乱読報告ファイル(10)    ランシマン  民主主義の壊れ方

香港、ミャンマー、アフガニスタンとここのところ政変が相次いでいる。表面的には安定しているように見えるトルコだとか、ウクライナなどでも国内事情はいろいろと波乱含みのように見える。そして共通に語られるのが民主主義の危機、というテーマである。だいぶ前にフランシス・フクヤマという政治学者が書いた 歴史の終わり という本が有名になった。この本は今や世界の国々は民主主義を基盤にする段階に到達し、イデオロギー論争は問題でなくなった、と主張し、民主主義は変わらずに存続しつづけるだろうと断じた。しかし現時点において、彼の主張はどうやら誤りか、もしくは時期尚早な結論であったのではないか、と思い始めていたので、散歩帰りによったいつもの本屋で、(例によって)衝動買いしてしまったのが本書である。

本書はトランプ政権が誕生した米国の社会事情についての考察から始まっている。一部の人々はトランプによってアメリカの民主主義が破壊された、と主張するが、著者は米国の民主主義そのものはトランプ一人によって破壊されるほど脆弱ではない、と断じたうえで、一方、トランプのいかんにかかわらず、民主主義そのものは壊れかけているのだ、と主張する。それはどうしてか、なぜか、という考察がこの本の主張である。著者は民主主義、という考え方を定義して、個人の尊厳と社会の長期的利益を両立させる政治思想であるとする。その意味で言えば、中国は長期的利益は上げているものの個人の尊厳を重視しない社会であるから(当然だが)民主主義とは言えないことになる。西欧諸国をはじめとする民主主義国はこの二つの原理の追求をしてきているわけだが、その思想そのものが次の三つの事象、すなわち、

(1)クーデター  (2)災害などの大惨事   (3)テクノロジー

によって、崩壊の危機に瀕しているのだ、というのが本著の文脈である。

1のクーデターの最もわかりやすい例は最近起きたミャンマーの件などがあるが、著者は街に戦車が侵入してくるような事件だけがクーデターではなく、現実問題として起きているのは、政治の世界で表面に暴力行為は現れないものの、勢力の交代のような形で、現実の政府の意向がすり替えられてしまうことも含まれている。我々には事情が複雑すぎてよくわからないのだが、たとえばトルコで起きていることはそういう意味ではクーデターが起きたのと同じことなのではないか、といったことである。

2では大規模の自然災害や環境破壊などの結果、社会の安定性が復活せず、当面の対策の連鎖の中で、本来の民主主義とはあいいれない結果が生まれてしまうことを指している。有名な ”沈黙の春“ という環境問題をとりあげたカーソンはこの本によって破壊されつつある自然に対する社会的反応を呼び起こし、政府に必要な規制強化を促したが、これは実は民主主義の世界だったからこそ可能になった。しかし昨今では化石燃料によって大規模な経済成長を可能にした国々の抵抗や、先進国のビッグビジネスの利益を確保するためのロビー活動などの結果、現実に起きていることは民主主義の基本倫理には合致していない。

3についての著者の見解は、インタネットを基盤として爆発したテクノロジーが与える影響である。トランプ大統領はツイッターを利用して、直接国民に訴えることで個人の意見が政治に直結する、これが民主主義だという誤った印象を与え、個人の意向にそぐわない政治が行われるのは目に見えない何者かが政治を動かしている、といういわゆる陰謀論を惹起し、米国の分断に拍車をかけた。著者は特にフェイスブックのいわば跳梁に極めて厳しい見方をしている。

本書の主張する3ポイントの中で特に興味を持ったのが テクノロジーの影響という項目である。僕は高校3年の時に授業で読んだエリッヒ・フロムの 自由からの逃走 という本に影響を受けて、大学では経済学部ながら社会思想史のゼミに加わり、卒業論文にこのフロムを選び、彼が主要な論客のひとりとされていた 大衆社会論 という考え方に共鳴した。自由からの逃走 は巧妙に作られたナチの世論操作によってドイツ人がヒトラーの狂信思想のわなに陥ってしまった事実を取り上げ、そこから導かれた 匿名の権威(anonymous authority) という考え方を提示した。具体的に言えば、マスコミュニケーション(当時は新聞が主力であり、テレビはまだ始まったばかりであった)が読者に対して与える影響である。マスコミが結果的に伝播させてしまう考え方や思想、それが決して権力者や主導者といった明確な意識を読者に持たせずに社会の意識や行動を左右してしまう。その結果社会の動きがいつ、だれが主導したかも気がつかないうちに作られてしまう、という現実をフロムは主著 Sane Society (正気の社会) のなかで鋭く指摘したのだ。僕自身、昨今のネット社会の現実を見て、彼が主張した大衆社会、という現実がすでに起きてしまった、と考えているので、たまたまフェイスブックだけがランシマンの指弾を受けているが、大きな意味でかれが民主主義を破滅させるだろう要因としてテクノロジー、という項目を取り上げたのに全面的に同意するのである。

ほかに本書の中で面白いと思ったのは、著者が日本を彼があげた民主主義のもたらすべき長期の成果・安定という意味ではほかの西欧諸国からみて一時の成果を上げたけれども結果的には失敗した国だ、と明言していながら(確かに数字だけ見ればそうなるかもしれない)、別の個所では後世、21世紀の日本という国は素晴らしい国だったとされるだろう、といわば矛盾した観察をしていることである。これは彼の言う第一の視点、個人の尊厳、ということを指しているともとれるが、なぜ日本が一転して成功例となるのか、説明はない。長期的利益、が単なる数字だけでは測れない、ということなのだろうか。もしそうなら、彼の前提となる民主主義の定義そのものも変わってしまうのだが。

(船津)「民主主義」とは?戦後、米国は日本の占領政策で「菊と刀」を深読みし過ぎ、でつ徹底的に「米国民主主義」を教え込んだ。そして、財閥解体の為も含め、共産党の台頭まで許した。矢張り行き過ぎたと思い急展開で民主主義を修正した。そんな生焼けの「日本民主主義」は朝鮮戦争で瓦解!

今は「日本人の愛の有る主義」か。求められて復古調に戻る懸念もある。世界はトランプが投げた「自国主義」に向かっている様だ。
中司さんが投げかけた、「乱読」のカケラは世界に問われるべき問題だと思う。どうすれば、みんなが普通の幸せを得て生活できるか?昔の「民主主義」は変容しよと踠いている。「乱読」有難う御座いました。いまや「マスゴミ」とメディアも軽んじられている。さてさて!

(小川) ブログの「民主主義の壊れ方」面白く読みました。乱読とはいうもののこのトシになって凄い読書家ですな、畏れ入ります。最近では新聞読むのも苦痛になってきてYouTubeやテレビで何とか世の中に付いて行っている小生とは大違いです。最もマスコミに支配される種族に自分がなってしまっております。

 なるほど「テクノロジー」で民主主義が壊されるという見方は面白かったです。最後の21世紀の日本に対する見方についてはいささか皮肉が混じっているかも。新しい資本主義を唱えているわが国の首相(安部傀儡)政権の評価を聞かせて下さい。

(菅原)共産主義、社会主義、民主主義、共和主義、現実主義、などなど、Feminismも含む、全てイデオロギーです(要するに、何とかism)。唯一の例外は、現実主義。従って、イデオロギーは、それにそぐわないことを無視、黙殺、敵視します。民主主義もその例外ではありません。だから、壊れるんでしょう。一度、現実主義に立ち戻るべきではないでしょうか。これは、我が尊敬する、司馬遼太郎の思考の受け売りです。