炭素文明論 その3    (会社時代友人 齋藤博)

前回の「炭素文明論 – その2 砂糖の起源と西欧への伝播」で、砂糖で蓄えられた富が、産業革命への扉を開く原資になったということまでをまとめました。炭素文明論には、記載されていませんが、砂糖がどのように日本に伝播して、広まったかを簡単にまとめておきたいと思います。こうして歴史を調べてまとめてみると、日本でも砂糖が社会の重要な糧となっていたことがわかります。

誰が伝えたかは別として、他を調べてみると、756年、正倉院の献納目録「種々薬帖」の中に「孝謙天皇・光明皇后が東大寺盧舎那仏に蔗糖(中国で砂糖の意)を献じ」の記録がありました。当時は大変な貴重品であった砂糖は、ごく一部の上流階級が薬用としていたと推測できる文章です。つまり、イスラム世界やキリスト世界と同様、日本でも、当初は薬として認知されていたようですね。砂糖は、西欧への伝播と同じ頃、日本にも伝来したと考えるのが妥当なのかもしれません。鎌倉時代末頃(14世紀前半)には、大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加したと思われると記載している文書がありました

砂糖が伝わって約7、800年後の頃、正確には鉄砲伝来の6年後の1549年に、ザビエルにより、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子がもたらされたそうです。薬としてではなく、お菓子として伝わったのですね。つまり、西洋では、もはや薬ではなかったのでしょう。この後も砂糖は国外からもたらされていたようですが、奄美大島の直川智(すなお かわち)が琉球に渡航中、台風に遭い中国福建地方に漂着し、その地でサトウキビの栽培と砂糖の製造法を習得し、1609年に密かに持ち帰ったとされています。意味が明確でないのですが、恐らくサトウキビを持ち帰ったのでしょう。1610年に黒糖を製造したのが、日本におけるサトウキビの栽培と製糖の始まりとされています。
その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島などにおいて、さとうきびは増産され、江戸幕府のもとで管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。

江戸時代の中期(18世紀)以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まりました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します。明治時代に入り、不平等条約の下(輸入品に対する関税決定権がなかった)で輸入砂糖が国内に流れ込み、沖縄・奄美を除き、零細な和糖業は相当なダメージを受け壊滅してしまったそうです。

日清戦争(1894〜1895)後、日本の一部となった台湾経済の中心として製糖業が位置付けられるとともに、機械化された大工場による近代製糖業が確立され、続いて国内にも精製糖の近代工場が建設、我が国の砂糖の生産体制が整備されていきました。しかし、太平洋戦争(1941〜1945)の前後頃、台湾で生産された粗糖を国内に輸送することが困難となり、国内の砂糖不足は深刻なものとなったということです。戦後も、我が国の砂糖は不足し、1952年まで配給制だったそうですが、やがて戦後復興とともに、多くの商社が砂糖の製造・輸入に動き出し、需要を賄えるまでになりましたが、それでも不足が発生することもあり、合成甘味料なども多く開発されるようになりました。一時期ズルチンやチクロなどの人工甘味料が使われましたが安全性の面から使用禁止となりました。その後の研究で、やはりズルチンとチクロは毒性があり、アメリカ食品医薬品局(FDA)では使用禁止、サッカリンは使用可能と判断されています。

最盛期の1973年には、1人あたりの年間消費量は29kgほどです。2021年になると、14kgほどまでに消費量が下降するのです(農林水産省「令和3砂糖年度における砂糖及び異性化糖の需給見通し(第4回)」)。その差15kg、それでも一人1日39gほどの砂糖を使っている計算ですね。WHOは、1日当たり糖類摂取量を25g(ティースプーン6杯分)程度に抑えようと、ガイドラインを発表しています。