僕は小学校の頃から本を読むのが好きだった。小学校時代は少年向けの名作シリーズがほとんどだったし、中学ではラグビーの練習が結構きつかったので、本格的に本を読みだしたのは高校へはいってからだった。シュトルムとかヘッセとかいう定番の名著を何冊か読み、次は”魅せられたる魂”か”ジャン・クリストフ”か、と考え出したころ、クラスのある仲間から、ミステリー小説、というのを吹き込まれた。明治風に厳格だった父親も旧制高校育ちの兄も”推理小説”などというのは悪書の一歩手前だ、くらいに思っていて、僕にも多少の躊躇はあったものの、彼(菅原勲)の勧めで、当時売れ始めた早川書房のポケットミステリで”矢の家”という作品を読んだ。1930年代、イギリスで高名な文学者たちがいわば手すさびに推理小説を書くのが流行だったころ、メイスンという高名な(僕はその本領を読んだことはないが)作家の書いた、典型的な本格推理ものだった。この本では、僕は話の筋よりも本の持つ雰囲気(とうことはいかに翻訳がよかったかということなのだが)にすっかり参ってしまって、そうか、ミステリも面白い、となり、次に手に取ったのがクリスティの”アクロイド殺人事件”だった。この本では、結末の意外さにただ呆然として、一瞬,本当に本を放り出したものだった。
この”アクロイド”が僕をミステリの世界に連れ込んだきっかけなのだが、それからはクイーンだ、カーだ、ヴァン・ダインだと名作をただ読み続けて、”ジャンクリ”も”魂”も”チボー家”も、当時のインテリ志向の人間には必読とされていた本は結局今日まで読まずにきてしまった。しかしある日、全く知らなかった”ハードボイルドミステリ”という存在に出会わなかったら、本格推理小説熱もいずれ冷め、純文学志向に戻って、今頃はひょっとすると斜に構えてドストエフスキーでも語るようなことになっていたもしれない。
さて、その”ハードボイルド”との出会い、である。
どういうものか、僕の人生で何かの転機、という不思議にたびたび登場するのが、慶應高校1年で同じクラスにはいった田中新弥なのだが(極め付きは義兄弟になってしまったことか)、ある日、(おい、これ、すごいぞ)と声を潜めるようにして教えてくれたのがミッキー・スピレーンの”裁くのは俺だ”だった。にくいことに彼はこの本の〝アイ・ザ・ジュリー”という原題をひけらかして、あたかもどうだ、わかんねえだろいうように僕の敵愾心?を誘ったものだ。何が”すごい”のか。何ということはない、ラスト数ページに展開される、犯人の悪女が探偵を誘惑して自分を見逃させようと一枚一枚服を脱いでいく、その描写の事だったのだ。今では中学生だって驚かない程度のシーンだが、当時としては、声を潜めていうくらいの衝撃だったのである。だがそれ以上に、この誘惑があっても動ぜず、冷然として自らこの悪女に銃弾をぶち込むラストはやはり強烈だった。今考えると、スピレーンの作品がミステリー小説というジャンルに入るのかどうか、疑問があるのだが、それはともかく、本の解説にあった、”ハードボイルド”という文学のカテゴリがあるのを知るきっかけを作ったのは間違いなく”裁くのは俺だ”だった。
これに続いてスピレーンの一連の作品が流行りだしたころ、また新弥が今度は”野獣死すべし、こいつはほんとにすごいぞ”と言い出した。一部によく知られている大藪晴彦の出世作である。読んでみると、たしかにそれまでに読んだ”推理小説”とは全く違った文体のものだった。しかしストーリーとして優れているとは思えなかったし、新弥が”すごいぞ”といった描写もたくさんあったが、読み終わってしまえばそれまで、というのが感想であった。大藪にはそのほか多数の作品があるが、いずれも暴力と銃器に関するマニアックな書き込み以外の印象はない。ただ、この本のようなスタイルの小説が”アメリカン・ハードボイルド”と言われるものだ、という事を知ったという意味ではひとつの転機ではあったようだ。しかし、まだ当時〝銃と酒と裸の女を書けばハードボイルド”、というような風刺もあって、この段階ではまだ巷間でも認知は低かったし、僕の読書性向を決めるものではなかった。
そこで、この”ハードボイルド”とは何ぞや、という議論になる。これは文学愛好者やその道の専門家にいろいろな説があるようだが、主に二つの面が指摘されている。
第一は、それまでのいわゆる”本格推理小説”、というものに対する一種のアンチテーゼとしての”推理小説”の書き方、という点である。”アクロイド殺人事件”に代表されるように、”推理小説”の主題は何よりもまず、フーダニット(WHO DONE IT)すなわち殺人の犯人は誰か、であり、それと表裏一体になるのだがハウダニット (HOW DONE IT)),例えば完全な密室でどうやって人が殺せたのか、その仕掛けは何か、ということにある。特に1930年代を中心に書かれたものはこの”ハウ”に重きを置くために、およそ現実性に欠ける環境やメカニズムを背景にするようになって、たしかに論理を追及していくというインテリ好みの面白味はあっても現実の世界では起きえないようなことが描かれ、物語の終わりになって、名探偵が関係者を集めてとうとうと論理を述べ、真犯人を名指しする、というのが定番になっていく。これに対して、もっと現実の社会に立ち戻って、平凡な警察官なり探偵が足を棒にして現場や社会の裏側を歩き、物証を集めて犯人にたどり着く。多くの場合、犯人もまた、平凡な社会の一員であることが多い、という流れができたのはある意味で当然であろう。このいわば推理小説の変化のひとつのかたちとして、主人公(多くの場合探偵あるいは警官)をより現実的なものにしていくと、今度はその主人公にどういう性格を持たせるか、にも視点がいく。それまでの名探偵はいわば一種の天才か或る種の変人であり、その私生活やら性格描写に力点が置かれることは少なかったし、読者の報も超能力者を自分の周りにいる人間とは期待しなかった。この”探偵の人間化”ということ、すなわち安楽椅子に座った推理機械と生身の人間との違いを考えていく過程で、より現実的な、ビジネスライクな、行動的な人物像が作られていくことになる。その中で、より”行動”と”自己主張”と”個性”とを強調した小説作法が作られていき、それにアメリカ的な個人第一の倫理とが加味されて”ハードボイルド・ミステリ”が生まれたのだというのが第一の点である。”ハードボイルド”という形容詞は今や推理小説の分野に限らず、社会通念の一つとなっているが、当初は必ず”アメリカン”という限定詞がついていたことも記憶されるべきだろう。
第二の点は、これは我々素人が云々できる範囲を超えているのだが、その文体、スタイル、にかかわることである。”アメリカン・ハードボイルド”を論じている文章にまず必ず引き合いに出されるのがヘミングウエイだ。それはハードボイルド作家の書き方の手本になったのがヘミングウエイの文体だということなのだが、このような議論はまず英語を母国語として多くの著書を読み、かつまたアメリカ文化を経験した人か、あるいはこの分野を専攻している文学者にして初めていえることであり、われわれ門外漢はそれを受け入れるしかない(所詮、蟷螂の斧とは知りながら、僕もヘミングウェイの文章を読んでみようと思い立ち、”Farewell to Arms”とか“The Sun Also Rises”など数冊に挑戦したことがある。第一次大戦後の世界意識の変革期、その時代の若者の不安や絶望や社会のありようはそれなりに心を打つものがあったが、さてその文体なりスタイルなりがどうだ、といわれてもこればかりは無理な話だった)。
この分野の専門家といえば、現代アメリカ文学者のひとり小鷹信光には”私のハードボイルド” ”ハードボイルドアメリカ”という文字通りこの問題に特化した2冊と、ほかにも関連として”アメリカ語を愛した男たち” ”ハードボイルド以前”などという著作があるし、ほかにも僕が目を通したものでいえば青木透”ハードボイルド”とか郷原宏の編さんになる”ギムレットには早すぎる”などは軽いタッチで”さわり”を解説してくれたものがある。もちろん、ほかにも参考文献はいろいろあるようだ。
しかし、”誰が為に鐘は鳴る”のヘミングウエイをハードボイルド作家だという人はいない。文体だけでなく、もっと違う文学としての価値があるからだ。そうすると、”ハードボイルド”といわれる作品には、文体以外にもなにか共通するものがあるはずだ。それは今、話をとりあえずミステリに限るとすると、これらの作品に登場する人物、主人公の人物の描き方にあるのではないか。アメリカン・ハードボイルドの作家と言えば、御三家ともいわれるダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、そしてロス・マクドナルドがまず登場するのだが、そのチャンドラーの”長いお別れ(The Long Goodbye)”の中に、主人公探偵のフィリップ・マーロウが親友の警部に、なぜおまえはそんなにこの事件にこだわるのか、と言われてこう答える部分がある。
私はロマンティックな人間なんだよ、バー二―。夜中に誰かが泣く声が聞こえるといったらなんだろうと思って足を運んでみる。そんなことをしたって一文にもならない。常識を備えた人間なら……..他人のトラブルには関わり合わないようにつとめる……テリー・レノックスが死んだことを知った時、私はキッチンにいってコーヒーを作り、彼のためにカップに注いでやった……..そんなことをやっても一文にもならない。君ならそんなことはしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ…(村上春樹訳 ”ロング・グッドバイ”)
前に述べたように、”ハードボイルドとは何ぞや”については多くの専門家の意見があるのだが、一愛好者としての僕にはこの一節が”ハードボイルド”の真髄を語っているように思われる。ハメットは30年代のサンフランシスコを、マクドナルドは第二次大戦から現代までの、北部カリフォルニアを主な背景とした作品で知られる。チャンドラーの舞台は主にロスアンゼルスだが、時代背景はその中間にあたる。この三人が描こうとしたアメリカ、それも東部エスタブリッシュメントの社会とは違う西部の社会と人間模様はそれぞれに違っているのだが、ハメットがどちらかと言えば主人公の”ハードボイルド的”行動を中心に据えた、きわめてストレートな書き方なのに対し、チャンドラーは上記の一節に明らかなように、行動的ではあるがより人間的でありかつ性善説的な視点で優れた小説を書いた。マクドナルドになると戦後のアメリカ中級社会に起きて来た麻薬の問題とか家族崩壊と言った深刻なテーマが増える。それぞれにメインテーマは変わっているが、このマーロウの独白にこめられた思い入れは共通しているように思える。この3人についてはよく知られているし、特に”長いお別れ”はミステリの分野を超えて、現代英語文学の最高峰という評もあるくらいだから、これ以上云々することはやめよう。翻訳も清水俊二に名訳があり、ほかにも双葉十三郎、小鷹信光、などあり、最近、村上春樹が新訳を書き続けている。僕の好みとしては清水訳が一番好きだが。
蛇足だが、この3人の大家の作品はいくつかが映画化されている。僕らの時代に公開されたものとしては、チャンドラーのマスターピースのひとつ”大いなる眠り (TheBig Sleep)”が”三つ数えろ”というタイトルで、かのハンフリー・ボガートとローレン・バコールの主演で、またもうひとつ、”さらば愛しき女よ(Farewell my lovely)”がロバート・ミツチヤムの主演で作られている。ローレン・バコールについては今更言うまでもないが、この”さらば”の悪女で出たシャーロット・ランプリングの妖しい美貌は忘れられない。”長いお別れ”もエドワード・グールドで出たが、原作に忠実でないし、何しろミスキャストで期待外れだった。ハメットの代表作”マルタの鷹”もボガート、マクドナルドの”動く標的(The Moving Target)”はポール・ニューマンが主演している。この中では、何といっても”さらば”がロマンチックな雰囲気と音楽がミツチヤムの茫洋とした演技とあいまって、素晴らしかった。いずれもまだDVDで版があるはずだ。
長くなったがここまでが書きたいことの前段というか前提である。僕も大学時代はこれでもかなりまじめに専攻した社会思想史の文献を(山とスキーの合間を縫って、である、もちろん)読んでいたし、会社勤めが意外なことに外資系になったためにそれなりの負荷もあって、余暇に読んだのは、その乾いた文体が好きだった五木寛之とか、歴史の知識を広めるための手っ取り早い手段として司馬遼太郎をよみあさったくらいであった。本来の趣味としての読書にのめりこんだのはむしろ退職後のことであり、その退職後のいわば生きがいのひとつとして、”ハードボイルド文学”とのかかわりあいをこれから書いてみたい。