
先週のお休みにお散歩にでかけましたら、からし菜の花が咲き、水仙は開花目前でした。


旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)

先週のお休みにお散歩にでかけましたら、からし菜の花が咲き、水仙は開花目前でした。

NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟』が面白い。秀吉の弟豊臣秀長にスポットライトをあてた物語である。前に前に突き進む兄秀吉を陰で支え、天下統一の縁の下の力持ちだったと称される。
沈着冷静で、戦略性に優れ、豊臣政権の安定に不可欠な存在だった。
今はほとんど死語になってしまったが、かつては、ヒマラヤの未踏峰に挑むときは極地法(polar method)と呼ばれる方式が取られるのが主流だった。ベースキャンプを設営し、次々と前進キャンプをすすめて最終キャンプを設営する。登攀道具や食料の荷揚げをし、ルート工作をし、難所にはフィックスロープを取り付ける。これ等の作業は山頂に挑むアタック隊員以外のメンバーやシェルパたちが受け持つ。ベースキャンプには総指揮をとる隊長や通信隊員などが陣取る。
アタック隊員が山頂に立ち無事に帰着するまで、ひとつの目的達成のため全員が役割を分担し一致団結して行動する。
先日私は人生の集大成として一冊の本を発行した。5年にわたり.ネット上で書いてきたブログをまとめたものである。当初は本にまとめるつもりなどさらさらなく、そのときどき自分が感じたことや考えていることを「さがみこファーム」のホームページ上にアップしてきたものである。本にしたいと思ったのは1年ほど前だっただろうか。自分が生きてきた証として形にできればいいやという程度の軽い気持ちだったのだが、編集作業が進むにつれてできるだけ多くの人たちに読んでもらえるものにしたいという欲がでてきた。自分のボルテージが上がるにしたがって、編集や装丁、イラストレーターの方たちの熱意も高まって最後は一心同体となり、自身の想定をはるかに超えるいい形に仕上がった。
この一冊の本づくりを通じてつくづく思ったことは、表紙に堂々と書いてある名前は山川陽一でも、最後のページに小さく書いてある編集者やイラストレーターなど、多くのひとたちの心をこめた協力あっての産物なのだ、ということである。
私が長年勤めた会社をリタイヤし第ニの人生に踏み出したのが2000年だった。好きな山登りや渓流釣りを楽しむかたわら、かねてから考えていた山岳自然環境問題に本格的に取り組む毎日で、このまま終われたら本望だと思っていた。そんなとき起きたのが東日本大震災だった。
地域で自然エネルギーを自ら作る、夢想もしなかった第三の人生の始まりだった。思いを共有する仲間と一緒に多摩電力を起業し屋根上太陽光発電事業に乗りだした。そのあと、たまエンパワー、さがみファームの設立、ソーラーシェアリング事業の立ち上げと続くのだが、齢77歳、もはや先頭に立って未知の世界を切り拓く力は残っていない。ただ、サポートならできる。社長山川勇一郎を支え目指す山頂に立たせることが自分の役割だと腹を決めての再出発だった。厳しい言葉のやり取りは日常的にあるが、親子喧嘩ではない。経営は真剣勝負。そこに甘えは許されない。時にはナビ、時にはブレーキとして機能する。お互い立場は違うが同じ夢の実現を追う共同作業は楽しい。
あれから10年が過ぎ、いまやなかなか現場に立つのもむずかしくなっている。自分がやれることも限られてきているが、やるからには妥協は許されない。それが機能しなくなれば裏方稼業も終了だ。いつまで相手にしてもらえるだろうか。「もういいよ、ゆっくり休んでて」 そう言われないよう頑張ります。
(編集子) 山川との付き合いは高校時代から。彼は栄光の塾山岳部を経て、”山” に関してはいつも小生の無言のインストラクタだった。まったくの偶然で同じ会社に職を得て、サラリーマン稼業の偶然で終盤は顧客と業者、という構図で終わった。寡黙だが気が付くといつの間にか先を行っている、そういうやつだ。まして夫人は我々入社時点で人事課勤務、しかも新人担当だったという間柄。そんなやつの述懐は俺も共有させてもらう資格があるようだ。
今月の「月いち高尾」は春の訪れを探しに高尾山と「城山カタクリの里から草戸山」を巡る山歩きを楽しみました。朝方は気温5℃と冷え込みましたが日中は15℃まで気温があがり登りでは少し汗ばむ陽気になりました。
1.シニアコース
<参加者 12名 記録者:村上裕治>
高橋良子(36)鮫島弘吉郎(36)遠藤夫士男(36)西澤昌幸(39)藍原瑞明(40)保屋野伸(42)猪俣恭子(46)村上裕治(46)田端広道(47)平井利三郎(47)桑原克己(52)鈴木一史(60)
今回は、「ロープウェイパーティー」「稲荷山パーティー」「6号のパーティー」の3つに分散し、天狗集中としました。
<山行記録>
往路 稲荷山パーティー 藍原さん10時前に先発し2時間半をかけてじっくり登頂した。6号パーティー 数日前の降雨のため、路面が濡れ歩きにくかった。
復路 「ロープウェイパーティー」と「4号―蛇滝―高尾梅林パーティー」に分かれた。
高尾山は春の花満開でハナネコノメソウ、ニリンソウ、アズマイチゲ 紅梅、白梅、ピンク色の梅などが華やかに山を染めていた。(登り 511m 下り 530m)
<行程>
高尾山口駅9:58⇒11:30高尾山12:03⇒13:16高尾梅郷⇒14:04JR高尾駅ヤマレコには、記録ID:9392897(高尾山 6号―4号―蛇滝―高尾梅郷)でアップしました。
2.一般コース
<参加者18名>
矢部精一(37)、岡沢晴彦(39)、武鑓宰(40)、相川正汎(41)、下村祥介(42)、猪俣博康(43)、吉田俊六(44)、安田耕太郎(44)、斎藤邦彦(51)、五十嵐隆(51)、佐藤孝(51)、羽田野洋子(51)、保田実(51)、石倉周一郎(54)、畑川剛毅(57)後藤眞(59)、斎藤伸介(63)、大場陽子(BWV)
予定通りほぼ全員が時間どおりに集合し、バスで「城山カタクリの里」に向かった。カタクリの開花には少し早くカタクリはまだ咲き始めと言ったところ、三つ葉ツツジや福寿壮、ミツマタなどの花が楽しめました。見ごろは3月の下旬位になると思われます。
園内で花を愛でながら大場さんお手製の道明寺桜餅(を頂きすっかりお花見気分を味わいました。軽快なペースで金毘羅宮から草戸山に登り頂上で昼食のあと梅ノ木平に下り、高尾山口までロードを歩きました。
集合:8:10京王線橋本駅北口神奈中バス①番乗場
橋本駅8:22⇒(三ヶ木行きバス15分)⇒8:34城山総合事務所入り口⇒(徒歩20分)⇒9:00城山かたくりの里10:30⇒(1時間)⇒11:30金比羅宮11:50⇒(40分)⇒12:30草戸山364m13:00⇒(20分)⇒13:20梅ノ木平「カタクリの邸宅」13:30⇒(ロード゙25分)⇒13:55高尾山口190m
3.懇親会
<追加参加者2名>
中司恭(36)、三嶋睦夫(39)
前回に引き続き山の歌で大盛り上がりでした。斎藤が用意した歌集のほか平井さんから「関東大学ワンダーフォーゲルの歌集(昭和42年)」相川さんから「KWVキチ会(41年卒)」が卒業40周年記念合宿時に作成した「KWV抒情歌集」及び故大原誠三郎さん作成の「MY SONG FOLIO」も披露され歌の話題に花が咲きました。初参加の畑川さんからは最近の三田会の活動についての報告と夏合宿協力要請がありました。
恒例となった初参加者のリードによる歌唱は「北岳の歌」が選ばれ全員で熱唱しました。
4.その他
当日の写真は以下のグーグルフォトにありますのでご覧ください。必要な写真はダウンロードしてください。
https://photos.google.com/share/AF1QipNEEEIvrd78RIwTDsd8hQmb7w4sx-Vo1YN_pgnypH_9S7XI6PEF9oPVhHeAUrRJ1A?key=N0h1U3FqMnBlSDZvU2dKbDF4UzBMX21vSXNRNXVB
名曲のたくらみ」副題:音楽史から解き明かす10章(著者:松本直美。発行:朝日新書/2026年)を読む。
著者(英国、ロンドン大学音楽学部準教授)は、名曲の条件を、「有名であること」、更に、「演奏される機会が多いこと」を挙げ、以下の10曲を名曲として列挙している。
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集(四季)
ショパン:練習曲・作品10―12「革命」、夜想曲・作品15―3
J.S.バッハ:「トッカータとフーガ」ニ短調
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」
モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」
ストラヴィンスキー:「春の祭典」
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン:典礼聖歌「おお、貴方の教会」
テクラ・バジェフスカ:「乙女の祈り」
ドビュッシー:交響詩「海」
フレディー・マーキュリー:「ボヘミアン・ラプソディー」
先ず、ヴィヴァルディの「四季」は誰にも文句をつけられないほどの名曲だと述べている。小生、この10曲が名曲かどうかは全く分からないが、ヴィヴァルディの「四季」が、大変、好きな音楽であるのは間違いない。それどころか、「四季」以外も、ヴィヴァルディの音楽は大変好きだ。確かに、その音楽が単純と言うとそれまでなのだが、その魅力はその音楽が、音を楽しむと言う点で、大変生き生きしていることにある。ただし、小生より音楽に知悉している友人にヴィヴァルディの話しをすると、常に馬鹿にされ、あんな単純至極な音楽はノー天気だ、とまるで相手にもされない(著者の松本によると、20世紀のイタリアの作曲家、ルイージ・ダッラピッコラ(1904年―1975年)は、「ヴィヴァルディは500本近い協奏曲を書いたのではない。同じ協奏曲を500回書いたのだ」と酷評していると述べているが、これは、天に唾するようなもので、この現代音楽の作曲家の作品は、まるで雑音の塊で誠に聴くに堪えない)。しかし、こう言う時に、小生は、友人を、音楽とは、音を楽しむことなのにそれがまるで分かっていないなーと腹の底では軽蔑している。
ここで異色なのは、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの「聖歌」であり、フレディー・マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディー」だろう。
フォン・ビンゲン(1098年―1179年)なんて名前の女性の作曲家は今まで全く知らなかった。そこでYouTubeで聴いてみた。11/12世紀の人だけあって、その曲はまるで日本のお経に近く、音楽と呼べるような代物ではない。従って、これを名曲と呼ぶのは著者の単なる趣味が昂じたものに過ぎないと言わざるを得ない。何故なら、音を楽しむと言う音楽の基本領域にはまるで達していない稚拙なものだからだ。
マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディー」は、名前だけは知っていたが、その音楽は一度も聴いたことがなかった。「レッド・ツェッペリン」が全盛時代、今から50年ほど前になろうか、余りにも「レッド・ツェッペリン」が持て囃されていたことから、実物はどんなものかと、ラジオからテープに落として聴いてみたことがある。何やら、「ガンガン、ガンガン」と言う雑音が聴こえて来るだけで、音楽の類いではない。そんな経験があったものだから、所謂、ハード・ロック、或いは、へヴィー・メタル、は、以後、敬して遠ざけて来た。そこで、この曲もYouTubeで初めて聴いてみたのだが、確かに、ロックなんだろうけれど、それだけでなく、バラードも混ざっている、何とも魔訶不可思議な音楽だった。これがフレディー・マーキュリーなのかと暫し感じ入った次第だが、それにしても、これを、ヴィヴァルディなんかと同列に論じて良いものなのだろうか。これは、飽くまでも、ポピュラー音楽として論ずるべきであり、クラシックの名曲の中に含むのは可なり無理があるのではないか。ここは、「ボヘミアン・ラプソディー」に代って、例えば、グスタフ・マーラーの「交響曲第一番」なんかを取り上げるべきではなかろうかと思ったりした
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松本直美
愛知県立芸術大学音楽学部声楽専攻卒業。英国トリニティ音楽大学大学院ディプロマ課程声楽専攻修了。トリニティ音楽大学演奏家資格取得。声楽家としての活動の後、音楽学研究を始め、ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ音楽学部修士課程音楽学専攻をディスティンクションを得て首席終了、2005年論文「The Operatic Mad Scene: Its Origins and Early Development up to c.1700」により同大学より博士号授与。特に17・19世紀のイタリアオペラの研究を展開している。また学際的・国際的研究プロジェクトのコーディネーターとしても活動している。
2026.
元NHKのアナウンサー村上信夫さんが「ことば磨き塾」
若く(27歳)して亡くなりましたが、
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。
磨き塾は様々な分野の方がゲストで招かれます。KWV51年羽田野さん(月いちて高尾メンバーでもあります)も聴きにきます。
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金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル〉、1903年〈明治36年〉4月11日 – 1930年〈昭和5年〉3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。約500編の詩を遺した[1]。没後半世紀はほぼ忘却されていたが、1980年代以降に脚光を浴び、再評価が進んだ[1]。
西條八十に激賞された幻の童謡詩人とされている。遺稿集が発掘され、出版(1984年)、深く優しい世界観が広く知られた。代表作に「私と小鳥と鈴と」「大漁」など。
「濹東綺譚」(著者:永井 荷風/1937年、発行:新潮文庫/1951年)を読む。今回が二度目だ。
溜まっている積読から何気なく取り出したのが、川本三郎が書いた「荷風の昭和」だ。これは、新潮選書として出版され上下の二巻からなり、荷風の「断腸亭日乗」(つまり、日記)を土台として書かれたもので、関東大震災から荷風の最後の日までを扱っている。上巻が567頁、下巻が586頁だから、腹を括らないと、おいそれと読み始めるわけには行かない。そこで、パラパラと頁を捲っていると、「濹東綺譚」と言う題名が目に入った。それが切っ掛けとなって、今回、何十年振りかで手に取った次第だ。
濹とは隅田川の別称で、綺譚とは不思議な物語とか珍しい話しを意味し、つまるところ、隅田川東岸の不思議な物語、或いは、珍しい話しと言うことになるのだが、以下に述べるように、こんな類いの話は五万とあるわけで、綺譚とは、正に鬼面人を驚かす、いささか大袈裟な表現であり、単純に、「濹東物語」とすべきだった。一方では、松本清張に時代小説「西街道談綺」(1976/77年出版)がある。これは大変面白かったが、伝奇小説そのもので、正に典型的な不思議な物語、珍しい話しに該当する。
主人公は荷風と思しき作家の大江匡で(註:家風の遠祖は、大江広元の次男長井左衛門尉時弘より出で、長井即永井の本姓は大江となる)、その大江の一人称で物語が語られ、同時に、大江は自身の「失踪」と言う小説の展開に呻吟している。そこで、その主人公の失踪先を、私娼街でもあり、迷路のような玉ノ井(註:現在の墨田区東向島)あたりが良かろうとそこに出かけて行くが、突然、俄雨に遭遇し、梅雨とあって傘を常に携帯していた大江が、雨を凌ごうと傘を差した途端、いきなり後ろから「壇那、そこまでいれてってよ」と言いさま、その傘に首を突っ込んで来た女がある。それが、私娼の雪子だった。それを切っ掛けにお互い懇ろとなり、大江は通い詰めるが(大江は、後に、この関係を恋愛だったと追憶している)、雪子から「・・・。あなた、おかみさんにしてくれない」。と言われる。しかし、大江は、自身の過去の経験から、「彼女逹は一たび其境遇を替え、基身の卑しいものでないと思うようになれば、一変して教う可からざる懶婦(らんぷ。註:なまけものの女)となるか、然らざれば制御しがたい悍婦(かんぷ:悪知恵に富んだ女)になってしまう」と思っている。だから、当然のことながら、この話しはハッピー・エンドと言う訳には行かない。
全部で、文庫本にして僅か96頁だから、これは中編小説と言うことになる。私娼との恋愛を描いているのだが、淫靡なところが一つもない誠に清々しい文章から成り立っている。
繰り返しになるが、私娼に入れ込んだり、その結婚の願いを拒否したりするなんてことはごく普通の出来事であって何ら珍しいことではない。それをも綺譚と称するのは、読者が猟奇的な内容を期待するだけに、以下の様に三田の悪口を言われたから言い返すわけではないが、これは「羊頭を懸けて狗肉を売る」類いの話しであって、その題名はいささかながらアザトすぎる。
「濹東綺譚」が終わった後に「作後贅言」がある。これは、「濹東綺譚」とは全く関係ないのだが、これが贅言とは言え、その内容がなかなか捨て難い。何故なら、その「濹東綺譚」が、1937年4月から東京大阪朝日新聞夕刊に連載されたことから(小生が生まれたのは1938年)、荷風がその当時、頻繁に訪れていた銀座とその界隈を生き生きと描いて飽きる事がないからだ(なかに、今のファミリー・レストラン「サイゼリア」とどう言う関係にあるのか詳らかにしないが、サイゼリアと言う名前の酒場が出て来る)。ここで荷風が途轍もなく悲憤慷慨している事態がある。少し長いがここに引用する。「・・・昭和2年(註:1927年)初めて三田の書生及三田出身の紳士が(註:三田とは慶應のことを指している)野球見物(註:早慶戦)の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。・・・そして毎年二度ずつ、この暴行は繰り返され・・・。かってわたくしも明治大正の交、乏(ぼう。註:官職があいていること)を受けて三田に教鞭をとったこともあったが、早く辞して去ったのは幸であった」。これは100年ほど前の話しになるのだが、銀座をこよなく愛していた荷風にとっては、全くもって誠に許し難い暴挙だったのだろう。
小生、年少の頃、荷風については、極めて単純に、ストリップ大好きな助平爺であり、新聞に載っていたその死に様の写真が誠に無様であったことなどから、ただ単に、助平爺も遂に亡くなったかとの印象を持ったに過ぎない。ところが、長じて、荷風の著書、例えば、「あめりか物語」、「ふらんす物語」、「日和下駄」(この随筆は極めて秀逸)などを読むにつれ、こりゃーただものではないと言う印象を強く持つに至った。前述の川本三郎の「荷風の昭和」上巻の帯には、「私娼と戯れ、軍人を「肥満豚」と呼んだ〖最も過激な個人主義者〗永井荷風の肖像」とあるが、それ以上に、その深い教養の凄まじさは類を見ない。それは、例えば、「あめりか物語」、「ふらんす物語」などを読めば歴然とする。
さて、この本の解説を書いた荷風研究で著名な秋庭太郎は、当然のことながら、「濹東綺譚」を荷風の代表作と呼び、抒情小説の名作であると絶賛賛美している。小生はどうかと言うと、ただ一言、雪子にぞっこん惚れ込んでしまった。それは初めて読んだ時と全く変わっていない。
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永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 – 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉()。号に金阜山人()、断腸亭()ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。
暗殺されたハメネイ師の次男モジタバ師(56歳)が後継最高指導
スンニ派とシーア派の主な違いは、預言者ムハンマドの後継者を誰
イスラム教は、預言者ムハンマドの死後、後継者問題でスンニ派と
世界のイスラム教徒は、イスラム教最大の国家インドネシアをはじ
礼拝の回数: スンニ派は1日5回、シーア派は1日3回礼拝する。宗教指導者への態度は、 シーア派は宗教指導者の肖像画に寛容で、墓参りも行う。スン
スンニ派とシーア派は、同じイスラム教徒でありながら、歴史的に
パーレビ国王が君臨していた時期のイランは親米的君主国家で、富は少数の富裕層
小生はこれまでに60年間近くに亘り世界6大陸の90ヶ国近くを訪れた
“歯には歯、目には目”と、信奉では人後に落ちない不倶戴天の敵ユダ
トランプの今となっては当初の威勢の良さが影を潜め、遠慮深謀に
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始まった革命である。亡命中であったルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とするイスラム教勢力が、パフラヴィー朝イランの第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーの親欧米専制に反対して、政権を奪取した事件を中心とする政治的・社会的変動を指す。イスラム共和主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。イスラム革命とも呼ばれる。
東京支社マイクロ同窓会記事拝見しました。大先輩の皆様、お元気そうでなによりです。 今週、一八会有志に浅原さん、菅野さんも合流いただき> 岡部豊のお墓参りに行く予定です。
上記岡部君の墓参後の食事会(四谷三丁目の中華店)の様子です:
後列:(左から)松本、瀧谷、小関
中列:竹内、相生、東、青井、鈴木敬二
前列:菅野さん、浅原さん、中山、福澤
(編集子)ウイリアム・ヒューレットがスタンフォード大学時代特許を取った技術を商業化して、親友のデヴィッド・パッカードと二人で起こしたヒューッレット・パッカードはその後、産業機器メーカーとして、電子測定機器の分野で(こ
れは現代のアラビアンナイトだ!)とまで言われた急成長を遂げる。70年代ころから実用化されたミニコンピュータによって計測の自動化に乗り出し、しばらくは先発メーカー製品のOEM化でノウハウを得て、自社で自動計測目的に特化したミニコンを開発し、コンピュータメーカとして注目されるようになったが、当時、事務処理分野での絶対的王者であったIBMの大型機(メインフレームと呼ぶようになっていた)に対し、(小回りの利く、ユーザ本位設計のミニコンをその頃から実用化され始めた通信網にのせて処理を分散化する)という新しいアイデアで一般事務処理分野に事業を拡げた。米国・欧州で成果を上げて日本市場へ乗り込んできたのが80年代初頭である。
世界を制覇したIBMですら日本メーカーの優位を崩せないというのだから、まさか、日本でショーバイするたあ言うめえよ、と思っていた編集子になんとこの挑戦、と言えば聞こえはいいが、誰がどう考えてもむちゃくちゃな任務が回ってきたのが1981年。hp社の製品力とネームヴァリューで楽なショーバイに慣れ親しんでいる当時の風土に、こんな役を引き受けるもの好きはいない。これはそれまでの採用―人事の慣習では人員の手当てすらおぼつかない。ここは乾坤一擲、メンタル、フィジカル双方、打たれ強く根性一番のメンバーを採用してくれることを任務遂行の条件として認めてもらい、この条件に合致する人材が多いはずの、大学体育会出身者に焦点を当てて採用活動を強行した。その結果、一時に18人(当初は少なくとも20人、と主張したのだが)の “ノンエンジニア、体育会経験” という、それまでのYHPでは採用の対象にさえされなかった人材がそろった。このグループの、根性第一イズムこそが日本におけるhp社の汎用コンピュータ市場開発を成し遂げたのは紛れもない事実である。
新人がカタログ持ってくだけで客が買ってくれる、と言われた当時の最先端製品であったスペクトラムアナライザなどは2台も売ればセールスノルマ(クオー
タ、と言った)が達成されてしまうというのに、引き合いから成約まで、うまくいって1年半はかかる汎用システムHP3000 にとりくみ、後輩たちの後塵を拝し、ある時は蔑称すらあびながらただひたすらに編集子を支えてくれた18人は同時に東京支社のメンバーでもあった(東の記事にある岡部豊はSEとして仲間からも顧客からも絶対の信用を勝ち得た、温厚な紳士だった)。
小生にとってはいわば第二の青春でもあった、怒濤のような月日を改めて思い出す写真をアップさせてもらう。
「初島」は何処にあるのか ?
熱海沖の小さな島でした。「カモメのカメ」になり「初島」に渡りました。熱海沖の小さな島でした。「初島」に渡る連絡船はカモメの群れに囲まれました。
『カモメのジョナサン』(Jonathan Seagull) を思い出しました。1970年代の短編。
小さな島は菜の花が咲き乱れ、河津桜が満開でした。
カモメの人生は飛ぶことにある。
カモメはただ餌を食べ可能な限り長生きするために生まれてきた。
生きることの意味やより高い目的を発見するカモメこそ責任感があ
これは短編『カモメのジョナサン』が伝える思想でした。
(編集子)なんと開けてみたらモデムの故障、ということで新品交換で一件落着したがほぼ1週間、PCを開けなかった。カメ兄例によって名文がしばらく披露できなかった。お詫び申し上げる。
春うらら、の日も近い。楽しみが待っているような気がするが。