2011年1月に中司ご夫妻、翠川ご夫妻、川内さん、吉牟田さんのわずか6人で(ジャイさんいわく)「なんとなく」始まった「月いち高尾」は14年の年月をかけて100回大会を迎えた。天候はやや霧がかかっていたが過去最多の35人の参加で意気軒昂に高尾山を巡り頂上で記念の写真を撮影した。
1.日時:令和7年(2025)5月12日(月)
2.コース別の山行記録(敬称略、()内は昭和卒年)
(1)シニアコース(世話人:関谷/伊川)
<参加者(22名)>
船曳孝彦(34)愛子、浅海昭(36)遠藤夫士男(36)鮫島弘吉郎(36)高橋良子(36)中司恭(36)大塚文雄(36)矢部精一(37)多田重紀(39)立川千枝子(39)西澤昌幸(39)武鑓宰(40)相川正汎(41)下村祥介(42)木川達郎(46)関谷誠(47)伊川望(47)田端広道(47)平井利三郎(47)齋藤伸介(63)大場陽子(BWV)
<山行記録>
早朝の雨が懸念されたが、京成「高尾山口」に総勢22名が集合。平均年齢76.5、それも80歳以上が15名と途轍もなく元気なグループが、見るからに元気な遠足の小学生に負けずに集まった。その内、健脚グループ(矢部、多田、武鑓、下村、田端、斎藤伸、大場)の7名が、雨後でぬかるむ6号路琵琶滝コースを山頂へ。その他は、ケーブルで「高尾山」駅へ。一般登山者、それもインバウンドの外国人が少なかった月曜朝のもやに包まれた幻想的な参道を薬王院へ、高尾山の神々・天狗に100回記念達成を感謝した。船曳夫妻、関谷は無理せずにここまでとし、他の皆さんは一般コース、琵琶滝コースの皆さんと山頂で合流、記念撮影におさまった。昼食後、三々五々、下山、懇親会に向かった。
(2)一般コース(世話人:斎藤邦彦)
<参加者(10名)>
安田耕太郎(44)吉田俊六(44)村上裕治(46)福本高雄(47)福良俊郎(48)五十嵐隆(51)保田実(51)斎藤邦彦(51)羽田野洋子(51)鈴木一史(60)
<山行記録>
高尾駅北口バス乗り場10:12⇒(バス7分)⇒10:19蛇滝口バス停⇒(1時間)⇒
11:20展望台11:30⇒(4号路吊橋経由50分)⇒12:20高尾山頂上
第100回記念ということもあり 今まであまり使っていないコースを選び、先日調査行をして下さった村上さんを先頭に朝霧の中、出発しました。蛇滝口から霊験あらたかな水行道場を経て高尾山屈指の急登を浄心門近くまで登り、4号路の名所である吊橋「みやま橋」を渡って頂上直下の公衆トイレ横に突き上げた。頂上にはすでにシニア組の半数が到着しており6号路組の到着を待って山頂標識の周りで記念撮影.。100回記念として関谷さんが作った小旗や写真撮影用パネルの百回の文字を見て周囲の登山客から祝福の歓声が上がった。
(3)懇親会
<参加者:上記の山行組に加え次のふたりが参加>
中司八惠子(36)浅野三郎(44)
<懇親会の模様>
今回は堀川さんの仕事仲間だった白川さんが経営するガーデンテラスレストランの「TOUMAI(トウマイ)」を利用した。まずは庭に出て記念パネルを掲げての記念撮影を行った後、ジャイさんからの差し入れのワインを開けて乾杯。ドテさんから入部70周年の思い出を伺い、創成期メンバーの中心だったジャイさんから「なんとなく」始まった経緯をお話しいただいた。ご本人は「なぜ?いつから?こんなに賑やかになったのだろう?」と訝しがっておられましたが、おそらく堀川さん(残念ながら今回は欠席)のお力が大きいのではということだった。現幹事の関谷さん、伊川さんからもお話を頂戴し次回以降は世話役を斎藤邦彦、齋藤伸介が引き継ぐということで会のより一層の発展を図ることとなった。
<関谷より> 2017年12月、高尾山で忘年BBQを三陸直送の生カキ・アヒージョを堪能する集まりがあると、堀川さんに声を掛けられたのが切っ掛けで、山口県防府市在ながら、機会あらば「月いち高尾」に参加し始めたのが運の尽き、2021年末、堀川さんを始めとする世話人に懇親会後に呼び止められ、「来年からお前に任す」との一言。遠方在住ながら、諸先輩には抗し切れず、2022年1月から世話人代表を務めさせていただき、何とか、節目の100回目まで世話人として微力を尽くしたが、これはひとえに同期の伊川さんと51年卒の斎藤さんの力強い協力とメンバーの皆さんのご理解によるものと感謝。。ここにきて、思わぬ病魔に襲われてしまったが、早々に、皆さんと「月いち高尾」で汗をかき、「天狗」にてキンキンに冷えた生での一杯を楽しみに療養に頑張る覚悟。ありがとうございました。
(編集子)気がつけば100回だった、というのが正直な感想だった。37年の矢部君は比較的新しいメンバーだが、彼が細田小屋で昼飯のとき、 ”ジャイさん、これで何回目?” と言い出したのがきっかけだった。ヤッパは現役時代から突飛もない発想をする男(それとどういうわけかゴルフだけは妙にうまくなった)だったが、今回はその突飛さに感謝。
同期での集まりにどこから聞きつけたのか、38年の町井かをるが参加したのが8回目、39年の堀川義夫が10回目で、それ以降、五月雨的に同期生以外の参加が始まり、極めて自然に今の卒業年度を超えた行事になった。世の中に三田会という組織はたくさんあるが、その中で年度を超えての濃密な交遊があるのは我々だけだ、と言い切ってもいいかもしれない。小生が総務(今でいう部長?)になった年が創立25周年で、そのときはじめて、OBとのお付き合いを経験した。そのとき、同期の感激屋の田中新弥は ”我々は太い絆で結ばれている” と表現したものだが、その後、OB会という組織がそれ自体で意味を持つことはなかった。今回の成果がでたのは、34年卒の妹尾さんが築かれた路線があったからこそ、自分でいえば孫にあたる世代の諸君とあたかも同期生のような気持ちで接することができたのだとつくづく感じる。
時間は冷酷なもので、小生もいきがっては見ても足の衰えは隠せない。かの長嶋茂雄の有名な挨拶をかりれば、”気力体力ともに限界を知り、バットを置く” けれども、 ”わが月いち高尾は永遠に不滅でーす!” という日も遠くはあるまい。新幹事以下、各兄のご健闘を祈るや切、であろうか。