それぞれのタウンウオーク (7) 防府の街  (47 関谷誠)

私は、東京生まれの湘南育ちで、山口には全くゆかりはなかったが、山口県光市の製鉄所で社会人としてのスタートを切り、その後、東京で偶々巡り合った女性(今の家内)が長州女だったこともあり、(腐れ!)縁が出来てしまい、退職後、母親の介護で里帰りを余儀なくされた家内に付き添って、この11年間、防府での田舎暮らしに明け暮れている次第。

36年卒の一部の方は、塾150周年ウオークでこの町を通過され、多少は馴染みがあろうかと思いますが、人口12万の防府は、山口県内でも古代、中世、近世にわたり最も歴史のある町だと云える。

我が家から10分程の所にある国府跡

古代の遺跡は全国各地で発見されて

定期的に行われている遺跡発掘

おり珍しいものではないでしょうが、聖徳太子の弟の来目皇子(クメノミヤ)が埋葬されているのではとされる「桑山塔ノ尾古墳」が中心部近くの桑山公園にあり、立札には、なんと、宮内庁管轄とある。6世紀前半のものでしょう。

中世になると、8世紀の奈良時代に周防国の国府や国分寺が設置され、周防の国(現山口県)の中心都市として発展。

因みに、我が家の周辺には休耕田が多い。

宅地開発の際、遺跡の初期調査は市の文化財調査係が行うが、遺跡の痕跡が見つかると、開発者が自費で調査・発掘・記録保存を行わざるを得ず、多額の経費を要する為、躊躇・断念するようだ。

我が家の周囲の休耕田。掘れば何か出てくるようだ。

平安時代になると、学問の神様・菅原道真が大宰府に左遷される途中で、防府の地に立ち寄ったことから時の周防国司が904年に社を建立。京都・北野天満宮、福岡・太宰府天満宮とともに日本三大天神の一つに数えられ、日本で一番古い天神様と云われている。

防府天満宮・裸坊祭 菅原道真の無実を奏上する御神幸祭

天満宮への参道の石段に毎春飾られる花の鉢植え。5月中旬の花回廊フェスタ最終日に100円/鉢で販売されるが、今年はコロナ禍で電話での事前販売となり、ワクチン接種予約と同様に即刻完売したとのことである。

又、平安時代末期、後白河法皇の祈願所として、東大寺別院阿弥陀寺が創建された。源平の争乱で焼失した東大寺の再建に重源上人が防府に下向し、市内を流れる佐波川の上流から巨大な材木を切り出し、海路、奈良に運んだ土地でもある。

阿弥陀寺は西日本随一のアジサイの名所としても有名で、その季節に、生前、当地を訪ねてくれた同期故岩崎拓夫君に言わせると、鎌倉の明月院のアジサイより素晴らしいとのことだった。

故岩崎君激賞の紫陽花

 

江戸時代に入って、毛利藩藩主輝元は、前出の温暖で瀬戸内海に面した防府市内桑山に築城を考えていたが、西国大名の力を恐れた幕府はこれを認めず、日本海側の環境厳しい萩に追いやったとされている。

その後、長州藩は鳴りを潜めていたが、幕末に幕府への不満と西欧列強への危機感が一気に爆発。吉田松陰、伊藤博文等々は萩から防府に出て、防府・三田尻港から、海路、大阪、江戸へと進出し、明治維新へとつながった。

長州藩士が船出前に集結した三田尻・英雲荘

1945年夏、防府の陸軍航空基地、鐘紡紡績工場等々が米軍グラマンの空襲を受けたようだが、歴史的建造物は被害をまぬがれた。最近では、歴史から取り残された、話題にも上がらない一地方都市となってしまったが、マツダ、ブリジストン、協和発酵等々の産業を抱え、財政的には健全。

千葉県柏市にマイホームがある身ながら、あと数年は長州に留まることになりそうです。コロナが落ち着いたら、是非、お出掛け下さい。ご案内します。お待ちしております。こちらの方言で「待ちょるけん、おいでませ!

明治維新後の毛利家の屋敷と庭園。毛利藩の家宝多数展示。