乱読報告ファイル (5) ”ジョセフ・フーシェ”  (44 安田耕太郎)

 

19世紀末ウィーンに富裕なユダヤ人家庭に生まれ、20世紀初め文芸文化を担った小説家の一人にオーストリア国籍のシュテファン・ツヴァイクがいる。学生時代に読んで心に残っている1930年代から40年代にかけて著わした彼の著書に「ジョセフ・フーシェ」「マリー・アントワネット」「メリー・ステュアート」の伝記歴史小説3部作がある。

シュテファン・ツヴァイク
英国女優ジョン・フォンティンが主役を演じた文芸作品映画1948年制作の「忘れじの面影」(Letter from an Unknown Woman)の原作「未知の女の手紙」も、ツヴァイクが著わしている。彼には珍しい文芸作品。彼の育ちのせいか少し陰鬱な空気が漂う小説。「忘れじの面影」ではフォーンティンは彼女の持ち味を十二分に発揮して好演している。彼女が主演した「断崖」「レベッカ」「忘れじの面影」「旅愁」など全て、弾ける明るさなど微塵もない、いうなればどんよりとした空気感に支配されている映画。彼女は情熱と恋の炎を静かに燃やす、薄幸な芯の強い女性を演じている。姉オリヴィア・デ・ハヴィランドとの確執(仲の悪さ)も彼女の芯の強さと負けず嫌いの性格のせいではなかったかと、勝手に推測している。シュテファン・ツバイクのやや陰のある作風に良く似合う女優であった。

映画の話はさておき、ツヴァイクの著作の中で僕が特に愛読したのが「ジョセフ・フーシェ」。(Joseph Fouché)。フーシェは激動のフランス革命、ナポレオン第一帝政、フランス復古王政時代を生き延びた鵺(ぬえ)のような権謀術数に長けたフランスの風見鶏政治家だった。この時期のフランスは日本で云えば幕末から明治維新のような国家の背骨が変化する乱世の時代。激動の政治・社会情勢の中で、人間の本性が、特に生き抜いた人間の本性が浮かび上がる。それら個性的な人間は小説家が描く格好の対象となった。その一人がジョセフ・フーシェ。

ポレオン体制では警察大臣を務めた近代警察の原型となる警察機構の創始者。秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家としても知られ、権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って、政敵を倒し激動の時代を生き抜いた。特にナポレオンの百日天下崩壊後は臨時政府の首班を務めナポレオン戦争の戦後処理を行った。自己の主義主張を貫くというよりは、変幻自在の冷血動物「カメレオン」の異名を持ち、自己保身に巧みで激動の時代のいわば裏街道を巧みに走り抜けた達人だった。ちなみに明治維新後、大久保利通に推された薩摩藩の川路利良は初代警視総監を務め、フーシェの警察機構を参考にして「日本の警察の父」と呼ばれる。

フランス革命からナポレオン帝政に至る時代を彩った多種多様な人物の有為転変、毀誉褒貶を歴史の激動の変遷を興奮しながら読んだのがこの本であった。ルイ16世、マリー・アントワネット、ミラボー、ダントン、サン・ジュスト、ロベスピエール、タレーラン、ナポレオンなどのこの時代の寵児ほど知名度もなく、知らないまま読んだ「ジョセフ・フーシェ」に歴史の大きな波と分水嶺、人間の煩悩、性、権力闘争、権謀術数のダイナミックさに魅了された本であった。

ユダヤ人のツヴァイクはナチスの影に怯え、1933年故郷オーストリアを離れロンドン、アメリカへの漂泊の旅は始まり、逃亡の旅の末1941年にブラジルに住みついた。ここまで辿りついたものの、ヒトラーは必ず勝つと信じ、彼の運命はヒトラーの追求によって絶たれる、と信じ込みノイローゼに悩む。ウイーン育ちのヨーロッパ人の神経では、ブラジルの土地と文化に溶け込めず、もはや行くところもない絶望感の末自殺した(没1942年、享年60)。もう少し生き延びていれば、ヒトラーとナチスの終焉を知り、ノイローゼも吹き飛ばせただろうに、残念ではある。僕は密かに、菅義偉首相のことを「菅フーシェ」と呼んでいる。