数日前、新聞に高倉健のお気に入りを特集したCDのことが書かれていた。大ファンのわがパートナーに頼まれてアマゾンに発注したら、なんと翌日、手元に届いた。迅速なサービスに感心する一方、現実問題としてドライバー不足になやむ運送業界も大変だなあ、と妙な気持ちもした。
さて問題のCDは小生はまだ聞いていない。”昔の” というか ”あの頃の” というか、歌は世につれ世は歌につれ、だれでもオールドメロディには郷愁を覚えるはずだが、この健さんのお気に入りセレクションには ”日々” という付加語がついている。つまり曲そのものよりもそれによって思い出される日々への想い、という意味があるのだろう。曲、ということでいえば、小生にもそれなりの選択がある。だがそれに ”日々” という限定詞をつけるとするとその内容は変わってくる。もちろん、大学生活の大半をしめるKWVでの日々、はもちろんある。しかしその日々のことは半世紀を越えてもなお、”楽しかった日々” と置き換えられる思い出である。健さんの(勝手な想像なのだが)言おうとした、帰らざる日々への郷愁、とすると僕にとっては短い間であったがカリフォルニアで過ごした秋の日々、ということになるだろうか。
当時、まだ、米国で生活する、ということはまだまだ非日常なことであった。だから現地に行く前に自分が想像していたのは日本では体験できない新規な事物への期待であったし、確かにそういうことも数多く思い出される。しかし、(再び勝手な想像なのだが)健さんがこのCDに込めたのであろう ”日々” ということとなると、シリコンバレーの場末、レッドウッドシティというこじんまりした街で、新聞広告を頼りにみつけた2軒長屋(当時は住む家まで会社で用意してくれる、という結構なシステムはまだなかった)で2歳半になった娘を遊ばせながら(まだ彼女と遊んでくれる子供は見つからなかった)過ごした、異国の秋の日々だった。小さな庭は高い塀で隣家とへだてられていて、その塀の上、落ち葉の合間をちいさなリスが走り回り、しんとした空が秋の色だった。そしてそのバックにいつでも思い出すメロディは当時のカントリミュージックに新風を吹き込んだ、若き日のバック・オウエンスの、It takes people like you to make people like me という軽快なメロディと、ちょうどその秋にヒットしたグレン・キャンベルの By the time I get to Phoenix である。C&W はよく聞いてきたが、この2曲だけはメロディとともに、”あの日々” ー 深まる秋の、異国で過ごした濃密な感情 ー がはっきりと蘇る。
仕事を離れて、パートナーとふたり、センチメンタルジャーニーをやろうぜ、と言い続けてきたのだが、つい最近、会社時代の友人が誘ってくれた ”パロアルトへの旅” もなんとなく見送ってしまった。健康上の不安もないわけではないが、あの日々を過ごした、古き良きアメリカの最後のきらめき、懐かしき日々 がもう味わえないだろうという、不安が残念ながら一種の確信になってきたからだった。
明日にでも、この健さんの想い出、を聞いてみようと思う。
(安田)バック・オウエンスとグレン・
(小田)我々はアメリカを旅した時、空になったLOVELANDの工場、