寅年の終わりは一つ、陽気にどうです?  (普通部OB 船津於菟彦)

堅いこと抜きにして年末愉しく「とらとら」ってどんなお座敷遊び?」かご存じ、やったこと無いので????

とらとらの歌詞

千里走るよな藪(やぶ)※1の中を

皆さん覗いてごろうじませ※2

金の鉢巻きタスキ

和藤内※3がえんやらや※4と

捕らえし獣(けだもの)は

とらとーら とーらとら

とらとーら とーらとら

とらとーら とーらとら

 

歌詞の注釈

※1:千里とは約4,000㎞を指します。つまり、千里ほどの広さがある広大な藪を意味します。

※2:「ごろうじませ」とは、「だまされたと思って」を意味します。ついては、「覗いてごろうじませ」は、「だまされたと思って、覗いてみてください」と解釈できます。

※3:中国・明時代の政治家である鄭成功をモデルとした近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」の主人公の名前です。 「和藤内」という名前の由来は、主人公は中国人を父に、日本人を母に持つため、「和(日本)でも唐(中国)でも内(ない)」という洒落から来ていると言われています。

※4:重い物を押したり引いたりするときのかけごえで、昔から使われてきました。現代ふうに言い換えると、「よいしょ」や「うりゃー」、「おりゃー」といった表現になります。

近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」から誕生した拳遊び、つまりジェスチャー表現を使用したジャンケンです。因みに中国・厦門のコロンス島の海際に巨大な鄭成功の像がありますね!観に行きました。

ジェスチャーの決まりは、和藤内なら槍で突くポーズ、虎なら四つん這いのポーズ、おばあさん(老母)なら杖をつくポーズです。ジャンケンで言うなら、和藤内がグー、虎がチョキ、おばあさんがパーです。つまり、和藤内は虎に勝ち、虎はおばあさんに勝ち、おばあさんは和藤内に勝つというルールです。 受けそうですね。ホイホイとらとら🎶
下のYouTubeで——。

https://www.youtube.com/watch?v=WtDg7apfmsI

まぁ笑いながら良い年越しを。

(エーガ愛好会はこれでなくちゃね)

 

 

(承前) ”キルギスの小母さん” 論議・追記   (大学時代クラスメート 児井正義)

「キルギスお母さん」につきましてはボスは基より、メンバー各位並びに級友飯田君の刮目に値する論議に夫々の随所に同意を覚えながら、大変興味深く拝読しました。つぃては小生にとって楽しみな教養番組の一つであるNHK・Eテレ2チャンネルで毎週月曜日に放映の「100分で名著」で「資本論」を学びました。(講師は大阪市立大学経済学部斎藤幸平准教授) これはマルクスが当時(1867年)人々の暮らしを激変させていた「資本主義」のメカニズムを徹底的に解析し、その矛盾や限界を明らかにした名著です。彼の慧眼と時世に応じた対策に改めて敬意を表する次第です。

価値法則、剰余価値の生産と分配に基いて資本家・賃金労働者・土地所有者の三大階級の敵対関係の相克が進み、マルクスが警告した現在の資本主義の限界が謳われる中、「キルギスのお母さん」の訴えこそ、国家、体制、階級、職業、ジェエンダの如何を問わず、虐げられた人々に共通の悲痛な叫びと言えましょう。

 そこで世界に冠たる有能、勤勉で底力のある、美しい我が国(と思いたい)にとって、変わり行く未来に向けて、如何なる対策を講ずるべきでしょうか?  受け売りですが、過って故梶山静六代議士が「政治の要諦は如何に民の食い扶持を確保するかにある」と語った由。解釈するに、国民全員が夫々持つ能力を発揮し、多彩な資源を活用しながら、食料を始め生活必需品を確保することを筆頭に「SDGS」18項目に果敢に取り組み達成するなど世界に範たる豊かな大国に成長し、世界平和に貢献して行くことにあると思います。

(編集子)数多い我が学友の中にあって、一頭地を抜く勉強家だった男の議論を改めて読ませてもらった。多謝。なお、本稿は キルギスお母さん、となっていたが継続性のこともあり、原文の ”小母さん” に訂正させてもらった。不悪。

(安田)戦後80年間近く戦争に関与することなく平和を享受できた国家運営を誇りにしつつも、バブル崩壊以降の政治・経済劣化で、国家としての後進国化が著しいと感じて来ました。マイカード普及停滞・年金データ混乱・メガバンクみずほの不手際などに象徴されるデジタル化が周回どころか、2-3周遅れの感があり愕然としたり、大学の世界ランク、電気業界の退化、自動車産業のEV遅れ、雇用の非正規化、外国人労働者の扱い等々、あらゆる分野で世界に取り残される兆候が見えて、そのツケは我々の世代ではなく、後の孫子の代に残されるので暗澹たる気分、それでも巷は コロナ感染者数は驚くほど少なく新年に向けて買い物客で大賑わい。世界基準で観れば、これを  幸せな社会 というのでしょうね。

漢詩ぶらぶらー白髪三千丈    (36 坂野純一)

3月にここ10年ほど高校の友人との文通の中でまとめた「漢詩ぶらぶら」という 中国詩の上古から唐代末までの漢詩を本にして見ました。
その後、長編詩、李白の「古風」の原詩、読みくだし、邦訳をパソコンに
打ち込んでいましたが、最近 葛飾北斎の挿絵を付けた「唐詩選」を見つけ
現在 入力中です。原詩、読みくだし、邦訳は終わったのですが、その後
識者の解説、自分の感想をつけるとなるといつ出来上がるか見当がつきません。
折角の機会ですから二首ほど紹介します。(原詩と読みくだしのみ

張九齢「照鏡見白髪」
宿昔青雲志      宿昔 青雲の志
蹉陀白髪年      蹉跎たり 白髪の年
誰知明鏡裏      誰か知らん 明鏡の裏
形影自相憐      形影自ずから相憐れまんとは


李白 「秋浦の歌」
白髪三千丈      白髪 三千丈
縁愁似箇 長     愁に緣りて 箇の似く長し
不知明鏡裏      知らず 明鏡の裏
何處得秋霜      何れの処にか 秋霜を得たる

どちらも五言絶句のかたちです。

なぜこんな句を選んだかといいますと
毎朝 洗顔時に鏡を見ると日毎に皺が増え、髪が少なくなって行くのが
なさけなく、歳をとったなということを実感するからです。 俺達、私達はそうではないと言われることも信じても居ます。

エーガ愛好会 (108) “シマロン”    34 小泉幾多郎

オクラホマ州、1889年に号砲一発で、幌馬車隊が一斉にスタート、早い者勝ちで土地が取得出来たランドラン(土地獲得競争)から25年に亘る開拓者の物語。

映画化された「サラトガ本線」「ジャイアンツ」等エドナ・ファーバーの原作の一大叙事詩を1960年アンソニー・マンが監督した。実は1931年製作「シマロン」のリメイク。これが西部劇で最初のアカデミー作品賞で、その後60年ぶりでの「ダンス・ウイズ・ウルブス」受賞迄なかったのだ。西部劇らしからぬ開拓の歴史という時代の変化の中に、単なる男の英雄譚でない当時の偏見や女性の社会進出を描き出していると言ったことが評価されたのではなかろうか。アンソニー・マン監督は、リメイク版に於いても単なる西部劇とは一線を画し、街が発展する様が時代の変革と共に絶妙に組み込まれ、先住民に対する配慮、例えば先住民の子供が学校に通学することへの拒否反応、先住民の土地の略奪への批判など、西部は女が作ったと言わんばかりの女性への讃歌が感じられる。

アンソニー・マン監督は、プロデューサーのエドモンド・グレインジャーと激しい口論となり、撮影途中でプロジェクトを離れ、チャールズ・ウオルターズ監督が完成させたが、スクリーンクレジットは与えられなかった。(Asianprofile.wikiより)一大叙事詩の開幕らしく、ロジャー・ワーグナー合唱団による勇壮なる主題歌で始まる。主演は、夫ヤンシーをグレン・フォードと妻セイブラをマリア・シェル。幌馬車隊をはじめとするランドランの迫力はなかなかのもの。…アリゾナで撮影、1000人のエキストラ、700頭の馬、500台のワゴンとバギーが登場(Asianprofile.wikiより)。ランドランでは、ヤンシーは、元恋人だったディクシー・リー(アン・バクスター)に邪魔され土地獲得できず、馬車を破壊されて死んだ新聞社ウイグアム紙創刊者サム・ペグラー(ロバート・キース)の後を継ぎ編集長となる。しかし落ち着いて仕事に専念することの出来ないヤンシーは、新しい土地競争に加わったり、米西戦争に参加し、キューバ義勇騎兵隊に加入したりで、5年間留守にする。その間妻セイブラは家を、新聞社を守り、息子も生まれる。英雄として帰ったヤンシーはその後も家に落ち着かないものの、各地で油田が見付かり、先住民との問題が起きたりしている中、ヤンシーの功績を評価することから、知事に推薦されることになる。しかし推薦委員会の意図に不純なものを感じたヤンシーはセイブラの意向も無視して断ってしまう。セイブラと断絶したヤンシーとは音信不通、息子は先住民の娘と結婚、家を出てしまう。その間、セイブラは、ウイグアム新聞社の維持拡大を成し遂げ、創刊25周年を迎える。子息夫妻孫2人、開拓民等苦労した関係者の祝福の中、セイブラは何処にいるかわからないヤンシーに感謝のスピーチをするのだった。

やがて第一次大戦がはじまり、再び戦いに身を投じたことを知らせる便りがセイブラに届くが、同時に戦死の報告も届いた。片や正義感は強いが、世渡りの上手くない夫、やりたいように生きた男に対し、家庭生活を守るために最後まで耐えての人生を歩んだ女性。夫々が薔薇色とまでは行かないまでも、波乱万丈に生きた一組の夫婦、語るに足る人生の物語だ。

蛇足:題名のシマロンはヤンシーとその子息が同じシマロンと愛称で呼ばれているが、本来はスペイン語で、野生化した家畜、16世紀後半からは黒人逃亡奴隷を指すとwiki.にありますが、それが愛称とは、納得できないでいます

(承前)”キルギスの小母さん” 論議に   (大学クラスメート 飯田武昭) 

諸氏の見解を拝読し、小生の思う所を少し述べる。

共産主義の思想的原点はカール・マルクス著「資本論」(Das Kapital)とマルクス・レーニン共著「共産党宣言」(Manifest der Kommunistischen Parteiであろうが、少なくとも小生は「資本論」の全文を学生当時に読んだ記憶では経済学的書物であり、それほどに共産主義という印象は無かった。その後に政治体制を共産化したソ連邦と東欧の社会主義国、中華人民共和国、キューバ等での専制主義によって、共産主義のイメージが植え付けられたと思っている。

多くの社会主義体制の国々(共産主義との言葉使いの使い分けはこの際避けて)は、私の体験と理解では、近年までは明らかに経済発展が民主主義体制の国々より、経済的な発展が遅れてしまっていた。統一前の東西ドイツ(因みに小生は分裂時代の西ドイツに仕事で5年間滞在していた)、ソ連邦時代の東欧諸国、近年までの中国など。

ところが、近年は中国が急速に経済的発展を遂げ、民衆の生活レベルは刮目に値する勢いで近代化し便利になったし、4年前にロシアに2週間旅行した限りの印象では、サンクトペテルブルグ、モスクワ近郊の庶民の生活が、想像以上に便利で生活レベルが上がっている感じがした。つまり、民主主義か強権かという政治体制は民衆が感じなければ、殆ど関係がないのかと私は思うし、むしろ、ややこしく政治に関与しなくても、それで満足する民衆であれば、その方が良いのだろうと思う点も多い。

今の日本が問題なのは、最近だれが作ったフレーズか知らないが“沈みゆく中流“という、これが本当であれば(そんな気がするが・・)、我々の後の世代頃から、民衆(中流を主にした民衆)が、それこそ、普通の生活を取り戻したいと政治活動に現を抜かす時代になってしまうのではないか?という危惧がある。

“キルギスの小母さんについて“ に投稿された諸氏は “沈みゆく中流“ 以上にあるわけだから、体感的に分からない点があるかも知れない(自戒を込めて)。

(編集子)現在の我が国の状況について、いろいろと批判や自戒や政治論議やがあふれているのは承知するし、それなりに合点がいくことも多い。飯田君がいうように本稿で論議をしている仲間内は自分がどう思うかは別として、我が国のアパーミドル、一昔前の懐かしい表現でいえばプチブルであることは間違いない。だからこのキルギスの小母さんの真意は表面には理解したとしてもそれ以上に踏み込むことは実際問題として不可能だ。彼らから見れば、日本という国は豊かであり、平和であり、うらやむべき存在だろう。その国はどうやってできたのか。世界に誇る大政治家がいたからか。大学者がいたからか。

小生の(ひねた観察であることは承知)思うところは、大戦の元凶であり世界の厄介者であり時とすれば同じ位置にあるべきドイツと比較されてはその無策さをあざわれてきたこの国が、だれが何と言おうが歴史に残る事実として80年の間若者の一人として失わずにここまできた、はたまた、犬を連れて散歩に行く人はごみ袋を持ち歩き街路を決して汚さない、屋外に自転車を置いておいても盗まれる不安も感じない、小学生の女の子が夜ひとりで塾から帰ってこれる、個人の自由を束縛するからマスクをしないなどという青くさい論議よりも社会全体のために不満はあっても一度決まれば律義に政策を支持する、そういう社会を築き上げたのが、識者のいう二流三流の政治だったのではないか、ということにある。政治は結果である、ということ、そしてそれを実現したのは現実味のない世界観や壮大な理論よりも、日本人、を支えてきた文化であり、その根本にある倫理観なのだ、ということなのだが。

(承前) ”キルギスの小母さん”  についての甲論乙駁-さらなる論戦を期待

(36 菅原)キルギスの状況については、小生、全く知りません。ですが、前後の文脈は分かりませんが、「強権か民主かは私にはわからない。生活を改善してくれる指導者が必要だ」を一般化すると、これにピタリと当て嵌まるのは中華人民共和国の指導者です、毛沢東から始まって習近平まで。生活水準はべら棒に向上しています。その一方、デストピアに向かってまっしぐら。いや、もう既に一歩足を踏み入れているかもしれません。蓮舫じゃないけど、「これで良いんでしょうか?」。もし、これで良いんであれば、地球全体を中華人民共和国にすべきじゃないでしょうか。生活は、べら棒に改善されるのは間違いありません。

(36 船津)やや難しいイデエロギーの話になっていますが、「中華人民共枠国」が「正当な民主主義」だと言い出していますね。そもそも「民主氏主義」ってどんな状態を言うのかしら。
米国は何でも「保険」でカバーする!ある意味では「共産」ですよね。貧富の差、人権、等々米国型「民主主義」の今大きく成って居て、「中共」はそれを指摘している。どの様に経済を持って行くのが「民主主義」なのか?
ウェーバー(マックス・ヴェーバー , Max Weber 1864-1920)の資本主義の定義は、組織的におこなわれ る金もうけで、暴力をともなわない経済的な営みをすべて資本主義とみなしていた。
まぁ資本主義と民主主義と強権での「民主主義」と世界はどう向かおうとしているのかなぁ。門外漢は分からない。

(44 安田)マルクス・レー二ン主義を掲げて実践しているという意味での共産国家は、現在もはや存在していない。民主主義下にないプーチン個人の権力強化を目指し専制主義を採るロシア、一党独裁を維持するため専制主義を採る中国 両国とも建国当初はあらまほしき人間社会を目指す政体を選択したはずであるが、為政者は権力維持を図るため民衆に対して強権主義的に対応する国家に変貌して来たのが歴史の流れである。あまりに急に発展巨大化した中国はその巨体故、自らの身体を健康に維持する課題に対処する方が、対外的な問題以上に難しくなると予想する。国内の貧富格差拡大、都市と農村の乖離、経済成長鈍化、少子化、力で抑え込んでいる大衆の自由と民主的動向など、人間でいえば内臓疾患が発症するのと似通っている。

少なくとも他国に見える形の恐怖であからさまに民衆を統治する手法は(いくつかの国には存在するが)、もはや時代遅れとなった現在では、「恐怖」の鎧を出来るだけ隠そうとしつつ専制主義体制の国では権力当局は反対勢力を力でねじ伏せ(左遷、降格、解雇、逮捕、場合には暗殺)つつ、一般大衆に対しては、古代ローマの統治の代名詞ともなった「パンとサーカス」と、生命保全のための「医療」がそれに加わり、これらの「」を潤沢に提供することを目指してきた。それらを満足に享受できれば、一般大衆は極論すれば「」即ち政治形態(民主主義か強権主義か)はどうでも良いのだ。まさに、キルギスの主婦の発言が一般大衆の本音を言い当てている。

中国では、独裁権力維持の対価として国民へは経済成長を通して豊かさを享受すべく宿命づけられている。そして裏技として、国民が反政府活動に決起せぬよう国民の諸々の自由の権利を奪い、且つ個人情報を丸裸にして保持し、全国津々浦々に配備した監視カメラを用いつつ厳しい管理下に置いている。一般大衆は無邪気な羊のように豊富な草をついばむことさえ出来れば、国内政治や政府に関する発言を一切封じられていても何の文句を言わず(言えず)、個人情報を握られていても満足げに日常生活を送る。国民の多数は多分気付いていないだろうがまさにデストピアに暮らしているのだ。大衆が豊かに成り続ける経済成長こそが権力維持の最大の礎と源だということを政府は強く認識している。長期的に観れば、中国の将来も予断を許さないだろう。 従って、国内経済成長の早晩の鈍化を予見し、海外に経済成長の種を蒔こうとしたのが壮大な「一帯一路」構想である。この構想の、軍国化の鎧をまとい力をちらせつかせながら、「飴」の部分の「利」の下心が見え隠れして警戒する国々が出て来ている。中国の思惑の予断は許さない状況になってきたのが今の現状ではないか。民主主義国家の結束と効果的な対応能力が問われる時代へと明らかに突入してきた。

日本は戦後80年間に亘り、戦争による犠牲者を出さず、キルギスの主婦からみれば桃源郷にでもいるような平和で安全な社会で、満足いく「パンとサーカス」を享受してきたのは誇るべきだと思う。

(36 大塚)「経験の範囲でいうと、公共の福祉と個人の権利が一番調和がとれているのは日本で、世界に誇れる社会的インタンジブルス」と書こうと思っていたところです(編集子注参照)。

フランスは個人権利偏重すぎで不愉快なことが多い社会。イギリスはいまだに階級制社会。アメリカは外出したらいつも身構える社会(加えて国語がない国)
ちなみに、アイルランドはイギリスでは4階級にも入れてもらえず階級からの落ちこぼれだとか。
Covid-19への対応に小生の言おうとする日本らしさが見て取れる。Covid-19の実態が分からないうちは日本は大混乱した。新しい事態への対応のまずさはいかにも日本らしい。しかし実態が分かるにつれて、政府も地方行政府も国民もそれぞれの立場で実践的に対応し、いまでは感染者も死亡者も世界で最も低い国の代表になった。人口が1億2,000万人もいるのに。しかも、今後の感染急拡大への備えもできている。一方、国家権力で私権を大幅に押さえて初動に成功した国々は、国家権力の押さえが緩むと、大幅に感染者数が増加した。
ついでに言うと、世界が享受している電気・電子製品にしても、ほぼ全部欧米の発明品で、日本が発明したのは皆無にちかい。技術のソニー、発明のソニーと言われるソニーだって、ラジオ・テープレコーダー・白黒テレビ、カラーテレビ、スマホ、VTR、カメラ、半導体は全部アメリカの発明品。ソニーはそれらを改善・進化させただけ。最初からたづさわったのはいぜい、録音・録画用のCD程度。しかし、発明元のアメリカのメーカーは、とうに消え去り、日本はいまでも世界中で商売をしている。日本はそういう国で、日本人はそうした応用力・実践力を持った人々の集団だと思う。これで今後も行けるか分からないけれど。
(注:大塚君はかの “五番街の日章旗” とよばれたソニーの米国進出にたずさわり、その後JETRO関連などでアイルランドに長期滞在の経験があり、日本の事情を外部から長い間見てきた。その経験などを生かした著書を執筆中)

八ヶ岳南麓も冬の始まりです  (グリンビラ総合開発HPから転載)

昨日は午後からみぞれ混じりの天気になり夜には雪になりました。

今朝の気温はマイナス6℃。最高気温は2℃。天気は晴れですが寒い1日となりそうです。月曜頃まで気温低めの予報です。

道路は凍結してスタッドレスタイヤでも滑るかなり危険なアイスバーンです。急ぎの用事がない限り外出は控えたい道路状況です。

 

エーガ愛好会 (107) 黄昏    (44 安田耕太郎)

原題「Carrie」は主人公の女性(ジェニファー・ジョーンズ演じる)の名前。邦題「黄昏」は英語ではtwilight, sunsetだが、その意味は「夕暮れ、夕方の薄暗い時」。それを比喩的に用いて「盛りの時期が過ぎて衰えの見えだした頃」を指す。原題「Carrie」は飽くまで主人公はキャリーのジェニファー・ジョーンズであると主張している。対して、邦題はまさに映画のストーリー性を如実に暗示し、悲劇の相手役ローレンス・オリヴィエの生き様を文字通り指している。見事な邦題だと思う。

ジェニファー・ジョーンズの2代表作は「慕情」と「黄昏」(Carrie)だと思う。相手役モンゴメリー・クリフト、監督ヴィットリオ・デ・シーカの「終着駅」も良かったが。両映画とも悲劇的な結末だが、恋愛時代の幸福感に満ちて凛とした前向きな将来への決意と希望を表現した前者に対して、ストーリー自体が重苦しい陰惨な雰囲気の後者なので、演技の巧拙とは関係なく彼女の明暗がその演技や表情にも醸し出されていた。

明るく弾けるような「ローマの休日」1953年の前年に制作されたのが、この哀愁を帯びた悲劇的メロドラマ「黄昏」。同じ監督が1年のインターバルで演出した二つの映画のコントラストにはビックリさせられる。「ローマの休日」でグレゴリー・ペックの友人カメラマンを演じたコメディアン エディ・アルバートが明るいキャラのチャーリー役でいい味を出していた。田舎から仕事を求めてシカゴ出てきた女性キャリー(ジョーンズ)と汽車の中で出逢い、その後ちゃっかり同棲することに。話の展開が徐々に暗く悲劇的になっていく前の、彼の「天真爛漫な天使」振りは嵐の前の清涼剤ではあった。ただし、キャリーの方には彼に対する愛情はなく、チャーリーの好意に甘えて、仕事もせずに利用しているようで、女性はたくましく、そして少しずる賢いキャラを演じているジョーンズの演技も見もの。二人の間に進展がないマンネリのまま時は過ぎ、キャリーはレストラン支配人のオリヴィエと逢い、妻子あるオリヴィエは自らの立場をも顧みずキャリーとの恋に落ちてしまう。キャリーも男ぶりの良いレストラン支配人オリヴィエに惹かれる。オリヴィエは発作的に店の金を盗み、二人は駆け落ちしてニューヨークへ。キャリーは彼が金を盗んだとは知らない。

いい歳のオジサンが若い女性に夢中になり、それも遊びでなく妻子を捨て、結局は財産も放棄して離婚調停・・・・人生を転落していく物語だが、老いらくの恋は切ない結末になる、と映画は教えている。当時、オリヴィエ実年齢44、ジョーンズ32歳。全てを捨てた二人の関係はやがて逆転してしまう。貧乏にも労働にも耐えられないオリヴィエに対して、逞しく前向きなキャリー。過去の成功を引きずる男の弱さはなかなか見るに辛いものがある。

二人だけのニューヨークの生活も盗んだ金を返さざるを得なくなり一文無しになり、しかも盗んだことを知られた彼は仕事に就けなくなり、二人の生活は困窮を極める。そんな中、キャリーは舞台女優となり、彼を元の家族に返そうと彼の既婚の息子に会いに行くよう勧める。そして彼の留守中に彼女は姿を消す。彼は息子に会いに行くが、遠くから息子の姿を見ただけでニューヨークに戻る。しかし、そこにはキャリーの姿はなかった。数年後、女優として大成功を収めていたキャリーの許へ、訪ねてきたチャーリーからオリヴィエは店の金を持ち逃げした為、二度と家族のもとに帰ることが出来なったことを初めて知らされる。キャリーはオリヴィエの行方を探すが、浮浪者にまで落ちぶれたとの目撃情報以外得られなかった。

落ちぶれていく一級のシェイクスピア俳優のローレンス・オリヴィエを見るに忍びなかったが、彼の役者としての真髄を味合わせてもらった。現在的目線でみれば、安定した支配人のポジションと妻子まで捨て、しかも金を盗んで駆け落ちする展開はやや現実離れしているし、キャリーにしても表現は悪いが不倫体質的な気質が垣間見え(ジェニファー・ジョーンズには不似合いであったが)、女優として成功しながら駆け落ち相手を元の家族に返えそうとするなど、真に愛していたのかと懐疑的にもなった。ラスト場面の「食べないと死ぬ」と絞り出すように訴え、再会を果たしても小銭一つだけ取って彼女の許から独り立ち去る際にガス栓を開け締めするシーンにはハラハラドキドキさせられた。最後は落ちぶれたと言えども彼のプライドがそうさせたのか?身から出た錆の決着は自らつけるという男の矜持を示したのか?

(保屋野)「黄昏」、初めて観ました。「哀愁」と並ぶ、美男・美女による「悲劇のラブロマンス」映画の傑作ですね。何せ、あの、ウイリアム・ワイラーですから。ただ、「哀愁」は、女性~ヴィヴィアン・リーが悲劇の主人公だったのに対し、「黄昏」は、男性~ローレンス・オリビエが悲劇の主人公でした。
両者共、ストーリーは(現代では)やや陳腐だと思いますが、やはり当代屈指の美男美女の共演は見応えがありました。

さて、今回のジェニファー・ジョーンズは「慕情」(1955)と比べてどうなのか。・・・今回は、役柄が、貧乏で地味な(普通の女性)ということもあって、「慕情」の輝くような美しさは残念ながら観られませんでした。彼女の顔やスタイルは、はやはりカラーの方が見栄えするのかもしれません。

また、作品としても、私は、主題歌含め「慕情」の方がやや上だと思います。。

 

キルギスの小母さんのひとこと

12月19日付読売新聞の11面のある記事が目に留まった。

キルギス強権へ回帰 という記事で、ソ連解体後の中央アジア各国の間で民主主義を標榜してきたキルギスに強権政治が復活しつつある、という内容である。中央アジア、という領域は日本人にはあまりなじみのない地域で、我々が知っているのはせいぜいモンゴルくらいであろう。キルギスという国は旧ソ連の延長体制が継続している領域で、独自の民主主義的知見によって運営されてきた国だそうだが、昨今は同国の政治体制に変化が生まれ、強権主義的国家に変貌するのではないか、という解説である。中国の動静もふくめて、民主主義というイデオロギーそのものが問われ始めている気がする。しかしこの種の議論そのものには小生にとってはすでに不毛としか思えないのであまり興味がない。

この記事で興味を持ったのは、 “強権か民主的かは私にはわからない。生活を改善してくれる指導者が必要だ” と言い切った一主婦の発言である。この発言には千金の重みがある。一般の国民にとっては、日々の生活をまともに送れる社会ができるのであれば、それがどんなイデオロギーであろうが関係ない、というのが偽りのない真実なのだと思うからだ。

塩野七生のライフワーク、ローマの歴史を少しかじったことがある。その中で、ローマの皇帝にとっての政治とは、国民にパンを与え、娯楽としてサーカスを提供することだった、という(表現は違っているかもしれない)一節を覚えている。歴史書には今の西欧の民主主義の源はといえばギリシャローマの時代、と書いてあるが、その社会のインフラは実は奴隷が支えていたという事実は無視されているのがふつうである。それにもかかわらずこの時代が西欧文化の根源としてある種の理想形態として論議されるのは、実は民主主義か否かなどという議論ではなく、”とにかくパンに事欠かず、サーカスを楽しめれば幸せだ“ということだったのではないか。その陰で奴隷たちがどういう生活を送っていたかなどということは考えずに。

先週は太平洋戦争(学会ではこの戦争の正式な呼称が決まっていないというのだが)終結80年、ということで回顧や秘話といった報道が沢山あったし、このブログにも畏友船津の一文をご紹介した。いろいろな主張があり、それぞれの戦後があるのは十分承知で、ぼくはこの80年の日本の政治はまさに歴史に残る成功例なのだ、と言ってみたいのである。その心が、上にひいたキルギスの一主婦の至言なのだ。

経済の専門家は日本経済の脆弱を憂い、市民団体や一部自称インテリは憲法9条が平和をもたらしたのだという頑迷な迷信におちいり、右翼の人は日本人の劣化をなげき、かたやいろいろな自己憐憫の果てに殺人や放火を平然とおこなう輩がいる、この日本の80年の政治を、歴史に残る善政だ、と勇気をもって小生は主張する。その理由はただひとつ、1945年8月15日以降、80年の長いあいだ、我が国はただひとりの若者も戦争で死なせていないからだ。日本だけだ、とまで言い切る勇気はないが、このような国がいくつあるか。こんな例は江戸時代の我が国を覗けば稀有の歴史的事実なのだ。キルギスの主婦が喝破したような、そういう社会が今、ここにあるのだ、とは思えないか。

しかしながら今日まで、日本の政治が優れている、と論じた例はまず存在しない。労働生産性が低いとか、平和ボケだとか、確かに現象として存在することはもちろん認めるし、現在が理想状況なのだ、などというつもりはもちろん、ない。ないけれどもあえてふたたび勇気をもって言い切ってしまえば、今日の日本がそれなりの平和を謳歌できる最大の理由は米国の軍事力に支えられているのであって、拝米主義と言われようが沖縄の基地問題があろうが感情論がなんとわめこうと、ある意味ではまことに冷酷な事実なのではないのか。そして何と言われようと、現実は現実である。憲法論議が盛んだが、現憲法では国を支えきれないという単純な事実はなにも憲法学者でなくても、我々にも読めるその前文を一読すればわかることだ。そしてアテネの民主主義が実は奴隷労働によって支えられていた、という史実を思い出してしまうのだ。

しかし国民の多くが、日本の政治の貧困をなげく、最大の理由は見識ある人々を含めて多くの日本人が、一様に極めて薄い間隙からのぞいた他国のいわばいいとこだけを見て、それと日本の現実と比較した結果、だから日本はだめなんだ、という自虐的妄想に落ちいっているからなのではないか。

マスコミの報道は連日のように、政治家や資産家連中の腐敗や騒動やに満ち満ちているが、ほかの国の裏面は特別の機会でもなければ、あるいは情報通、と自称する人々のツイッターでもあさらなければわからない、つまり他人の芝が青いか黒いかも知らずに自分だけで落ち込んでいるのではないか。

面白いのはこの読売記事のタイトルが民主主義、という言葉に対して強権、と言っていることだ。中国はその強権政治の見本みたいなものだが、なお、共産主義、という看板を下ろしていない。小生の共産主義についての知識は共産党宣言を読んだ程度でお話にならないが、それでも、今の中国の在り方がマルクスレニンの主張とはかけ離れたものであることだけはわかる。此処でももう、イデオロギーで政治を論じることの無意味さを改めて感じる。キルギスの主婦の一言が今の世界のすべてで問われるべきことなのではないだろうか。

乱読報告ファイル  (17)  中国 ”国恥地図” の謎を解く  (普通部OB)菅原勲

「中国「国恥地図」の謎を解く」を読んだ(2021年、新潮新書)。父親が中国人、母親が日本人の譚璐美(タン・ロミ)の作品で、塾の文学部卒業。

国恥(国の恥)と言う、オドロオドロしい言葉に惹かれて手に取ったもので、日本で言えば、ロシア、韓国に、夫々、不法占拠された北方四島、竹島の失地回復の類いの話しだ。

その地図には色々な版があるが、一言で言ってしまえば、「中華國恥圖」とは、中華民国の前の清の最大の版図と失われてしまったそれとの比較を通じて、この失地は、国の恥であると中国人の民族主義(ナショナリズム)に訴え、それを高めることを目的としたもので、中華民国の蒋介石が音頭をとって、全土に亘って小学校以上に推進したものだ。その内容は、簡単に言ってしまえば、

1.喪失した辺境(例えば、樺太、満州、台湾、香港、マカオ)。     2.撤廃された藩邦(例えば、琉球、朝鮮、ベトナム、タイ、ラオス)。  3.租借された地域(例えば、遼東半島は日本の租借地)。租界或いは居留地(例えば、上海、アモイなど)などであり、日本に較べ国土が桁違いに大きいだけに、ほら話しにも等しい内容の失地の多さがその特徴だ。

中華人民共和国(以下、中共)はそれを踏襲したもので、正当な失地であるならば、正々堂々と回復を促進すべきだろう。しかし、例えば、九段線(キューダンセン)と言われる九つの破線で囲んだ南シナ海の海域を中国領と決めつけた。ところが、ご存知のとうり、2016年、オランダはハーグの常設仲裁裁判所から「法的根拠がなく、国際法に違反する」との判決が下った。ところが、中共は、この判決は紙くずだと言って拒否。一方、提訴していたフィリピンも、大統領が、中国に買収されたにも等しいドゥテルテに変わっていたため、ここでも屑箱に捨てられてしまった。一体、正義はどこに行ったのか!なお、中華民国時代は、それが十一段線だったが、中共がベトナムに配慮して、その内の二段を消去し九段としたもので、この一事をもってしても、この段線が極めて胡散臭い代物であるのは紛れもない事実だろう。

いずれにせよ、裁判所から違法であるとの判決が下ったように、この段線は、今や、中共の完全な創作と言って良い(台湾は、依然として十一段線に固執している)。また、一方では、中国の南限は海南島であると明言している地図もある(これに基づけば、南シナ海は中国に属さないことになる)。事程左様に地図は極めて恣意的に作成されており、濫りに信用するわけには行かないと言うことだ。

最後に、譚璐美の締め括りの言葉、「二十一世紀の今日、中国が近代国家として世界の仲間入りを果たしたのであれば、今さら過去の幻想を夢みて「歴史物語」に酔いしれている場合ではない。歴史は歴史として検証し、現実のこととは切り離して考えるべきだろう」。しかし、無謬の共産党が支配している中共には、何を言っても蛙の面にションベンだし、果たして聞く耳を持つ国だろうか。