焼岳へ行ってきました (39年バディ4人組)

部屋からの奥穂~吊り尾根~前穂~明神の夕景

(岡沢)

39年卒の何時もの4人組で中の湯温泉2泊で 焼岳登山と上高地散策を
楽しんで 今帰ってきたところです。 こんな時節なのにねえ!
(三嶋)
コロナ禍と猛暑が続きますが、お変わりない事と思います。
岡澤さんからの連絡で 写真を送付します。
   川面に霧がたつ幻想的な大正池 からの焼岳
8/25に中の湯から 日帰りしましたが、コースタイム6h のところ9h近く、標高差1000m弱 はきつかったですよ!
最後は ”ヤケ”だけで歩いた感じで、謂わば体力の”耐久試験”でした。
しかし 山頂からは奥穂~吊り尾根~前穂~明神 のパノラマは最高で、足下には上高地の眺めに大満足。
中の湯温泉は部屋からの眺望も良く、2泊して のんびり温泉を楽しみました。
暫くはお目にかかる機会がありませんが、お互い健康に過ごしたいですね。
   山頂部の 正賀池
(編集子)4年の夏、所属していた平井ゼミ(社会思想史)の夏合宿設営をおおせつかり(同期翠川と小生はもともと娯楽要員として難関突破、入会できたらしいので当然の成り行き)、よしよし、と場所を上高地にしてしまった。当然購読よりもそちらのほうがメインで焼岳コースを一般向けに設定し、われわれは奥又池をのぞきに行った。このときが小生にとっては唯一の焼岳登山の機会だったのだが、以後、沈黙のまま今日まで来てしまった。ほかに同様の理由で入会を許された37年の山川三千雄、渡辺護、井上(近藤)智香子、それと佐藤(トーゼン翠川)紀子が同行。いやあ、ゼミって楽しかったなあ。

火打と妙高の旅  (39 堀川義夫)

7月17日(金)から2泊3日の予定で火打山と妙高山に行きました。以下は、コロナ過の中での交通機関、山小屋の状況、登山内容など報告します。参考になれば幸甚です。

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梅雨は明けないし、コロナで山に行けるのやら行けないのやら良くわからないが家内のショートステイが予約で来たので、えーい、何とかなるだろうと出かけてみた。

★往路は東京駅まで田園都市線の始発を利用したので、空いている。東京から長野への新幹線は1車両に私の友人と2人の他1名の計3名しか乗車していない。途中、高崎、軽井沢で何人か乗ってきたが、長野で全員降車。長野から妙高高原は、通学列車で結構混雑していたが、3つ目の駅で大半が下車し、妙高高原駅で下車したのは我々2名だけ。そして、笹ヶ峰行のバスは大型バスにやはり3名しか利用者はいませんでした。ということで、コロナに感染するリスクはほとんど心配なし。

★登山届を出し、協力金一人500円を寄付して木製バッジを貰い高谷池ヒュッテ目指して10時50分に出発。空は梅雨空ながら雨は降っていない。何とか小屋までは雨が降らないようにと祈りつつ良いペースで登山開始。コースタイム3時間35分のところ途中で昼食を取り、14時40分頃小屋に到着。

高谷の池越しの火打

まあまあのペースで登ってこられた。そして、小屋番に夕食は5時30分からですよ、それまでに小屋へ戻って下さいよと念を押されながら15時に火打山へ向かう。火打山はガスで見えていない。ただ、ピークを踏みに行くのみ!!池塘の高谷池、途中のお花畑、天狗の庭(池塘地帯)は素晴らしい。疲れが出てきたのか、空身に近いのにコースタイム通りに歩くのが精いっぱい。お花畑で遊んだ分遅れて17時40分帰着。小屋番に遅れを怒られながら(笑)カレーライスの夕食を頂きました。ビールが旨い!

★小屋のコロナ対策

*館内は全員マスク着用

*寝床は宿泊者が5名で空いているせいもあるけど一人ワンブロックづつで、前面左右は透明のビニールで覆われ、完全な個室状態。言わばカプセルホテル。

*布団、枕、毛布などはもちろん用意されているが、予約の際、出来れば個人のシラフ、インナーシーツ、シラフカバー等を持参するように勧められる。私はシラフカバーを持参。確かに寝具はいろいろな人が利用するわけだから良いアイディアだと思いました。小屋利用の場合これからは常備品にすることにします。

翌日、明け方まで雨が降ったようでしたが、曇りで遠望も利くまあまあの天気に恵まれ、昨日、登った火打山、北アルプスも結構近くに見えるなか、6時20分妙高山を超えて燕温泉へ出発。気持ちが良い。小1時間で黒沢池ヒュッテに到着。

黒沢池ヒュッテ

ここはコロナで本年は営業を断念。営業していませんでした。外輪山の大倉乗越を通過し、途中、雨で崩壊した登山路を慎重にクリアして妙高山への登り標高差450m地点に到着。雨がパラパラと来たので雨具を着け頂上に向け急登を開始。コースタイム1時間30分。きつい! 昨日とは打って変わり、身体が重い! なんとコースタイムを1時間もオーバーして、やっとの事、頂上に到達。記念写真もそこそこに下山開始、ところが下りもスピードが上がらない。言訳ではないが、非常に石がごろごろして歩きにくいこと、この上もなく大幅に時間オーバーで15時30分にバテバテで燕温泉に到着。到着と同時に大粒の雨が降り始めた。ラッキー!! 宿泊のプチホテルの出迎えを受けて赤倉へ。

宿泊はユアーズイン。友人の紹介で宿泊しました。                   慶應医学部ヒュッテの隣で、非常に気持ちの良いオーナー夫妻で温泉付き、料理も大変美味しく言うことなし。ぜひ、スキーシーズンに行きたいものです。ご主人はテレマークを教えています。

何れにしても、近年は急登、急降下は本当にこたえる。もう少し、足腰の訓練をして鍛えないとだめだと身に染みての下山でした。

 

(久米行子)火打山・妙高いらしたのですね。2006年のKWV夏合宿で火打山・妙高を登りました。火打山は高山植物の宝庫ですね。晴れていれば360度の眺望が素晴らしいのですが・・・確かに妙高の登り、下りはきつい物がありますが下山してからの宿泊所のお食事はおいしそうで羨ましく思いました。まだまだお元気なことです!

(編集子)赤倉塾医学部ヒュッテは高校のとき何回か利用した。その後火災で全焼し、立て直しの寄付をだいぶ払った(つまり、父親が)が、その時も再建したあとも一切挨拶をもらった覚えがない。この文章をみて思い出した。なんなんだ、医学部は。

 

 

”とりこにい” 抄 (9) 真教寺尾根

結婚して長女ができるまでの2年ほど、夫婦ふたりで気ままに歩きまわった。ある6月、野辺山の民宿に前泊、真教時尾根をラッシュした時の、平和な時間の感想である。時季は少し違うけれど、今年もあのアルプは穏やかに息づいているだろうか。

 

赤岳の午後

 

みおろせば。

六月の積雲にわずかな起伏をしめす

あれは美し森、清里、野辺山、念場が原。

コンターをたどる愚かはやめて

歯にしみとおる胡瓜の涼しさに声を上げれば

東壁にへばりついた季節外れの雪は

昼下がりを退屈そうに落ちていった。

見上げれば赤岳 2899メートル

なんの すでに貧相な岩くれにすぎぬ。

なれば。

今一度 水筒を傾け

去ってゆく雪のバラードを聴こうか。

 

 

足慣らしの丹沢    (39 岡沢晴彦)

39年卒の 岡沢です。 同期の三嶋君に誘われて 三人で 西丹沢の畔ヶ丸に登ってきました。

西丹沢自然教室迄 三嶋君の車で行き 8時半着 雨の降りそうなガスに覆われた天気なのでレインコートをつける。 40分位沢のなかを行く 何度も堰堤を超え 昨年の台風で流された丸木橋 何度も渡渉をくりかえす。日の光はないが木々の緑のその明るさ 鮮やかさ 最高です。

本棚から善六ノタワ迄の一時間の登りは結構きつかったです。あと頂上までは凸凹のある尾根筋を一時間 タイムコース3時間を 休憩を入れ3時間半 12時20分着 尾根筋は結構崩れており階段等 だいぶ手を入れているが 何年か先が思いやられる。 ブナ林はガスに包まれ 幽玄そのもの。

頂上の避難小屋は 解体され同じところに新築中。 下りは大滝峠 一軒家避難小屋経由 大滝橋へ避難小屋までは急な下り階段が続く。小屋から下の沢は 滑状で 上から見ると 澄んだ流れがまたよろしい。 とにかく緑に包まれた一日でした。 大滝橋 3時45分着 3時間かかる但し 私は林道に出てから 歩くとき体が右に傾き自分でもどうにどうにもならない状態でした。。

三嶋君と話したのですが 7時間の山行は 79歳としては 今の状態では限度かなということでした。

(中司)

ご苦労様に存じます!丹沢はとんと不案内で、高校3年の春、雪の中をまだできていなかった宮ケ瀬ダムへ、主脈からおりたのがただ一度です。やはり沢なんでしょうね,。79歳で7時間、立派なもんです。僕で言えば5年前ですから、もう高尾しかいかない!と決めた年齢であります!このつぎはもうケーブルでしか行かない!の決断ですかな。

Sneak Preview (4) (44 安田耕太郎)

スコットランドでの驚き

南からエディンバラの市街中心部へ入って目に飛び込んできた光景が忘れられない。切り立った岩山の上に要塞のようなエディンバラ城が聳えていた。

6世紀にケルト人が建てた砦が起源であるという。 旧市街も石造りの建物は中世の香り豊かで散策も楽しんだが、何と言ってもエディンバラ城であった。街から見上げても城内に入ってもその迫力と存在感に圧倒された。城全体が「キャッスル・ロックCastle Rock」と呼ばれる岩山の上にあるので、市内全体に加えて北海まで見渡すことが出来る眺望は「素晴しい」の一言だ。バグパイプを吹くタータンチェックのスカートを身に着けたおじさんも歓迎してくれる。いかにもスコットランドに来たな、という気持ちになる。

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdomイギリス)のカントリーのひとつであるスコットランドは1707年までは独立した王国であった。現在でも独立志向が強く政治的懸案事項となっている。

スコットランドに来て驚いたのは、スコットランド地元の民間市中銀行が発行するポンド紙幣が流通していたことだ。エリザベス女王の図柄のイングランド銀行(日銀に相当する中央銀行)発行のイギリス公式のポンド紙幣は勿論流通していて、両方が併存しているのにはびっくりした。これは連合王国に併合される1707年以前の独立国当時のまま造幣を維持していて、現在ではイギリス連合王国の一地方にもかかわらず昔のままスコットランド独自のポンド紙幣を発行し流通させているのである。ただし、スコットランド域外のイギリス国内では使用、両替が制限されているので、スコットランド域内で使い切るようにした。イギリス国外では使用は不可能であった。

このように旧来から流通する紙幣が数百年後の現在でも併存する不思議な現実が一例として示す通り、EU離脱か留まるかのブレグジット問題でもイギリス中央政府とスコットランドの民意は相違していて、微妙な国内問題を抱えているイギリスとスコットランドの関係である。

ちなみに、スコットランドの旧名はラテン語でカレドニアと称したのは既に述べた。南太平洋上の島ニューカレドニアは18世紀後半イギリス人探検家キャプテン・クックによって発見され、新しいスコットランドを意味するニューカレドニアと命名された。数十年後にはフランス海外領土となったが現在に至るまで名前は変わっていない。

エディンバラ城とエディンバラに大満足してスコットランドの奥地に向かった。

 

スコットランドはケルト人(Celtic)が住んでいた地域。ケルト語のひとつゲール語(Gaelic)を話す人達であった。ゲール語で湖(lake)をロホ(loch)という。よく知られたスコットランド民謡ロホ・ローモンド(Loch Lomond) はローモンド湖を歌った民謡。怪獣が出ると言われたネス湖は現地ではLoch Ness(ロホ・ネス)という。

そのスコットランドの中央部を真っ直ぐハイランド地方の首都インヴァネスを目指した。深い森の中を静かに進むといった移動中、ノルウェーに次いで二人目の女性運転の車をヒッチハイクした。中年の女性で道中の会話はなまりが強くよく聞き取れず、日本と中国の区別がはっきりとは分かってない印象を受けた。しかし、親切なヒッチハイクに助けられたのは間違いない。

次に男性二人連れの車に乗った。おやっと思うことがあった。二人の話す英語が全く分からない。方言が強く聞き取り難いのは想定済みであったが、それにしても全く分からない。二人に尋ねて解った。なんと古来より地元では使われているゲール語を話していたのだ。初めて耳にした言語だった。破裂音がするオランダ語のように聞こえた。英語とゲール語が公用語であるが、スコットランド人口5百20万人のうちゲール語を話すのは6万人強(100人に1人)で年々減っているという。情報としては知ってはいたが、まさか古来の現地語ゲール語をスコットランドで耳にするとは思わなかった。

 

インヴァネス(Inverness)はスコットランド北部の行政区割りでハイランド地区随一の町で事実上の首都。これに対してローランド地方の首都はエディンバラだ。北国の静まり返った町だった。インヴァネスは「ネス川の河口」を意味する。北にあるといっても北欧のオスロ、ストックホルム、ヘルシンキより南に位置している。しかし、より人里離れた感じがした。冬は日照も少なく雨も多く寒い気候の下、人々はどんな生活をしているのかと想像した。多分スコッチウイスキーが手助けしているに違いないと思った。

ユースホステルに泊まり暮れるのが遅い静かな町を散策した翌日、町の中心部からヒッチハイク開始、10キロほど南に行くとネス湖に達する。幅は2キロと狭く35キロの細長い湖の湖岸に沿って延びた道を南下した。岸辺に廃墟になった城があり、村や人家にはほとんど出くわさなかった。勿論、ネス湖には怪獣はいないが、いても不思議でない暗い神秘的な雰囲気は充分味わえた。スコットランド(ブリテン島も)には高山はなく1000メートルを少し超えるのが最高峰。寒さと風で樹々も育たず丘陵は緑の背の低い草木に覆われていた。やたら放牧された羊の数が目立つ。やがてスコットランド民謡「ロッホ・ローモンド」で知られたスコットランド最大のローモンド湖(Loch Lomond)に着いた。

スコットランドは北海道をもっと過疎にした自然がそのまま残されていて、面積は北海道より小さく一周するのは存外早かった。人口は北海道より少し多い。最大の都市グラスゴーに一泊後、ロンドンへ戻るべく南下ルートを選んだ。スコットランドを離れるに当たってスコッチとして有名なウイスキーについてひとこと。

中世の終わり近く薬酒として修道院が独占的に製造していたが、16世紀宗教改革が起こり、ヘンリー8世によるイギリス国教会設立もあって修道院は解散させられた。その結果、修道院から蒸留技術が農家など民間に広まった。独特の香りを産む泥炭(ピート)の生産も豊富で、権力側は酒税収を当てにするようになる。自然な成り行きだ。製造者は奥地であるハイランド地方(Highland)や西海岸の沖合ヘブリディーズ諸島(Hebrides)へ製造場所を移し、理不尽な税取り立てから逃れるため、さらにアングラで密造した時期もあったのだ。スコッチウイスキーの製造がハイランド地方や、西海岸の沖合アイラ島(Islay)を含むヘブリディーズ諸島などの辺鄙なまたは田舎地域に集まった理由である。

大麦麦芽のみを使用したウイスキーが「モルトウイスキー」。そして「シングル」が意味するのは単一の醸造所で造られたウイスキーをボトリングしたものだ。つまり、一つの醸造所で造られた「モルトウイスキー」だけを瓶詰めしたのが「シングルモルトウイスキー」。

ハイランド地方東北部インヴェネスの東50キロの所にはスペイ川(River Spey)に沿って世界最大の醸造地域スペイサイド(Speyside)がある。スペイ川の流域は綺麗な湧水に恵まれ、周辺はピートの生産地でウイスキー生産にはうってつけの場所。スコットランドのモルトウイスキー醸造所の半数近い50を超える醸造所があり、まさにウイスキー産業のメッカだ。このスペイサイドは長年モルトウイスキー密造酒エリアだった。現在まで続くグレンリベットが最初に政府から公認された醸造所となった。ということは、それから税金を払いだしたということ。1824年のこと。

彼らの醸造所とシングルモルトウイスキーは特別に定冠詞がついて「The Glenlivet」という。さらに同じスペイサイドに醸造所を構えるシングルモルトウイスキーのロールスロイスと称されるザ・マッカランも「The Macallan」という。 創立は1824年で酒税を納める政府公認醸造所第2号となった。ウイスキーに「The」が付くのはこの二つのみだ。あまたのスコッチウイスキーの中にあって特別な存在なのだ。政府に公認されて酒税を納めていたこれらの先駆者は密造を続けていた他の醸造所からは当初白い目でみられていたという。

ちなみにスコッチウイスキーにはグレン(Glen)の名を冠した銘柄が目立つ。

The Glenlivet以外にも、グレンモーレンジィ(Glenmorangie)、グレンフィディック(Glenfiddich)などいくつもある。Glenはスコットランドの現地語ゲール語で谷、渓谷の意味。ザ・グレンリベットは「リベット川の谷」、グレンモーレンジィは「静寂の谷」、グレンフィディックは「鹿の谷」を意味する。

 

 

Sneak Preview (3)      (44 安田耕太郎)

アルプスを満喫

サンモリッツへの道はインスブルックから200キロの山間の道を縫うようにして蛇行していた。山国スイスへいよいよ入ってきた。スイス国境付近には4000メートル近くに達する高峰が聳え夢に描いたアルプスに近づいた興奮で少しドキドキしたことを覚えている。

サンモリッツは標高が1800メートルもある高所に位置している。南に15キロ行けばイタリア国境でドロミテ(Dolomiti)山塊も遠くない。夏冬ともレジャー施設と素晴らしい自然風景には事欠かないスイス有数の観光保養地だ。ヒッチハイカーには随分高級過ぎる街の佇まいであった。が、運良くユースホステルもあり出費も抑えられた。サンモリッツの町の真ん中にはサンモリッツ湖があり、対岸のアルプスの山々を湖面に映し、ユースホステルからの眺望も素晴らしい。

サンモリッツ

好天に恵まれトレッキングに終日行くことにした。最高峰4049メートルのピークを持つ大きなベルニア(Bernina)山塊がイタリアとの国境に向かって横たわっている。その山麓をトレッキングした。トレッキングといっても標高1800メートルからのスタートで3000メートル近い高所まで登ったはずだ。雪と氷に覆われた山頂付近の絶景を眺め、晩夏から初秋に移り変わる少し早い紅葉も楽しめた。訪問の目的は叶えられ満足感一杯でサンモリッツ湖を眺めながら下り、ユースホステルに戻った。

次はグリンデルヴァルドへ、サンモリッツからは山間を縫うように走り湖の間を意味するインターラーケン(Interlaken)を目指した。名前の通り二つの湖に挟まれた、ベルナー・オーバーラント(Berner Oberland)地方の観光拠点の入口にある数千人ほどの小さな美しい町だ。そこからはスイス国内でも最も美しいと評される深い谷のひとつであるラウターブルンネン(Lauterbrunnen)に立ち寄ることにした。インターラーケンからは10キロほど南に行ったところにある。

この辺りはスイスのほぼ中央部だ。深い谷の細い裂け目、壮大な氷河、切り立った崖の絶壁、雪に覆われた峰々、50を超える滝に囲まれている。お伽話に出てくるようなスイスアルプスの村が山腹や谷間の草原に点在していて、信じがたいほど美しい。谷の入り口辺りでヒッチハイクの車から降り、2時間ほど歩いて素晴らしい至極の風景を満喫した。

ラウタ―ブルンネン

北の方角インターラーケン方面に少し戻り、右折して東へ、夕方近くにグリンデルヴァルドのユースホステルにチェックインした。途中ヒッチハイクの車から車を乗り継ぐ間は道端を歩くのであるが、秋のシーズンとあってリンゴ畑などではしっかりとリンゴを失敬してビタミン補給にも努めた。スイスのリンゴは日本のふじ、王林、紅玉などよりずっと酸味が強くて食感は硬めであった。

グリンデルヴァルドに近づくと右手前方にアイガーの北壁が望まれゾクゾクした。当時、アルプス三大北壁登頂がアルピニストの憧れの挑戦コースになっていて、日本人登山家も果敢に挑んでいる頃であった。目の前のアイガー、次に行く予定のツェルマットから望めるマッターホルン、それとフランス・モンブラン山塊のグランドジョラスが三大北壁だ。  グリンデルヴァルトは標高1034メートル、街から南西の方角にアイガー(Eiger3970メートル)、メンヒ(Mönch4107メートル)、ユングフラウ(Jungfrau乙女の意4158メートル)のベルナー・オーバーラントアルプスの名峰三山が並ぶ壮大な景観がひろがる。街のやや左前方、アイガー峰の左手にはヴェッターホルン峰(Wetterhorn)3701メートルが衛兵のように聳えている。グリンデルヴァルトから高度差3000メートルの天空に聳える岩と氷雪の名峰群に見とれる。

翌日早速歩き出した。電車で9キロ先のアイガーとメンヒの中間標高約3500メートルのユングフラウヨッホ(Jungfraujoch)まで連れて行けるが、懐と相談して電車は諦め標高2061メートルの中間乗り継ぎ駅クライネ・シャイデック(Kleine Scheidegg)まで歩く。電車で行くには勿体ないほどの素敵なハイキングコース、アイガー北壁の真下から壁を見上げながらゆっくり歩くのは、電車で通り過ぎるより圧倒的に貴重だ。垂直に近い角度の壁が高さ1800メートルにわたってそそり聳えている。登攀するクライマーも見え、歩くのを止めしばし見上げてスリルをお裾分けしてもらった。いつまでも歩いていたい快適さだ。

アイガー北壁

クライネ・シャイデックはアイガーとメンヒの中間地点、三峰を望む峠になっていて、至近から標高差2000メートルの雪と岩の殿堂を仰ぎ見る迫力に圧倒された。前日訪れたラウタ―ブルンネンからは登山電車を乗り継げばこの峠に達することができるが、迂回してグリンデルヴァルド経由にして良かったと思った。峠までの絶景を歩いて堪能できたからだ。周囲の峰々と眼下に箱庭のように広がる美しいグリンデルヴァルドの村を見下ろしながらゆっくり歩いて戻った。

次の日は三山とグリンデルヴァルドを挟んで対面にあるトレッキングコース、三山からは少し離れるが全体が俯瞰できて違った味わいを満喫。あと1日はグリンデルヴァルドの街でゆったりと至福の時が流れていった。アルプス山脈の高原地帯に広がる緑の牧草地アルプ(Alp)は周りの山岳風景と調和して見事としか形容できない。その緑の絨毯を縫って歩道が整備されており、スイスアルプス地方特有の建築「シャレ―challet」と呼ばれる大きな屋根の突き出た山小屋タイプの家屋やホテルの軒先は色とりどりの花々で彩られていて、現実離れした絵のような美しさである。次は名峰マッターホルン((Matterhorn)の麓ツェルマットへ向かう。道中は飽きることなく周りの景観を楽しませてくれる。贅沢なひとときだ。

スイスを旅して気づいたことが二つあった。

まず銃を背負った軍服姿の男性を町や駅で見かけたこと。国民皆兵を国是とするスイスの徴兵制は、20-35歳の男子は初年度の15週間の兵役訓練を終えると、毎年約3週間の補充講習・訓練を受け20歳から数えて通算で合計260日の兵役に就かねばならない。その後は予備役に算入される。徴兵制を終えた男子(予備軍)を加えると40万人の兵士が、他国の侵入など有事の際には6時間以内に、動員できる態勢が普段からできている。町で見かけた軍服姿はちょうど徴兵された時期で任務地へ移動中か、週末に自宅に一時帰宅の最中だったのであろう。人口800万の国にしては大変な動員力だ。職業軍人数は4~5千人といわれている。

もうひとつは、山間の谷に軍用ジェット機の滑走路があって驚いた。付随して山腹の崖には穴をあけて格納施設が備わっていた。軍事基地が岩山をくりぬいた地下に建設されるなど高度に要塞化されているという。

近世になり18世紀初め頃より時計などの精密機械産業が勃興した。16世紀の宗教改革後、フランスでは数十年に亘ってカトリックとプロテスタントが争った。ユグノー宗教戦争である。迫害されたユグノー(Huguenot)と呼ばれたプロテスタントの技術者が、フランスを逃れてスイスの西部地域などに移り住み、彼らが時計など精密機械工作技術を持ち込んできた。時計工場がジュネーブから北部のフランス国境沿いのジュラ山脈渓谷の町に集まっている理由のひとつである。

山間の貧しい国として、スイスの主な産業のひとつは傭兵であった。スイス人傭兵が敵味方に分かれて戦うことは珍しいことではなかった。よく知られているのはヴァチカン市国を護衛するスイス衛兵。サン・ピエトロ大聖堂ではミケランジェロがデザインした凛々しいユニフォ―ムを着た護衛するスイス衛兵に会える。

スイス傭兵

オーストリアと共に永世中立国の立場を堅持、EUにも加盟せず独自の貨幣スイスフランを流通させている。国連に加盟したのも今世紀になった2002年。世界でもトップクラスの所得水準を誇り、精密機械工業(時計、光学器械)のほか観光業、金融業(銀行、保険、証券)、化学薬品工業、電力業などが主たる産業だ。

標高1608メートルのツェルマットに着いた。長野県北アルプス(飛騨山脈)南部に位置する有名な山岳景勝地・上高地とほぼ同じ標高だ。ツェルマットにはガソリン自動車は乗り入れ禁止。街の手前でストップして歩くか電気自動車で街中まで行くことになる。サンモリッツやグリンデルヴァルドと違い、周囲を山に囲まれた細い谷に開けた村だ。南の方角奥まった高い所に三角錐の圧倒的な存在感のマッターホルン峰の姿が目に飛び込んできた。興奮を禁じ得ない。

ユースホステルは絶好の位置にあった。マッターホルンを見上げるのに前方に何の障害もない。運良くベッドが南側の窓のそばにあったお陰でベッドから三角錐がいつも眺められた。一泊千円以下の宿泊費でこれ以上の贅沢は望めない。ツェルマットには一週間滞在したが毎日飽きることなく眺めた。

マッターホーン

特に素晴らしかったのは、日の出の時間帯である。谷はまだ暗く闇に包まれている時刻、穂先に陽の光が当たり、雪もついた三角錐が上から下へと段々と黄金色に染められて行く。筆舌に尽くし難い、とはこういう超絶した美しさのことをいうのだろう。滞在期間中は毎朝見惚れていた。見上げる標高4478メートルの頂上までの標高差は2800メートル、上高地から望む奥穂高岳3190メートルと比べると1000メートル以上の差があり、迫力が違う。

経済的理由と歩くことが好きなので登山電車に乗らず、標高3130メートルの展望スポットであるゴルナーグラート(Gornergrat)まで歩く。標高2300メートル辺りが森林限界で次第に眺望が開けてくる。途中には写真でよく見る小さな池にマッターホルンの秀麗な姿を逆さまに映す有名な箇所で休憩した。当時は歩くスピードも速く田中陽希ばりに高度と距離を稼いでいたのではないか。標高差1500メートルを一気に登った。

魅力は何といっても眺望だ。ヨーロッパアルプス4000メートル峰の4分の3に当たる29座がツェルマット周辺に集まり、ゴルナーグラートを360度取り囲むように聳えている。まさに絶景だ。南西方面遠くにはアルプスの女王と呼ばれるヨーロッパ最高峰モンブラン(Mont Blanc)4810メートルの雪帽子も手が届いてしまいそうな距離に感じられる。すぐ南側にはゴルナー氷河を挟んでスイス最高峰モンテローザ(Monte Rosa)4634メートルが威風堂々とした山容で迫り、右(西)に目を移せば異なる姿のマッターホルン東壁がこちらを向いている。直線で7~8キロ近く離れていると思われる両峰の間に横たわる広大な氷河の斜面では、小さな豆粒のようにスキーをしている人達が見える。スキーをしたくなった。最近のアルプスの写真を観ると雪が圧倒的に少ない。50年前スキーをした初雪前の10月でも随分標高が低い、今では山肌が露出した山腹まで雪で覆われていて、積雪量も結構あった。地球温暖化の深刻さを突き付けられる。

ゴルナーグラートハイキングの翌日、道具一式、ロープウェイ、リフト代と想定外の結構な出費であったがスキーを楽しんだ。充分過ぎる価値があり元は取れた。服装はスキー用ではないが転ばなければ、それ程寒くない快晴のスキー日和で運にも恵まれた。Tバーに初めて乗った。両足でバーをまたがり腰掛けスキーは雪面を滑っていくリフトだ。苦戦したが慣れてきた。イタリア国境の峠3300メートルまで行ってマッターホルン東壁を左手、モンテローザを右手に見ながら氷河上の雪の斜面を滑った。マッターホルン峰はスイス・イタリア国境に聳えておりイタリア語ではチェルヴィーノ(Cervino)という。スキー斜面は国境稜線をまたいで両国側に広がっている。イタリア側の麓の町チェルヴィニア(Cervinia)までイタリア北部の都会ミラノやトリノからも遠くなく、イタリア人も多い。

レストランはイタリア側が経営する料理が圧倒的に美味しかった。多くの人がワインを飲みながら日光浴をする優雅なヨーロッパのスキー文化に触れた。旅の全行程中、最高に贅沢なレジャーとなった。山行トレッキングコースは幾つも用意されていて、滞在中方々のコースを歩き、ツェルマットを心ゆくまで満喫して、次はジュネーブに向う。

ツェルマットからは谷を下り、平坦な地域まで行って西に方向を変え、レマン湖北岸をドライブした(ヒッチハイクで)。対岸にはフランスのミネラルウォーターで知られる町エビアン(Evian)が望まれ、その後方にはモンブラン峰に連なるフランスアルプスの峰々が遠望できた。

熊野神社市民の森     (34 小泉幾多郎)

先日久しぶりに市民の森を散策してきたので、報告。

杉山神社

月いち高尾を引っ張っていただいている、堀川、岡沢の両君が、高尾の代りに市民の森を散策されていることを知り、その刺激を受けて近所の熊野神社市民の森を散策してきた。熊野神社は、東急線大倉山駅から10分程度にあり、3本足の八咫烏(やたがらす)を御社紋としていることから、日本サッカー協会の同じシンボルマークである公認のお守りや絵馬が販売されている。参拝者も多く、資金も潤沢なのか?

入口のところを何か修理工事を行っていた。本殿裏手から鎮守の森を少々上ると小高い権現山に。樹々の間から武蔵小杉方面の高層ビルが望めた。一旦元の場所へ戻り、住宅街をちょっと抜けて、再び樹々の囲まれた小道を歩く。鬱蒼と樹々が茂り周りは住宅街なのに、喧噪をわすれ散策を楽しめた。天神平という広場を

権現山から武蔵小杉方面を望む

過ぎ、階段状の道を下ると杉山神社境内へ。前に来たときは、みすぼらしいような目立たない神社が見違えるようで、階段やら鳥居や参道も立派。調べてみたら、平成14年(2002)か17年(2005)にかけて、大整備を行ったとのこと。ということは、もう20年前以来の訪問だったのだ。いやーあまりの年月の早さに唖然としてしまった。この杉山神社という名前の神社、横浜だけで35社もあるとのこと。

天神平の天然林

全てが鶴見川流域にあるのが特徴で、暴れ川と言われ、幾多の水害をもたらしたことから、その水害除けの方策を願って。流域各に杉山神社が祀られるようになったと言われている。

久しぶりに歩いたせいか、約1万歩、情けないことに帰宅したら脚が攣ってしまった。

(編集子 足が 攣る なんて字、読めても書けない! よじ登る と同じだっけ?)

月いちメンバー家に籠る (26)  (39 堀川義夫)

 

気が狂いそうです。毎日毎日ワンパターンの生活にうんざりしています。山は行っても問題ないのでは、と思うのですが・・・??

パチンコ屋は自粛規制にも関わらず営業をし続け、また、そこに行く馬鹿が沢山いるという現実は本当に理解しがたい! ゴルフ場はやっているところが多いようですね。山はだめでゴルフ場は良い、と言うのもうなずけないですね。まあ、この際はお上の方針通りに従う従順な市民に徹しきりましょうかね。

また、寺家ふるさと村の話で恐縮です。これしかないのです!!!ふるさと村から500mも行くと町田市に入りますが、昨日初めて下三輪玉田谷戸横穴墓群と言うところに行ってみました。説明は以下の写真の通りです。

アヤメ? カキツバタ? 私には区別がつきませんが・・・?? 結構群生して咲いています。Googleで調べると花びらの付け根に以下の違いがある様です。

【アヤメ】花弁の根元が白と黄色、網目模様がある
【ハナショウブ】花弁の根元が白と黄色、模様なし。アヤメの後にハナショウブの時期(6月)が来る。
【カキツバタ】花弁の根元が白一色で模様なし

と言うことは、これはアヤメ???

(編集子 石渡博士、返事してやってもらえますか?)

 

もうじき田植えがはじまるようだ

 

 

Sneak Preview (1) (44 安田耕太郎)

ラパスの夜景

(編集子注)先回紹介したが、安田耕太郎君が近々、著書を刊行する。刊行に先立って、その一部を何回かに分けて紹介してもらうことになった。HP社において、マーケティングに参画していて少しばかり理論をかじった時、製品発表に先立って、戦略的に行う部分的な開示を Sneak Preview ということを教わった。今回以降、何回かに分けてお届けする。

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(1)犬と5400m 峰を登る

ラパスとイリマ二峰6438m

平和を意味するラパス(La Paz)は色々な面で世界でも稀有な都市である。標高が町の一番低い所でも3600メートルある。ランドマークである標高6438メートルのイリマニ山Illimani (ボリビア第2の高峰)が町の至近25キロに聳えている。東京からみて横浜の位置に北アルプス級の2800メートルの山が聳えているようなものである。Illimaniは先住民の言葉で「黄金のコンドル」を意味する。古くから信仰の対象となっていた崇高な山なのだ。

すり鉢状の盆地に都市が建設され、標高が低い、酸素濃度が高い底の地域から人が住み始め、富裕層が住む住宅街も底に集まっている。政治行政の中枢建物も商業施設も底に集まっている。すり鉢状の山腹には底から段々上に住宅がびっしり建っていった。底と上部は400メートルの高度差がある。

朝プーノを発ってチチカカ湖を船で渡り、ボリビア領の湖畔の町から乗ったバスが北の方角からラパスに近づくと、あっと驚く風景が目の前に現れる。色彩も綺麗な夕焼け時に崖の上から見下ろすと、すり鉢状の盆地に町が広がり、左手南東の方角には巨大なイリマニ山が仁王様にように聳えている。強烈な印象が残る光景だった。

インディヘナと呼ばれる先住民が多く目立った。女性は長い髪を三つ編みにして垂らして帽子をかぶり、色鮮やかな民族衣裳に身を包んでいる。 街は都市計画など無しに盆地の底から発展したに違いないが、ごちゃごちゃした混沌が独特の魅力を醸し出していた。

情報収集の為日本大使館を訪れた。立ち寄る日本人が少ない時代、親切に対応してくれた。ラパスから北へ15キロ離れた山に東京大学の宇宙線研究所があり日本人も常駐している。ちょうどそこに行く研究者がいるので紹介する、との予想外の嬉しい話の展開。

2日後、研究所の車で連れて行ってもらった。研究所施設は1962年開設でブラジルとの共同運営。4500メートルを超える高所に位置していた。早めの昼食などご馳走になり、2時間ほど歩けば頂上に行けるよ、との言葉に乗って独りで登ることにした。独りといっても人間は一人だが研究所で飼っている犬が一緒についてきた。勿論、初対面であったがこの人なつっこい犬は途中で自分の棲家(研究所)に戻りもしないで頂上までついてきた。5000メートルを超える高山を犬と一緒に登ったのだ。今でも信じられない体験だった。酸素も薄く2時間ではとても達する高さではなかった。

 

チャカルタヤ峰からのイリマニ山

3時間以上かかった。後で調べると頂上の高さは5385メートル。チャカルタヤ山といった。秋とはいえ前年の雪が残り眼下には氷河も見えた。ラパスへ向かう飛行機が眼下を飛んでいく。ラパス近くの6000メートルを優に超えるイリマニ山の威厳ある姿と大パノラマをしばし堪能し、5000メートルを超える頂上からイリマニ山遠景写真を撮った。忘れ得ぬ一枚だ。犬と一緒の写真も貴重な一枚だ。

単独行はどうしても足早になるもの、高山病の兆候が出始め吐き気がしてきた。無事研究所に降りて暫く休憩して研究者の車でラパスに戻ったが、ちょうど日暮れ時でラパスの夜景が綺麗であった。

 

俺、級長。文句あっか?  (35 森永正幹)

手帳の予定も真っ白、食料以外に買う物も無くお金を使わない毎日。連休中は今まで見た事の無い様なゴーストタウン状の軽井沢銀座、新緑のみが目にまぶしい。

4月5日が今シーズン最後のスキー。板をに tune up、ブーツ、ヘルメット類片付け衣類をクリーニングに出し、来シーズンの準備完了で体力維持の為インターバルウオーキング(毎朝5KM)を開始しました。

コロナ発生で2月後半からのレースは中止が多く消化不良のシーズン(115日、早朝2時間のみ滑走)でした。

全日本マスターズ、尾瀬片品大会、アルペン競技スタートリスト、ゼッケン43番

マスターズ大会は全日本スキー連盟B級公認。44回は栂池で開催、ジャイアントスラローム、男子80歳代レース、第三位入賞。

 

来シーズンへむけてのスタートはすでに開始!

 

(編集子 無言)