米国大統領選挙に思うこと

米国大統領選挙が混迷を深くしている。好き嫌いとか事情通の人ならば国際情勢への影響とか、いろいろあるだろうが、所詮は外国の内政問題であり、我々が知ることのない(たとえ知っていても理解できない)かの国の国民の事情があるわけだから、結果に賢明に対処していくしかあるまい。

また現在深まるばかりの国民間の溝が埋まるのか、14歳の少女まで銃で武装させる結果になる憲法とはいったいなんなのか、といった選挙後の米国の在り方は、外国の内政事情だけではありえない。今までわれわれが規範としてきた民主主義、というものが崩壊してしまうという危険が現実味を帯びる。選挙戦の間に出てきた論調の中に、たとえば、民主党が勝てばアメリカは社会主義になってしまう、,というように、あたかも社会主義はあってはならない、というような曲解と合わせて、背筋が寒くなるような展開である。

われわれは60年代の日米安保改定騒動やベトナム戦争の是非の激論、経済成長の加速に伴う公害問題、相次ぐ天災、大規模な汚職、などわが国を揺るがす事件を経験してきた。しかし未曾有の危機にあっても、現在のアメリカで起きているような暴動や略奪や選挙への暴力介入などということは決して起きなかった。一方、もちろんまだまだ不備はあるものの国民皆保険制度が定着したし、頭でっかちの経営学者先生がいろいろ議論をしても、なお、企業は雇用の安定を第一に考える。今回の経済危機にあっても、大企業の多くはまず役員の報酬減額があって、それから給与削減、自主退職、他社への一時的退避、などの方策によって米国ならただちに起きる従業員解雇は最後まで回避しようとしている。

このような日本人がある意味では誇るべき行動や現象を、米国民は社会主義,と考えてしまうのではないか。彼らが唱える米国の民主主義、とは第一に個人に対する機会の平等であり、その先は個人の能力次第、という理想主義でもある。そのこと自体は素晴らしいが、結果の平等、ということはないがしろにされる.というよりむしろ軽蔑さえさることが多い。しかしここには個人がただ一人存在するのではなく、あくまで社会の一部である、という視点が欠落している。彼らからすれば、日本人が幼少のころから教え込まれる、他人に迷惑をかけない、という倫理の基礎が希薄である。東日本大震災の救助に駆けつけてくれた米国の司令官は、援助物資の運送に協力した地元民の統制、冷静さ、暴動や略奪行為等起きえない社会の在り方に衝撃を受けた、と言ったそうだが、BLMという社会正義への行動が次の瞬間に略奪に転じてしまうかの国の在り方は何なのだろうか。

我々は小学校時代に給食という制度を通じて米国国民の在り方に接し,アメリカンドリームにあこがれてきた。そして日本の民主主義は幼稚である、と教えられ、以後、官民通じて、その実現への努力をしてきたのではなかったか。何年前になるか、話題になった本 歴史の終わり でフランシス福山は民主主義と資本主義の勝利を宣言した。あの熱気はどこへ行ったのだろうか。

一方、僕らは程度の差こそあれ、マルクス主義から無縁で過ごしてきたわけではない。だが現実の前に、というか社会主義共産主義を論じる人たちの行き過ぎた教条主義のまえに社会主義国家というものは専制なくしては実現しないものだ、と考えるようになっていた。之もある意味では福山の論調を支えていたのではないか。

だが、今のアメリカの現実、他方、いかに苦しくても雇用を守ろうとする多くの企業の在り方などを見ると、我が国日本は結果として世界で初めて、人権、自由、社会正義、といった倫理を資本主義、民主主義と共存させている国なのではないか、と思えてきた。地球規模の環境問題や安全保障などといった、それこそグローバリズムが基礎となるこれからの世界で専制主義によらず国民の民度と倫理性によって、社会主義と民主主義を両立させている国。日本はそういう国なのだ、と思わないか?

(36 翠川)
”国民の民度と倫理性によって、社会主義と民主主義を両立させている国。日本はそういう国なのだ”に共鳴。

テレビで見ている限りでは、「駐在していた半世紀前のアメリカと比較して、何という国だろう、ベトナム戦争とアポロ打ち上げを両立させ、必死だった頃のアメリカと何処がどう変わったのだろう?」と感じています。