天気の良い日に誘われ近くの新横浜付近の鶴見川堤を朝と
夕方は太陽が落ちるまで若干時間があったので、堤の草むらに腰掛
改めてじっくり拝見、いい写真ですね。僕の好みとしては夕暮れの川面の夕映えが特に印象的です。
![]() ![]() | |||

旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
天気の良い日に誘われ近くの新横浜付近の鶴見川堤を朝と
夕方は太陽が落ちるまで若干時間があったので、堤の草むらに腰掛
改めてじっくり拝見、いい写真ですね。僕の好みとしては夕暮れの川面の夕映えが特に印象的です。
![]() ![]() | |||
コロナウィルスの蔓延が懸念される中、3月の梅を見ようという企画を懸念しながら、募集をかけたところ意外にも当初は27名の参加申し込みがあり、びっくり仰天! 又、暖冬が続いたので梅は散ってしまったのでは? 等々不安材料が一杯の企画でした。ところが・・・
やはりコロナウィルスの為か、参加を止める人、当日、日にちを間違えた人、他のイベントが中止になり急遽参加したいという人・・・結局のところ参加者は18名になりましたが、楽しいワンデリングが出来ました。
当日は10時高尾駅北口に集合。そこから徒歩で小仏沢に沿った梅園を順番に訪れました。遊歩道梅園、関所跡にある関所梅園、めったに行かないであろう荒い梅園、天神梅園は真っ盛り、湯ノ花梅林は綺麗に咲いているものの中には入れず、道を歩きながらの観賞をして、今日のお楽しみの一つ、摺指(するさし)の峰尾豆腐屋で小休止。木綿豆腐、寄せ豆腐、生揚、におからドーナッツ。あっという間に18人で食べつくしてしまいました。岡沢さんの用意してくれた薬味、ポン酢が食欲を増しました。
天気は、ぽかぽか陽気で今年初めての20°C越えでTシャツで歩くのに丁度よく気持ちの良い日となりました。心配していた梅も木下沢梅園はまさに満開の見ごろで言うことは無し、残念なのはこれまたコロナウィルスの為に梅園内には入れず、簡易トイレなどもなく、広場は工事の資材置き場になっていて、道端でお弁当を開くというやや、艶消しの面もありました。
又、特筆すべきは、若い猪俣さん、品川さんと特別に川名さんのガールフレンド、小野さんが初めて参加されました。恒例のテングの打ち上げはやはりコロナウィルスを警戒してか、わずか9名の参加でした。
日 時 2020年3月11日(水)
参加者 中司、中司八恵子、後藤、翠川、高橋良子、小泉、椎名、菅谷、多田、町井、武鑓、相川、猪俣、品川、川名、小野、岡沢、堀川 以上18名
今日は週に一度取っているWESTERN CIVILIZATIONのクラスがあったのですが自粛して特別にアップされたビデオを見ることにして欠席しました. アンサンブル、ヨガも自粛. 時間はあるのですが、いろいろ何も手付かずで困ります.
ブログ拝読しました. そうですね「次のホワイトハウスの主がだれになるのかわからないが、世界の人たちがあこがれを持ち続けられる国に立ち戻ってほしいものだ」と結んでおられ、私もできればそう望みますが、現実的に、すでにアメリカ(また日本を含む世界のどこでも)古き良き時代に戻るのは難しいと思います. そして戻ってはいけないのではないかしら(?)とも思います.世界中に情報の流れるスピードと共に、価値観の変わるスピードが1991年にベルリンの壁が崩壊した時期を境に増々早くなり、Internetを通じて基本的には(宗教の違いはあっても)今の若い人たちの価値観の地域による差はあまりないのではないかと思います. ただし貧富の差による価値観の差は世界中共通してより大きくなっているのではないでしょうか. 依って政治がますますPOLARIZEする.情報がなければ一方的に与えられた情報を信じて戦争突入ということもあり得る(得た)わけですから、、、情報というものは良きにも働くし、また裏目にも出るということかもしれません.
「自粛行動」に関して私が思いつく米国と日本の違いは、日本人は世の中のために自粛でき(やはり日本人は基本的にはお行儀が良いのでしょう)、アメリカ人は自分のために自粛する傾向があると思います. 今回、スタンフォード大学医学部の教授がCOVID-19に感染したニュースが出た次の日に大学が授業をすべてオンラインに変え(これは大学側が感染源になる可能性の責任を案じての自粛)、又あちらこちらのプライベートの集まりも自粛され、カリフォルニアの「自粛行動」は(現在でも続いていますが)非常に早かったと思います.そういう意味では北海道知事の休校に関する決定の速さは見事でしたね.それから台湾の水際対策の速さにも脱帽しました.やはり台湾は常日頃中国の脅威と戦っているのでしょう.
アメリカ大統領選挙の結果はまだわからないが、次のホワイトハウスの主は誰か? ということから、思い出したことがある。
いつだったか記憶はないが、カリフォルニアに出張中、たまたまホテルでテレビをつけたら、当時の大統領夫人、つまりファーストレディであった バーバラ・ブッシュ が名前は憶えていないが東部の女子大学の卒業式でスピーチをしているのを中継していた。すべてを覚えているわけはないが、その終わりに近い部分で、彼女はアメリカの国の行方はどうやって決まるのか,それは NOT IN THE WHITE HOUSE, BUT IN YOUR HOUSE, と結んだ。アメリカの女子学生も当然、家庭に入ることを前提にしているし、日本と同じ、家庭と外部世界との断絶などに不安を抱く人が数多くいたはずだ。そういう不安に対して、バーバラのこの一句はまさに感動的であった。テレビは出席者全員の熱狂ぶりを細かに伝えたが、なかには涙を流す卒業生も数多くあった。そうか、アメリカの女性も涙を流すのか、と妙な感想も持ったものだった。
もうひとつ、これが同じ時だったかどうか確かではないが、外国人がアメリカに移住し、しかるべき要求を満たして市民権を得る、その何年かの歴史を振り返る儀式が有名なニューヨーク港スタッテン島の古い建物のところで行われ、その中継番組があった。そのなかで、たしか南米の国からの移住者だったと思うが、(これでアメリカ人になった!)と感激している人のインタビューがあった。片言に近い英語で、その感動を涙ながらに語るのを見て、こちらも胸が熱くなった。圧制か、貧困か、はたまた宗教思想か、祖国を捨てる決心をするという人の心の中は、日本のような単一文化の下で長い平和の日々をあたりまえのことと思っている人間にはとてもわかり得ない感情なのだろうと思ったことだった。そしてそういう人が夢を託せる機会と社会の寛容さ、それがアメリカなのだ。
振り返ってみて、この二つの出来事はまさにこれがアメリカの民主主義の根本なのだ、と改めて納得させてくれた、印象的なできごとだった。今つくづく思うに、僕がこの国に滞在した1967年あたりは、僕らの知っているよきアメリカ、の最後の瞬間だったのではないか。次のホワイトハウスの主がだれになるのかわからないが、世界の人たちがあこがれを持ち続けられる国に立ち戻ってほしいものだ。
今年は新春早々から映画館で珍しくも3本も鑑賞したが、わが同期
コロちゃんか
チンタさんからは「イーディ、83歳はじめての山登り」。「リア
映画は、山に登るまでの経緯が少々長く感じ、早く初めて見るスコ
山々を観たい衝動に駆られた。スコットランドの山はさっぱりわ
僕はS36年に卒業し、横河電機(当時の社名は 株式会社横河電機製作所)に入社した。いわゆる高度成長期への入り口の年、日本での重工業発展期であり、工場オートメーションのトップ企業の同社は同時に人間を大切にすることを社是とした、気持ちのいい職場だった。入社後、ヒューレット・パッカードとの合弁会社が創設され、僕も新会社へ移籍してしまったので、同社での経験はわずか2年に過ぎない。しかし社会人第一歩でコンピュータプログラマ(多くの人は信用しないだろうが、横河電機でIBM機用の第一号マクロは小生が書いたのである!)などという予想もしえなかった経験をさせてもらい、同期入社の仲間もいいやつばかりで、2年とは言え、楽しい思い出ばかりの職場だった。1978年から2年間、親会社での新事業立ち上げの支援(相手がアメリカの会社だったので、合弁会社の経験がある人間、ということだったのだろう)のためまた三鷹の本社へ戻った。この2年間でも多くの友人ができ、一世代若い仲間ができた。
過日、この2度目の横河生活で親友づきあいを御願いした、いわばひとまわり若い世代の海堀周造くんから、府中カントリクラブでプレーしたいがと依頼があった。そこでここでは先輩格のKWV37年卒菅谷君と、4人目としてYHP時代の同僚で小生をこの罪深きゴルフの道へ引きずり込んだ ”師匠” 天堀平衛君を誘い出し、快晴(ただし午後は強風にも遭遇)の5日、ウイルス騒動のせいだろう、いつもよりはるかに人の少ないコースを楽しんだ。1月末、やはり天堀君の指導?下で回った時腰を痛めてしまい、僕には久しぶりのラウンドだったが、予想通り乱調、そのせいかどうか菅谷君もいつもの調子が出ないようだったが、ゲスト海堀君は快調、満足してもらえたようだった。
考えてみると、4年の人生を燃焼しつくしたKWV時代、社会人の素地を作ってくれたヨコガワ時代、そしてそれを完結させた、良き時代のヒューレット・パッカード。いわば自分にとって三つの青春時代の思い出、そしてそこで得た友人との楽しい再会、まさに人生の快事というべき一日だった。これはまさに第四の青春に値するのだろうと、自分の幸運を改めて感謝した。
(今日はこれから整体へ行って後始末をせねばならぬ。第四の青春もなかなかやってみれば別の苦労も絶えないか)。
晴れた木曜日、久しぶりに床屋へ行ってきた。いまや 床屋 という名前そのものが準死語のようになってきているのだが、場所は京王線聖蹟桜ヶ丘。今はいっぱしの町並みになってはいるが、引っ越し当時は新興地、というか未開地というか、多摩ニュータウンもまだ完成していなかったころ、聖蹟桜ヶ丘、なんていっても ? と思われた時代である。1966年、まわりはまだ空き地ばかりの電鉄ビジネスのはじっこに引っ越した。頭金は父親に泣きつき、何年だったか忘れたが超長期ローンを組むという典型的なスタイルだった。
なにしろ2年前までは原生林だった斜面だ、自然豊かと言えば聞こえはいいが、突然隣家から絹を裂くような悲鳴、しとやかに見えたあの若奥様が 蛇がでたあ! と絶叫したり、雨戸を繰り出せばヤスデがべったりはりつき、冬ともなれば娘が拾ってきた子犬の水鉢が凍る寒さ、家の窓からは多摩川越しに立川の灯が見えたころの話である。引っ越し騒動の直後、どこか床屋くらいあるだろうと駅までの間の田んぼの中に見つけたのが小山理容店。いまでは バーバー小山、なんで取り澄ましてるが、”桜が丘” なんて電鉄会社のキャッチコピーなどは糞くらえ、ここは関戸で隣は連光寺、おめえはどっから来たが知らんが俺はここの生まれで何が悪い、子供のころからハサミ一本でやってきたバリバリのおやじさんの職人気質にほれこんで、それ以来半世紀を超えて、この間ほかの店で行ったのは滞米中の1年間のブランクと、現在の場所に越したとき、近くの店(床屋、なんていうわけがない、なんだかよくわからないカタカナ名前の店)へやむに已まれぬ事情で飛び込んだ1回しかない。
現店主の2代目通称よっちゃんによれば、小生は淵野辺から2時間かけてくる人に次いで遠距離来客リストの2番目であるらしい。数年前まで、埼玉からかよってきた常連がおられたらしいがここの所見えないよし。先代のころは若い衆の見習いを5人もかかえていようかという盛況だったが、昨今の美容だか理容だかわからないカタカナビジネスのご時勢だ、長男の3代目たかちゃんと、女性客に対応するたかちゃん夫人の3人のこじんまりした店。黙って座れば何も言わずに半世紀間変わらぬ髪型にしあげてくれる、先代譲りの多摩弁が愉快な職人肌よっちゃんとの雑談の時間が素晴らしく楽しい。まさにわれ昭和を愛す、という雰囲気の横溢する店である。
桜が丘にはもう一つ、今でも時々顔を出す、このような場所には珍しい本格的なバー UNKNOWN がある。数えて20年前、開業したての店にぶらりと入ってみてすっかり気に入り、引っ越すまで、ほぼ毎週金曜日には顔を出すようになった。近くに勤務していたサラリーマンやら受験前の大学生やら、顔なじみができ、”金曜日には桜が丘の知性が集まる” などと冗談を言っていたのがなつかしい。微醺を帯びて裏の坂道を自宅まで10分、鼻唄交じりの背中によく月をみることのあった、あの時間もまた、なつかしい。一度、府中でのワンダーOB会ゴルフの帰り、48年卒の佐藤君や51年卒斎藤君を紹介し、酒にかけてはチョーうるさい佐藤も絶賛した店だ。こういう場所のことを なじみの店、というのだろうな、とふと考えた。
だいぶ前の本稿で喫茶店のことをいくつか書いたが、そのほとんどは休業してしまい、昔からのなじみ、と言える古い店は新橋の ウエスト と新宿の ローレル だけになってしまった。店といういわばハードウエアがあるだけではとても馴染み、とは言えない。これからあと何年、勝手なことを言っていられるのかわからないが、新しいなじみ、なんでできるんだろうか。帰途、買い物を頼まれて新宿は伊勢丹まで足を延ばした。サラリーマン時代、背広を買うと言えばここにきめていたから、なじみ、といえなくもないか、と思いながら中へ入ったら、正面の新しいキャッチコピーが目に入った。まさにこれが俺の考えていたことなのかなあ、と偶然に驚きながら、そこはスマホの簡便さで(映画館での撮影は犯罪だそうだが大丈夫かなあ、などととまどいつつ)失敬してきた。
片山勇氏がどういう方なのか勉強不足で存じ上げないが、これは気にいった。字が小さいので特に気に入った部分を接写してみたのが下の1枚である。
小生こと事情があって、終の棲家、ときめていた桜が丘から現在の地へ越してきて10年になる。前の家とは立地構造が違うので、玄関を開ければ隣近所の方々と気楽に顔が合う、とても住み心地のいい場所で、隣人にも恵まれている。子供好きの僕にはありがたいのが、小学生の子供たちが気楽に挨拶していくことである。彼らが成人したとき、そういえばあそこに頑固なおじさん、いたよなあ、などと思い出してくれるだろうか。これって、”なじみ” っていうのかしらん。
令和2年の初めての月いち高尾は、1月が悪天候で中止になった為、今年は高尾以外の番外編を織り込みたいと昨年からお話していましたが、いきなり番外編の企画になってしまいました。
私が運営をするようになって初めて高尾から離れての企画は、KWV以外の唯一人だけメンバーである川名慶彦さんのご協力を得て、高麗山と大磯の町散策そして川名さんの手作りによる器で、手作りの大理石の石臼で挽いたそば粉を川名さん自らが打ってそれを頂くという贅沢でユニークな企画となりました。
当日は、平塚駅集合でしたが小田急線の事故でバタつきがあり、菅谷さん、武鑓さんが定刻に間に合わず、高麗山へは不参加、残りの17名で向かいました。天候は曇り、気温はハイキングに丁度良い気候でした。思ったより時間がかかりましたが、高麗山から湘南平へと軽めのハイキングで湘南平からは富士山、大島などの展望を楽しむことが出来ました。大磯町への下りは意外にきつく、予想外に時間がかかりましたが20分遅れで川名さんのアトリエに着くことが出来ました。

菅谷さん、武鑓さんが合流できたあと、総勢18名を二手に分けて、A班は川名邸でおそばを楽しみ、B班は大磯町のボランティアガイドの案内で旧島崎藤村邸の見学、俳諧道場として300年続く鳴立庵、新島襄終焉の地、地福寺など由緒ある大磯町の散策を楽しみました。

1時30分に入れ替わってB班がおそば、A班が観光に行くということで楽しい時を過ごすことが出来ました。
川名さん自作の器も素晴らしく、蕎麦は絶品で細麺と太麺の2種類を打って下さり思わずうなってしましました。そば師匠の菅谷さんも絶賛でした。

15時に岡さんが現地に赴きセッティングして下さった、駅前の喫茶店風月で全員集合、打ち上げをして解散。ちょっと、歩行時間の判断を誤り、皆様にせわしい思いをさせてしましました。お詫びします。

日 時 2020年2月12日(水)
参加者 後藤、岡、高橋、椎名、菅谷、杉本、町井、三嶋、蔦谷、立川、武鑓、久米、久米行子、中川、関谷、川名、藍原、岡沢、堀川 以上19名
(47 関谷)
川名さん 御礼が遅れてしまいましたが先日は大変ご馳走になりました。貴兄作のうつわ、陶器で堪能した二種類の蕎麦、天ぷら等々何とも言えませんでした。ありがとうございました。庭木の剪定、必要あらば駆け付けますよ!
堀川さん これからも「月いち高尾」の色々な企画を楽しみにしております。3月は都合が付きませんが、4月は参加の予定です。取り急ぎ、と云うか、遅ればせながら御礼まで。
(36 岡)今回のW.では川名さんの蕎麦には驚きました、こんなに美味しい
前回は大磯の市内もだいぶ歩いたので主な観光場所はしっかりと通

(川名)堀川さん レポートありがとうございます。みなさんに手打ち蕎麦を振る舞うことができてよかったです。3月も参加できたらよろしくお願いします。
(36 翠川)湘南方面へのワンデルングのご報告拝読しました。ありがとうござ
数年前(14年前の2014年5月)に高麗山→湘南平→こゆるい
今後も(月イチ高尾の名称に拘らず)リーダーのご判断で活動範囲
(36 中司)今回は残念ながら参加できませんでしたが、堀川さんご心配の ”高尾” の名前へのご心配は無用と思います(因縁の ”消灯山” も高尾山域と言えないことはありませんが、それが意地になってる理由でなければいいのですが)。