ジャン・ギャバンでもアラン・ドロンでも、イヴ・モンタンでもないフランス映画を時々、懐かしく思い出し再見する。
特に、名匠ルネ・クレール監督とジュリアン・デュビビエ監督のモノクロの4作品は、憧れのパリ、セーヌ川、シャンソンというイメージで連想する作品で、劇場で観た当時から心に残る名作と思ってきた。
映画の日本語タイトル(邦題)が割合に似ていて、時々、見返さないとタイトルと映像とが混乱するので、改めて見直して整理してみた。
1、「巴里の屋根の下」(Sous les toits de Paris) (1930年製作 フランス映画)
監督:ルネ・クレール 主演:アルベール・プレジャン、ポーラ・イレリ
音楽:ラウール・モレッティ
ラウール・モレッティ作曲、アルベール・プレジャンが歌う主題歌は日本でも大ヒットした。
https://www.youtube.com/watch?v=YQsukCcJ3Mk
(注) サイレントからトーキーに移った当時はアメリカ映画が主体だったが、フランス映画で初めてトーキーが昭和6年に封切されたのがこの映画。 日本人がパリの下町の流し歌(シャンソン)を初めて映画の中で聞いた作品。
2、「巴里祭」(Quatorze Juillet) (1933年製作 フランス映画)
(映画の原題は「7月14日」(Quatorze Juillet)というもの)
監督:ルネ・クレール 主演:アナベラ、ジョルジュ・リゴー、レイモン・コルディ
音楽:モーリス・ジョベール
「巴里祭(A Paris dans chaque faubourg)」 邦題「巴里恋しや」
リス・ゴーディが歌う主題歌が日本でも大ヒットした。
(注)7月14日の革命記念日を明日に控え、巴里の下町はお祭り気分。ジャンはタクシーの運転手。その恋人アンナは花売り娘。ジャンの下宿に昔の女ポーラが現れたことから、二人は喧嘩別れ・・・・。
(注) 監督ルネ・クレールは「詩的レアリズム」の監督と言われている。
3、「巴里の空の下セーヌは流れる」( SOUS LE CIEL DE PARIS COULE LA SEINE) (1951年製作 フランス映画)
監督:ジュリアン・デュビビエ 主演:ブリジット・オーベエル、ジャン・プロシャール
音楽:ジャン・ヴィーネ
主題曲(シャンソン)2曲
・「巴里の空に下」 (作詞)ジャン・ドルジャク (作曲)ユーベル・ジロー
ユーベル・ジロー作曲、リーヌ・ルノーが歌う主題歌は、ジュリエット・グレコによってカバーされて、日本でも大ヒットした。
https://www.youtube.com/watch?v=utOEvlXehHk
・「巴里の心臓」 (作詞)ルネ・ルーゾオ (作曲)ジャン・ヴィーネ
4、「アンリエットの巴里祭」(La Fete a Henriette) (1952年製作 フランス映画)
(原題は聖アンリエットの日(La Fete a Henriette)というもの)
監督:ジュリアン・デュビビエ 主演:ダニー・ロバン、ミッシェル・オークリル、ミッシェル・ルウ、ヒルデガード・ネフ
音楽:ジョルジ・オーリック
「「自由を我等に」「悲しみよこんにちは」などの作曲も手掛けた巨匠ジョルジュ・オーリックの作曲によるテーマ曲。
ところで、学生時代(1950年代後半~1960年代前半)に「シャンソン」という月刊誌があったので、毎月購読していた。欧米文化に憧れ、特に映画「第三の男」のロンドンの石畳、映画「巴里の屋根の下」のシャンソン、映画「荒野の決闘」のモニュメント・ヴァレーなどには、何とかして行って見たいと思っていた。その後、70年ほど経った今では、この望みを叶えてはいるが、シャンソンは今でも時々思い出したように素人のサックスで吹いて見たくなる曲が多い。その時は手元の「シャンソン名曲集」等から好きな曲を選んで吹く。
・パリの人生 ・聞かせてよ愛の言葉を ・街角 ・愛の讃歌 ・パリの空の下 ・さくらんぼの実る頃 ・枯葉 ・ラストダンスは私と ・雪が降る ・サン・トワ・マミー ・セ・シ・ボン ・オー・シャンゼリゼ ・ろくでなし ・幸福を売る男 ・パリの屋根の下 の譜面が収納されている。
(保屋野)シャンソンは、聴けばすぐ曲名が分る超有名な歌から、日本人にはあまりなじみのない歌まで数多くありますが、まず超有名な
① 巴里の空の下②巴里祭③愛の讃歌④枯葉⑤バラ色の人生⑥ラ・メール⑦オー・シャンゼリーゼ⑧巴里のお嬢さん⑨サント・ア・マミー⑩恋心
次に有名な⑪詩人の魂⑫セ・シボン⑬聞かせてよ愛の言葉を⑭ろくでなし⑮パダム・パダム
最後にあまり知られてない⑯さくらんぼの実る頃⑰ふたりの恋人⑱ドミノ⑲サンジャンの私の恋人⑳私の心はヴァイオリン
そして、あるランキングでトップの(ピアフの代表曲)㉑ミロール~題名も歌も初めて知りましたが・・・
(編集子)2009年、友人のジュネーヴの別荘に誘われたので、万全の計画をたててそのあとパリへ乗り込む予定だったが、滞在最後の日、二人で散歩に出かけたときパートナーが石車に乗って転倒、結局JALに掛け合って傷病者向けシートで即時帰国の羽目になった。それ以来、前にもましてパリは縁遠い。小生のパリ、は戦後まもなくはやった石井好子の ”巴里の空の下オムレツのにおいは流れる” でとまったままである。
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石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 – 2010年7月17日)は、日本のシャンソン歌手、エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業[1]、東京音楽学校声楽専科卒業[2]。