Fire and Fury

昨年、時々話を聞きに行っていた早稲田オープンカレッジでアメリカの大統領選の話があった。講師は何回か話を聞いたことのある若手の人で、当時クリントン圧勝という予想がひょっとすると外れるだろう、という議論であった。ただその時の対象は若者層に絶対的人気があった民主党のバー二―・サンダースの事で、トランプは泡沫候補として名前が出ただけだったし、僕もそう思っていた。

数日後、近くの本屋で関連した本の立ち読みをしていたら、1冊だけ、”誰も信じないだろうが今回はトランプが勝つ” と予想した本があった。その根拠として、トランプの婿クシュナーがキッシンジャーの家を訪問したことを報じたアメリカでのスクープ写真が載っていた。彼の論拠は”これでアメリカの全ユダヤ系ビジネスがトランプについた。これで、決まりだ”というのだった。信じがたいことだったが、事実になった。ラストベルト(Rust Belt)と呼ばれる地域で生活苦に悩んでいる白人労働者がトランプ支持者だということまでは知っていたが、ユダヤ系の億万長者層がどれだけの力を発揮したのかは僕らの理解を越えている。しかしこの本を読むと、そのことが実感される。

発行されたときにはトランプが著者(マイケル・ウオルフというジャーナリスト)を名誉棄損で訴えるらしいなどと言われたものだが、内容をそのまま信じるとすると、背筋が寒くなるような話ばかりである。われわれにその真偽のほどはわからないが、ひとつだけ事実だろうと思われるのは、トランプ自身、自分が当選するとは思っていなかったのだろうということだ。だから閣僚の人選にしても確たる考えもなく周囲のスタッフの言うことを聞いて決めたのだが、彼自身の信じる路線にあわない人間ばかりだったので、就任直後からの人事の混乱になり、政権に対する不信の拡大になったようだ。このあたりの真相や、今動きつつあるトランプ政権のありようなどについて、議論したり批判したりする知見も論拠も持ち合わせていない僕だが、この本を読み終わって感じたのは、トランプに先立つヨーロッパの混乱ぶりを考え併せて、ついに”大衆社会”が実現してしまったのだなあ、ということだった。そのことについて書く。

僕らが三田に進んで専攻課程を決めなければならなくなった時期、すなわち60年代初頭はまさに東西冷戦のさなかであり、経済学の分野においても資本主義対共産主義、というイデオロギー論争そのままに近代経済学(近経)とマルクス経済学(マル経)論争があり、技術論として数理経済学、などという分野も出てきていたころである。一方、僕らの日常生活に流れ込んできていた”アメリカ社会”については、せいぜいテレビドラマで垣間見る程度しかわからなかったが、高度に成長した社会の中で組織や権力の持つ暗黒面がそれとなく伝わっていた。

生まれつきあまのじゃく的性格が多分にあったためだろうか、経済学部の主流とされる流れよりもその底辺にありそうな問題に興味を覚えて僕はあえて社会思想というゼミを選択した。高校の時、”文化問題”という選択科目があって、ここでテキストとして使われたエリッヒ・フロムという社会学者の”人間における自由”という本、難しくて半分も理解できなかったのだが、この本を通じて人間が持つ不合理性、ということに漠然とした共感があった。アメリカだってソ連(当時)だって、ベルトコンベヤーの前で非人間的な作業をするのは同じ人間だろう。彼らにとっては資本主義か共産主義かなどというよりも、自分が失いつつある”人間における自由”の方が問題なのではないか。そういう問題意識だった。

幸か不幸か、ワンゲルというあまりにも人間的な部活動が自分の大半以上を占めるようになって、この問題意識も薄れがちだったのは当然だったが、それでも斜め読みを続けていたいくつかの本、例えばリースマンの”孤独なる群衆”だとか、オルテガの”大衆の反逆”などから、それとなく、機械文明の非情さと人間、という見方に傾斜していき、そこで”大衆社会”という概念を知り、僕の原点、と言えばおこがましいが考え方の基本になったフロムが専門の心理学の立場からこの大衆社会、という概念を論じていることを知った。

大衆社会、とは、文字どおり、大衆、すなわち、エリートでないごくごく一般の人間が、確たるイデオロギーや哲学などを持たず、ただ数の論理で政治・社会・経済・文化を支配してしまうような社会、といえばいいだろうか。形の上ではギリシャ以来の民主主義、という形をとりながら、実情は論理や真実などよりも風評やプロパガンダによって物事が決まってしまう。フロムはドイツがヒットラーによって統一され、世界を支配するに至った過程が巧妙なプロパガンダ操作によって作られたのだと結論し、同じことが現代アメリカ社会において存在する。ヒトラーの宣伝に変わる要素がいろいろな手段を通じて行われている宣伝、ニュースのたぐいであるとした。

60年代、すなわちフロムが警鐘を鳴らした”マスコミュニケーション”の主体は書籍、ラジオ、テレビにとどまっていた。しかし現在、インターネットという技術によって、情報操作の程度は時間的、物量的、感覚的に60年代の比ではない。このことは日常、我々が漠然と知っていることである。そういう目で、今回のトランプ政権の成り立ちを見ると、その支持層がまさにかの国の一般大衆であり、マスメディアの利用(フェイクニュースという論理で自分に合わない論理を操作してしまうことを含めて)であり、そしてそれを支えて来た汎ユダヤ主義層の金であることはあきらかである。僕はこの本に書かれている多くのエピソードが真実であるのかどうかについてあまり興味はない。それよりも、トランプの行動論理や報告を読むよりも億万長者層をいかに取り込むかに腐心しているとする周囲の発言や証言に唖然としてしまう。

トランプが現在かかわっていること、たとえばイランの問題、朝鮮半島の問題、などなど、オバマの真逆を行く行動はひょっとするとアメリカ大衆から拍手喝采で迎えられてしまうかもしれない。そのとき彼は偉大な大統領のひとりになるのか。民主主義の真実のあり方を否定した結果として?