「明日に向って撃て!」は、組織的権力に対抗する個人的力で銀行
冒頭モノクロ映像、「これは実話に基ずく」という字幕から始まり
其処に、エッタ(キャサリン・ロス)という女性が加わるが、三角
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
「明日に向って撃て!」は、組織的権力に対抗する個人的力で銀行
冒頭モノクロ映像、「これは実話に基ずく」という字幕から始まり
其処に、エッタ(キャサリン・ロス)という女性が加わるが、三角
ホームズもルパンも明智小五郎(乱歩の怪奇趣味小説ではなく少年少女向けの)も普通部で卒業していた編集子にミステリー、というものの存在を吹き込んだのは小生より何年もオトナだった、菅原勲である。もし高校進学の時、彼と同じクラスにならなかったら、ミステリなぞという迷路にはまらずに小生も当時品行方正なる若者の辿るべきとされていた道どおり、ジャンクリストフだとか魅せられたる魂だとかドストエフスキイなんてものをさかしらに論ずる嫌味な高校生になっていたに違いない。スガチューにはやはり感謝すべきだろうか。
ともかく、編集子が(どんなものかな)と手に取った、ミステリ古典第一号は英国文学の巨峰、A.E.メイソン の ″矢の家” だった。推理小説としてはその道の通の評判はよろしくないというか、あまり聞かない作品だが、この1冊がそもそもの始まりだった。ただ、僕が菅原道に踏み込んだのは、今考えてみるとこの本のミステリとしての完成度とか、トリックのすばらしさなどではなく、この翻訳の文体が醸し出した雰囲気だったような気がする。原作が持っていた(原書を読んでいないので想像だが)はずの、当時の高級社会のもつ陰鬱さとか、時代というものを感じさせる、形容しがたい感覚だったのだ。しかし当時はそうだとはわからず、(俺にはミステリがむいてるらしい、などと思い込んで)気がついてみると推理小説百選にでてくるような名作リストを片っ端から乱読し始めていて、大学へ進んだころの本棚にはハヤカワポケットミステリ、通称ポケミスがずらりと並んでいた。
クリスティやらクイーンの代表作を読み終え、古典名作とはいえ鼻持ちならない衒学趣味だらけのヴァン・ダイン12冊をなんとか読みえたころ、ぶつかったのがハードボイルドミステリ、というものだった。きっかけはお定まりの 長いお別れ。これを読んだのはちょうど大学を卒業するくらいだっただろうか。サラリーマン時代はすこしそのペースが落ち、引退後、これからの余生の楽しみ方を模索しているとき、まだ残っていた闘争心のはけ口として(原書でミステリを読む)というアイデアが浮かんだ。翻訳を読み、それとなく原文と和文とを比べて見たりすることも増えてくると(どうもこの日本語が気にいらねえ)と思うことが増えた。もちろんプロの作品だから誤訳だのなんだのという次元ではなく、読後にのこる感じ、という程度だが、この感覚が”矢の家” で感じたものとはどうも違うことがあるのだ。
それを一番感じたのが、一時、ミステリファンの領域を越えて流行小説みたいな売れ行きを記録した、かの ロバート・パーカーの スペンサー シリーズ である。チャンドラーともマクドナルドとも違い、まさに現代アメリカ、を描いたこのシリーズは全巻、本棚の一角を独占しているのだから、愛読した、と言ってもいいのだが、菊池光、という著名な翻訳者の文体、とくに会話が不自然に聞えて仕方がなかった。この人は翻訳者の中でも著名な大家なのだが、最近、たまたまグーグルで調べ物をしていた時、この人の翻訳には高名な文学者や翻訳者のなかにも、議論があることが分かった。ある人は (気に入らないから一切読まないことにした)と言っているのに違う大家は(特に会話の部分がいい)とのたまうではないか。そうか、素人の直感もまんざらではないか、と思いはじめていたところ、酔い覚ましに立ち寄った本屋でギャビン・ライアルの出世作 深夜プラスワン の新訳をみつけ、もう一度読もうという酔狂な気を起こした。この本はだいぶ以前、内藤陳なんかが雑文を書きまくっていたころ、興奮してこれぞハードボイルド、と騒ぎ立て、事実、ハヤカワが出した読者選出ベストテンではこの分野で第一位になったりした作品であり、日本での初訳が上記の菊池光だったことを思い出したからだ。菊池本とこの本(翻訳者は鈴木恵氏)がどんな違いを持つのか。鈴木氏はこの版のあとがきで、菊池訳を ”……その切りつめた独特の訳文” と評しており、さらに ”…..翻訳というのは、後から来るもののほうが有利である” としてうえで、”冒頭の一文、パリは四月である、は菊池氏の訳文をそのまま拝借した” と言っている(原文は It was April in Paris,so the rain was’t as it had been a month before..)。このあたり、プロの世界の感覚は素人にはわかる訳もないのだが、ある種の対抗意識がほの見える気もする。
前触れが長くなった。”深夜プラスワン” の著者ギャビン・ライアルは英国空軍のパイロットだった経験があり、それを生かした小説、 ”ちがった空(The wrong side of the sky)”でデビューし、2003年になくなるまで15冊の作品があり、小生は知らなかったがノンフィクションを除くすべてが翻訳されているということだ。この作品の主人公、第二次大戦中英国情報部の腕扱きだったマイケル・ケインがパリのカフェで戦時中に使っていた偽名で呼び出しを受けるところから話は始まる。この時使われたキャントンという偽名というかコードネームは作品の中でしばしば使われ、ケインの持つ二重の存在を効果的に意識させる。ケインは電話をかけてきた旧友から、ある重要な人物をリヒテンシュタインまで護送するという仕事を依頼される。現在とは交通体系も違うし、なにか秘密のある(同時にフランス官憲から追われているらしい)人物の国境越えを無事に済ませるためには、空路ではなく陸路を行かなければならないということなのだが、重要なのは指定された日のうち(深夜零時まで)に現地につく、という事が必至な護送なのだった。ケイン本人にも明らかでない事情があり、本人が襲撃される危険もあるということで、その間の護衛としてケインのほかにフランスの暗黒街では著名なガンマン、ハーヴェイ・ラヴェルが同行することになる。ミステリなので筋を書くわけにいかないのは毎度のことだが、フランス国境にさしかかるあたりから見知らぬ敵から襲撃を受ける。ケインは戦時中反ナチグループを支援するために滞在していた村を訪れて支援を頼むが、当時ほのかな恋愛関係にあった女性と再会する、という場面もある(これがお定まりのハピーエンドにならないあたりもHB的で好ましい)。
さて、詳細は別として、筋も結論もわかっていてなおミステリを読む、というのはある意味で難しかった。だが予想した通り、鈴木訳は菊池訳よりも特に会話のやり取りがスムーズで、不自然さが感じられなかった。これは予期通りだったと言える。鈴木氏はこの小説にハードボイルド、という烙印は押さずに無難に冒険小説、という位置づけをしている。この二つがどう違うか、などというのはかなり身勝手な話であり, どうでもいいのかもしれないが、なにせ読者ランキングでベストワンになったり、早川の ”冒険スパイ小説ハンドブック” の ”好きな脇役” の第一位はこのハーヴェイ・ラヴェルだということをみると、やはり何か、ふたつのジャンルには差を論じたくなる、違う雰囲気がある、ということなのだろうか。
”ハードボイルド” とは何か、については今更論じることはしないが、HBと定義される作品は文体とともに作品の主人公が 非情に徹する という行動原理に生き、片方では 自分の存在はわすれても友情とか義理とかに忠実である というストイックな感覚を持っていることが欠かせない。この 深夜プラスワン が冒険小説であるとともにハードボイルドの傑作のひとつに挙げられるのはこの最後の点だということを再認識した。この本、現在新品で入手できるのはこの鈴木訳の早川文庫版のものだけのはずだが、そのページで言えば416頁からの5ページ、終末までの題34章がそのすべてだ、と僕は考える。今回再読してみて、やはりプラスワン、は優れたハードボイルドなのだ、と納得した。だから何だ、と言われても困るのだが。
僕が最も気に入った、この本の最後をしめくくる一節を紹介しておく(ここまで来てはじめて 深夜プラスワン、の意味が分かるのもしゃれた結末だ)。
It was still snowing gently. Halfway down the mountain I rememberd that I’d never collected my pay – four thousand francs. I kept going but looked at my watch. It was a minute after midnight. Ahead of me, the mountain road was a dark tunnel without any end.
(雪はまだ静かに降っていた。山を半分下ったところで、残金の四千フランをもらっていないのを思い出した。そのままはしりつづけながら時計を見た。零時一分過ぎだった。前方には山道が終わりのない暗いトンネルとなってつづいていた)
(安田)小生の場合、ここまで読書にジャンルを絞り傾倒したことはない。これは説得力のない言い訳だが、中学・高校・大学受験は思春期の感受性豊かな時期、3年毎に邪魔が入った一面もあった感が強くする。団塊世代のそれは尚更熾烈で受験前々年あたりから学校と同僚生徒たちは受験モードだった、と懐古する。
勿論、本人の選択判断次第であろうが、矢張り勉強以外で自分の好きなことに相対的に多くの時間を割く選択が可能であり、実際に時間をかけてきたであろう中・高・大一貫校生徒を羨ましい、とさえ思ったものだった。切磋琢磨、刺激しあう 肝胆相照らす友 と巡り会うチャンスも、きっと多いのだろう。ブログ上言及された菅原さんはそんな親友のお一人でしょう。生まれ変われるのであれば一貫校で学びたいとは思う。
そんなハンディ(?)を背負いつつも、僕が好んで読んだのは歴史小説であったろうか。長年かけて殆どの著書を読んだ司馬遼太郎、塩野七生が僕にとっての双璧。他はとても網羅仕切れないが、若かりし頃は、山岡荘八「徳川家康」、吉川英治「宮本武蔵」「三国志」「新・平家物語」「私本太平記」、海音寺潮五郎「天と地」、大佛次郎「天皇の世紀」、子母沢寛「勝海舟」、山本周五郎「樅の木は残った」、井上靖「風林火山」「敦煌」「天平の甍」「おろしや国粋夢譚」など愛読した。池波正太郎、野村胡堂、五味康祐、柴田錬三郎などの時代小説・武芸ものなどもつまみ食いしていた。
僕の楽しみの一つは、歴史(小説上であっても)を遡って辿り謂わば時間軸上の歴史の旅を放浪しつつ、それと地理的な水平の放浪の旅をドッキングさせ、人間が編み込んだ綾に想いを巡らせることだ。
ブロンコ・ビリー 1980」はクリント・イーストウッド7作目の監督作品。
ワイルド・ウエスタン・ショウを監督自身が、引っ張っていく頼もしい親部の王者(1944ジョエル・マックリー)、ビッグ・アメリカン(1976 ポール・ニューマン)がある。
冒頭カントリーウエスタン「カウボーイと道化師」が主題歌として
其処へ30歳までに結婚しなければ父の遺産を継入ることになったから、さあ大変。しかも母親と悪徳弁護士が
(編集子)西部の王者 たあなつかしい。セーブゲキではないが 地上最大のショウ も興奮してみたもんだ。まだ中学生のころだったが、どういうもんか脇役のグロリア・グラハムにあこがれたことを思いだす。今考えてみてもなぜだったのかわからない、少年の日のできごとではあったな。この人と言い、ドロシー・マローンといい、脇役とか準主演級の女優にほれこんで各位ご存じの大女優に心を動かさなかったのはそれ、思春期❔特有の一種のコンプレックスとかいうやつだったのか?
1月23日、調布市で開催された布施明ライブツアーへ行く機会があった。
ワイフが見つけてすぐ予約したのだが、テーマが よみがえれ昔日の情熱 というものだったので、我々がよく耳にしていた曲が多いのかと期待していたが、もっと広いレパートリーで、小生が知っていたのは シクラメンのかほり と 霧の摩周湖 と マイウエイ (日本語歌詞)くらいだった。エンデングナンバーはイタリア語でTime to say goodbye。たっぷりと、またある種の安心感をもって2時間を過ごすことが出来た。
自分としては持ち歌に限らずもう少し広い選曲(ジャズナンバーなども)を期待していたのだが、それは別として、圧倒的な声量はまさに驚きの一語。あと2年でデビュー後60年、後期高齢者になったというのは信じがたかった。最近、自分たちの世代の歌手が引退することが多く、そのお別れ的なショウやコンサートに出合うことがあるが、同年代であっても声量が落ちたなあ、と感じさせられたことも少なくないので、特に感じたのかもしれないが。
小生、うかつなことに彼が地元調布の出身だという事を知らなかったが、ユーモアたっぷりなトークもなかなかで、学生時代までの地元の話も好感を持って楽しむことができた。しかし話が進むにつれて、彼自身が昨今の日本のありように不安を持ち、また我々の時代、つまり昔日の良き社会の復活を望んでいることが胸に響いた。米国人女性との結婚もあり、ニューヨーク生活も長かった経験もあることだろうが、そういう思いがこのツアーのタイトルになっていたのだ、ということを改めて知った。まだまだ、引退には早い。好漢、幸あれと思う豊かな気持ちで帰途についた。
(編集子)実は上掲の文章はベイエリア在住の五十嵐恵美君が、小生が珍しくコンサートに行ったことを知って、そのことを彼女のブログに寄稿してくれないかという依頼があったので書いたのだが、驚くなかれ小生のほうにアップするより前に翻訳版が届いたので、それを転載する。
On January 23rd, I had the opportunity to go to Akira Fuse‘s live tour concert held in Chofu City.
Personally, I was expecting a wider selection of songs (including jazz numbers) in addition to his own songs, but apart from that, his overwhelming voice and the volume were just a word of surprise. It was also truly a surprise that in two years, 60 years after his debut, he would become a late-stage elderly of 75-years old. Recently, many singers of my generation are retiring, and I sometimes see them sing at their farewell shows and concerts. So, I may have felt that way about Fuse in particular.
I didn’t know that he was originally from Mitaka City and attended a local junior high school in Fuchu City where I live close by. However, as the story progresses with a good sense of humor, it struck me that he himself was worried about the current state of Japan and that he hoped for the revival of the good old days of our times. He was married to an English woman and probably lived in New York for a long time thus perhaps came up with the theme of the concert this time. It’s still too early for him to retire. I went home with a rich feeling and was sending my all the best to the singer in the coming years.
流石、エミ! と言いたくなる名訳。和文英訳のモデルとしてご一読されたい。特に原文最後の数行の英訳、みごとではないか。彼女の完璧性を追求する持ち前の姿勢から、(布施前夫人の国籍)と(調布で生まれたという事実)を再度調べました、というメモが入っていて、前夫人はアメリカ人だとばかり思っていた小生の思い込みを訂正してくれ(上記ボールド体)、また調布生まれというのは間違いで、出生地は三鷹市であることも調べてくれた。この出生地のことは現場で本人も詳しく説明していたのだが、長じては調布あたりによく来ていた、という事もあり、彼自身(聴衆に花を持たせたのは間違いないだろうが)調布の話を度々していたので、小生承知の上で省略してしまったものである。
しかし、ほんわかとした2時間だったことに間違いはない。
(安田)温かいほのぼのとした気持ちでブログを拝読致しました。ありがとうございます。布施明は一歳下の1947年生まれ。将に同世代です。’70年代、彼の歌をよく聴きました。布施が齢75を過ぎて朗々たる歌声で観客を魅了しているというのも驚きではありますが、同姓代としては嬉しい驚きです。
五十嵐恵美さんの名英訳は流石というしかありません。ほぼ2年近くにはなるでしょうか、彼女の秀逸な筆に感嘆するのは。コンサート体験を書き上げるのも早ければ英訳完了も「早撃ちマック」ですね。また加州からの便りを頂けると嬉しいですね。
元夫人(1980~88年)のオリヴィア・ハッセ―の写真添付します。ロミオとジュリエット出演当時17歳。
何はともあれ、現在、彼が元気よく活躍しているのは結構なことで勇気づけられます。
今コロナに対するマスコミの報道は、感染者数と死亡者数の増加に絞られています。確かに死亡者は6万人を超えていていますが、致死率の高い流行となったかというと、そうではないと思います。死亡者はほぼ高齢者、ハイリスク患者に限られており、これまでの傾向と一致しています。感染者数が激増していますので、分母が大となって分子に当たる死亡者数も大きくなっているものと考えます。実際の現場でもエクモなどを必要とする重症者の割合は減っているといいます。これについても国が正確なデータを示すべきです。
報道では新規感染者数が1万人を超えたかどうか、先週の感染者数と比べて増えたか減ったかの報道に過ぎません。「数日自宅で解熱剤を呑んで頑張って治した」「会社にも黙って有給休暇を取った」などの軽症者、無症状者はゴマンといるようです。本当の感染者数は報道される5割増しと見てもおかしくない不確かな数字に過ぎません。私を含め皆さんの周囲にも感染者が出ているでしょう。しかし軽症だからと言って甘く見ないでください。そもそもの発熱外来受診から入院治療まで、高いハードルが続き、取り返しのつかない病状に進んでしまうこともありますので、「絶対に罹らないように」と十分ご注意ください。この先、新たな変異種が入ってきて、より感染力の強い、致死率の高い第9波となることも考えられます。
事実日本で50%を占めているBA.5株から、更に変異したXBB1.5株が北米中心に28%と急増(日本では1%)しています。このヴィルスはワクチン接種者や2度目の感染者(ブレイクスルー)の血清検査で、免疫逃避力がBA.5ブレイクスルー血清の13倍ということですから、ワクチンの感染予防効果が薄くなって(重症化予防効果はあり)いますので怖ろしいのです。これがインバウンド優遇政策に載って日本で流行り出す危険があります。
国としてのゲノム分析を行うべきですが、厚労省を始め国の機関は相変わらずの縦割り行政で、大学や専門研究者の意見、データを無視し続けています。どんな株が増えてきて、致死率がどうか、ワクチンの有効性はどうか、など正しく公表すべきです。この非科学的対応には、在野の医学者、科学者は挙って心配、反論しているのですが、何時までツンボ桟敷に置かれるのでしょうか。
感染症法上の分類で新型コロナを厳しく規制のある2類から5類へと今春にも変更すると、またまた閣議決定されると今日の報道です。なぜ二者択一なのでしょうか。新変異種によって第9波を形成するような感染拡大の恐れが残っています。5類となれば水際対策が取れなくなります。5類に拘らず、フレキシブルに対応、変更(新しく2.5類を設けるなど)すればよいところを、思考停止のまま「きちんと政策は行っているよ」というポーズだけにしか見えません。
中国でゼロコロナ政策が一変し、死亡者3などというおとぎ話はなくなりましたが、今まで抑えに抑えていた市民の欲望が一気に爆発的に解放されたとなっては、閉鎖下で静かに確実に増えていた感染も爆発するのは当然の成り行きです。病院の医師は毎日2回のPCRを行っていましたが、全く行わなくなって、PCRキットが社会から消えてしまったという大転換です。感染者数は9億人に達するという説もあります。人口14億人の64%ということになります。公式データがWHOに注意されて診断基準からフラフラ動き、感染者数、死亡者数ともに正確なことは分かりません。しかもこれから数億人規模の人民大移動【春節】を迎えます。感染者数はどのくらい増えるでしょうか。結果として社会的免疫形成の大実験となりました。興味があります。
私達はどう対処したらよいでしょうか。希望的な面も含めての私見です。
ポストコロナ社会は、プレコロナ時代の社会の伝統、良さを見直し、次代へ継承することを真剣に考えるべきです。冠婚葬祭が変質しています。人とのつながりが殆どスマホ頼りとなっています。若い人の学力も体力も落ちています。他人のことを考えない人が増えています。TVからは殺伐としたニュースしか流れて来ません。それこそ【もう一度日本】と言いたいところです。
これまでの合理的でない対応でなく、賢く対応しましょう。
先ず、感染しないよう人込みは避けましょう。電車、バスなど交通機関、あるいはデパート・スーパー等の雑踏を極力避け、仕方のない時は絶対にマスクを付けましょう。必須です。常識的に言って住宅街を歩くときなどはマスクの必要ありません。
会食も原則OKと思います。アルコールを飲んでワイワイガヤガヤするのは危険とされています。酒は静かに飲みましょう。
旅行、山行、ゴルフなどは往復を除いて全く問題ありません。エアロゾルに含まれたヴィルスがゴルフ場の空気に漂っている訳はありません。
オミクロン対応のワクチン接種は必要です。変異株に対しても一定の有効性が認められています。重症化を防いでくれます。インフルエンザワクチンもお忘れなく。一日も早く正常な生活に戻れるよう祈っています。
織田信長への謁見、狩野永徳との出会い、
天才少年絵師・俵屋宗達が、イタリア・ルネサンスを体験する!? と言う縦横無尽な想像力とマハさんの筆致に本の中に引きこまれて
原田マハさんの小説は、画商や学芸員、
読売新聞のコラムに ”タレント” という用語についての疑問がとりあげられていた。外国語とくに英語をいわば日本語化して、本来の意味とは違う使い方が蔓延してしまう例は数多くある。英語の基礎知識を持ち合わせている人は日本語での使い方が原語本来のものと思い込んでしまい、英語会話が必要となった場合に自信満々でつかってみたが全く通じない、という喜劇はよく耳にする。
会社時代、仕事のために来日した日本好きのアメリカ人の一人が、cold という単語の日本語を サムイ と覚えていて、冬のある日、喫茶店に入って、サムイミルク クダサイ と注文した。彼はつめたいミルクを注文したつもりなのに、あたためた牛乳がでてきたのだそうだ。いろいろ聞いてみると、表は寒い、だからミルクを飲みたい可哀そうなガイジンがいる、と思って親切にもミルクをあたためて持ってきたものと思われる。この種の間違いが笑い話で済んでいれば問題ないが、深刻な問題になることもあり得るのではないか。
読売のコラムが指摘したように、talent は本来、才能、資質といったことを表す単語であって、辞書のどこを探しても芸能人を指し示す使い方はない。おそらく、だれかが、有望な新人を売り込むために 彼女にはたぐいまれなる資質がある、といった程度のことをタレントにめぐまれた、というような使い方をし、その後、歌にせよ演技にせよ、世の中に認められるには才能=タレントが必要なのは当然なのだから、その持ち主を指すようになり、現在では本来才能・資質と言われるものとはかけ離れて、芸能人全般を指すようになったのだろう。
此処まではまあ、笑い話で済ませられる程度の誤用というか転化だと納得できるのだが、小生どうしても抵抗するのが昨今のテレビ番組でめったやたらに使われる アーチスト という単語である。この用語は今やほとんど上記の タレント の同義語というような意味になってきている。talent と art は正統的な日本語で言えば、才能 と 芸術 という、共通点がない概念になるはずだ。英語の辞書でも art の訳語に日本語でいう芸能に近い言葉はみつからないし、talent には芸術を意味する訳語は当然、無い。 現在すこしばかりかじっているドイツ語であってもこの二つの概念は die Kunst と片方は die Fahigkeit 或いは,die Begabung という女性名詞、あるいは das Talent という中性名詞 であらわされるし、その行為者は artist か Kunstler であって、そのどこにもここでいう日本製英語の アーチスト にあたる使い方はない。それに該当する原語は entertainer であり Unterhalter であろう。ただしいて言えば、ドイツ語で芸能人、と辞書をひくと後ろの方に Kunstler der Unterhaltungsbranche , 訳してみれば 芸能分野における達人、という解釈がある。日本で言えば文化勲章を受章するに値する俳優、というようなニュアンスであろうか。
もしアーティスト、という単語が今後、今通りの意味で日本語として定着してしまうと、サムイミルク的な喜劇ではすまないことになりはしないか。タレント、までは、まあいい、としよう。もう後戻りができないほど日本語になってしまったのだから。しかし今使われている アーティスト=芸能人 という使い方はどうにも我慢できない。言ってみればハイフェッツと北島三郎が同じくくりで語られるのが日本の文化程度なのだ、と言っていると同じだからだ。せめて天下のNHKくらいは 芸術家と芸能人を区別してもいいのではないか。 どうしても英語がつかいたいなら、エンタテイナー という立派な用語があるではないか。得意がって話す本人の教養が疑われることのないようなことのほうが、現在進行加速中の英語授業強化(多少英語を使う場を経験してきた身で言えば、天下の愚挙だとしか思えないのだが)などよりよほど大切なのではないか、とおもうのだが。
(菅原) 100%、同意。もっともらしい英語を使うより、きちんとした日
小生が最も気に入らないのは、例えば「チケットをゲットしよう!
(船津)タレントは海外からの接客業のお嬢様を言う事が多いみたい。何の
監督は巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー。同監督の世紀の名作1953年制作のイヴ・モンタン主演「恐怖の報酬」の2年後1955年制作のフランス映画サイコスリラーの傑作。クルーゾーはサスペンスやフィルム・ノアールの監督として有名。日本公開当時のポスター(写真貼付)には「映画史上とんでもない大作!!」なる刺激的な見出しが踊っている。
クルーゾーは、映画史上初めて世界三大映画祭(ヴェネティア・カンヌ・ベルリン)の全てで最高賞を受賞した監督でもある。また、ヌーヴェル・ヴァーグの生みの親とも言われている。「悪魔のような女」でシモーヌ・シニョレ(当時34歳)と共演したもう一人の主役を演じたヴェラ・クルーゾー(当時42歳)は監督の妻(1950~60年)で、「恐怖の報酬」に続いて夫の監督作品出演。
この映画公開から現在まで77年経ち、この類のスリラー映画は珍しくなくなったが、公開当時の衝撃の大きさはいかばかりかと想像に難くない。チャールズ・ロートン監督の1955年作品「狩人の夜」、ビリー・ワイルダー監督の1957年作品「情婦」、ルイ・マル監督の1958年作品「死刑台のエレベーター」、ヒッチコック監督の1960年作品「サイコ」などと並ぶサスペンス、サイコスリラーの傑作だと思う。モノクロ映像の光と陰そして音、更には鏡、酒、木箱などの小道具を巧みに使う監督の卓越した手腕が、映画ストーリーの不気味さと恐怖を駆り立てている。全編を通して謎と気持ち悪さが続き(不気味な音楽とモノクロ画面がより増幅させて)、最後までドキドキさせられる。
哀れな死に方をした不幸な妻を見事に演じたヴェラ・クルーゾーはこの映画の5年後、映画の結末のように亡くなる。享年46。1960年の映画「真実」のメガフォンを執った夫アンリ=ジョルジュ・クルーゾーは主演女優のブリジット・バルドーとの親しい仲が取りざたされ、それを苦にしたヴェラは神経衰弱に陥りパリのホテルの浴室で心臓麻痺を起こし急死。服毒自殺との説もある。
映画で元警視の探偵役を演じ事件の解決に一役買ったシャルル・ヴァネルは「恐怖の報酬」でイヴ・モンタンと共演し、カンヌ映画祭男優賞を獲得している名脇役だ。サイコスリラーの古典とも言うべき見応えのある面白い映画だった。
コロナのとばっちりで見送られてきたKWV三田会新年会が3年ぶり、今年は先回までとは場所を変更し、大崎ニューオータニインで開催された。今回参加者のうちの最高齢、32年卒中村弘先輩(ダンブさん)の音頭での乾杯、年男年女各位による鏡割り、と恒例の行事など、時代は変わっても変わらないよきKWVの伝統を味わい、また感謝する半日であった。卒年別参加者は 30年代35人、40年代34人、50年代19人、60年代以降3人で、最も若かったのは平成30年組の川上友輔、高田蒔子両君。現役を代表して山荘担当の土井君が参加して現役の状況などを披露してくれた。現在の現役部員は1年生26(うち女子5)、2年生18(5)、3年生16(5)、4年生14(3)合計74人とのこと、我々(36年卒)のほぼ3割くらいだが、毎週ほぼ2本見当のプランが消化されているという。何をするにもちょうどいいサイズなのではないかと思われる。今後の健闘を期待する。
新年会の開催方法などについては時代の流れもあり、いろいろと議論もあるだろうが今回の参加者の年齢分布をみると、昭和60年以降ほぼ30年のレンジで出席者がおられないのはなんとも寂しい限りである。社会人生活を経て初めて分かることだが、日本の社会では企業で働く人にはその範囲での交流はあっても、それ以外のいわば地元社会での付き合いはほぼないと言っていい。編集子はアメリカでの経験しかないが、かの地でできた友人の多くは会社以外にも教会とか、地元の活動とか慈善活動とかいろいろな面で広い付き合いがあり、会社を離れれば別人のように生き生きとしていて、会社での行動などからは想像もできないくらい、友人たちの尊敬を集める存在だったりした例をたくさん知っている。
わが国にはなかなかこういう地元社会での交流が育つ機会がない。特に東京ではいわゆる下町の風情や人情が希薄になり、隣は何をする人ぞ、が当然になる。企業や学校でのOB会というものがなんとか懐かしい時代を思い出させることはあっても、それは一時的なものにすぎない。また体育会系の場合は常に勝った負けたの世界だから、学生時代の戦績によって付き合い方が決まってしまい、上下の付き合いが発展しにくい、という問題があるようだ。
KWVはその点、それまで単なる名前だけにすぎなかったOB会が 34年卒妹尾先輩と彼を補佐した学年横断的なスタッフのご尽力で、学生時代の交流を一期一会とするのではなく、新しい活動母体として現在のKWV三田会ができた。編集子の例をとると、毎日受信しているほぼ30通くらいのメールの半分以上はこのOB会メンバーからのものであり、それもこの三田会ができて初めて知遇を得た、という人が大半である。パーティの席上,どのテーブルに行っても誰か、知り合いがいた。すべてこのOB会活動で知り合った、それがなければ知ることもできなかった後輩諸君である。山歩きにせよスキーにせよ飲み会にせよ現役時代には全く知らかった先輩後輩との付き合いがしょっちゅうあり、そのおかげである。これはもう、OB会、という回顧の団体ではなく、新しい行動領域であって、特に昨今残念ながら日々,痛感する老い、の現実とそれが惹起しかねない無気力な老境への誘惑を断ち切ってくれる、なにか、なのだ。
上記したようにこの活動というか存在に関わることの少ない平成時代の若手OB各位にはぜひともご一考いただきたいことである。。。。というのが本稿の年頭所感、であろうか。