キミは 長いお別れ を読んだか ?   ハードボイルドミステリへのお誘い

シャーロックホームズものは大英帝国絶頂期の社会を背景にしているが、英国発推理小説はその基盤である階級社会、その中の知識階級の読者を意識して書かれた、知的ゲームだった。ただホームズの成功によってこのジャンルが大衆化してくると、推理というゲームを追求するあまりストーリーが現実離れしていく風潮への反抗からより現実的な作風が生まれる。名探偵の神業よりも、現実の社会のいわば普通の人間の行動を重視したストーリーである。それが米国に伝わると英国とは違った、オープンな米国の社会観や人間像の下で、純粋な推理よりも現実社会の中での行動を前面に出した作品が生まれた。推理小説という一応確立されたジャンルのなかで、従来の潮流と区分するためにこれらの作品にハードボイルドミステリ、という呼称がつけられた。ハードボイルド(以下HB)、とはなにか、をウイキペディアは次の通り定義する。

ハードボイルドは、文芸用語としては、暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体をいう。ミステリの分野のうち、従来あった思索型の探偵に対して、行動的でハードボイルドな性格の探偵を登場させ、そういった探偵役の行動を描くことを主眼とした作風を表す用語として定着した。

HBを定義している文章にHBな性格、という解説があること自体おかしいので、小生の考える定義を書いてみる。それは ”人生に対する確固たる信念を持ち、いかなる環境でも曲げない“ こと、同時に(その結果だが)”一度信じた人間にはストイックに信義を尽くす” ことを ”環境や社会常識を超えて、必要ならば暴力を用いても実行する” ことを重要と考える性格、ということなのだがどうだろうか。だから、僕はHBミステリは犯人を確定するだけではなく、この信念を吐露したストーリーであるべきだと思っていて、それが僕がこのジャンルを好む理由でもある。例えば、先に本稿で紹介した 深夜プラスワン のキャントンは、一緒に戦ったガンマンが知り合った女性と恋に落ちたと知り、彼女が拳銃稼業になやむことのないようにと彼の利き腕に銃弾をぶち込んでしまう。この終末が、おそらく辛口の評論家内藤陳をして、”これぞHB” と興奮させたのではないだろうか。

ただ、HBの定義変数に入ってくるHB的文体、というのは厄介で、何をもってそういうのかが確定できない。識者のあいだではヘミングウエイの文体がそうだというのだが、そうなると英語以外で書かれたり英語からの翻訳されたものはどう評価するのか。ここでは翻訳の重要性というか訳者の個性なり感性が読者にどう響くか、が問われてくる。一時、だいぶ読み込んだ北方謙三は、自身をHB作家、と位置付けたいのではないかと思えるのだが、その文章に苦労したあとが感じられた。短い節や体言止め、と言った独特の書き方である(弔鐘はるかなり さらば荒野 など)。これが英語の世界でのヘミングウエイ調になるのかどうか、素人の小生に判断できるわけはないのだが、正直言うと違和感というか押し付け感が先だったのは否めない。ただ、この さらば荒野にはじまり ふたたびの荒野 で終わるブラディドールシリーズ)は北方特有の衒学趣味が多少鼻につくが、すぐれた国産HBだと思っている。

詳細はともかく、HBミステリ(ミステリ、と限定するのは “行動的でHB的な人物を描く”というテーマはほかの分野でも従来から取り上げられてきたものだからだ)の創始者はダシール・ハメットだということになっているのでそこから話を始めてみる。

ハメットの代表作品は 血の収穫 マルタの鷹 ガラスの鍵 などで、マルタの鷹はハンフリー・ボガートの主演で映画化され、我が国でも好評を博した。このハメットを継いだのがレイモンド・チャンドラであり、その後継者とされるのがロス・マクドナルドであるとされ、ハメット―チャンドラーーマクドナルドスクール、などと言うこともある。事実、日本でのHB創始者とされている大藪春彦のデビュー作 野獣死すべし では主人公伊達邦彦が奪った大金でアメリカへわたってこの3人の研究をすることになっている。

(注:この表題の作品は英国のニコラス・ブレイク=桂冠詩人セシル・ルイスの本格派ミステリにもある。なお、小生は金儲けの戦略はいざ知らず、大藪がHB小説家などとは全く評価していない)。

この”スクール”だが、書かれた作品群を時代的に見ればハメットが米国の興隆期を、チャンドラが第二次大戦時の時期を、マクドナルドは現代のいわば病めるアメリカをそれぞれの作品の背景にしていることになり、その影響は作品にもはっきり表れていると言える。

チャンドラの代表作が本稿のタイトルにした 長いお別れ であり、初期の作品である 大いなる眠り とともによく知られている。彼7冊の長編と数多くの短編を書いたほか、映画の編集にも携わっている。小生は長編は全部読んでいるが、なかでは さらば愛しき女よ(違う翻訳名もある。原題は Farewell my lovely)が特に好きだし 高い窓 プレイバック なんかも推理一辺倒を離れて小説としても優れていると思う。いくつかの作品は映画化されているが、ロバート・ミッチャムとシャーロット・ランプリング主演の さらば愛しき女よ や、大いなる眠り のほうはやはりミッチャムもののほか、ボガートとローレン・バコール共演で 三つ数えろ というタイトルで作られた(ほかにもロバート・ミッチャム主演のものもあって、これは本来の名前になっている)。 肝心の 長いお別れ のほうはエリオット・グールドの主演という、小生からすれば全くのミスキャストのうえ妙な改造がしてあって、評価に値しない駄作としか思えない代物であった。

 さて、本題の 長いお別れ をとにかくお勧めする理由は、ミステリとしてのストーリーよりも作品全体の持つ雰囲気がしっとりと心に響くからである(ミステリというカテゴリを外れても、現代の英語文学としても高く評価されている)。前述したようにHBの決定要素のひとつが文体、という事なので、原作はともかく、日本語訳がどこまでその雰囲気を伝えているかが重要なことだ。今まで出ていたのは清水俊二訳と村上春樹訳の2冊で、最近田口俊樹訳が出たという事だが、これはまだ読んでいない。例によってグーグルに出ている識者の評価では、翻訳の正確さでは村上だが、清水訳は “清俊節” とも言われるとおりファンも多いという事だ。小生は原作も一応読み、悪乗りしてドイツ語版にも挑戦してみたが1日2ページを何とか判読するのがせいぜいで、結局原本を引っ張り出して英独対訳でほぼ半年かけてなんとか読了するのが限界だった。村上訳も期待を持って読んだが、結果を言えば小生は圧倒的な清俊節ファンなようだ。繰り返すが、清水訳の長いお別れ、は死ぬまでに絶対読む本、のリストに載ってしかるべき作品である、と僕は信じている。

世の中には専門家を含めてチャンドラにかぶれている人は沢山いるようだ。スペンサーシリーズで有名なロバート・パーカーはチャンドラの未完の遺作を完成させて プードルスプリングズ物語 という名前で世に問うた(これをいれるとチャンドラの長編は8冊になる)。”ギムレットには早すぎる” というタイトルでチャンドラ名言集を編集したのは郷原宏氏である。同氏はこの本の前書きとして、次のように書いている。ギムレットは 長いお別れ のなかで重要な役割を果たすカクテルである(僕はジントニックのほうが好きだが)。

”ミステリーを教養書として読むような野暮な人と私は友達になりたくない…….さりとて私は。ミステリ―を読んで何も感じないような鈍感な人と、ともに人生を語ろうとは思わない。”

この本はよく知られている一句を紹介するとことから始まる。チャンドラの7作目、プレイバック の一節である。

……”あなたのようにしっかりした人が、どうしてそんなにやさしくなれるの?” 彼女は信じられないように言った。

しっかりしていなかったら生きていけない。優しくなれなかったら、生きている資格がない”  

 

ところがチャンドラの後継者、ロス・マクドナルドの作風は全く違っていて、一言で言えば重苦しく、作品によってはあとあとまで考え込んでしまうものも多い。初期の代表作 動く標的 はその中では気軽に読めるし、映画のほうは主演が何といってもポール・ニューマンとローレン・バコール、脇にはシェリー・ウインタースという豪華版で楽しめる仕上がりだった。この作品は別として、ほかの代表作としては 縞馬模様の霊柩車 象牙色の嘲笑 人の死にゆく道 さむけ ウイチャリ―家の女 などがあるが、いずれも舞台は北カリフォルニア(チャンドラーは映画に関連した関係もあった南カリフォルニアが多い)の上流階級の間での確執や心理といったテーマが多く、チャンドラーに見るような開放感は皆無の作品がほとんどであるが、これはマクドナルドが生きた時代が、すでに米国がかつての栄光を失い、支配層であるべき人たちの間に心理的な混乱が生じ始めた時期だからであろう。

ほかにもHBを標榜する作品はミステリだけでなく(たとえばHB時代劇、なんてのもあった)お目にかかるが、多くはウイキペディアの定義の前半、つまり暴力行為の描写が主題で、主人公の心のうつろいを感じさせる作品はあまりないように思っているし、ミステリ、ではなく冒険小説とか警察小説、と分類すべきものばかりなような気がする。その中で、以前本稿でも取り上げたが、日本でいえば原尞(はら りょう)の作品は素晴らしい。惜しむらくは寡作なひとなので、次作があらわれるのを心待ちにしている。

最近のアメリカ発のものならば、僕の好みは 氷の闇を越えて でデビューしたスティーヴ・ハミルトンと、雰囲気が素晴らしい(残念ながら寡作で翻訳も今はアマゾンの中古に頼るしかない) ジョン・サンドロリー二の 愛しき女に最後の一杯を という2冊になる。そのほか、ずいぶんアマゾンにはご厄介になったが、残念ながらここで定義した、いわばホンモノのHBミステリ、ぼくが読んだ範囲ではロス・マクドナルドを越える作家にはあまり巡り合っていない気がするのが残念だ。

(菅原)大藪 春彦がダメなら、ミッキー・スピレインもダメか。

確かに、スピレインに煽情的な部分はあった(初作:1947年)。しかし、これはその先駆者であったがためであり、今は、例えば、D.ウインズローの「犬の力」(2009年)などは、その描写がもっともっとエゲツナイ。Commies(共産主義者)なんて表現は、まだ鮮明に覚えている。それにしても、スピレインから80年近く経って、コミーは何も変わっていない(特に、日本共産党)。スゴイねー。

閑話休題。と言うわけで、小生、ハードボイルドをハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドなどだけに閉じ込めておくことには違和感がある。評論家であり、小説家でもある片岡義男は、ハードボイルドについて、二つあり、一つは、上記3人のリアリズムであり、もう一つは、スピレインのファンタジーだと言ったそうだが、これも、大いに一理ある。何もスピレインを抹殺しちゃうことはないんじゃないか。