Sneak Preview (6) (44 安田耕太郎)

巡礼路とレコンキスタ (Reconquista)

バスク地方を満喫したあと、スペイン中央部を対角線に横切りマドリッドに立ち寄ったあと、ラ・マンチャ、アンダルシア地方を通りジブラルタル海峡に向かう旅程だ。バスクの首都ビトリア・ガスティスの南西100キロに位置するブルゴス(Burgos)が最初の目的地だ。

スペイン中央北部の内陸に位置するブルゴスは、次に向かうマドリッドのほぼ真北200キロに位置している。市内の真ん中に澄んだ川が流れ、目玉ともいうべきゴシック様式の、聖母マリアに捧げられた、巨大なカトリック教大聖堂(Catedral de Santa Maria de Burgos)の荘厳な美しさには感銘した。構造、ファサードのデザイン、内部の装飾などユニークで決して忘れることはない。13世紀に造られはじめ完成したのは16世紀であったという。

ブルゴスには聖地サンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)へ向かう巡礼路が通り、イスラム勢力に占領されたイベリア半島を、キリスト教徒の手に奪回することを目的とするレコンキスタ(再征服運動)初期における軍事上の根拠地ともなった。その大聖堂に入るサンタマリア門には11世紀後半の対イスラム勢力との戦いレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族エル・シド(El Cid)の像が飾られ、彼の遺体は大聖堂に埋葬されている。アメリカ俳優チャールストン・ヘストンが主役を演じた映画「エル・シド」を中学生であった1961年に観ていて、救国の英雄の出身地を訪れ感慨もひとしおであったのを覚えている。

スペイン北西部ガリシア州(Galicia)の首都サンティアゴ・デ・コンポステラには、聖ヤコブ(ヘブライ語Jacobの和訳、スペイン語でSantiagoサンティアゴ、フランス語でSaint Jacquesサン・ジャック、英語でSaint Jamesセイント・ジェームス)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。

 

フランスの項で、訪れてすでに述べた通り、リヨンの南西150キロに位置するオーヴェルニュ地方のル・ピュイ・アン・ヴレ(Le Puy-en-Velay)に端を発する「フランスの道」はスペインへ向かう主要な巡礼路のひとつであり、全長1500キロにも及ぶ。ピレネー山脈の東山麓のフランス側バスクの起点サン・ジャン・ピエ・ド・ポル(Saint Jean Pied de Port、バスク語でドニバネ・ガラシ)からピレネー山脈を越えてスペインバスク地方の, 牛追い祭り(サン・フェルミン祭)で有名なパンプローナを通って、カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)の北部を西に横切り、ガリシア州(Galicia)の聖地コンポステラへ向かう。

伝説によれば、イエス・キリストの十二使徒の一人聖ヤコブがエルサレムで殉教したあと、その遺骸はガリシアまで運ばれ埋葬されたという。813年コンポステラでヤコブの墓が発見され、これを記念して墓の上に大聖堂が建てられた。サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の記録は951年のものが最古であるという。町の名前について、コンポステラ(Compostela)のコンポは野原、ステラは星のこと。野原に輝く星の聖ヤコブ、といった意味であろうか。2014年に巡礼路を実際歩いたが、僕の独断と偏見によれば、巡礼路はレコンキスタ運動と密接に関係しているのは間違いない。

すでに述べたように、イスラム勢力は8世紀にはイベリア半島を支配してフランス領内にも深く侵入した。キリスト教勢力側はイスラム支配にくさびを打ち込む目的もあってキリスト教信者の巡礼による人と物の移動を活発にさせ、その結果政治的、経済的、社会的、軍事的にキリスト教勢力を伸長かつ増強させ、相対的にイスラム支配の弱体化を狙っていたとしても不思議ではない。むしろ自然な発想で神学も虚構の上に成り立っている可能性を否定できない。

エルサレムで2000年前の古代ローマ帝国時代に殉教した聖人の遺骸が数千キロも離れたイベリア半島西部の田舎町で埋葬されたとは現実的には考えにくい。ローマ帝国が当時エルサレムもイベリア半島もその支配下に置いていたとはいえ、遺骸の移動・輸送・保存などの困難さ、なぜスペイン北西部の辺鄙な場所で発見されたのか、なぜ発見されたのが殉教から800年後なのか、など疑問は多い。

巡礼路の創設は結果としてレコンキスタ運動を活性化かつ増強させ、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐することに多大な貢献をしたのは疑いのない事実である。そのことこそがサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼路の創設意義と動機のひとつであろう。私見である。

ブルゴスの南西100キロほどのところに位置するカスティーリャ・イ・レオン州の小さな町で生まれ、スペインを統一したイザベル女王は、イベリア半島におけるイスラム勢力最後の拠点であったグラナダ王国のアルハンブラ宮殿を陥落させ約800年にわたったレコンキスタを成功裡に完成させた。1492年のことである。コロンブスのアメリカ航路発見の年だ。彼女の遺骸は遺言によりアルハンブラ宮殿の聖フランシスコ修道院に埋葬された(1504年)。

なにせイスラム勢力は711年のイベリア半島侵入からグラナダ王国陥落まで781年間の長きにわたって存続していたのだ。イベリア半島にキリスト教勢力が完全に戻った1492年から今日(2020年)まで528年間経っている。しかし、それ以前、イスラム勢力はそれより250年以上長い実に800年近い長期間にわたり居座っていたのだ。現在の視点で観ると驚愕せざるを得ない。ピレネー山脈から北のヨーロッパ人が「ピレネーから南はアフリカだ」というのもうなずける気がする。