胸に応えた一句のこと

自分は子供時代から本好きで、今でもその傾向は変わっていない。中学3年ころから高校時代は世界文学名作集、などをわからないままにただ読み漁った。そのころにはなぜなのか考えてもみなかったし、昔から名作というんだから読んだ方がいいんだろうくらいの感覚だった。ましてその著者がノーベル賞を受賞した人だ、などとなれば無条件で名作なのだと単純に信じ、だから教養として読んでおかなければならない、と単純に判断していた。

しかし年を重ねるにしたがって、そのノーベル文学賞というやつに疑問を持つようになった。自然科学とか社会活動等であればだれにでも納得できるクライテリアがあるが、文学、となるとそのあたりは何を基準にするのだろうか、という疑問である。

日本の文学界には多くの才能のある人がいるだろうし、その作品に共鳴できるかできないかは自分の感覚で納得できる、これはあくまで、自国語で書かれていて、それを読んだときに受ける感動なり共鳴なりが書いた人と同じ文化的背景をもつからこそのものだろう。どこかで書いた記憶があるが、たとえば 英語で言えば blue  という意味を持つフレーズがあるとしよう。これをある人は 青い と書き、ほかの人は 蒼い という文字を選び、ほかの人は碧い と、あるいはただ あおい と表記するかもしれない。アルファベットだけでなく表意文字になれている日本人にはこの4つの訳が表そうとしている背景なりシチュエーションを区別することは難しくないが、この違いを多国語に書き換えるときにはその翻訳者がどういう意味としてとらえるかが、翻訳者の能力であり原作品をどれだけ原著者の感覚でとらえられるのか、によって、外国語しか解しない人がその結果をどう解釈するか、が変わるだろう。これは何も日本語―英語だけの問題ではなく、およそ外国文学を読む人間すべてにあてはまるはずだ。そういう中、”世界に認められる作品” をどうやって判断するのだろうか、という素朴な疑問である。

小説とかエッセイという分野であれば、単なる翻訳上のいわばテクニックから生じる結果のほかに、その構成だとか時代背景との関連だとか著者の持つ主義主張だとかいうものが複雑に絡み合うから、その結果としての価値が判断される、ということは理解できる。では詩はどうか。詩はあくまで感覚に訴える部分がメインであるから、外国語の詩がもたらす感動がその言語で書いた人間のそれをどれだけ、どのように伝えるのか、途方もなく難しいのではないか、と思うのだ。例えば誰でも知っている有名な詞の和訳で、”ヴィオロンの ため息の” が  ”バイオリンを 弾く音の” とでもなっていたら(フランス語を知らないのでこの例が正しいのかどうかは知らないが)結果としてこの詩は日本人にはどう響くだろうか。この例の様な長い詩であれば、ほかにもいろいろなファクターがあるが、日本文化のいわば骨頂にあたる感覚を競う俳句はどうだろうか。

小生の義母は早くから俳句に親しみ、句集を出したくらいのひとで、小生にも俳句を始めさせようといろいろ勧めてくれたものだが、残念ながら興味はわかなかったし、最近のテレビ番組の影響もあって俳句論議も盛んであるがもうひとつ乗り切れないところがある。おもい出してみると俳句、というものを初めて知ったのは小学校4年くらいの時だった。学校で出していた文集にある女の子の句が紹介されて、これはとてもすばらしい、と先生たちが喜んだ句をどういうものか鮮明に覚えている。

ポケットに 手を入れてふむ 初氷

というのだ。戦後まもなく、防寒着もお粗末なうえに東京でも冬は寒かったし、母親の頑固なしつけで真冬も半ズボンだったから、この句の持つ感覚が何かに共鳴したのだろう。その後、申し訳ないが俳句の世界とは無縁のまま来たのだが、今朝、新聞に高名な人の作品だと紹介されていた一句が最初の感動から半世紀を超えた時点で僕の心につきさった。

さびしさは 散る花よりも 残る花

たてつづけに親友が帰天してしまって、いつか来るとは理解していてもなお耐えるしかない寂寥感の中にある自分の心に応えた一句だった。これが芸術というものの力なのだろうか。

(小川)「さびしさは散る花よりも残る花」    痛感している毎日です。東海支部の忘年会、3日土曜夜に三年ぶりに開催されました。参加18名、34年キューピーが京都から、43年酒井夫妻が茅ケ崎から来てくれ、若手も4人、38年ラゲがコロナ恐れて欠席、代わりに地元有松絞の38年竹田が出席、最長老出席も今年を最後にしたいと思っております。  オジイや大崎が亡くなり俳句が身に染みております。

(保屋野)掲題、興味深く拝見いたしました。俳句「さびしさは散る花よりも残る花」・・・心に染みる一句ですね。この句は「散る桜残る桜も散る桜」(良寛)を想起させますが、人の寿命は誰が決めるのでしょうか。

(船津)
死支度致せ致せと桜哉/一茶
死下手と又も見られん桜花/一茶
業平も死前ちかししぶ団扇/一茶

昨日こそ君はありしか 思わぬに浜松が上の雲にたなびく
今よりは秋風へさむく吹きなむを 如何にか独り長き夜を寝む

言われるとその時に向かって日々進んでいるる気になってしまいますね。元気だそう!人生100時代。これからだ我が青春!

(下村)そういえば昔「俳句第二芸術論争」というのがありましたね。

私も俳句ほど選者によって評価の異なる芸術はないと思っています。小説でも絵画でも音楽でも同じような気候風土、歴史的・文化的背景を共有している人(民族)の間では、鑑賞する人によって評価にそう大きな差は出ないでしょうが、俳句のような17音の作品の巧拙を評価することは非常に難しいと思います。事実、夏井先生も生徒の作品を評価するに当たって、「先生によってはこの言葉を嫌う先生もいらっしゃいますが、云々・・・」と、評価者によって尺度が異なることを認めていらっしゃいますね。

「古池や蛙飛びこむ水の音」、「静かさや岩にしみいる蝉の声」など、熱帯地方や寒帯地方、砂漠のような乾燥地帯に住む人々にはいくら想像を逞しくしてもらっても到底理解できるものではないでしょうね。

(保屋野)確かに俳句はは不思議な芸術ですね。「古池や・・」も私が投稿したら、間違いなくボツでしょう。我々が知る俳句は、芭蕉、一茶、蕪村・・・せいぜい子規までで、例えば近代俳句の巨人といわれる高浜虚子ですらその俳句はほとんど知られていません。下記代表作、皆さん聞いたことがありますか。

「桐一葉日当たりながら落ちにけり」「遠山に日の当たりたる枯野かな」

山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」も有名な句ですが、・・これって俳句?