日差しは強くなってきましたが、風はまだ冷たくまさに彼岸前の気候です。 米寿を迎え、最終と思われるスキーに行ってきました。歩くのはフラフラしていますが、スキー板を付けると様変わり。ゴンドラの上から現役並みの滑りが出来て大満足でした。
一昨日、母校松沢中学の『松中祭』に行ってきました。ホールに現役中学生の絵画(ものすごく上手でプロみたい:指導教師が優れている)、工作、書などが展示されている傍らに、同窓会による展示パネルがあり、「松中の歴史」というパネルの横に、私の書いたものもパネルとなって展示されていました。
元原稿を添付します。たまたま高校2年の時の戸山高校新聞に投稿したコピー手に入り、現在(昨年)と比較しますと、『隔世の感』を強く感じます。昔を思い出してください。
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東京都立戸山高校新聞 昭和二七年五月
人生六十年 三年のびた壽命
生物班研究班 船曳孝彦
「人生わずかに五〇年」という言葉があるが、これからは「人生わずかに六〇年」と改めなくてはならなくなった。
二六年(一~十二月)の日本の人口動態を見ると、出生、死亡ともに減少の傾向があり、同年中の人口増加は一,三一四,五一六人で、約秋田県、京都、姫路両市の人口だけ増加したことになる(厚生省統計調査部)
先ず出生についてはその数二,一五七,四一四人で、二五年のそれより二〇萬人少なく、これはこの統計の始められた明治三三年以来の最低記録で、出生率は千人につき二五・六人、昭和一四年の二六・六人より少ない。 さて死亡の方は、八四二,八九八人で二五年よりも6萬六千人の減少。死亡率も千人につき一〇・〇人とほぼアメリカ並みで、これも始まって以来の最低記録であり、昭和一一年の一七・五人に比べ相当少なくなっている。
これらのため平均壽命がのび、男六〇・八(五八歳)女六四・八(六一歳)歳となり、大体平均三年のびている(カッコ内は二五年)。この壽命を各国に比べると、イギリス(一九三七年)デンマーク(一九三六~四〇年)の上ではあるが、これら両国は一五年前に既にこの域に達していたことは、まだまだ日本が西欧諸国に比して、この方面で非常に遅れていることを意味している。しかも昨年あたりは戦争による死亡が直接的にも間接的にも最も少なかった年であることを考え、絶対数字のみに拘って考えないようにしなくてはならない。
このように死亡率が減った原因は一つには前述の戦争の影響の多少もあるが、もう一つの理由に結核の死亡が激減していることがある。これはストマイ等の各薬品の普及によるものと見られ、近頃話題の新薬イソニコチン酸ヒドラジドも実験の段階にあり、前途は明るい。結核死亡者は明治四二年以降毎年一〇萬台で、これを割ることが懸案であったが、ついに九三,六五四人となり、昭和一四年の一五萬三千余人、即ち人口1萬に対して二一・二人の比率が一一・一と半減し日本結核史上特記すべきものである。更に今まで関心の対象であった二〇~二四歳の青年男女層の結核死亡率が二五年に比較して三五%も低下していることは特筆すべき事柄である。しかし、ここで我々が注意しなければならないのは、結核死亡者が減ったことは、結核に感染するものが減ったことを意味しないということである。「大学受験」も健康を除いては意味ない。我々はこれから結核の一番危ない所に入って行くのである。しかし、数字の上からいうと西欧諸国に劣るとしても、結核国の汚名を返上しつつあることは明らかで、一日も早く完全に返上することを心から念願する。
又その他の死亡原因を見ると死産が増加しており、赤痢、ハシカ、交通事故などによるものが多くなっている。交通事故防止は六三型にのらず、飛行機に乘らないこと(?)。そこで全体として死亡者と年齢とはどんな関係にあるだろうか。ほぼ満一〇歳に至るまでに死亡者数は年々急激に減少し、満一〇歳頃には最も少なくなり、その後は又増えだし、満七〇歳~八〇歳が最も多くなり、その後再び少なくなって行くことが多くの国で一般的な傾向として認められている。又、他の生物と比較してみると、クマ(五〇年)ハト(五〇年)ラクダ(五〇~六〇年)と人間とはほぼ同じ位の壽命を持つものでも、「クマ生六〇年」「ハト生六〇年」となるはずはなく、寿命を人為的にどんどん延ばして行くのが人間の特徴である。もっとも他の生物と比較するにあたっては百分壽命といって、その最高寿命を百とし、全体を百等分し夫々の種類において死亡数がどのように分布しているかを以って比較するのであるが、それを用いても共に壽命が延びて行くことはないだろう(たとえ延びても微々たるもので比較にならない)。そこで我々が長く生きることは、もう既に死亡原因の大きな一つである早産、死産も過ぎたし、ハシカの心配もなく、老衰はいたし方ないとするならばまず病魔の予防を怠らないようにすると共に自殺などもしないことである。(筆者は本校生物班班長)
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高校生として学んだ時から、実に71年という月日が流れています。そこで、当時と現代の統計資料を検索し、比較し直してみました。71年前の事情を振り返る機会を得たことはラッキーでしたし、戦後を知らない世代の人たちにも参考にしていただけたら幸いです
先ず、小論文で寿命が60年となったことがニュースであることに今昔の感があります。現在の男性81.5歳、女性87.6歳と比べると20年以上の差があり、当時では思いもしなかった差と思います。
出生率は1000人当たり25.6人と低下したとしており、ベビーブームと言われた世代の終わりでしょうが、現代の1000人当たり0.6人とは2桁も違い、一方の死亡率も1000人当たり10人(アメリカ並みとなったと喜んでいます)と、現在の0.13人とは、やはり2桁違っています。
総人口は8,457万人(小論文中には出てこない)から、今は1億2450万人とほぼ5割増しになっていますが、当時の秋田県の人口が130万人、京都市・姫路市合わせて130万人というのにも驚きます。日本で3番目の大都市京都が百万都市になるかどうかの境目だったとはこれも驚きです。
現在人口減少が始まり、加速しつつあります。少子化傾向が問題となっていますが、このままの傾向が続けば、22世紀を迎えるころは日本の人口は6千万となり、大げさではなくやがて滅亡に至ります。小手先の補助金などでなく、高齢化社会の問題とともに、人口動態の推移を分析した上で真剣に対策を立てる必要があります。
当時の死亡率を低下させた原因について、まだ戦後間もない時期であり、戦争関連死者の影響が小さくなり、新しい情報として入ってきた西欧諸国の文明に驚いている時代でした。
まず結核死亡、特に青年層での減少を挙げています。抗結核剤の出現以前は結核イコール死と見做されていました。実はすぐ後からペニシリンなどの一般抗生剤が普及したことも大きく貢献したのですが、感染症の世界は全く様変わりしました。抗結核剤も一般抗生剤も一切なかった戦前に脊椎カリエス(結核菌に合併して混合感染)を患った私自身はよく生き残れたものだと思います。現在結核による死亡は激減し、抵抗力の低下した老人の病となっています。結核国の汚名が除かれたことは喜ばしいことでした。
そして感染症学は今回の新型コロナウィルスのような次から次にと発見されるウィルスの時代となってきています。
他の死因について、死産、赤痢、ハシカが出ていることも当時を反映しています。当時はどこにでもある感染症だった赤痢は、この5年後に私自身が合宿での集団赤痢に遭遇し、医学生だった私も病院との間で奔走した思い出がありますが、最近耳にすることもなくなりました。また、交通事故死が問題なりつつあった頃でもありました。
あれから70年以上経過し、日本社会の問題点は、特に医学医療面でも、次々と変遷して参りました。今から考えると、当時の医療は寂しい限りで、肝臓がんや食道がんは手術療法が世に出ておらず、手術しても患者さんの大部分は死んでしまった時代です。今は遺伝子が実際の患者さん診断に使われるとか、内視鏡で手術するとか、しかもロボット技術迄応用されるなど、当時は夢物語ですら出てこなかった進歩です。医学・医療に身を投じた者として、その後に日本は世界一流のレベルを走ったという自負があります。それなのにコロナ対策で迷走を繰り返したことなど、20年、特にこの10年は医療、医学の面で、特に学術面、行政面で後退していることも事実です。
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(41 齋藤孝)お知らせ、ありがとうございます。米寿を過ぎてもスキーで御活躍とのこと敬服いたします。それから名門『松中』で開催された学園祭に出席されたというお話。カメも同じく名門、松中の出身ですから誠に嬉しいです。KWVの同窓には同期の金子和義がいます。同期の文集から抜粋します。
金子君は自民党所属衆議院議員だった。選挙区は岐阜県高山地区。金子君の父親も国会議員。金子君は大臣にもなった。国会で答弁を行った時、それをテレビで見たことがある。面白かったことは、テレビ中継で金子君が議員席で退屈そうに何やらノートに落書き絵を描いていた。これが大臣としてあるまじき行為としてメディアで問題になった。金子君は髪の毛も豊かで顔は歌舞伎役者のようであった。残念ながら大臣としてはあまり実績を残していない。
実は金子君とカメとは中学が同窓なのである。1955年、カメは富山から世田谷区の松沢中学に転校した。カメはそれまで5年間、富山市で母親の実家に預けられていた。1950年に新潟市で父親が亡くなり、母親が単身働く必要が あったからだ。金子君は父親が岐阜高山選出の国会議員であったこともあり、世田谷区赤堤に別宅があった。その関係で金子君は松沢中学に入学する。ところで松沢中学の同窓会会長に船曳孝彦さんが就任されたこともある。あのKWV先輩のドテさんだ。