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“ボヘミアンラプソディー”考  (36 高橋良子)

今日本で話題になっているこの映画を観に、映画館に足を運ばれた方も
多いのではないかと思いますが、私もそのうちの一人です。

音楽といえばクラシック以外に興味がなく、ましてやロックバンドの「クイーン」などの存在すら知らなかった私が、何故「ボヘミアン・ラプソディ」に魅了されてしまったか。

この映画について、新聞等に書かれている記事や寄せられている声によると、「クイーン」のボーカリスト」であった主人公フレディ・マーキュリーが生前抱えていた移民、宗教、容姿、同性愛への差別偏見による苦悩や孤独感に、見ている人が自分も何かしら抱えるものを重ね合わせていると云うのです。1985年のライブエイドでの感動的なライブコンサートの場面でその感情は最高潮に達し、観客に圧倒的な高揚感とカタルシスを与えると。映画はこのライブのシーンで終わります。

あとで知ったのですが、クイーンのメンバー全員かなりのインテリであると。
出自が移民であるフレディをファミリーの一員として受け入れ、共に後世に残るロックバンド「クイーン」を創り上げたのも、フレディの力ばかりではないと思います。
「ボヘミアン・ラフソディ」は人を殺したという告白で始まる驚くべき歌詞であるに拘わらず、英国の国家的ソングになっているそうですが、何と不思議なことでしょう。この歌にはフレディの人生哲学が投影されているように私には思えるのです。

「人生は芝居だ、なにやら喚きたてているが終わりには何の意味もありはしない」

シェイクスピアの言葉ですが、彼はそのようにこの世を去っていきました。
でも、人を勇気づける歌も残していきました。

We are champion いろいろ失敗しても、また頑張れば誰でもチャンピオンになれる、と最終シーンで熱唱しました。私はこれに元気づけられ映画館をあとにしました。

同好の士ー奇遇からの接点

先日、まったくの偶然から編集子の会社時代の親友とKWVとの接点?が生まれたという楽しい話を書いた。その続きである。

(中司―後藤)

サブちゃん、先日、横河電機同期仲間の舟橋君との奇遇がありました。18人入った仲間はそれぞれに個性豊かな連中ばかり、いまでも味の濃いつきあいですが、中に帆足君というアーティストがいます。数年前、湯沢の高橋さんの展示があってご一緒したとき(示現会)、偶然彼の作品を見つけてそのことを話したと思いますが、舟橋兄にメールした時、僕のblogのことを触れておきましたら、今日、帆足君から連絡があり、かれの素晴らしいブログを拝見しました。質、量ともに圧巻、絵のこともともかく、彼のクラシックに関する造詣の深さにも感銘しました(ワンゲルでいえば小泉先輩にも脱帽ですけど)。一度、ご覧になることをお勧めします。URLというかブログ名は  帆足進一郎絵日記  です。

(後藤―帆足、中司)

早速、帆足様の絵日記を見せてもらいました。素晴らしい作品が沢山あり貴兄が趣味の広い良い友達を大勢持っておられることを改めて認識しました。フォン・オッタ―と言うメゾに関しては聴いたことがないのですが世の中にはあまり我が国で知られていない歌手は結構昔からおりましたので素晴らしい方なのでしょう。私もSPレコードからEP/LP、更にCDまでかなりのコレクションがあるので終活の一貫としてどう処理するべきか聊か困っています。小学校時代からお小遣いを貯めて集めたもので貴重なVictorの旧盤の赤盤だけでも100枚以上あります。花巻にある野村胡堂の記念館(彼が世界でも有数のレコード収集家であったので現在、彼が持っていた1万枚ほどのSPレコードを定期的に演奏する会があり私も会員ではありますが中々行く機会がありません)に相談して可能ならば納めさせて貰うことも考えています。私も68歳から本格的に声楽を習い始めて13年、今週末も春のコンサートで歌うので目下、必死の練習中ですがスキーと同様そろそろ打ち止めかなと思っています。お互いに色々な友人が人生を豊かにしてくれ本当に感謝あるのみですね。いずれまた、

(帆足―後藤、中司)

私のブログを色々見て頂いたようで有難うございます。 また、お友達にも過分に紹介頂き恐縮です。 ここのところ、月1回のペースになっていますが、冬と夏は季節に合った絵があまりなくて苦労しています。 何とか絵を描ける健康状態を保ちたいと念じています。

(中司―後藤、帆足)

喜んでいただけたようでうれしく思います。次回から示現会の展示会では高橋さんのほかにも楽しみが増えますね。

趣味のある、なしでは引退後の世界に大きな違いがあるようですね。小生高校1年の時に始めたアマチュア無線に引退後3年ほどしてカムバック(このような人が大勢いるのはやはり同年代の連中だからですね)、44年浅野三郎君(彼はこの道ではタイガー・ウッズと尾崎将司を混ぜたような大物であるのですから世の中面白い)の指導を受けて一昨年くらいまで遠距離通信(DXとギョーカイでは呼びます)をやっていましたが少し熱が冷め、今はオール真空管による自作無線局の開設を夢見て、スクラップアンドビルド(と言えば聞こえがいいが、要は何回やっても満足しないということです)を楽しんでます。何しろ目は見えない、指は震える、ですからビスとナットが合わないとか終わったはずのはんだ付けがしてなかったとか、ヒューズがを飛ばすこともしょっちゅうありますが、そう、いつかこの部品のがらくたを始末しなければと思うと恐ろしくなります。

ま、我々3人とも、いい趣味を持たせてくれた両親・家庭に感謝しなければなりませんね。ご両所、お元気にお過ごしありたし !
帆足兄あて追記
後藤君は特にオペラとかドイツリードなどが好きで、自分でも歌います。小生の理解範囲を超えていますが。
舟橋兄あて追記
今回の楽しい遭遇の機会を作ってくれたことに感謝します。次回会合を楽しみに待ちます。

”むかし” の語り部として その3

KWV史上初めての分散集中方式で大成功を収めた八甲田夏合宿のあと、一連の夏のプランが恒例となった秋の涸沢集中で掉尾を飾り、荒木床平総務以下の名執行部は惜しまれつつ引退、1960年10月、われわれ(現在OB会用語によれば36年組)にバトンが渡され、小生を総務(現在は部長)に推薦していただいた。副総務は普通部から親友付き合いをしてきた田中新弥。毎日の部務をなんとか仲間に助けられて夢中な1年だったが、そこで直面した問題について、”ナンカナイ会ふみあと” 第12章から抜粋してみる。これはもちろん回想にすぎないが、現代の新しい学生と部活動のありかたについて、若い世代とくに現役諸君に読んでもらえればありがたいのだが。

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新たな希望と決意をもって責任学年になったわれわれだったが、もちろん、万事がバラ色であったわけではない。一言でいうと、中尾・妹尾・荒木と名総務のもとで受け継がれてきたKWVの伝統とか雰囲気とか言ったもの、それを象徴したのが25周年記念ワンデルングでの先輩各位との素晴らしい交流だったが、それをどのように継承していくのか、そもそも慶応のワンダーフォーゲルとはどうあるべきなのか、といった基本的なことで悩むことが増えてきた。その基本的な原因は何といっても人数の多さであり、それがそのまま、部活動に対する意識、態度の拡大といえば聞こえはいいがありていに言えば拡散であった。

このような状況は、KWVに限らず、当時のいわばブームのように全国規模でできた他大学にあっても同じだったようだ。日本山岳文化学会発行”山岳文化”14号(2013年11月)によると、第二次大戦後、一番早くWV活動を復活させたのは明治大学であり、これに続いて慶応、立教、中央、早稲田、というような順番で活動が再開された。1951年に国立大学として初めてのWV部が東大で発足したということであるが、その時、体育会に所属を申し込んだが”運動部は記録を目指している。ワンゲルのように記録を目指さない者は運動部ではない””相手に勝つことを目的にしない者は運動部ではない”ということで、結局、体育会に所属するまでに10年かかったそうである。この時代、旧来の文化や教育になじんできた人たちにはレクレーションをスポーツとして認めることができなかったからではないか、と筆者は指摘しているが、経済成長と呼応してレクレーションの普及、それと共に全国大学でWV部の創設はあいついだ。しかしどこでも山岳部とWV部とはたがいに強く意識し合っていた、とも言っている。全国の大学WV部の数は、大学進学率の高まりと比例するように増加、大量の部員(100-200人)を抱えた一部にあっては、訓練や命令系統が異常なまでに強化される例もあった、とこの報告は述べている。第二章でふれたが某大学WVとの遭遇でわれわれが見た(編注:北アの小屋で遭遇した某大学Wの ”しごき” の実態)のはその現実の一部だったのであろう。

さて、ここにのべた背景すなわち大量の部員をどのように統率すべきか、また山岳部とは異なった活動や思想をもつWVはどうあるべきか、と言ったことはそっくりそのまま、KWVの課題であった。いくつかの実例を思い出してみる。

1年部員の中に、5人ほどのグループがあった。いずれも高校時代から登山技術の教育を受け、実際のワンデルングにおける行動も十分信頼できるグループだったが、仲間の間での強固すぎるまでのチームワークが排他的になっていく一方、ワンダーフォーゲルとは山登りであるというかたくなな姿勢、などのため、何度かの衝突ののち、退部してしまった。彼らと会い、説得(大人数ではあったが、一度入部したものが退部する、ということは恥辱であると考えていた)するのに何人かの委員会メンバーが大変なエネルギーを費やした記憶がある。

Kというまじめな男がいた。好感の持てる人物だったが、残念ながら心臓の持病を抱えていた。Sという先天的に足首が外側に折れてしまうという奇病を持った1年生には、宮本健が浅貝のスキー合宿でほぼつきっきりで面倒を見たが、どうしてもスキーをすることはできなかった。彼らのように欠陥を持っていても、なお、ワンダーにいたいのです、という学生を何とか支援してワンデルングに連れていくべきか、それとも病気を持つ学生を激しい運動が避けられない部に許容すべきか。委員会の中でも大きな議論があった。

Rはこれもリーダー資格を嘱望されていた好青年だった。しかし彼は”現在のワンデルングには締まりがなく、参加者にも規律がとぼしい。このままでいいのか。この状態がつづくようならば、いつか事故を起こしてしまうのではないか。人数が多いなら多いなりにやるべきことがあるのではないか”、と問いかけ、”リーダー養成を受けたけれども納得がいかないので退部する”という意見を当時発行されていた”やまびこ”という部内紙に書き残して去ってしまった。

女子部員の急増もまた、いろいろな課題を提供した。”ふみあと”に掲載された、当時の代表的な見解を”ふみあと”13号から抜粋する。

体力的にも精神的にも差のある女子部員自身の問題・・・アクセサリーとしての存在で満足するか、苦しかったりしんどかったりしても部員として生活していくかのいずれを取るのか・・・理想は個性の一つに女性というものを持った一人前の部員であること・・・自ら”女の子”という枠を拵えて、萎縮したり甘えてはいけない。女の子だって部員である。体力の差というものは確かにあるが、精神、気力には差がないはずである…問題は気力・・      (佐藤順子)

合宿に女子班を作ろうという声が男子から出たことがある。男子と同じ班に何人かの女子部員がいると、消極性からいつまで経っても一人前の仕事ができない。自主性を養うため、というのが主旨だった・・・手段としてであっても、部に流れている雰囲気と逆方向・・・・共同生活を行う上で、女子がやったほうがいいといいというものもたしかにある。それを自分たちで選ぶのはよいが、女子だからということで目の前のものを回避するのは卑屈 である。      (小山田美佐子)

スキーから雪山へ、といういわば当然の歩みについても議論は多かった。雪山活動そのものに疑義を持つものは少なかったが、それには当然のこととして技術的、体力的な前提条件が伴う。KWVが文連団体であり条件を定めて入部を制限することには疑義がある以上、条件を満たさない部員も許容しなければならないし、部員である以上、部として活動制限を課すことはできない。したがって、プランごとにメンバーや参加希望者と話しあって、範囲なり必要な規範を決めていくしかない。トレーニングについても同様で、スキー合宿や大型プランの前には、リーダーが参加条件として定めることはやったが、体育会のように全員に同じように強制することには抵抗があった。このあたりは、引用した文献にもあるように、”異常なまでに強化された統制”に頼ることはわれわれの選択肢にはなかったのである。

このような現象は、つきつめていえば、ワンダーフォーゲルとは何か、という基本的な、それも”慶応義塾における”という限定詞のもとでの議論が徹底していなかったことに遠因があるだろう。われわれが入部する以前の”ふみあと”には、必ずと言っていいくらい、この種の議論が掲載されていた。われわれの時代にも、もちろん議論や文章はあったが、いずれも”どうするのか”が”なにか”に優先していたような気がする。弁解がましくなるが、それもやはり”人数の多さ”に起因するものだったといえるだろう。一時は廃部すら予想させるほど入部者が減少したものの、現在の現役部員数はある意味で理想的と思える規模になっている。その中で、”理想”と”現実”がバランスをもって実現されることを改めて望みたいものだ。

 

高尾は休んだけど元気だよお (34 小泉幾多郎)

 陣馬山ご苦労様。上り2時間登れれば、まだまだ大丈夫。小生の腰の方、前かがみにならずとも歩けるところまで回復しました。

 1月の初めに、2年ぶりで映画館に足を運んだら、今度は自分の意思ではないのに、ここ1か月の間に、音楽会に出掛ける機会を得ましたので、報告したくなりました。本日、11日、家内の同級生のご子息が、近くの大倉山記念館ホールで演奏会を開くので、2枚チケット購入。ご子息はチェリスト石黒豪、今回は、Gourmand Ensemble というチェロのほかオーボエ(桃原健一)箏(高橋てるみ)ピアノ(片岡直美)によるアンサンブル。アンサンブルの名前がグルメによる食いしん坊なのか?食いしん坊から愛をこめてという副題がついていた。演奏曲目は10あったがクラシックでは、例えば有名な白鳥をチェロと箏で演奏、この度は組み合わせでは初めて聴いたが、何とも優雅でした。他に5曲。映画音楽3曲、最後はカルメン組曲より5曲。変わった楽器の組み合わせでしたが、楽しめました。

 1月20日、日立フィルハーモニー管弦楽団による定期演奏会於すみだトリフォニーホール。友人の会員からチケット1枚あるのでと誘われる。指揮者が女性の新田ユリという人。女性の指揮者は西本智実、松尾葉子等は知っていたが、この人は初めて知りました。曲目は、ラフマニノフの交響曲第2番ほか、甘美なる旋律の流れが寄せては返す感情の波に覆われる55分の大曲で、女性らしからぬ統率力でオーケストラも熱演。偶々2月1日らららクラシックというNHKの番組で、この曲を解説していました。

 2月9日、神奈川フィルの定期会員である友人が、急に所用で行けなくなってしまったので、代わりに行ってくれというので、喜んで行きました。みなとみらい大ホールで、指揮は常任の川瀬賢太郎で曲目はマーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲(藤村実穂子独唱)とハンス・ロットの交響曲第1番。前者は名だたる欧米の歌劇場で絶賛を浴びてきた日本の誇る名歌手。当然のようにドイツ語の歌詞を暗譜で歌い、うっとりと聴き惚れていました。ハンス・ロットという作曲家は初めてで、マーラー誕生の2年前に生まれた天才作曲家ですが、25歳で夭折してしまったとのことです。プログラムによれば、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー等ドイツロマン派の響きに、マーラーを先取りした新しい響きも随所に聴こえてくると。小生には、よくわかりませんでしたが、咆哮という言葉が、これ程当て嵌まることがないと思えるほど、金管楽器をはじめ、これに伍して弦楽器も含め、その音量に圧倒されました。あとでわかったことですが、同じ日のN饗のパーヴォ・ヤルヴィ指揮による定期演奏会も同じハンス・ロットの交響曲第1番が取り上げられたとのこと。ということは、そのうち日曜日21時のクラシック音楽館で、この曲が放映されると思われます。それにしても滅多に演奏されない曲が同日に東京と横浜で演奏されるとは信じられないことでした。

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(中司―小泉)月いち高尾で椎名さんから伺いましたが、腰の具合いかがですか。小生一応定番コースなる方に行きましたが、どうも上り2時間くらいが限界かなあと考えさせられました。やれやれ。

オヤエは焦って マリアカラス の最終日に駆けつけました。小生は遠慮しましたが。

フェルメール展・リクリエイト版     (34 小泉幾多郎)

前にブログで書いた記憶がありますが、時折美術館に足を運ぶものの、大概は、新聞屋から入手したチケットとかで、数人で出かけることが多く、そもそもが美術鑑賞はそこそこに、その後の一杯の方が楽しみの連中ばかりですから推して知るべしです。それでも昨年1年間で、写真展等も含め20展示程は観ていますから、美術家の名前等はわかるようになってきました。

安田君のフェルメール対する蘊蓄の深さには感心するというより驚きでした。フェルメール全37作品のうち28作品の実物を観たというのですから。因みに小生は2012年のマウリッツハイス美術館展が東京都美術館で開催されたとき真珠の耳飾りの少女と、ディアナとニンフたちの2作品、2015年のルーヴル美術館展(国立新美術館)での天文学者のたった3作品のみです。しかし昨年8月、フェルメール展が、横浜そごう美術館あるというので、勇んでいったところ、「フェルメール光の王国展」と称する全37作品のリ・クリエイト(複製画)だったのです。最新の技術ですから、フェルメールの構図の見事さは勿論そのまま、ブルーの光の様子から光と陰の質感、繊細な色彩等、もともとフェルメールには映像的、写実的な表現が多いことから、光の粒の表現までの再現は無理としても最新のデジタルマスタリング技術による全作品が見られたことで大満足してしまったのでした。

安田君に教わったことだが、生物学者で、フェルメールオタクの福岡伸一氏が監修した権威あるものとのことです。この中の「手紙を書く婦人と召使」の作品だけが撮影可となっていました。このリ・クリエイト2月24日まで恵比寿の三越で展示しているそうです。 レクサスの真珠の耳飾りの少女他を動画で宣伝しているユーチューブも面白かったです(こういった性能抜群の新車の走りっぷりを見ると、今は生産していないトヨタプログレを20年間も騙し騙し乗っている者から見ると若返って新車を乗り回してみたい気持に駆られたりしますが、今年5月の車検で廃車するか否か?なやむところです)。

大衆社会のはじまり? (44 吉田俊六)

もうだいぶ前になってしましましたが、ポピュリズムをキーワードとしての社会洞察の意見交換を楽しまれているご様子、ジャイさんがフロムの「大衆社会」と結び付けての展開可能性について、意見を求められました。即答は不可能でありましてその後この宿題が頭の隅で熾火のごとくくすぶり続けておりました。
反応があまりにも遅くてごめんなさい。時事問題を語り合う会や読書会に参加する折に今、そして未来に向けての「大衆社会」の有り方に、見通しの手がかりを求めてきました。
フロムやリースマンの時代にヒントは頂いても、何かしら、そのままの解釈は厳しいのではないかとの、素朴な疑念があり、ITとパーソナル化の要素をどう噛み合わせるかの解決見通しがつけば将来の“大衆化” への論点がみえてくるのではと思ってきました。そこに、毎日新聞の記事で少しこのあたりに役立ちそうな内容のものをみつけましたので、“代返”コピペを添付させて頂きます。
(以下、吉田君から紹介のあった記事、対談形式で多少長いので、千葉氏本人の発言を主に、要点のみをまとめてご紹介する。理解の足りないことから吉田兄のご意向にあわない点はすべて編集子の責任である。記事にまとめられている本文の筆者千葉雅也氏は現立命館大学在職、気鋭の論客として知られている)

 

僕はインターネットが本格的に大衆化したと強く思っていて、ネットを基盤に本格的な『大衆の時代』が次の元号には始まると思っています。IT革命と言われた1990年代にネットを使っていたのは主にインテリ層で、『集合知』など人々の創造性をネットが後押しすると言われていました。2011年の震災以後、災害時の連絡手段や政治に対する不満表明のため、多くの人が参入し、ネットは大衆的なものが可視化される空間になりました。大衆の考えがこれほど言語化されイメージ化された時代はかつてなかったんです。歴史の新たな一段階と言えるほどです。

筆者写真、毎日新聞掲載

大衆と言うと、じゃあ、お前は大衆ではないのかという批判がありそうなので、これを「庶民」あるいは「世の中」としてもいい。ネット上では議論がかみ合わないとか、ささいなことで誤解されて炎上すると言われますが、実に多様な価値観、情報把握力の異なる人がいるわけですから、話が通じないのは当たり前なんです。

(南アフリカでネルソン・マンデラが解放された30年近く前には考えられなかった、人種差別や弱者敵視の発言を、今は一国の大統領が平然と語る。それも、ネット上の一部の大衆に故意に向けられた政治宣伝ととらえれば、不思議ではない。 ヘイトクライムの増大は人間自体が時代に押され突然悪化したというより、長く陰にいた者、隠されていた悪意が「ネットの大衆化」で単に表に出てきただけだと見る方が納得がいく)

人を刺激しやすい、さまざまなアイデンティティーへの攻撃的発言は、大衆的なものがほぼ全て可視化された結果なんです。もう一つ、現代を語るキーワードはニーチェが使った言葉「ルサンチマン(強者に仕返ししたい鬱屈した弱者の心)」だと思います。

特権に対する批判。なぜ自分ではなくあの人が得をしているのかという怨念(おんねん)です。特権層と自分を常に比べ、それが企業のマーケティングにも使われ、羨み、欲望をあおってインスタ映えのようにすぐに飛びつかせる。でも、消費しながらも個人はその都度、(自分の出自など)人生の条件を自覚させられているのです。あの人は最初から底上げされた条件で生まれ、自分はたまたま不遇に生まれ、損をしている。偶然、頼んでもいないのにこの世に生み出された揚げ句、不遇な状態であり続けるのは耐え難いと。そんな気分は昔からありますが、ネットで可視化されたことで、より意識するようになったのです。

それに加え、ポリティカル・コレクトネス(政治的きれい事)への反発が大きくなっています。そうしたスローガンの必要性はもちろんありますが、近代的な進歩主義は人間を単純化させる方に向いてきたとも言わざるを得ない。善を説くスローガンに不満を持つ人が反発している状況は無視できません。

人間の欲望はもともと否定性と肯定性の両方からできているのです。ところが今の『大衆の時代』には何事もわかりやすさが求められ、何が良くて何が悪いのかという単純な反応で皆けんかをしている。だから、それぞれ個人の中に肯定と否定(善と悪)を抱え込む両義性を復権させなければならないと僕は思っているんです。リベラルはよく知らない他者を弱者とみなして単純化するわけです。LGBTは多種多様なのに、かわいそう、優しい、正しい、愛に生きる人たちみたいに。でもLGBTにも意地悪な人もいますからね。毒舌な皮肉屋も。だから、表面的に人権や共生をうたって、個人の差異にきちんと向き合わないリベラルはネトウヨの映し鏡にほかなりません。

人間の差別性を露悪的に出すのでもなく、単に平和や友好を叫ぶのでもない、肯定性と否定性を併せ持つ人間像です。それをきっちり打ち出していく必要がある。従来型の人間性を果たしてどこまで延長できるのかということです。今のネット状況を見れば、多くの人が人工知能(AI)のようにパターン認識して善か悪かと即答しているようで、人間の方からAIに歩み寄り、劣化したかのように思えます。

グローバル型資本主義の進展が人に内面をなくす生き方を強い、皆がもがいている。そして、内面が衰えたからこそ、『傷ついた、傷ついた』とすぐに言う。。昔なら傷を自分固有の経験としてやりくりし、自分の中の負の面と向き合ってきたけれど、今はそれができなくなりつつある。だからいろんな人が過剰にハラスメントを問題にしているのです。内面の喪失、人間の単純化はある種の全人類的な時代の症状ではないかと思います。人間が心を失っていく過程で、叫んでいるという感じが僕にはします。

■人物略歴

1978年、栃木県生まれ。東京大大学院で博士号。パリ第10大学へ留学後、複数の大学講師などを経て立命館大准教授。主著に「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」「勉強の哲学」「意味がない無意味」。

 

師走に読みたい漢詩  (36 坂野純一)

私が漢詩を読むようになったのは、友人からもらった英文の中国文書に多くの漢詩が載っていて、これの原詩を探し、原文と読み下しに加えて、識者の解説を写すように纏めてみたことからのことです。 今まで2回ほどこのブログに掲載させていただきましたが、今年も押し詰まってきたことから12月にふさわしい漢詩をと思い少し紹介させていただきます。

最初は杜甫の冬至という詩です。杜甫は、中国の生んだ最大の詩人と言わ れ、別名(詩聖)とも言われます。ただ生前は、必ずしもそのような評価は受けず、後年になるに従いその名前が大きくなったと言います。

年年至日長為客  年年 至日 長(つね)に客と為り

忽忽窮愁泥殺人  忽忽たる窮愁 人を泥殺せしむ

江上形容吾独老  江上の形容 吾独り老い

天涯風俗自相親  天涯の風俗 自ら相い親しむ

杖藜雪後臨丹壑  杖藜 雪後 丹壑に臨む

鳴玉朝来散紫宸  鳴玉 朝来 紫宸に散ぜん

心折此時無一寸  心折けて この時 一寸なし

路迷何処是三秦  路は迷う 何れの処か 是れ三秦なる

 

至日は夏至と冬至のことを言いますが、古来中国では、冬至の日は、ご馳走を作って、新しい着物に着替え、親族集まって祖先を祀る。朝廷では 盛装した官僚が、紫宸殿に集まり、朝賀の儀式が行われる日でもあります。杜甫は、48歳の時に自身の政策が入れられず、家族を連れて放浪の旅に出ます。この詩を作ったのは、56歳の時だとされています。

その間毎年冬至の日を旅人として迎えた。魂を奪い去る厳しい愁いが、此の身をすっかり骨抜きにしてしまった。心とともに肉体も衰える。揚子江のほとりを彷徨うひとりぼっちの私の姿。そして、世界の果てのような此の地方の風俗にも、いつしか親しむようになった。

雪の晴れたあと、あかざの杖をついて赤土のむき出しになった谷間を前にして独り立つ。此の時間は都では、腰の玉佩を鳴らしつつ出かけた高官たちが、三々五々紫宸殿から退出してゆくことだろう。それを思うと私の心は砕け散る。

心は一寸四方の大きさだというが、今は心砕けて一寸の大きさもない。どの方向が、都のある三秦の地方か。心の迷いに、そこへの路ももはやおぼつかない。

本来おめでたい日にもかかわらず誠に悲しい詩であります。二つ目は、同じく唐代の詩人高適の除夜と言う詩です。

旅館寒灯独不眠  旅館の寒灯 独り眠らず

客心何事転凄然  客心 何事ぞ 転(うた)た凄然たり

故郷今夜思千里  故郷 今夜 千里を思わん

霜鬢明朝又一年  霜鬢 明朝 又た一年

 

宿屋の寒々とした灯火のもと、ひとり眠られぬ夜を過ごせば、どうしたことか、旅の思いはいよいようら悲しさを増すばかり。こよい、千里をへだてて故郷を思いやっている私だが、明日の朝になれば、白髪の増えた鬢は、又一つ歳をとっているのだ。

もう一首加えます。同じく唐の時代の王いん(注)と言う詩人の作です。

今歳今宵尽  今歳 今宵 尽き

明年明日催  明年 明日 催す

寒随一夜去  寒は一夜に従って去り

春逐五更来  春は五更を逐いて来る

気色空中改  気色 空中に 改まり

容顔暗裏回  容顔 暗裏に 回(めぐ)る

風光人不覚  風光 人 覚(さと)らざるに

已著後園梅  已に著く 後園の梅

 

除夜の作には、悲しみの詩が多い。その中で、此の詩、己の容貌の衰えを自覚しつつも、自然の営みの中に、希望を見ると解説の一海智義氏は述べています。最後に同窓会ともいうべき詩を紹介します。此の詩は、平凡社から出版されている一色智義氏の「漢詩一日一首」(冬)で見つけたものです。

卞仲謀八老会

同榜同僚同里客  同榜 同僚 同里の客

斑毛素髪入華筵  斑毛 素髪 華筵に入る

三盃耳熱歌声発  三盃 耳熱して 歌声発す

猶喜歓情似少年  猶お喜ぶ 歓情の少年に似たるを

作者は、北宋の韓維という詩人で、蘇軾、王安石と同世代の人です。「同榜」の「榜」とは、科挙の試験の合格発表掲示板。従って、同榜とは、同年に進士の試験に合格したものをいう。さらにこの八人は、同僚であり、同郷の集まりでもある。残りの詩の部分は、字面を見れば大方想像がつきます。最後の句は、みんなのはしゃぎようは、まるで若者、まだまだ若さを失っていない。それが嬉しいのだ。ほぼ 一千年前の同窓会の歌だが、今昔の間を忘れさせる。と一色氏は結んでいます。

私も体調の関係から長いこと会への出席を遠慮していますが、この詩を見つけて、大変嬉しく思った詩題です。来る集まりでの 諸兄 諸姉のお元気な様子お想像するだけでも、気持にハリが出てくるようです。新しい歳にも 少しずつ新しい詩を紹介できればと念じています。

(注)”いん”の漢字ですが、漢和辞典や、私が困った時によく使う白川静氏の「字通」を当たったのですが出てきません。止むを得ずひらがな表示としたものです。資料の字を見ると言偏に旁(つくり)は西という字の下に土とあります。

ああ、”エーガ” の日々よ、帰れ !

月いち高尾今年の納めW(日影沢BBQ)の帰途、旧甲州街道散歩としゃれていた時、同行の川名くん(KWVではないのだが、後藤三郎の友人、といっても現代風に言えばチョー若く僕らの孫の年代の好青年)から、”ジャイさんのころって、どんな映画を見てらしたんですか?“と質問されて、天狗飯店までのあいだ、雑談した。僕らの中学高校時代には、ボウリングもなければテレビも始まったばかり、”部活“をのぞくと映画くらいしか世界を知るすべはなかった。 “エーガ”といえば座席取りから始まってスクリーンに投射が始まるまでのわくわく感、終わった後の一種の放心状態までをひっくるめての体験だ、といまでも思っているのだが、川名くんともなれば、 “あ、ダウンロードしてPCでみますから” とあっさりしたものだ。昭和も遠くなりにけり、と思うのだが、彼との話がバスの時間で中断してしまったので、”ジャイさんの好きだった映画”について、続きを書く気になった。

 

彼の第一の質問だった ”一番良かった映画はなんですか“ という質問には文句なく答えられた。ジョン・フォード監督、主演ヘンリイ・フォンダ、ヴィクター・マチュア、リンダ・ダーネル ”荒野の決闘” (現題 My Darling Clementine)、これに過ぎる映画はない。僕らならだれでも口ずさむ、例の ”雪よ岩よわれらが宿り“ の原曲が流れる、牧場の板看板をかたどったタイトルバックから、多くの人が”数ある映画の中でも一番美しいラストシーン“と言う最後まで、まさに映画である。西部劇ファンの間では決闘シーンでワード・ボンドが見せる見事なファンニング(拳銃の連続撃ち動作)だとか、荒くれと思われていたドク・ホリディ(ヴィクター・マチュア)が酒場でハムレットのセリフをいうところだとか、ロングショットにひいた馬車と巻き上がる砂塵のシーンだとか、そのあと、肺病やみのホリディが、せき込んでハンカチを出す。その白さゆえに被弾してしまう、その時の表情とか、なにしろ、いいんである。

 

高校から日吉時代、まさに映画の黄金時代だった。住んでいた大森山王に名画座というのができて、戦前の傑作もずいぶん見た。 だが当時傑作と言われた中で見た ”禁じられた遊び” (Jeux interdits) のショックが大きくて、その後、あまり考え込むような作品は徹底して避けるようになった。だから世の中の映画通と言われるインテリ層には馬鹿にされるのだが、それはともかくとして、僕の波長にあった作品を上げてみる。

 

僕の西部劇遍歴からいえば、第二にくるのはウイリアム・ワイラー監督、グレゴリイ・ペック、チャールトン・ヘストン、ジーン・シモンズ ”大いなる西部“ (The Big Country)だろうか。ストーリーはともかく、題名そのもの、“西部” の大きさ、自然の大きさを描いた映画だ。主演二人の殴り合いのシーンを思い切ってロングショットだけでとり、風の音の間に殴り合いの音だけが響き、人間の小ささ、やりきれなさを表したところなど、うっとりとしてしまう。

 

ワイオミングの自然がタイトルバックの直後から息をのむように美しいのがジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッドの ”シェーン“ (Shane) だ。話の筋は日本で言えば木枯し紋次郎の股旅ものだが、決闘の場面でラッドが見せた早撃ちの(正確な数字は忘れたが)スピードが話題になった作品である(クリント・イーストウッドの ”ペイル・ライダー“はこれのリメークである)。なお、アメリカ観光ルートの代表であるイエローストーンの少し南に位置するワイオミング州グランド・ティトン国立公園には、この映画の有名なラストシーンを撮影した場所が保管されている。

西部劇、と言えば代名詞にもなるのがジョン・ウエイン、資料によると生涯出演した作品は153本あるということだが、サイレント時代からの通算なので、題名だけではわからないが、西部劇がまず100本は越えていると思って間違いなかろう。僕自身、見たウエイン作品は43本あるが、西部劇でないものは8本に過ぎない。まさにミスターウエスタンだ。映画通と言われる人の間では、“駅馬車”(Stagecoach) が出世作とされているが、ジョン・フォード監督のもとでフォード一家、と呼ばれる常連(ヘンリー・フォンダ、ワード・ボンド、ヴィクター・マクラグレン、モーリン・オハラ、ミルドレッド・ナトウイック、ペドロ・アメンダリズ、ベン・ジョンソンなど)が必ず登場した通称 “騎兵隊三部作” (アパッチ砦、リオグランデの砦、黄色いリボン)や、だいぶ年になってからの娯楽的要素が強い ”リオ・ブラボー“、”チザム“、”エル・ドラド“ ”エルダー兄弟“ なども懐かしい。

 

だが僕が選ぶとすれば、その絶頂期に撮られた ”赤い河“(Red River) ”捜索者“ (TheSearchers), それと ”リバティ・バランスを射った男“ (The Man Who Shot Liberty Balance)になろうか。なお、ウエインが映画の中で死ぬのは、”硫黄島の砂“(Sands of Iwo Jima)、遺作 ”ラスト・シューティスト“ (The shootisit)、それとこの”リバティ“ だけのはずである。

 

西部劇談義を続けると、心理的描写がなんとか、などと批評家たちも激賞した多少シリアスもの、ゲイリー・クーパーの ”真昼の決闘“ (High Noon)、ストーリー展開が抜群に面白かったジェイムズ・スチュアートの“ウインチェスター銃73”(Winchester ’73) が思い出される。ただ西部劇、といえばすぐにガンプレイに話が行くが、銃を扱った人からすれば、ライフルならいざ知らず、拳銃であんなに簡単に的にあてることはあり得ないそうだ。しかしいずれにせよ、最後に殺されるべき悪役は必ず必要で、出てくるだけで”悪いやつ”と分かってしまう俳優も懐かしい。ブライアン・ドンレヴィ、ネヴィル・ブランド、ジョン・アイアランド、リー・マーヴィン、リー・ヴァン・クリーフ、ヴィクター・ジョリイなどである。

もひとつ、若い人がどこまでご存知かわからないが、かの悲劇のモナコ王妃グレース・ケリーがデビューしたのが上記 ”真昼の決闘“ であることを付けくわえるかな。そういえば、うちのカミさんなんかが夢中だった、これまた悲劇的な死に方をしてしまったモンゴメリー・クリフトがはじめて出演した西部劇が”赤い河“だったことも言っておこうか。

残念なことに昨今、西部劇映画はすたれてしまって、いい作品にであう機会は減ってしまった。その中では、だいぶ前にはなるがケヴィン・コスナーの ”シルバラード”(Silvarado) ”ワイルド・レンジ”(Open Range) は面白かった。特にワイルド・レンジの最後の銃撃戦は前記したように、現実的なものという批評があり、実際に10メートルと離れない距離であってもまず的に当たらない、ともかく数射つしかない、というリアルな場面がえんえんと続く。こういうリアリズムがいいのか、どうか、ロマンがないではないか、という議論も当然だが。

 

西部劇以外では、やはりかのハンフリーボガート、イングリッド・バーグマン ”カサブランカ“(Casablanca)、それとロバート・ミッチャムの ”さらば愛しき女よ“(Farewell My Lovely), もう一本ボガートものだがエヴァ・ガードナーの魅力をふんだんに見せた ”裸足の伯爵夫人“(The Barefoot Contessa),それとやはり、今では伝説的存在となってしまったが、”第三の男“(The Third Man)の四本ということになろうか。

特に”第三の男“、主演のジョセフ・コットンはどうでもいいが、オーソン・ウエルズの迫力、それとわき役だがトレヴァー・ハワードの演じる中年男ぶりにはただほれぼれしてしまうし、今や世界的クラシックともいえるテーマ曲が忘れられない。余計なことだが、”ポピュラー“ ナンバーの中で僕の愛好曲ベスト3がこのテーマにユーゴ―・ウインタハルターの ”カナダの夕陽“、それとフランシス・レイの”白い恋人たち“である。

ほかには第二次大戦欧州戦線に関するものは結構見た(太平洋戦線ものは数も多くないが、身近過ぎてみるのがつらく、敬遠してきた)。これはストーリーとしてよりも自分は高校で世界史を選択していないので、歴史知識の向上ということもある。抜群に面白くかつ史実をまなんだのが ”地上最大の作戦(なんと陳腐なタイトルかと思うが)”The Longest Day“とスターをならべただけ、と専門家の評価はよくないが、”遠すぎた橋“ ”A Bridige Too Far” の2本、製作意図は似ているがストーリーそのものも面白く娯楽映画的要素もあるのが “バルジ大作戦”(Battle of the Bulge) だった。

 

学びなおした史実はとにかく、この3本に出てくるエピソードで一番印象に残っているのが ”遠すぎた橋”で、ロバート・レッドフォードが演じた、白日下、敵から丸見えという条件で敢行させられる渡河作戦の描写である。その命令を部下に伝えたとき、全員が戦慄する。当然だろう。このとき、レッドフォードがこういうのだ。”Hey, don’t you have sense of humor ?” センスオブヒューモア、ということの大事さ、重要さはアメリカ人とつきあいがショーバイだった僕にはよくわかる。しかし、このような、自分の生命そのものが疑われている時も、彼らはその感覚を大事にするのか? これがアメリカ人であり、アメリカ文化の真骨頂なのか? いまでも僕には衝撃であり、教訓でもある。

映画から歴史を学ぶ。歴史家の中には司馬遼太郎の史観を悪く言う人も多いようだが、僕の日本史の知識はほとんどを彼の小説に負っている。なかでも ”坂の上の雲“はまさにそのような一つである。数年前、NHKがテレビ化したものも当然見たが、この印象というか感激はどうしても孫にも分かち合いたく、だいぶ出費にはなったがDVDの完全セットを購入して、かれの高校入学祝いにすべく、箱のまま、僕の机の下にある。

ま、それにしてもいい映画をテレビなんぞでなく、ましてやスマホなんてけちなものでなく、埃っぽい “エーガカン” で、それもシネコンなぞではなく、座席取りなんかやってから一息ついて、それから見てみたい。川名くん、いかが。それにしても My Daling Clementine, よかったなあ。も一度。

紅葉とジャズ  (44 安田耕太郎)

11月初旬、錦秋の紅葉を愛でに岩手県平泉の世界遺産「中尊寺」と「 毛越寺」に友人を案内して行ってきた。もう一つの目的は、隣町の一関市にある日本一音の良いジャズ喫茶「ベイシー」で音楽を聴くため。
快晴に恵まれレンタサイクルで縦横無尽に平泉を駆け巡った。芭蕉の有名な句「夏草や兵どもの夢の跡」に石碑からは眼下に北上川を見下ろし、遥か遠くには義経終焉の地・衣川と岩手山が望めた。標高差200m弱の小山の上にある中尊寺の金色堂辺りは紅葉真っ盛り。毛越寺ではゆったりとした趣きの異なる浄土庭園を楽しんだ。
散策の後はベイシーで夜中過ぎまでど迫力のJBLサウンドを堪能。 使用されている音響機器は勤めていた会社の製品なので、故郷に帰った気分で音楽を楽しんだ。聴くのは全てアナログLPレコード。ジャズ・クラシック併せて1万枚を越える棚に整然と収められた盤から、主人が名人芸で瞬時に抜き出して聴かせてくれる。ベイシー(Basie)はジャズ界の大御所Count Basie本人から命名された由緒ある店名。ライブ演奏も時々催し有名ミュージシャンの生が聴ける。トップの写真は毎年ライヴを行う渡辺貞夫。女優鈴木京香の横顔が前列に見える。
たまたま、「花子とアン」「外科医 ー 大門未知子」「西郷どん」の脚本家 中園ミホが来訪。脱稿して息抜きに音楽を聴きに来たとのこと。明治維新の話にも花が咲く。紅葉に目も心も高揚し、ジャズに耳も魂も昂揚した、いい秋の東北への旅だった。