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エーガ愛好会 (260) 騎兵隊  (34 小泉幾多郎)

 ジョン・フォード監督の騎兵隊と言うと「アパッチ砦1948」「黄色いリボン1949」「リオ・グランデの砦1950」の騎兵隊3部作が思い浮かぶ。「騎兵隊 1959」は、そのほぼ10年後の作品で、しかも南北戦争を題材にした戦争映画だから、純粋の西部劇とは呼べないかも知れないが、同じ軍隊で、同じ風俗を描いたものとして、西部劇に分類されている。3部作を思い出してみると、モニュメントバレーを背景にした壮大で美しい景観の中での先住民と騎兵隊とのスピード感溢れる戦いもあったが、仲間内での楽しい喧嘩、ユーモアに溢れた会話、ダンスや合唱隊が唄うシーン等が満喫された。このようなアクションの余韻だった情感とユーモアが、この「騎兵隊」ではしばしばアクション自体が表面に押し出された描写が強くなった印象。

冒頭のタイトルシーンから、騎兵隊のマーチI Left My Loveを背景に騎兵隊が進み、撮影ウイリアム・クローシアのカメラが美しく追う。マーチの作詞作曲が、スタン・ジョーンズで、南北戦争たけなわの頃、ミシシッピー流域のビックスバーグが戦局の焦点で、そのスタン・ジョーンズ扮する北軍グラント将軍が、ジョン・ウエイン扮するジョン・マーロウ大佐にビッグスバーグへの補給路を断つため、敵中深く潜入し、鉄道の要所ニュートン駅の機能を破壊する密命を下すことから始まる。軍医として、ハンク・ケンドール少佐(ウイリアム・ホールデン)が配属されるが、後で判ることだが、過去に医師の誤診で妻を亡くしたことのあるマーロウ大佐と軍医ケンドール少佐とは、事ごとに対立する。途中、農園の大邸宅に宿泊することになるが、女主人のハンナ・ハンター(コンスタンス・タワーズ)に、士官一同もてなしを受ける。この主演三人が、頑固で意固地なウエイン、ナイスガイのホールデン、南部女性の誇りを忘れないコンスタンスが夫々の個性を発揮して行く。ハンナが、作戦を盗み聞きし、南軍に密告を計画していることをケンドールに悟られ、ハンナと女中のルーキー(アリシア・ギブスン)は捕えられ、機密保持のため帯同することになる。行進中、ハンナは何度となく脱走を繰り返すも成功しないうちに、戦闘になれば負傷者の介護等の努力、マーロウに対する素っ気ない振舞のうちにも好意を持ち始めながらも、北軍はニュートンの町を制圧し駅を破壊する。しかしマーロウとケンドールの仲はさら
に険悪となり、殴り合いが始まった。丁度その頃南軍の幼年学校の生徒を率いる年老いた校長が依頼に基ずき制服制帽姿の生徒たちを神のご加護を念じながらの進軍となる。すると幼年兵の一人の母親が、息子は父も叔父も兄も戦死し、死なせる訳にはいかないと訴えると、校長は振り向きもせず、その子に隊列を離れるよう命令する。家の中に連れ帰られたが、その少年再び戻るも、北軍に捕まる。マーロウ大佐にこの捕虜どうしますかと聞かれ、マーロウ曰く「尻をぶて!」。退却ラッパが鳴り響き、幼年学校兵の進撃に、北軍は逃げ出す。

現実ならこんな光景はあり得ない情景だが、ジョン・フォードのヒューマニズムが溢れた画面に違いない。マーロウ大佐、脚を撃たれながらも、何とか南軍に対抗しながら、危険な地域を突破し、橋を渡れば北軍の領土となる地点で、迫る南軍に対し、動けない怪我人に付き添って、敢えて南軍側に残る決死をし、お互いを理解するようになったケンドール医師とハンナに別れを告げ、ハンナの首にかかったスカーフを自分の首に巻き、南軍を引き止めるべく導火線に着火し、部隊と共に爆破寸前の橋を渡り、任務を全うするのだった。

(編集子)この ”騎兵隊” が同じフォードの ”騎兵隊” でも三部作にかなわないのは、助演陣の厚さだと思う。ワード・ボンド、ヴィクタ・マクラグレン、ベン・ジョンスン、ハリー・ケリー・ジュニア、ペドロ・アーメンダリス、ティム・ホルトにミルドレッド・ナトウイック。陽気なアンディ・デヴァインに不気味なジョン・キャラダイン。こういう重厚なバックアップがないとフォード映画ではないような気がするから不思議だ。

例によってウイキペディア解説をいれておく。

アメリカ合衆国陸軍の一部。独立戦争に際し大陸軍内に組織されたが,さしたる活躍を見せなかった。1830年代,西部開拓地における対インディアン作戦のため正規の騎兵連隊が編制され,南北戦争では,広大なアメリカ大陸を背景に騎兵隊はその機動性のゆえに南北両軍において重視された。戦後,騎兵10個連隊が残され,もっぱら西部においてインディアン〈討伐〉または治安維持に使用され,1876年G.A.カスター中佐指揮下の第7騎兵隊がモンタナ州で全滅したことは有名。なお,76年現在で陸軍総定員2万7000余名のうち,騎兵8882名となっている。その後,騎兵隊は自動車,戦車の発達で実質的には無用となり,機甲部隊として再編制された。ベトナム戦争ではヘリコプターを主体とする騎兵師団が組織された。騎兵隊は西部劇において英雄的存在とされてきたが,19世紀アメリカの大陸征覇とインディアン抹殺の象徴であり,またその実施機関であった。

乱読報告ファイル(53) 久しぶりの五木寛之

一種の活字中毒である小生の悪癖のひとつは衝動的に本を買ってしまうことである。衝動である以上、何のために、とか、なんだとかいう理屈はなく買ってしまうので、すぐ読むことももちろんあるが、気がついてみると(いけねえ、こんなのもあった)といういわゆる積読本が溜まってしまう。そのうちの一冊が、だいぶ前に本稿で演歌のことを書いた時に(あ、こんなのもあったか)という衝動で買った五木寛之の艶歌・海峡物語という本である。現在最終コーナーまで来たポケットブック10万頁読了計画がペースが落ち、スガチューからもらった一冊のところでスタックしてしまっていてイライラしている。その間隔に気分晴らしに読む気になった。

五木には一時大分凝った時期があった。最近の彼の著作がどうも宗教だとか人生論などと言うものに固まってきているので、新作は全く読んでいない。 ”青年は荒野をめざす” とか、”蒼ざめた馬を見よ” ”デラシネの旗” なんかは、ハードボイルド、というのはまた違った、テーマと言い書き方と言い、突き放したような感覚が心に響くようで好きだった。その後興味は歴史ものに移ってしまい、考えてみると40年以上のご無沙汰になる。最近のものはどうか知らないが、この本では五木独特の書き方に再会、なつかしさを感じたことだった。

入手したのはアマゾンで寝ていたのか、初版本である。”演歌” ではなく ”艶歌” というタイトルの意味が読み終わってからなるほど、と思わせる作品だ。ストーリーはレコード(今では死語に近いか)業界での話で、近代的な経営手法に逆らって昔ながらの歌造りに生きる一匹狼的な老人と、それに引かれていくディレクタ津上との話である。どうしてこの2冊が一緒になっているのかわからないが、”艶歌” は会社を辞めることにした著名な作曲家高円寺が録音調整室を去る場面で終わる。

(皮ジャンパーの背中を見せて、高円寺竜三は、録音調整室を出て行った。津上は一人で椅子に座っていた。階段を降りて行く高円寺の足音が聞こえた。ガラス窓の向こうに、スタジオはひっそりと静まり返っていた)

”長いお別れ(清水俊二訳版)のラストを彷彿とさせるこの幕切れが懐かしくひびく。

”海峡物語” ではそれまでの伝統的な経営を破壊し、劇的な再生を実現したアメリカ流の経営者黒沢とたもとを分かち、北海道でささやかな生活をしようとしていた津上が偶然に孤独に生きている高円寺に再会する。もう後戻りはしないとかたくなな高円寺を見て、津上はもう一度、日本人の心に響く歌を再生しようと計画する。ストーリーとしては、いろいろな問題を越えて、津上と高円寺は自分たちの歌を再生するのだが、その陰で、実は先に高円寺を職場から放逐した黒沢がこの計画を応援するのだ。事情を知って黒沢を訪れた津上との会話。

(黒沢は窓の向こうの世界をもう一度眺めた。落日の後の残光が西の空を赤く染めていた。
”私も、あの男も、すでに西の空を落ちていく夕陽にすぎん。きみだって、やがてはそれが判る時がくるだろう”
黒沢は津上を振り返らず言った。
”もう行きたまえ”)

黒沢はそれからまもなく顕職を去るが、その陰の根回しのおかげで高円寺の復帰は成る。高円寺はまた、北国の孤独な生活にもどるところでストーリー自体は終わる。

話はこれまで、なのだが、この小説にはあきらかに ヴェトナム戦争時代の日本を覆っていた閉塞感の匂いがする。今の日本もまた、若い人たちの間には閉塞感がある、というのだが、僕らがヴェトナム戦時代に味わったものとは全くちがったものなのではないだろうか。今の時代の問題は明らかに経済政策の失敗とか、それにどう立ち向かうのか、という方向だけは見えているが、それが実現しないことからくる、現実的な諸問題が原因だろう。しかしあの時代に日本を覆っていた閉塞感というのは全く異質のことであったように思える。

ヴェトナムの戦争がいかに無駄であり無意味だったかは、傍観者であった我々よりも、戦場に送られたアメリカの若者たちに残った心の傷ははるかに大きかったはずだ。僕が読んでいるアメリカ発の本には、それまで敵味方だった二人があるとき、”Were you in ‘Nam?”  という会話が交わされることでその間に起きる微妙な感覚が発生する場面によく出くわす。これは “戦友同士” というより ”被害者同士” という和解に近いのだろう。(俺達は結局 Nam  で何をしたんだろう?)という意味での虚無感におおわれた閉塞の時代、だったのだ。日本ではその現場にはいあわせないものの、またはいあわせないからこそ、起きる疎外感とか無力感、俺達はどうすればいいのか、という解決への方向も見いだせない時代だった。五木のこのころの作品には、そのような虚無感が漂っている気がする。

 

 

エーガ愛好会 (259)  ゴジラマイナスワン  (44 安田耕太郎)

3月11日発表の第96回アカデミー賞で「ゴジラー1.0」が、日本映画として初めてアカデミー視覚効果賞(Academy Award for Visual Effects) を受賞した。受賞式の模様をテレビで観たし、それ以前に映画も観ていた。歴代のアカデミー賞の中で、監督として視覚効果賞を受賞したのは『2001年宇宙の旅』のスタンリー・キューブリックのみであり、山崎監督は55年ぶり、史上2人目の受賞監督となった。彼は、監督、脚本、VFX(後述)の3役を務めた。
ゴジラ(1954年公開)は、戦後直ぐの生まれ(1946年)の僕らの世代にとっては1950年代、「力道山」とならぶヒーローだった。戦後の混乱の中で、日本映画を世界に認めさせた黒澤明監督の「7人の侍」が公開された同じ1954年に、奇しくも最初のゴジラ映画が公開された。映画館で観た時(当時9〜10歳)度肝を抜かれたのを覚えている。ゾクゾクして不安を搔き立てられたテーマ音楽が印象的であった。https://youtu.be/2fJrN5R7Yns?t=2
この最新ゴジラ映画はモノクロ版で、大袈裟に言えば黒沢映画「羅生門」「7人の侍」以来の快挙かも知れないと買い被って、そう思う。
「7人の侍」はハリウッド映画「荒野の7人」(The Magnificent Seven)として1960年、リメイクされ公開、更に続いて、第2作、第3作、第4作と続き、2006年には同じ題名「The Magnificent Seven」が公開された。しかし、リメイク作品はどれもオリジナル作品「7人の侍」の足元に及ばない出来栄えであったかと思う。
もう一方の雄「ゴジラ」も続編が頻繁に作られ、「ゴジラー1.0」は国産の実写映画としては初代から数え30代目の生誕70周年記念作品となる。ゴジラ映画はアメリカ製が数作公開されたが、評判は芳しくなかった。ゴジラの故郷日本で、満を持して最新技術の3DCG (3 Dimenntional Computer Graphics – 3次元空間のコンピューターグラフィクス) を駆使したVFX(Visual Effectsの略:視覚効果)映画として、山崎貴(たかし)が監督を務めた。着ぐるみがメインだった、1954年の第1作「ゴジラ」から2004年の第28作目までと比較すると、VFXを駆使した前作第29代目「シン・ゴジラ」と今回の第30作目は、その映像表現が飛躍的に進化しており、ゴジラ自体の臨場感溢れる表情&迫力に留まらず、戦後の焼け跡からの復興期の日本をリアルに表現していて、嘘っぽい街の描写に苛まれずに観れたのは、大きな進歩で、それだけ映像を楽しむことが出来た。
1946年夏、南太平洋のビキニ環礁で行われた米軍による核実験「クロスロード作戦」により、その近海にいたゴジラは被曝し、体を焼き尽くされたが、それによってゴジラの細胞内でエラーが発生し、その身体は背丈50.1メートルまでに巨大化する。そのゴジラが日本を襲うのだ。ゴジラは「背びれ」だけを海面に出し、もの凄いスピードでターゲットに向かっていく。焦土と化した戦後すぐの日本に、ゴジラは深海から突然現れ相模湾から上陸して鎌倉を、そして銀座を破壊し尽くす。恐怖さえ感じさせるゴジラの”本物感“と街の“実態感“には唖然とさせられる。演出と細かい描写に見惚れてしまうが、ゴリラは破壊的な一種の天然のカリスマ感があり、美しい。
戦後、焼け野原となった日本にゴジラが現れ、戦争の惨禍を生き抜いた主人公ら日本国民に襲い掛かる。「戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を負(マイナス)に叩き落とす」という意味を持つのが、映画の題名「ゴジラ マイナス ワン」でもある。
想像を絶するゴジラの姿と行動には驚愕感嘆するのみであったが、ストーリー展開は、映像美ほどの意外性はない。海神(わだつみ)作戦と銘打ったゴジラ殲滅作戦を始め、当時の軍隊が言ってみれば出来うる手立てを駆使してゴジラに立ち向かう。この辺の戦闘場面は純粋に娯楽として楽しめば良いのではないか。
今や国民的アイコンとして世界でも人気を博するようになった「ゴジラ」の今後の映画が楽しみではある。

70年前の記憶から―松中のことから現在を考える     (34 船曳孝彦)

日差しは強くなってきましたが、風はまだ冷たくまさに彼岸前の気候です。 米寿を迎え、最終と思われるスキーに行ってきました。歩くのはフラフラしていますが、スキー板を付けると様変わり。ゴンドラの上から現役並みの滑りが出来て大満足でした。

一昨日、母校松沢中学の『松中祭』に行ってきました。ホールに現役中学生の絵画(ものすごく上手でプロみたい:指導教師が優れている)、工作、書などが展示されている傍らに、同窓会による展示パネルがあり、「松中の歴史」というパネルの横に、私の書いたものもパネルとなって展示されていました。

元原稿を添付します。たまたま高校2年の時の戸山高校新聞に投稿したコピー手に入り、現在(昨年)と比較しますと、『隔世の感』を強く感じます。昔を思い出してください。

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東京都立戸山高校新聞 昭和二七年五月

人生六十年 三年のびた壽命       

生物班研究班  船曳孝彦

 「人生わずかに五〇年」という言葉があるが、これからは「人生わずかに六〇年」と改めなくてはならなくなった。

 二六年(一~十二月)の日本の人口動態を見ると、出生、死亡ともに減少の傾向があり、同年中の人口増加は一,三一四,五一六人で、約秋田県、京都、姫路両市の人口だけ増加したことになる(厚生省統計調査部)

 先ず出生についてはその数二,一五七,四一四人で、二五年のそれより二〇萬人少なく、これはこの統計の始められた明治三三年以来の最低記録で、出生率は千人につき二五・六人、昭和一四年の二六・六人より少ない。 さて死亡の方は、八四二,八九八人で二五年よりも6萬六千人の減少。死亡率も千人につき一〇・〇人とほぼアメリカ並みで、これも始まって以来の最低記録であり、昭和一一年の一七・五人に比べ相当少なくなっている。

 これらのため平均壽命がのび、男六〇・八(五八歳)女六四・八(六一歳)歳となり、大体平均三年のびている(カッコ内は二五年)。この壽命を各国に比べると、イギリス(一九三七年)デンマーク(一九三六~四〇年)の上ではあるが、これら両国は一五年前に既にこの域に達していたことは、まだまだ日本が西欧諸国に比して、この方面で非常に遅れていることを意味している。しかも昨年あたりは戦争による死亡が直接的にも間接的にも最も少なかった年であることを考え、絶対数字のみに拘って考えないようにしなくてはならない。

 このように死亡率が減った原因は一つには前述の戦争の影響の多少もあるが、もう一つの理由に結核の死亡が激減していることがある。これはストマイ等の各薬品の普及によるものと見られ、近頃話題の新薬イソニコチン酸ヒドラジドも実験の段階にあり、前途は明るい。結核死亡者は明治四二年以降毎年一〇萬台で、これを割ることが懸案であったが、ついに九三,六五四人となり、昭和一四年の一五萬三千余人、即ち人口1萬に対して二一・二人の比率が一一・一と半減し日本結核史上特記すべきものである。更に今まで関心の対象であった二〇~二四歳の青年男女層の結核死亡率が二五年に比較して三五%も低下していることは特筆すべき事柄である。しかし、ここで我々が注意しなければならないのは、結核死亡者が減ったことは、結核に感染するものが減ったことを意味しないということである。「大学受験」も健康を除いては意味ない。我々はこれから結核の一番危ない所に入って行くのである。しかし、数字の上からいうと西欧諸国に劣るとしても、結核国の汚名を返上しつつあることは明らかで、一日も早く完全に返上することを心から念願する。

 又その他の死亡原因を見ると死産が増加しており、赤痢、ハシカ、交通事故などによるものが多くなっている。交通事故防止は六三型にのらず、飛行機に乘らないこと(?)。そこで全体として死亡者と年齢とはどんな関係にあるだろうか。ほぼ満一〇歳に至るまでに死亡者数は年々急激に減少し、満一〇歳頃には最も少なくなり、その後は又増えだし、満七〇歳~八〇歳が最も多くなり、その後再び少なくなって行くことが多くの国で一般的な傾向として認められている。又、他の生物と比較してみると、クマ(五〇年)ハト(五〇年)ラクダ(五〇~六〇年)と人間とはほぼ同じ位の壽命を持つものでも、「クマ生六〇年」「ハト生六〇年」となるはずはなく、寿命を人為的にどんどん延ばして行くのが人間の特徴である。もっとも他の生物と比較するにあたっては百分壽命といって、その最高寿命を百とし、全体を百等分し夫々の種類において死亡数がどのように分布しているかを以って比較するのであるが、それを用いても共に壽命が延びて行くことはないだろう(たとえ延びても微々たるもので比較にならない)。そこで我々が長く生きることは、もう既に死亡原因の大きな一つである早産、死産も過ぎたし、ハシカの心配もなく、老衰はいたし方ないとするならばまず病魔の予防を怠らないようにすると共に自殺などもしないことである。(筆者は本校生物班班長)

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高校生として学んだ時から、実に71年という月日が流れています。そこで、当時と現代の統計資料を検索し、比較し直してみました。71年前の事情を振り返る機会を得たことはラッキーでしたし、戦後を知らない世代の人たちにも参考にしていただけたら幸いです

先ず、小論文で寿命が60年となったことがニュースであることに今昔の感があります。現在の男性81.5歳、女性87.6歳と比べると20年以上の差があり、当時では思いもしなかった差と思います。

出生率は1000人当たり25.6人と低下したとしており、ベビーブームと言われた世代の終わりでしょうが、現代の1000人当たり0.6人とは2桁も違い、一方の死亡率も1000人当たり10人(アメリカ並みとなったと喜んでいます)と、現在の0.13人とは、やはり2桁違っています。

総人口は8,457万人(小論文中には出てこない)から、今は1億2450万人とほぼ5割増しになっていますが、当時の秋田県の人口が130万人、京都市・姫路市合わせて130万人というのにも驚きます。日本で3番目の大都市京都が百万都市になるかどうかの境目だったとはこれも驚きです。

現在人口減少が始まり、加速しつつあります。少子化傾向が問題となっていますが、このままの傾向が続けば、22世紀を迎えるころは日本の人口は6千万となり、大げさではなくやがて滅亡に至ります。小手先の補助金などでなく、高齢化社会の問題とともに、人口動態の推移を分析した上で真剣に対策を立てる必要があります。

当時の死亡率を低下させた原因について、まだ戦後間もない時期であり、戦争関連死者の影響が小さくなり、新しい情報として入ってきた西欧諸国の文明に驚いている時代でした。

まず結核死亡、特に青年層での減少を挙げています。抗結核剤の出現以前は結核イコール死と見做されていました。実はすぐ後からペニシリンなどの一般抗生剤が普及したことも大きく貢献したのですが、感染症の世界は全く様変わりしました。抗結核剤も一般抗生剤も一切なかった戦前に脊椎カリエス(結核菌に合併して混合感染)を患った私自身はよく生き残れたものだと思います。現在結核による死亡は激減し、抵抗力の低下した老人の病となっています。結核国の汚名が除かれたことは喜ばしいことでした。

そして感染症学は今回の新型コロナウィルスのような次から次にと発見されるウィルスの時代となってきています。

他の死因について、死産、赤痢、ハシカが出ていることも当時を反映しています。当時はどこにでもある感染症だった赤痢は、この5年後に私自身が合宿での集団赤痢に遭遇し、医学生だった私も病院との間で奔走した思い出がありますが、最近耳にすることもなくなりました。また、交通事故死が問題なりつつあった頃でもありました。

あれから70年以上経過し、日本社会の問題点は、特に医学医療面でも、次々と変遷して参りました。今から考えると、当時の医療は寂しい限りで、肝臓がんや食道がんは手術療法が世に出ておらず、手術しても患者さんの大部分は死んでしまった時代です。今は遺伝子が実際の患者さん診断に使われるとか、内視鏡で手術するとか、しかもロボット技術迄応用されるなど、当時は夢物語ですら出てこなかった進歩です。医学・医療に身を投じた者として、その後に日本は世界一流のレベルを走ったという自負があります。それなのにコロナ対策で迷走を繰り返したことなど、20年、特にこの10年は医療、医学の面で、特に学術面、行政面で後退していることも事実です。

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(41 齋藤孝)お知らせ、ありがとうございます。米寿を過ぎてもスキーで御活躍とのこと敬服いたします。それから名門『松中』で開催された学園祭に出席されたというお話。カメも同じく名門、松中の出身ですから誠に嬉しいです。KWVの同窓には同期の金子和義がいます。同期の文集から抜粋します。

金子君は自民党所属衆議院議員だった。選挙区は岐阜県高山地区。金子君の父親も国会議員。金子君は大臣にもなった。国会で答弁を行った時、それをテレビで見たことがある。面白かったことは、テレビ中継で金子君が議員席で退屈そうに何やらノートに落書き絵を描いていた。これが大臣としてあるまじき行為としてメディアで問題になった。金子君は髪の毛も豊かで顔は歌舞伎役者のようであった。残念ながら大臣としてはあまり実績を残していない。
実は金子君とカメとは中学が同窓なのである。1955年、カメは富山から世田谷区の松沢中学に転校した。カメはそれまで5年間、富山市で母親の実家に預けられていた。1950年に新潟市で父親が亡くなり、母親が単身働く必要が あったからだ。金子君は父親が岐阜高山選出の国会議員であったこともあり、世田谷区赤堤に別宅があった。その関係で金子君は松沢中学に入学する。ところで松沢中学の同窓会会長に船曳孝彦さんが就任されたこともある。あのKWV先輩のドテさんだ。

 

 

 

 

東京大空襲ー3月10日の記憶   (普通部OB 舩津於菟彦)

東京都は1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで合計106回もの空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日〜26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲を指す(79年前)。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。

錦糸公園は戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用された。こと1945年の東京大空襲においては、1万余の遺体が当公園に仮埋葬された。 1945年3月13日、囚人141人で組織された「刑政憤激挺身隊」が錦糸公園付近の累積死体処理に初出動し、1穴200体収容の大穴10個をつくり、トラックで搬入された死体を埋葬した。

空襲当時の風景と今の風景  10日の朝には一面何も無い。

この眼下の錦糸公園では1万8千にもの方が仮埋葬された。今は約80年の平和が続いて居て間もなく華やかなお花見が開かれ、誰もがそんなことは思ってもいないだろうが、79年前の未明に僅か2時間の間にこの下町界隈のが紅蓮の方に囲まれ逃げ惑い10万人以上の方が亡くなった。原爆も凄い悲惨なことだが、この「東京大空襲」は消して忘れてはいけない事だ。未だ世界では相変わらず戦争の殺戮が続く。「過ちは繰り返しません」なんてのはやはり空論か。でも80年も戦争も無くなく一人の戦死者も無い日本。誇るべきで在り、続いてほしい。

オオムラサキのこと    (大学クラスメート 飯田武昭)

3~4年前、NHKニュースの各地の便り(1分間)で知った兵庫県{丹波の森公苑}の(国蝶)オオムラサキの会に所属して、これまでも時々、短いレポート紛いの送信をしていますが、この度、この会の会長からのメールで、新たな興味ある地味な研究を知りました(下記に引用)。

私はオオムラサキ放蝶時期と秋のウイーンからの演奏家を招聘するシューベルティアーデ音楽会に出来る限り参加しています。直、「丹波の森公苑」は30数年前からウイーンの森、ドイツの黒い森とも提携関係があり、丹波の丘陵地帯にオオムラサキ飼育に適した・クヌギ・コナラ・エノキを植林し、オオムラサキ蝶の生態系をこの地域一帯に取り戻す計画を実行中で地道な自然保護の作業中です。

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飯田 武昭様

不順な天候に越冬幼虫調査が捗りません。神戸大に依頼していたオオムラサキのミトコンドリアDNA検定の結果広島(府中)奈良(橿原)兵庫(丹波)各個体のDNAが一致しました。今年、滋賀県(大津市)山梨県(北杜市)宮城県(仙台市)の個体検定をする予定です。
北杜市はフォッサマグナ線上にあり東西分離するのではと楽しみにしています。3月中にウィーンシェーンブルン動物園に航空便で幼虫を送る準備をしています。

(編集子)馴染みの北杜市が対象になっているようだが、以前にKWVOB会の夏合宿で付近を散策したとき、渓谷沿いを歩いていた44年卒実方君が、”歩いている目の前に舞い降りてきた” と興奮していたことを思い出す。引用されている手紙の文面から、ああそうか、北杜はフォッサマグナの上に位置しているのか、と改めて知った。

民主主義はこわれたのか?   (42 下村祥介)

 (”ザンバからの電話” について)

「民主主議がこわれた」のではなく、民主主義制度のもつ「欠陥」が露呈したということですかね。トランプ前大統領が法を無視しても許されるというのであれば、法治国家とは言えないので「民主主義がこわれた」とも言えそうですが・・・。

民主主義が最高(理想)の政治制度ではないと言われるのは、一般国民にとってはものごとの本質を見極めることが極めて難しく、根拠のない噂や表面的なイメージ、群集心理などによって国民の多くが妄動し、誤った選択をしてしまうことが多々あるからでしょう(ヒットラー政権の誕生の経緯やマッカーシー旋風などもそうですかね)。一国の政治レベルは国民のレベル以上にはならない、と言われるのもこの辺から来ているのでしょう。

自分は民主主義国家にいるから自由だし大丈夫だ、自分の意思でものごとを決め判断しているからといっても、気づかぬうちに洗脳され見えざる妖怪にあやつられているということもあり得ます。民主主義制度に内在する諸欠陥を補う有効な手立てが実現するより先にAIによるフェイク映像などが先行していくこれからの時代が怖いですね。

(追補) (3/13)の日経新聞によれば世界の民主主義が退潮しているとのこと。以下、記事を要約する.

『2011年ごろから世界の民主主義指数が低下し続けている(スウェーデン独立調査機関V-Dem研究所による調査結果)。集計対象179か国・地域を人口でみると民主主義陣営は29%(23億人)、権威主義陣営は71%(57億人)。権威主義陣営は10年前の48%から大きく勢力を伸ばしている。民主主義指数は、公正な選挙、三権分立、法の下での平等、表現・結社の自由などで、国・地域の数で見ると民主主義陣営は91、権威主義陣営は88。今年は60か国・地域で選挙が行われるが、このうち31の国・地域では民主主義が後退している中での選挙となる。』

この研究所のリンドバーグ所長は「民主主義を傷つける極右や愛国者の政党・政治指導者に投票する可能性が高まっている」と解説。北朝鮮や中国、ロシアは言うに及ばす、ヨーロッパでもあちこちの国で極右政党が伸長しており、世界の先頭に立って民主主義を標榜するアメリカですら、司法の独立性や法の下での平等、裁判官人事の公平さが揺らいだり、誹謗中傷やフェイク映像によるマイナスイメージの刷り込みなどが行われている現状を見ると、本当に冷静沈着、真摯で公正な選挙が行われるのか、米国民は一時的な感情の高まりに流されて間違った選択をしないだろうかと大変気になるところである。

 

オマハビーチのことです  (37 加藤清治)

(ブログ記事にあったオマハビーチを訪ねたときの記録から抜粋した写真を送ります)

私達が訪れたのは1944年6月6日の上陸作戦が行われてから70周年で、戦闘に関わった6ヶ國の記念式典の直後でした。記念碑には各國の国旗が掲げられていました。式典関係の米軍の兵士と一緒に写真を撮りました。崖の上には子供達が教師に引率されて見学に来ていまました。

塹壕の中には手榴弾が壁に掛かっていました。オマハビーチは海岸線が10km近く続き砂浜のすぐ奥はかなりの断崖になっています。断崖の上にはドイツ軍の塹壕やトーチカがそっくり残っていました断崖を攀じ登った連合軍兵士が狙い撃ちにされた事だと思われますドイツはまさかここから上陸するとは予想もしてなかったようですここを訪れた10年前と比べても何か怪しい世の中になって来ました。この先、怖い事が起こらないことを祈るばかりです。

(編集子)同感です。ウクライナもそうですけど、宗教と人種差別にからむ怨念が重なるガザのほうはさらに複雑で、鎮静化するのは容易ではないでしょうね。地政学的にいえば海で防御されている我が国はあらゆる面で有利だし、安全度は高いとは思いますが。

(映画に出てきたオマハビーチです)


(安田)”三つ子の魂百まで” というが、歴史的な出来事の史実・記憶・怨念の感情は人間の心の中にどのくらいの期間残存し、民族の運動或いは記念式典の形で存続するのであろうか?ノルマンディー上陸作戦から80年経った。記念式典はいつまで行われ続けるのか?英国の対フランス(ナポレオン)との戦いワーテルロー(ウォータール―)やトラファルガー勝利を祝う記念式典は流石に200年以上たった今日行われているとは思わない。人間の寿命を勘案すると100年くらいは記念式典なる“感情の発露”の“政治的行事”は続くのだろうと思っている。歴史の一例として、日本の韓国併合(1910年)に起因して韓国内で起きた民族運動を三・一独立運動(3月1日に起きたことからこう呼ばれる)と云うが、勃発したのが1919年。以来、100年以上経ったが、まだ彼の国では3月1日が来ると、何らかの式典なり運動が行われていると聞く。早くワーテルローの類の軽い空気感をもつ存在にならないものかと願っている。

エーガ愛好会(258) OKコラルの決闘を題材にした映画 (34 小泉幾多郎)

今回の小泉リポートに先立って、ウイキペディアから基礎知識を得ておこう。

OK牧場の決闘は実話ですか?
アメリカ西部劇ファンなら誰もが知っているOK牧場の決闘。 映画やドラマにもなった有名な実話です。 その決闘が行われた歴史的な場所がTombstone(トゥームストーン)。 アメリカ合衆国アリゾナ州南東部に位置するコチセ郡の都市で、かつては銀山の町として栄えました。

トゥームストーンTombstone)は、アメリカ合衆国アリゾナ州南東部に位置するコチセ郡都市。かつては銀山の町として栄え、その人口はサンフランシスコをしのいだ。しかし銀鉱が掘り尽くされると町は急速に衰え、2006年の推計では人口1,569人にまで減少した。現在では町全体が国の史跡に指定され、西部開拓時代の辺境の町の町並みを残す「生きた博物館」として観光客を集めている。日本では、ツームストーンとも表記される。

ブート・ヒル墓地(Boot Hill Graveyard)は、トゥームストーンが繁栄していた時期に暴力、または病気で亡くなった人たちが眠る墓地である。この墓地はトゥームストーンでリンチにあった、もしくは死刑を受けた者(人違いで死刑になった者もいるとの解説が墓地内にある)の行き先でもあり、死者が履いていたブーツが墓碑(簡素な木製のもの)に掛けられたことから、この名が付いた。

1881年にトゥームストーンで起きた暴力事件の代表とも言え、何度も西部劇映画の舞台になった「OK牧場の決闘」(牧場ではなく「O.K. Corral」といい、牛の囲い)が起きた場所も史跡として残っている。同史跡は見学料を課しているが、市のメインストリートであるフレモント通り(州道80号線)からその大部分を見ることができる。

(小泉)相変わらずNHKBS1では再放映が多い中、3月6日TV東京で、西部劇「トウームストーン」が放映された。そのアリゾナ州トウームストーンのOKコラルでの決闘を題材にした映画を列挙してみた。因みに,コラルとは牛等の囲い込み場のこと。

先ず第一は、監督ジョン・フオード、主役のワイアット・アープ(以下W)をヘンリー・フォンダ、ドク・ホリデイ(以下D)をヴィクター・マチュアが演じた「荒野の決闘いとしのクレメンタイン1946」。この原作はスチュアート・N・レイクで、この作品の前に「国境守備隊1934」(未見)監督ルイス・セイラー、W:ジョージ・オブライエン、D:アラン・エドワーズとして映画化され、更に「ロンティア・マーシャル1939」が監督アラン・ドワン、W:ランドルフ・スコット、D:シーザー・ロメロの主演で、詩的情緒は少ないものの、女性陣もチワワ:リンダ・ダーネルがジュリー:ビニー・バーンズ、クレメンタイン:キャシー・ダウンズがサラ:ナンシー・ケリー等。劇中劇のシェークスピアのシーンも同様にあったが、Dは決闘前に殺され,相手がクラントン一家ではなかった等の違いはあったが、筋書きは原作が同じだからそっくりで、「荒野の決闘」は3回目の映画化ということになる。

の後、元大統領ロナルド・レーガン主演でリメイクされた「決闘の町1945」(未見)もあるという。「荒野の決闘」以降では、最後の場面で、Dの肺病が悪化し療養中、Wが見舞い、クレメンタインとの離別とは、また違った哀愁漂うラストになっている

決闘シーン等西部劇の醍醐味を満喫させて呉れたのは、監督ジョン・スタージェス、w:バート・ランカスター、D:カークダグラスの「OK牧場の決闘1956」、女優陣はローラ:ロンダ・フレミングとケイト:ジョー・ヴァン・フリート。あまりに史実と違った講談調を反省した監督ジョン・スタージェスは、史実に近づけようと「墓石と決闘1967」として再映画化した。W:ジェームス・ガーナー、D:ジェースン・ロバーツで、男優だけの出演でリアリズムを強調した。これ以降も制作されたが、史実に忠実に、の意欲が溢れてか、作りがニューシネマ的な作りになってきている。

ドク・ホリディ1971」監督フランク・ペリー、W:ハリス・ユーリン、D:スティシー・キーチ、ケイト:フェイ・ダナウエイ等。Wは冷徹な野心を持つ政治家であり、Dと共に富の獲得に重きを置き、ケイトは自己主張の強い女性として描かれる。決闘ではショットガンを使い相手を皆殺しにする。「トウーム・ストーン1993」監督は、ジョージ・P・コスマトス、W:カート・ラッセル、D:ヴァル・キルマー等。 OKコラルでの決闘よりもその後のリンゴ―・キッドやカーリービル・ブロシャスとの戦い、悪徳集団カウボーイの残党との戦いに重きが置かれ、最終的に誰が誰を殺したか判らなくなってしまう程の殺し合いで終わる「ワイアットアー1994」はヤングWの過去を知ることになることを含めて伝記的に描かれる。従来のフィクション的な描き方から見るとどうしても、人格的な生き様が尊敬すべきものだけでないものになってしまうのだった。

(編集子)外国観光にはあまり興味がない小生だが、もし健康が許せば訪れてみたい処が2か所ある。一つは第二次大戦の帰趨を決めたノルマンディ上陸作戦の激戦地オマハビーチとこの小泉リポートに触れられているトウムストーンである。フォード映画ででてくるモニュメントヴァレーはコロラドからラスヴェガスまで猛暑の中をドライブしたときにゆっくりと堪能してきたし、アイダホ州ボイジーではオレゴンとレイルに残されたわだちもも眺めてきたのだが、このセーブゲキファンの聖地にはまだ縁がない。

小生のベストフィルムである 荒野の決闘 で最も印象に残っているのは、”映画史上最も美しいラストシーンー左” もそうだが、ヴィクター・マチュアのドク・ホリディだ。そのほかでは大根扱いされているマチュアだがこの映画だけは違う。この作品では銃撃戦のさなか、持病がせき込み、取り出した白いハンカチが標的になって被弾し、柵の間から最後の一発を撃って倒れる(このカットに続いて、その柵に腰掛けたままで、逃走しようとするクラントンを射殺するワード・ボンドのファンニングが見事だった)。OK牧場の決闘ではドクをカーク・ダグラスという全く違ったキャラクタが務めるのだが、史実どおりコロラドの療養所で死ぬ。その直前におとずれるバード・ランカスタとのエンディングになるのだが、僕の好みではやはりフォード流の最期のほうがいい。もうひとつ、トウムストーンではヴァル・キルマーが演じたホリディが、クールで人生を投げてしまった男の印象を深く刻み込んだ。こういう点では 墓石と決闘 は詩情に欠ける気がするし、ワイアット・アープ では英雄視されないアープを演じたケヴィン・コスナーがもひとつさえない印象だったのが残念。ただ、史実には一番近い描写のだそうだが。

主題歌では My darling Clementine (荒野の決闘)もいいが、OK牧場の決闘のテーマ曲 Gunfight at the OK Corral を歌ったのがフランキー・レイン。この歌詞に上記したブーツヒルという地名も出てくるのがうれしい。彼のもう一つのヒットは ローハイド のテーマ。”真昼の決闘” の主題曲 ”ハイ・ヌーン” (歌手はテックス・リッター)と並ぶ名曲だ。

(小泉)「荒野の決闘」が、「国境守備隊」「フロンティア・マーシャル」に継ぐ3回目の映画化と書きましたが、これはスチュアート・N・レイク原作の3番目で、別に、W・R・バーネット原作のものがあり、これを原作にした映画「死の拳銃狩Law and Order 1932」エドワード・L・カーン監督、ウヲルター・ヒューストン主演が、ワイアットアープ(映画の中ではフレーム・ジョンソンという名前)を主役にした史上最初の映画ということが判明しました。その「死の拳銃狩」のリメイクが「決闘の町Law and Order1953」になります。ロナルド・レーガンのほか、gisanのお好きなドロシー・マローンも出演しています。尚ランドルフ・スコット主演の「フロンティア・マーシャル」は、偶々購入した西部劇パーフェクトコレクション(復讐の荒野)の中にありましたので、お送りいたします。

 

ザンバからの電話

KWV36年同期の山室は大男だがその風貌に似合わない温和な男で、僕ら世代が小学校時代愛読した ”少年王者” のサブキャラクタを彷彿させるので、”ザンバロ” とあだ名されている。今は古都鎌倉で優雅に過ごしているのだが、昨日、電話があった。鎌倉の梅便りかと思いきや、開口一番、”おい、アメリカの民主主義はこわれちまったのかね?” という質問がきた。大手食品会社で要職をつとめ、そのレストラン業務進出にあたって先陣を切った男だけに、視野の広い勉強家からの議論である。電話なのが残念で、鎌倉へ行こうかと言ったら、今は観光客で混雑の上、コロナ再発の気配もあるので、来るな、とのことだった。梅が桜になるころには、という事で電話会議は終了した。

民主主義が死ぬかもしれない、という議論は ”もしトラ” 論に並行して盛んであり、民主主義の大本山であるアメリカでその危機がささやかれているのは周知のとおりである。短期間ではあったけれど、思い起こせばケネディ以来の ”よきふるきアメリカ” を味わうことの出来た自分にもよくわかる議論であるが、こと ”トランプによって民主主義が破壊された” という議論には組しない。詭弁めくけれど、小生は今現在、かの国の民主主義は前にもまして強固である、と思っている。なぜならば、民主主義の根底は要は全員が自分の意思によって為政者を選ぶ、ということにつきるのだから、単純に言って共和党支持者と民主党支持者が有権者の半分ずつを占めると仮定した場合、歴史的事実として議会の破壊とかそのほか明白な反社会的行動があるにもかかわらず、その半分の人間がトランプを選ぶ、という事が起きている以上、”もしトラ” 現象が起きたとしても、それはこの国の民主主義が立派に生きているということの証左ではないのか、と思うからである。

”民主主義” というのは、チャーチルが何と言ったかは知らないが、現在考えうる政治形態のひとつであり、それが生み出す政治の結果とは異なる。現在の議論は、要は ”もしトラ” の結果生まれると十分な確率で予想される多くの事象が現在民主主義国の常識や政策などに反するものになるだろう、という事であって、原因と結果の混同なのだ。そう考えると、問題は民主主義の手続きに従って行われた(現時点での共和党候補選挙に限れば過去形になる)選挙の結果をもたらしたのが、変な言い方だが正当性のある理屈―例えば経済問題とか移民問題などーよりも、”ディープステート” などというでっちあげや、マスコミとくにSNS文化を通じて出来上がってしまった反知性的な、いわせてもらえば知的な行為よりも一時的な感情に左右される大衆のセンチメントであることは確かだ。このこと自体は、そもそも 民主主義、というものが本質的に持っている問題であり、本稿で何度も私見を書いてきたが、”大衆の反逆” が引き起こした現象なのだと考える。

もちろん,小生自身は、老齢ではあるけれども(と言っても4歳も自分より若いのだ!)バイデンに組するものであり、トランプの主張には賛成しない。それにもかかわらず、”民主主義” を選ぶ以上、この ”大衆化” ”群集心理支配” という社会的、歴史的事実に向き合わざるを得ない。かてて加えて生成AIなどというモンスターが生み出された以上、その傾向はさらに強まるだろう。

僕は民主主義、を信奉する。しかしその結果生み出される社会が ”孤独なる群衆(リースマン)” が引き起こす ”大衆の反逆(オルテガ)” に堕落するだろうという不吉な予想は深まるばかりである。