政府のコロナ禍対応策への批判について 

ここのところテレビはコロナ対策についてのいろいろな情報とともに、政府対策についてのコメントが目白押しである。また友人の多くからも同様、政府のやり方に対する疑問論が相次いで送られてきている。編集子にも、(なにやってんだ?)という気持も大いにあるし、感情論として現在の対応に納得できないことも多々ある。ただ残念だがいろいろな対策について、確たる知見があるわけではなく、各論について、たとえばPCRがどうあるべきか、などについて批判できる立場にはない。遅いのか、緩いのか、だめなのか、自分で確信をもって語れるわけではない。

ただ一点だけ、多くの批判論について申し上げたいことがある。それは論者に共通している、”外国はこうやっているのになぜ日本はしないのか” (だから日本はだめなんだ)という見方と、その延長にあってとくに欧米諸国からは日本の対応のまずさが指摘され、はては笑われている、という意見である。小生にはこれらの論点の背後に、いまなお日本人特有の敗戦国―歴史的自虐観が見え隠れしている、と思われてならないのである。

”なぜ日本はほかの国のやり方をやらないのか”、これは事実として確定できる。やっていないのは誰の目にもあきらかだからである。しかしなぜ、という点については、それはわが国の在り方が多くの国(あえて言えばほとんどの国)と、良しあしは別として、違っているからなのだと思う。また、”欧米諸国” の日本に対しての批判とか嘲笑、などと言う点に関しては、マスコミの報道以外、我々が自身で確認すべき方法もなく、あまり生産性のある議論ではあるまい。よしんばされていたとしても結果がどうなのか、をみれば解決することなのではないか。

(また、メルケルや英国女王のスピーチに対して高い評価があり、一国の指導者にはこういう姿勢があるべきで、という意見もある。僕自身、スピーチは拝見し、大いに感激し、元首個人が持っておられる識見というか、知性の高さを改めて認識するものである。安倍首相が同じように話をされれば、それに越したことはない。しかし日本の歴史を振り返ってみて、特に戦後の政治において、誰彼を問わず、このような例はないように思う。これは元首個人の個性というより、日本の元首選出の方法論や行政府の在り方そのものからくるものではないだろうか。天皇親政の時代から江戸幕府まで、庶民にとって ”お上” は疑わざるべき絶対であって、批判すべき対象にはなり得なかった。その反動からだろうが現代にあって、ある意味では極左運動につらなる個人崇拝排除主義が生まれ、個人は選挙運動の段階から元首(になるべき人)の日常のありようを見ることに重きを置き、結局、知性とか見識とか言った属人的なファクタよりも、行政上の公約のみを問うて選挙をしてきた。したがって元首なり行政府には、仕事師、を尊重し、人格や識見は二次的なものとなり、元首の発言・行動を制限するような環境があるのではないか。ある意味では、同情すべき点無きにしも非ず、という気がする。しかし、首相、もっと言ってもいいんじゃん、という率直な感じはあるも否定はしないが。)

以下、三つの点から小生の意見をのべさせていただく。

第一に、法律上、私権の制限について、憲法解釈上の問題について、日本ほど厳重に(逆に言えば時として必要以上に)慎重な国はないのではないか。これは別の言い方をすれば、憲法改正につながる問題であり(もちろん自分は改憲論者であるが),現行憲法を尊重する立場を遵守するかぎり、ゆるいといわれようがなんといわれようが、今回の私権制限の方法はせめられるものではないのではないか。それと、もう一つ、重視すべき点として、今回の一連の規制が日本人の良識を信じて実行されたものだ、という点で、大いに異論はあろうが、小生は素晴らしいものだった、と感じている。今回の連休の結果を見たまえ。強制も、処罰もなくして、国民は政府の要請に見事応えた。国民がやるべきことは実行した。これから問われるのは、われわれが、よし、協力しよう、としてしたがった、その方策が現実に正しかったのかどうか、であろう。その結果は本日時点ではなんともわからない。しかしこれについても、当局は専門家の意見を公開し、尊重した。韓国、中国、欧州諸国は憲法上のプロセスに訴えて、大幅な私権制限・戒厳令、国によっては武力の行使まで行わなければならなかった。たしかにスピード感はあったし、強い政府、すぐれたリーダー、というイメージができた。やり方は州単位になっているとはいえ,迷走を続けるトランプ政権なども同じような印象をあたえた。しかしこれら ”ほかの、外国の” 対応と比べて、わが国の施策は透明度においても、民主主義法治国家としての限界を守ったという意味でも、強制のかわりに国民の良識を信じた、その忍耐と努力はみとめるべきではないのか。何が ”外国のようにしないから” いけないのか、が僕には納得できないでいる。

第二のポイントは、文化の違いについての認識である。日本古来の伝統によって、われわれは家に帰ったら、靴を脱ぐ、という動作を、あたかも呼吸をするように無意識に、当然のこととしてやっている。和風建築は当然として、欧米流を模倣して建てた昨今のモダンな建築においても、玄関、というスペースがかならずあり、そこで靴を履き替えることによって、外部から持ち込まれる異物や病原菌などを、完全ではないにせよ、大幅にシャットアウトする。また日常生活においても挨拶に抱き合ったりする習慣はないし、握手もそれほど日常化した動作ではなく、キスに至っては欧米文化との隔たりは大きい。そのうえ、古来、おそらく、小生の考えでは,神道文化に源があるのだと思うが、汚れを嫌う、その具体的な表れとして神社では手を洗い口を漱ぐ、といった文化、その延長として、国民全体の日常生活の清潔さ、それと現在、まだまだ問題はあるにせよ、国民全体をカバーする医療保険、などなど、一口に言って生活の清潔度が世界一、と言えるくらいのものだ、という事実はもっと認められていいのではないか。ただ経済力か政府の認識かしらないが医療のインフラストラクチュアがそれに追いついていないのは残念だが事実だ。医療関係者の自己犠牲によって戦線が維持されている、という現状はやはり政治の責任であろう。

このような国ごとの特殊性はもちろん日本だけのものではない。今感染状況が深刻な米国、その中でも黒人やヒスパニックの多い南部諸州には、マスク着用を禁じる法律があるという。これはマスクによって顔を隠す犯罪者が多発したためと、それにともなう人種差別行動を抑制するための強行法規であるという。日本人の常識では考えられないが、このことを知って、なぜトランプがマスクをしないのかも明らかになった気がする。同時にここまで選挙を意識した行動を一国の元首がとっていいのか? という、コロナとは関係のない義憤も感じるのだが。

第三、これがおそらく最大のポイントだと思うが、日本人に共通する道義心,公徳心の高さである。深夜、人気のない交差点でも、赤信号なら横断しない、という日本人の律義さをあざ笑ったひともあったが、長い歴史と、近代では明治維新で断行された教育制度の徹底とが、これは外国経験のある方ならまちがいなく納得するだろうが、日本人の民度の高さにつながっている。

以上三点、特に後半ふたつの誇るべき資質、それによって、まだまだ予断は許さないとはいえ、コロナ禍を抜け出られそうなところまで、日本はやってきた。たしかウインストン・チャーチルだったとおもうが、政治とはより悪くないものの選択である、という言葉がある。その選択は国の文化と得られる範囲で最も確実な科学的知見そして願わくば歴史的展望に立って、現実から選択されるべきものであって、決して ほかの国がやってるから なされるべきものではないと思うのだが、諸兄姉、いかがお考えであろうか。活発なご意見、ご反論をお待ち申し上げる(頂戴したものはブログに転載させていただくこともあることをご了解願いたい)。