陸上競技の ”再現力” ということ  (普通部OB 菅原勲)

 

進行中の世界陸上での日本人選手についての観察である。

9月16日の男子110mH

大会前の今季自己最高記録は、優勝したティンチ(米国)が今季世界最高記録の12秒87、村竹が今季世界2位の12秒92で、その差は0秒05に過ぎなかった。従って、本人自身も日本のマスゴミも、やれメダル獲得だ、その果てには金メダルだと大騒ぎ。ところが、肝心の12秒台をティンチが、追い風参考記録を含め4回も記録していたのに対し、村竹はこの僅か1回に過ぎない。この再現力の大きな違いが、決勝でティンチの12秒99に対し、村竹は13秒18で6位、その差0秒19の大差となった。要するに、村竹の実力は未だ12秒台には達していなかったことになる。再現力の違いが如実に表れ、事を分けた。蛇足だが、村竹は試合後のインタビューで大泣きした。小生、これを見て、村竹(父はコンゴ、母は日本の混血)の精神構造は典型的な日本人だと思った。外人は、少なくとも公衆の面前ではこんな恥知らずなことはしないだろう。

閑話休題。

男子走高跳(9月16日)

また、同日、行われた男子走高跳での日本人同士の同様の例を挙げる。大会前の今季自己最高記録は、10位になった瀬古が2m33、8位の赤松は2m26、その差は7センチもあった。しかし、今季、2m25以上跳んだ試合は、瀬古の2試合に対し、赤松は4試合。結果は、赤松が2m24で8位、瀬古が2m20で10位。これも、大会前の今季自己最高記録の差はともかく、肝心の試合での再現力の違いが現われたと見て良い。

最後に、17日が予選、18日が決勝の男子槍投を見てみよう。

今季、87m以上投げた5人の選手の85m以上投げた試合数を見ると、

91m51  J.ヴェバー(ドイツ)     8試合

91m00  L.ダ・シルヴァ(ブラジル)4試合

90m23  N.チョプラ(インド)      5試合

87m76  C.トンプソン(米国)        2試合

87m16  崎山(日本)                1試合

これを見た、小生は、ヴェバーとチョプラの一騎打ちと見る。85mを1試合でしか超えておらず、再現力の乏しい崎山の実力は、やっと8位までの入賞程度だろう。ただし、槍投は一発大投擲が飛び出す可能性もあるので、例外が起きる可能性は充分に有る。

結論を言うと、再現力の高い選手が圧倒的に有利となるのは間違いない。勿論、物事には例外がある。しかし、それは、飽くまでも例外であって、それが常に起こるとは限らない。逆に言えば、極めて稀少なそんな例外に頼って物事を判断するのは途轍もなく危険だと言うことになり、事の判断を見誤ることになる(日本のマスゴミは、日本の選手の再現力の乏しさを指摘すべきであるにもかかわらず、読者に媚びるためなのだろうか、常に、例外に頼る間違いを犯して来た。だから、所詮は、マスゴミか)。

最後の最後。日本の選手に再現力が乏しいことは分かったが、例外となりそうなのが、男子400mの中島(父がナイジェリア、母が日本の混血)だ。予選で、これまでの自己記録44秒84を44秒44(新たな日本記録)に短縮、準決勝で44秒53と再現力が高い。そして、それに加えて彼の持ち味は、最後の直線に入ってからの途轍もない追い上げだ(競馬で言う末脚)。いずれも、これまでの日本の選手が持っていなかった特徴であるだけに、18日の決勝が待たれる。

またひとつ、星が落ちた

今朝の朝刊でレッドフォードの逝去を知った。また一つ、星が落ちた感じがする。このブログをおっかなびっくり始めてみたころ、グレン・キャンベルの訃報に接して書いた一文を一部、コピーした。
いろんなエーガのなかで、クーパー、ウエイン、スチュアートなんかが僕の好みだったけれど、それはあくまで ”エーガ” での思い出である。
キャンベルのことで書いたが、この二人にまつわる思い出は、同時に僕の短かったが、”古き、良き時代のカリフォルニア” への郷愁とともにある。レッドフォードがまだ売り出し中のころで、たまたま勤務していたオフィスの受付のおばさんがファンだと知って、エーゴの勉強、とばかりにつたないジョークなんかひねり出していたころ、サンフランシスコの街がヴェトナムの後遺症におかされはじめていたころの懐かしいカリフォルニア、の思い出である。
レッドフォードのどの作品がどうとか、そういう感傷は沸いてこない。キャンベルのことで書いた,すこしばかり気障なしめくくりになるようだ。
ありがとう、ロバート。
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(2017年8月11日投稿記事の一部)

By the time I get to Phoenix

8月10日、朝の読売新聞がグレン・キャンベルの訃報を伝えた。1937年生まれ、ということだから僕と同い年である。新聞記事では”カントリーソングの大御所”、と書かれていたが、僕にはそういうありきたりの形容詞には収まり切れない、特別の感情がある。

1967年、生まれて初めてアメリカの土を踏み、2週間モーテルでの仮住まいのあと、新聞広告で探し当てたデュープレックス、日本でいう二軒長屋に落ち着き、船便で送った家財道具が何とか届いて、どうやら生活が始まったちょうどそのころ、あの, By the time I get to Phoenix を聞いた。初めて聞いたのがラジオだったのかテレビだったのか、今では記憶がないが、とにかく心にしみるメロディーだった。この曲があっという間に大ヒットし、一躍有名になって、ラジオの定番になっていた大きなシリーズ番組(エド・サリバンショウだったか?)でキャスタが夏休みのあいだ、その代理に彼が抜擢されたことを覚えている。

敬老の日、のこと     (普通部OB 船津於菟彦)

本日は敬老の日。

敬老の日は、国民の祝日として1966年(昭和41年)に設けられ、「長年社会に貢献してきた老人を敬愛し、長寿を祝い、老人福祉への関心を深める」ことを趣旨としています。2002(平成14年)年までは毎年9月15日でしたが、2003年(平成15年)から、9月の第3月曜日となり、敬老の日は年ごとに変わります。今後この制定に変更がなければ、2026年は9月21日(月)、2027年は9月20日(月)となります。

敬老の日の由来は、兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町八千代区)村長であった門脇政夫氏が、「老人を大切に、お年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨で、1947年(昭和22年)9月15日に「敬老会」を開催したことが始まりとされています。翌年の9月15日には「としよりの日」として村独自の祝日となり、1950年(昭和25年)に兵庫県が「としよりの日」を制定。1951年(昭和26年)には、中央社会福祉協議会(現全国社会福祉協議会)が「としよりの日」を定め、1966年(昭和41年)に現在の「敬老の日」となりました。

総務省は14日、15日の「敬老の日」に合わせ、65歳以上の高齢者の推計人口(15日現在)を発表しました。高齢者は3619万人と前年から5万人減少したが、総人口に占める割合は0・1ポイント上昇して29・4%と過去最高を更新した。昨年の高齢者の就業者数も930万人と21年連続で増加し、過去最多。 高齢者の減少は2年ぶりで、増加数よりも死者数の方が多かったことなどが要因だそうです。高齢者の割合は1950年から増え続けていて、国立社会保障・人口問題研究所は、2050年には37・1%に達すると推計しています。

以前は、還暦を迎えた60歳からお祝いをする風潮がありましたが、現在の60歳はまだ現役というイメージも強く、「年寄り扱いされたくない」と考える方も少なくありません。気持ちも若々しい現代のシニア世代は、何歳になってもおじいちゃん扱い、おばあちゃん扱いされたくないという考えの方もいらっしゃいます。その場合は、退職や、孫が生まれた年、古希(70歳)、傘寿(80歳)など節目を迎えた年がお祝いしやすいタイミングです。

「年寄り」とは法律では、老人福祉法が「(老人ホームへの入所などの対象が)65歳以上の者」としているほか、国民年金法でも「老齢基礎年金の支給は65歳に達したとき」などとなっており、放送でも以前は65歳を「老人」という語を用いる場合の一つの目安にしていたようです。
しかし、高齢化社会が進み平均寿命もグーンとのびた今の時代に、この年齢以上の人たちを一概に「老人」「お年寄り」とするには無理があるようです。今や人生100歳時代を謳歌している方がゾロゾロ。しかし、少子化で高齢者のみの社会になりかねない。

国際連合は、2050年には世界人口の18%が65歳以上となると予測、OECD諸国においては現加盟国の全てにおいて、2050年には1人の老人(65歳以上)を3人以下の生産人口(20-65歳)にて支える超高齢社会となると予測されています。
高齢者人口が減少に転じても高齢化率は上昇を止めず、2065年には高齢化率が38.4%、その中でも75歳以上は25.5%にまで達し、国民の約2.6人に1人が65歳以上、3.9人に1人は75歳以上であると推計されています。

日本政府の高齢社会対策大綱の方針は 「高齢社会に暮らす全ての世代の人々が安心して幸せに暮らせるよう、人々が若年期から計画的に高齢期に向けた備えを進めるとともに、各世代が特有の強みをいかしながら多世代のつながりを醸成し、全ての世代の人々が高齢社会での役割を担いながら、積極的に参画する社会を構築するための施策を推進する。」 だそうです。なんだかなあ。

”国宝” に感激しました    (41 斉藤孝)

圧巻。その一言に尽きます。

久々に映画館の大画面で鑑賞しました。 

国宝とは人間国宝のことです。背中に大きな入れ墨がある任侠の息子が上方歌舞伎役者になる。そして人間国宝まで昇りつめたという歌舞伎役者の半生を描いていました。

主役の「吉沢亮」の演技に魅せられました。 

「二人藤娘」「道成寺」「曽根崎心中」「鷺娘」「連獅子」など眼前に迫って来ました。振り袖姿で鮮やかに舞う女形は実に綺麗です。口元と目元は妖艶です。

歌舞伎の世界をリアルに描写し、その禁断の世界を美しく演出していました。歌舞伎座まで行かなくとも本物の歌舞伎踊りを十分に楽しめました。

バンクシーのこと    (44 安田耕太郎)

バンクシー(Banksy)はイギリスを拠点とする素性不明のアーティスト。彼の政治的および社会的批評の作品は、世界中の街路、壁、橋に描かれていて路上芸術家と言われる。日本でも報告が増え、次第に認知が深まって来ている。ご存知だと思います。

バンクシーは彼の作品を建物など公に見える表層に展示しています。彼の公共の「展示品」は定期的に転売され、多くの場合それらが描かれていた壁が取り外されることさえある、とのこと。

さて最近のロンドンからのバンクシーニュースが我々を驚かせました。バンクシーの新作、「抗議者を殴打する判事」風刺画が裁判所外壁に出現。人通りのない深夜から夜明けの時間帯に描いたのでしょう。ところが裁判所は壁画の全面に塀を設営して目隠ししてしまった。現地では物議を醸しているとのこと。今後の展開は如何に?

10年ほど前、愚息が勤務していたNYマンハッタンを訪れた時、自宅近くの通りの壁に描かれたバンクシー画(と目されていた)に遭遇。下記写真をご覧ください。ハンマーに打たれる帽子の男は愚息。側の構造物は消火栓。当時、彼の長男(僕の孫)が画の少年の年ごろでした。
Screenshot

百名山トレース完了しました   (51 斎藤邦彦)

2025年9月6日、息子と中の湯温泉ホテルから焼岳に登り「日本百名山」の全山登頂を達成しました。

上高地を見下ろす

この日は台風一過の快晴で私にとっての快挙を祝うように北アルプスが一望できる眺望に恵まれました。今までに見た景色の中で最高のものでした。頂上では息子からサプライズで「日本百名山完登」記念のタオルのプレゼントがあり、妻も新穂高ロープウェイの終点から焼岳を見守ってくれました。

私は岡山平野の中でも干拓地の広大な田園地帯の出身なので登山とは全く縁がない少年時代を過ごしました。大学入学直後にKWVの部室に活動内容を尋ねに行ったところいきなり「そこにある運動着に着替えて走ろう」と言われ、そのまま訳も分からずに「FC」とかいうものに行くことになったのが始まりです。

KWV現役時代には19座に登り、就職後には職場に登山グループを作って5年間で13座を、併せて32座まで登頂しました。その後、私の職場生活は異動に伴う引越しが13回と多く赴任地などで家族と少しずつ山歩きを続けて60歳までにやっと半分の51座まで進めました。

61歳からは会社の執行部門の一線を外れたのでこれからは「黄金の15年」と称して精力的に活動し64歳で65座目の利尻岳に登り「エイジシュート」を達成しました。66歳で90座まで進んだものの2020年からのコロナ禍でしばらく登山は停滞せざるを得ませんでしたが、堀川先輩の百名山完登の偉業に触発されて奮起し、このたび72歳にしてやっと焼岳を最後に「百名山全山踏破」を達成することが出来ました。

「日本百名山」は言うまでもなく第一次登山ブームの1964年に文筆家で登山家の深田久弥が出版した山岳随筆集ですが、その選定基準は『品格・歴史・個性』を兼ね備える原則1500m以上の山と言われています。特に山岳信仰にまつわる地名は数多く残されていて全て登ってみてなるほどと思う山はいくつかあります。

例えば、よく分からないまま最初にFCで登った「鳳凰山」。地蔵岳の頂上にある巨石が大日如来に似ているから名付けられたという説や、8世紀に孝謙天皇が法皇となって登られたことから鳳凰山と名付けられ南御室、御座石(ミクライシ)などの地名が残されているという伝説もあります。随分と後になってから知った説で、ワンゲル1年生のころは登るのに必死でそんな余裕は全くありませんでした。

百名山踏破にあたり山登りの基本や楽しさを教えて下さったKWVの皆様、職場の山仲間や家族の皆に改めて感謝いたします。同行頂いた登山者の内訳は、KWV現役時代19座、OBになってからのKWV同期21座、会社のグループ20座、家族20座、単独行20座です。登山に同行して下さった皆様、誠に有難うございました。

人生の「バケットリスト」としての目標を達成したのでこれからは「月いち高尾」の運営を中心に近郊の山々をゆっくりと楽しみたいと考えています。


黒部五郎と立山遠望

(編集子)   CONGRATULATIONS  !!

OB仲間には完了された人も多いと思うのだが、現時点では 39年の堀川義夫、42年の松本好弘 両兄しかわからない。ご存じの向きは小生あてご一報いただけるとありがたい。小生の記憶では32年の伊沢先輩が完走されたとま思うのだが確かではない。身近なところでは現役時代ご一緒した35年の故酒井征蔵さんもそうではないかと思うのだが、当時まだこのプログラムがなかったので、確認の方法はないのが残念。

(42 保屋野)百名山達成者は私が知る限り下記の方々です。(敬称略)

33年卒 岩田、39年卒 堀川、41年卒 横山(太一)、42年卒 (故)萩原、松本、保屋野、43年卒、(故)山崎、小倉 51年卒 斎藤

*後は、オスタの情報で、46年卒で1人(故人)いるそうです。またお化けさん(25年卒村上さん?)が達成したという噂もあります。

(44 安田)保屋野さんが言及されたS46年卒(故人)達成者は、杉本泰彦君だと思います。

 

 

 

エーガ愛好会 (339) 日の名残り    (42 保屋野伸)

先日ビデオに取っておいた掲題映画は以前から気になっていた映画で、やっと観ることができましたが、味わい深く、余韻の残る良いエーガでした。カズオ・イシグロの小説を映画化したもので,ナチスが台頭する時代、ナチ擁護派の英国有力貴族館での人間模様を描いた作品です。

物語は上記貴族館での日常を執事の回想という手法で淡々と描いていますが、政治、恋愛等織り交ぜながら見応えある映画に仕立てられました。

主役は、執事役のアンソニー・ポプキンスとメイド頭役のエマ・トンプソンですが、その好演により、それぞれアカデミー「主演男優賞」「主演女優賞」にノミネートされております。・・・さて、密かに思いを寄せる2人の運命は・・・

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サーカズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL, 日本名:石黒 一雄1954年11月8日 – )は、日本生まれのイギリス小説家

長崎県長崎市で生まれ、1960年に両親とともにイギリスに移住した。長編小説『日の名残り』で、1989年にイギリス最高の文学賞とされるブッカー賞を、2017年にノーベル文学賞を受賞した[2]

サーカズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL, 日本名:石黒 一雄1954年11月8日 – )は、日本生まれのイギリス小説家

長崎県長崎市で生まれ、1960年に両親とともにイギリスに移住した。長編小説『日の名残り』で、1989年にイギリス最高の文学賞とされるブッカー賞を、2017年にノーベル文学賞を受賞した[2]

 

エーガ愛好会 (338)ケイン号の反乱    (HPOB 小田篤子)

私は初めてですが、ハンフリー·ボガートが出演しているので、既にご覧になっている方が多いかと思います。
プリンストン大卒のエリート、キース少尉の配属され選んだのは、コネで勧められた戦艦ではなく、ボロの海の掃除機、掃海艦。
前任者に代わり来た、新艦長(ハンフリー·ボガート)は皆のシャツのすそ入れや髭、髪ばかり気にしていて、偏執症では、と疑われている。
ある時など、冷凍苺の減り方がおかしいと、夜中1時に集合させ、苺を砂に見立て、それぞれに食べた量を聞き、身体検査や鍵まで提出させたり!ある日、猛烈な台風に襲われ、艦長の運航の判断はおかしいと、副艦長が強引に交代し、無事乗りきります。
後半は、この時の艦長の精神状態と副艦長の判断は正当か…の軍事裁判の場面が続きます。最後、勝った副艦長側の弁護士が酔って語った本音は…意外でした!
*ハンサムなエリート少尉役、ロバート·フランシスは、陸軍士官学校を描いた「長い灰色の線」にも出演しましたが、翌55年、自家用飛行機操縦中墜落し、25歳で亡くなっています。惜しいですね。
*ハンフリー·ボガートは意外な役で面白かったです。
*TV「パパ大好き」のフレッド·マクマレイも最後に疑われた小説家志望の大尉役で出でいました。
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(余計なことかもしれないがウイキペディアに載っていた、その筋の専門家であろう弁理士法人テックロー国際知財事務所のコメントを転載しておく。こういう現象というか境遇はサラリーマン時代に幾度か巻き込まれた経験もあったので)

日米戦争当時のアメリカ海軍の掃海艇で起きた叛乱事件を描いた作品である。上半身裸で艦長室で執務するという、風紀にいい加減だった前艦長の後任として赴任した新艦長は、全く反対で、乗組員がシャツの裾をズボンから出したままにすることさえ許さないという、細かいことに厳しい人であった。

そして、着任早々、「当艦の乗組員は、全員が、平均点以上の成績を出さなければならない。」と訓示する。これを聞いて、これは絶対破綻する、と直感した。何故なら、あらゆる人間の組織に見られるとされる「一割現象」という法則に反するからである。「一割現象」とは、軍学者兵頭二十八氏が提唱するもので、人間のいかなるグループ、団体でも、上部一割の優秀者、下部一割の落ちこぼれ、中間8割の平凡人に分れるという「法則」である。同氏は、このことを、自衛隊にいたとき発見したとのことである。或る艦の乗組員の全員が平均点以上の成績を出すということは、この法則に反していて、無理なことなのである。

新艦長の異常な、偏執狂的言動は積み重ねられ、ついに、台風に遭遇したときの操船方法をめぐって争いとなり、艦長の命令は無視され、部下によって拘束される。この事件が、台風を乗り切った後、軍法会議にかけられる。ところで、例えば、東大生といえば全員優秀な人に違いないと思いがちであるが、決してそうではなく、ここでも、この「一割現象」は厳然として存在する、らしい。「さもありなん。」という気がする。そうであるなら、弁護士の業界、弁理士の業界(そして、裁判官の世界)にも、この法則は当てはまると思われる。

世界的に見ても、当事務所は、約50ヶ国の現地代理人と取引があるが、スピード感、緊張感、責任感をもって仕事のできる人は、やはり、一割程度しかいないように思われる。養老先生が、「まともに考え、自分の言葉を持っている人間は、十人に一人いるかどうかだろう。」と言っているのも、この「一割現象」の一面であろう。

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(編集子)ミッキーも懐かしい顔に出会えたようで、よかったね。小生は中学1年の時に翻訳者は誰だったか忘れてしまったがこの本に出合った。不運なくじをひきあてた副長のマリックに大いに同情したものだった。何十年か経って、映画の締めくくりになるなったサンフランシスコはマ―ク・ホプキンスホテルを尋ねる機会があり、このシーンだっただろうと思う広間でへへえ、と思ったりした。

なお、ミッキーはキースがケイン号を選んだ、と書いているが、原作では実は母親が頼りにしたコネが働かず、いやいやながらの着任だったのだ。そうしないとこの作品の背景が違って見えてくるので、付け加えておこう。

小生には負けを覚悟で正義感から弁護士役をひきうけたホセ・ファーラーが印象に残っている。この弁護士はユダヤ系で両親をナチに惨殺されたという経歴を持つ。職責上、艦長を糾弾するが、(こういう男たちがいたからこそ、、ナチは撲滅できたのに)という葛藤にさいなまれ、最後に祝賀会に招かれざる客として現れ、爆発する。この映画の真骨頂はこのアイロニーをぶちまけたことにあるのではないか、と思うのだが。