新選組血風録

自粛騒動の結果、小生の日常に今までなかったイベントが加わった。テレビ番組を探す、ということである。従来は 1.気に入った大河ドラマ 2.NHKニュースセブン 3.ジャイアンツが勝ってる試合 4.ときどき映画 しかテレビは見ない、と決めていた。ましてやエンタメと称するお笑い芸人だとか、その連中がバカ騒ぎするやつだとか、グルメ番組と称して味がわかるのかどうかもあやしいタレントがこれ、美味しー、などとのたまう番組(ギャラをもらってる以上、おいしー以外に言えない仕組みだろ、最初から)なんぞが始まると自分の部屋へ引き上げるのが常だったし、このあたりは今後も頑として変えないつもりだが、偶然、”時代劇専門チャネル” で 新選組血風録 をやるとわかって、以来、平日午後4時から1時間、テレビを独占することにした。26編あるそうだから、当分、この体制は続きそうだ。これが終わるころには月いち高尾とハイライトのチョー三密、天狗飯店宴会が再開されてることを祈るだけだ。

さて、新選組血風録。

いわば ”中堅” サラリーマンの日常が順調に回っていた時期。よそ様に比べれば文句の言えないくらいのいい待遇の会社であることは十分承知しながら、(これが俺の人生か?)という暗流が時々顔を出し、なお心底が定まらない時期があった。全国で大学ワンダーフォーゲル活動は絶頂期にあり、”学連” つまり大学間の連絡網が企画した参加全大学のワンデルングがあった4年の初夏、その企画で “主将班” なるものに参加した。能登半島の突先、曽々木海浜でのキャンプで日本海の荒波をみているとき、突然、妙な厭世観みたいなものが自分を襲った。それはその後も続き、高校時代から俺の進路、と決めていた新聞記者になる、という野望がどういうものかすっかり魅力を失ってしまい、結局、デフォルトでサラリーマンになった。なってしまった、という、一種のコンプレックスから抜け切れていなかったのだろうか。そういう、不安定な時期に偶然、”血風録” に遭遇した。まだカラーテレビもなく、当初は全く期待していなかったのだが、2回、3回と見てみて、すっかり、今の用語でいえばはまってしまった。

理由は二つある。ナレーションもよかったが何といっても栗塚旭がまさに適役だったことで、”燃えよ剣” で僕の中にできていた土方のイメージそのものだったこと(すこばかりハンサム過ぎたが、本人も大変もてたそうだからよしとする)で、数年前ブームになった ”新選組!” の山本耕史もよかったけれど重厚さを感じさせず、ほかにも何人かの土方をみたが、司馬遼太郎にほれこんでいる小生の持っている土方像にはマッチしない。近々、岡田准一主演で 燃えよ剣 が封切りされるらしく、心待ちにしているが、たぶん、栗塚には及ぶまい。まさに栗塚の前に土方無く、栗塚の後の土方なし、だと思っている。

もうひとつはこの番組の底流にある、気障に言えば滅びゆくものに殉じる、信じるものに命を懸ける、という覚め切った雰囲気が当時の小生のどっちつかずの、甘え切ったコンプレックスに対しての回答のように思えたことである。春日八郎(知ってる?)が歌う主題歌が、番組が進んで鳥羽伏見の戦いから江戸への退却あたりから、”三つ葉葵に吹く嵐、受けて立つのも武士の意地。鴨の千鳥よ心があらば、新選組のために泣け” という歌詞に変わる。さらに北海道に向かい、最後まで意地を通して戦死する、そのあたりのいくつかのエピソードがなんといってもいい。信じたもののために生きる、というのはこういう事なんだ、今、おれが信じるものはなんなのか、という真剣な問いをあらためて感じたことだった。

放送はもちろん白黒だし、スクリーンの構成もまことに古めかしければ録音も上等はとても言えない。しかし、26回、完全に見てやるつもりでいる。映画、というよりも自分の歴史を紐解いているような感じがしている。