に創立されたヒューレット・パッカードとの合弁会社(YHP)への移籍メンバーに加えていただき、思ってもみなかった外資系企業で社会人生活を全うすることになった……..とそれなりに覚悟を決め、管理職の末端に加えてもらって張り切っていたころ、創業の勤めを終えて横河電機社長に復帰されていた横河さんから、全く唐突に、それもなんと八王子工場の2階に通じる階段を案内役を兼ねて歩いているとき、”おい、ジャイ、お前、三鷹へ戻れ” と言われた。ボーゼンとしているぼくに、”今度、コンピュータで絵を描く仕事を始めることにした。そこへ行け” とこれまた何が何だかわからない命令だった(三鷹は横河電機本社の所在地)。

確かに他の(いわゆる法文系の)仲間に比べれば数年間、IBMマシンのプログラムを書かされていた経験はあるから、どうせなら多少はコンピュータを知っているやつがよかろう、という選択だったのは間違いないのだが、それにしてもまだCAD なんてものとは無縁だったし、おっかなびっくりの “帰籍” (創立時、横河からの人事異動は “移籍” 扱いだった)だった。このCADビジネスは日本経済の重厚長大路線にのってオートメーションでトップの地位を占めていた横河の第二ステージとして横河さんのスタッフが練り上げたものだったが、それまでの技術陣では畑違いの分野なので、とりあえずアメリカでのCAD専門会社との提携でスタートした。そのため、HPとの間での経験があるやつならいいだろう、という判断だったのだろうと想像する。

今は気安くCAD,などと呼ぶが、80年代、ビジネス自体はまだまだ黎明期にあって、プリント板の原画を描く、いわゆる2次元のものしか実用化されていなかった。横河電機ではこの分野にまだまだ未知数の3次元CAD,つまり現代のCADの領域をめざした野心的な計画がつくられていたのだ。しかし日本市場では何しろ未知数が多すぎ、とても従来のセールス戦略ではらちがあかない、とトップの大英断でシステム一式をユーザに無料で使ってもらおう、という策に出た。そのユーザが松下電器ラジオ事業部で、担当営業が小生だったのだ。今ではPC1個あれば足りるベーシックな機能を発揮させるのに実にHP製のミニコンが5台連結されている、という大物で、技術的問い合わせだの改善要領だのが飛び交い、小生にとってはサンスクリットのお経みたいな情報のやりとりをフォローするだけだったが、スリリングな1年だった。にもかかわらず、結果はペケ。同情してくれた松下の担当者Oさんに慰められながらシステムを引き取りに行った時のキモチは忘れられない。

話が長引いたが、この時、先方がだされた試験問題のひとつがこの写真にあるヘアドライヤーの機構設計で実用になるかどうか、という事だった。システムが戻ってきて、残念無念のキモチのなかで(ほかのシステムが使われたのか、それともまだCADの実用化は出来なかったのか、そのあたりは当然社外秘の事項だからわからないが)手にしたものがこの写真の製品なのだ。それはいまではいわばわが第二、第三の青春の思い出として、洗面台の奥に収まっている。

それ以来40年。さすがパナソニック、長持ちしてるなあ、と思われるならばそれは美しき誤解であって、小生、中学時代の坊主アタマから始まって今日まで、GIカットというのか何か知らないが、要は整髪料を必要とするヘアスタイルとはほぼ無縁で過ごしてきたから、当然、このドライヤの使用頻度も極端に少なかったので今まで無傷できている、というのが事実である。ついでに言えば、編集子の父親は40歳後半ですでに髪はほとんどなく、現在90歳を超えて矍鑠としている姉も、先立ってしまった兄も、白髪になるのは早かった。なぜか小生だけ、米寿に近い今日、鬘をしてるにちげえねえ、といわれながら毛髪は質量ともに衰えていない。これはひとえに母親(あさしひんぶん、とはいわなかったが典型的江戸っ子気質だった)のストイックな子育てで長髪を許してもらえなかった中高時代を、ポマード(これも死語か?)にマンボズボン(同世代以外にはわかるまい)にウキミをやつしていた仲間(典型なのがKWVOBにもいるが)に変人あつかいされながら過ごしてきた頭髪マネジメントの結果であろうか。

(菅原)本日、午後、散歩に出かけたが、久し振りに寒くて散歩どころではなかった。貴兄のブログ、「ヘアドライヤー・・・」について、とりとめのないことを二三。、

ヘアドライヤーってのは、男は使わないものと思っていたが。小生、持ったこともないし、使ったこともない。会社に入っても暫くは、GI刈り、スポーツ刈り、慎太郎刈り、だったから。そして、今や、髪の毛を洗うたびに毛が抜けて、念願の禿頭間近。

Computer Aided Design、Computer Aided Manufacturing。製造業の端くれを、売り子として担当していたから、この言葉、忘れたくても覚えてる。でも、分かった振りをして説明していたが、実際には、何をやってるのかさっぱり分からなかった。幸いにも、営業をやってて、小生(IBM)、ジャイ(HP)とは出会さなかった。もし、そうだったら、間違いなく、ジャイにコテンパンにやっつけられていた。くわばら、くわばら。

(編集子)当時、最近急逝してしまった後藤三郎が旭日の勢いだったIBMにいて、事実、小生が大手顧客のトップをhp本社に招待したところ、それを知ってこちらのスケジュールが終わった日(というか瞬間)に出口で待ち構えていてそのままIBMへ拉致?されたりした。もっとも客先が帰途についたあと、名門ハーフムーンベイでラウンドしたりしたものだ。18番に差しかかる丘から太平洋に沈む夕日を堪能したことだった。