”紙の情報” について  (41 斎藤孝)

KWVの先輩である船曳さんの(KWV三田会の情報運営に関する)ご提案を拝見する機会があり、感ずるところがあった。そもそもはOB会名簿の形態をどうすべき、という議論であるが、ご提案の中の、

「情報の漏洩は各個人の責任であり、紙の名簿の存在自体ではないはずです。」

船曳先輩のこの一行には、全面的に賛同する。しかし小生が専攻してきた分野の視点からは多少の異論を持つ。以下、私見を書かせていただく。 

紙の末路は本屋や図書館の未来と同じである。紙以前のパピルスは同じような運命をたどったが、文字は残っている。したがって論点は文字を記録するメディアが紙なのかデジタルメディアであるのか、ということになろう。

新聞は出版側が編集割付というスキーマ(注記参照)を決め、読者側は新聞というスキーマ(例えば政治面や三面記事など分類された)を読む視点が習慣づけられてきた。単行本や雑誌も同じく出版側と読者側は共有するスキーマによって情報提供され受け取られてきた。このような文字情報の「視点を学ぶことがリテラシー」であったのだ。

紙による名簿や冊子体の私的書籍であっても、このようなスキーマは意識される。紙による出版文化はスキーマ(言い換えればリテラシー)こそが知的伝統として学問や知的体系の形成に役立ってきた。なによりも紙は生の手に取り自己の知的ペースで操作できる。このようなアナログ習慣を忘れてしまえ・・という乱暴なデジタル世相、そこに恐怖があり、ここではこの古典的リテラシー崩壊というジレンマが憂えられているのだと思う。

デジタルでもその従来のスキーマを受け継ぐものとしてPDFなどがあって、PDFは図書や新聞など紙の編集(スキーマ)をそのまま受け継いできた。ただPDFはデジタル情報として冗長で無駄が多い。あくまでも紙の読者向けの過渡的な存在であるので、紙ではなくデジタルで提供されるので、スマホやPC操作が必要になり、電子本や電子冊子と呼ばれている。

ガス車やハイブリッド車がEDに移行する程度ならば、スキーマ(自動車という概念)は変わらない。ところが空飛ぶ車となると、それが車なのか飛行機なのか、それとも新しいスキーマとして理解すべきか悩むことになる。

余談が長くなってしまった。小生は所見として「紙の末路は本屋や図書館の未来と同じだ」と考える。船曳先輩の言われるように、名簿の簡素化が行われれば、絆は薄れ、おそらく10年後には今の形態のKWV三田会は消滅してしまう、という可能性はあるけれども、新たなデジタル時代に合致し追随できるKWV三田会という存在の可能性も検討すべきであろう。是非とも新たなデジタル時代のKWV三田会の存在について議論が展開されていくことを願う。

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(ウイキペディア抜粋)スキーマ英語schema)、シェーマドイツ語Schema)、シェマフランス語schéma)とは、もともとや図式や計画のことを指す言葉で、今では様々な分野で広く用いられる言葉である。「スキーム」 (scheme) とスキーマはほぼ同じ意味であるが、一般にスキームが具体的にほとんど完成された計画や図を意味するのに比べて、スキーマはその手前のおおまかな(概念)状態を指すことが多い。コンピュータサイエンスにおいては、スキーマ言語とは、文書構造を定義する言語を、データベースの分野において、ある種の定義のこと。