初夏の草原ー”郷愁” という感覚



この写真はなにか。その道のエキスパートであるコイズミ、とかフナツ, とかヤスダ、なんて連中がよこすプロ裸足のシャシンに対抗しようなんて気持ちなんかあるわけもないし、またおスタとかズン六に (この花の名前教えて!)なんて言って(またですかあ? ったく!)なんて怒られるためでもない。

写真の上部に写っているのはこの一角の6キロほど北(画面右側になる)の、今は住宅地になっている窪地からわき出した水がこの先1キロばかりで多摩川にそそぐ小川で、大栗川という。今は多摩市と呼ばれるこのあたりは、明治天皇の行幸があり、野点を楽しまれたあたりには明治天皇ゆかりの場所として聖蹟記念館という施設があり、記念館回りは見事な桜の名所として古くから親しまれていた。京王電鉄が大栗川が裾を洗う台地に住宅地を開拓したとき、それまでは古い地名で関戸、とよばれていたあたりに聖蹟桜ヶ丘、という地名をつけた。小生がその一角に越して来たころは、京王線の駅からこのあたりはこの写真にあるような、草花一杯の草原だった。さきごろ祖母になった長女は駅から、今はスターバックスなんて無粋な奴が幅を利かせてるあたりから、蓮華を積んで帰ってきたこともあったし、大学生の父親になりたての長男が、抱えるのがやっとの大きさの見事な鯉を捕まえて興奮して帰ってきたのはこの大栗川でのことだった。

色々な事情で現在の場所に引っ越してもう10年になる。どういう縁があったのか、今の場所も京王電鉄が開拓した初めての住宅地で、落ち着いた雰囲気のいい街になっているし、なんといっても食品スーパーにコンビニに郵便局に歯医者に内科医にスポーツジムにおまけに交番まで自宅から5分以内にあり、娘一家とは隣あわせ、数寄屋橋まで45分で行ける便利さもあるという万事ラッキーな場所で、理髪店もそのサークルの中に実に4か所もあるのだが、整髪だけは今でも月1回、桜ケ丘まででかける。かの地に越して後、はじめて訪れたときは写真の手前側、田んぼの中にあった小山理髪店はその後、川を越えた場所(写真で言えば左上の位置)に移り、絵にかいたような職人肌の親父さんが他界した後、現在は2代目の通称よっちゃんが長男のたかちゃんと二人で運営している。時間がかかろうが何だろうが、ほぼ半世紀、カリフォルニアにいた時期は別として、コヤマ以外で整髪したことは2回しかない。バーバーコヤマ、なんて気取ってるが多摩訛りむき出しのよっちゃんとの会話が何とも言えず楽しいし、ともかく桜ケ丘、という場所がなんともなつかしいのである。

この流れを越えて坂を5分も登れば、縁あって現在の場所へ越すまでは終の棲家、ときめていた家の前に出る。設計の初期からかかわり、納得し満足していた家だから、懐かしい気持ちは大いにある。だがこの10年間、よっちゃんには毎月会いに来るのだがこの坂を上ったことは一度もない。実は親しくしていた人から、門の前に植えてあったメタセコイアの樹が切られてしまった、という話を聞いたからである。まだ日本人の海外渡航が難しかったころ、ロシアを訪れた父が種を持ち帰り、自分で育てたものを移し替えてくれた、自分にとっては想い出深い木だった。それが切られてしまった、ということが、誠に自分勝手な思い入れとわかってはいても口惜しいというのか寂しいというのか、もやもやしたものがあるからである。ジョニー・キャッシュの Green green grass of home  の歌詞に there’s an old oak tree that I used to play on …..という一節があるのを思い出したりすると切なさというのかなんというのかわからないがそういう気持ちが増すようだ。

いわゆる 故郷、と呼ぶべき地をもたない小生にはこの土地はそれに最も近い土地である。こういう感情がもしかすると郷愁、というものかもしれない。郷愁、という単語を確認しようと例によってウイキペディアをひもとけば、(異郷のさびしさから故郷に寄せる思い。ノスタルジア)と定義が載っている。

生意気盛りの中学3年のころだったとおもうが背伸びしてヘッセの 郷愁 に挑戦したものだった。この本の原題は Peter Kamenzind  で、主人公の名前である。これに 郷愁 という訳を充てたのがだれだったのか、小生は知らない。ヘッセはドイツ教養主義文学の代表的存在とされていて、この本もまた主人公の人間的成長を描いたものだ。主人公は確かに最後に故郷に戻ってはいくのだが、それが (異郷にいて感じる寂しさ)からきたものだとは思えない。なぜこういう訳を充てたのか、今となっては調べるすべもない。

僕の中にわだかまっている感覚というか感情はむしろ、藤村の”千曲川旅情の歌” の雰囲気なのかもしれない。

 小諸(こもろ)なる古城のほとり
 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
 緑なす蘩蔞(はこべ)は萌(も)えず
 若草も藉(し)くによしなし
 しろがねの衾(ふすま)の岡辺
 日に溶(と)けて淡雪(あわゆき)流る

          あたヽかき光はあれど
          野に満つる香(かおり)も知らず
          浅くのみ春は霞(かす)みて
          麦の色わづかに青し
          旅人の群(むれ)はいくつか
          畠中(はたなか)の道を急ぎね

 暮れ行けば浅間(あさま)も見えず
 歌哀(かな)し佐久の草笛
 千曲川(ちくまがわ)いざよふ波の
 岸近き宿にのぼりつ
 濁(にご)り酒(ざけ)濁れる飲みて
 草枕しばし慰む