”なじみ” ということ

晴れた木曜日、久しぶりに床屋へ行ってきた。いまや 床屋 という名前そのものが準死語のようになってきているのだが、場所は京王線聖蹟桜ヶ丘。今はいっぱしの町並みになってはいるが、引っ越し当時は新興地、というか未開地というか、多摩ニュータウンもまだ完成していなかったころ、聖蹟桜ヶ丘、なんていっても ? と思われた時代である。1966年、まわりはまだ空き地ばかりの電鉄ビジネスのはじっこに引っ越した。頭金は父親に泣きつき、何年だったか忘れたが超長期ローンを組むという典型的なスタイルだった。

なにしろ2年前までは原生林だった斜面だ、自然豊かと言えば聞こえはいいが、突然隣家から絹を裂くような悲鳴、しとやかに見えたあの若奥様が 蛇がでたあ! と絶叫したり、雨戸を繰り出せばヤスデがべったりはりつき、冬ともなれば娘が拾ってきた子犬の水鉢が凍る寒さ、家の窓からは多摩川越しに立川の灯が見えたころの話である。引っ越し騒動の直後、どこか床屋くらいあるだろうと駅までの間の田んぼの中に見つけたのが小山理容店。いまでは バーバー小山、なんで取り澄ましてるが、”桜が丘” なんて電鉄会社のキャッチコピーなどは糞くらえ、ここは関戸で隣は連光寺、おめえはどっから来たが知らんが俺はここの生まれで何が悪い、子供のころからハサミ一本でやってきたバリバリのおやじさんの職人気質にほれこんで、それ以来半世紀を超えて、この間ほかの店で行ったのは滞米中の1年間のブランクと、現在の場所に越したとき、近くの店(床屋、なんていうわけがない、なんだかよくわからないカタカナ名前の店)へやむに已まれぬ事情で飛び込んだ1回しかない。

現店主の2代目通称よっちゃんによれば、小生は淵野辺から2時間かけてくる人に次いで遠距離来客リストの2番目であるらしい。数年前まで、埼玉からかよってきた常連がおられたらしいがここの所見えないよし。先代のころは若い衆の見習いを5人もかかえていようかという盛況だったが、昨今の美容だか理容だかわからないカタカナビジネスのご時勢だ、長男の3代目たかちゃんと、女性客に対応するたかちゃん夫人の3人のこじんまりした店。黙って座れば何も言わずに半世紀間変わらぬ髪型にしあげてくれる、先代譲りの多摩弁が愉快な職人肌よっちゃんとの雑談の時間が素晴らしく楽しい。まさにわれ昭和を愛す、という雰囲気の横溢する店である。

桜が丘にはもう一つ、今でも時々顔を出す、このような場所には珍しい本格的なバー UNKNOWN  がある。数えて20年前、開業したての店にぶらりと入ってみてすっかり気に入り、引っ越すまで、ほぼ毎週金曜日には顔を出すようになった。近くに勤務していたサラリーマンやら受験前の大学生やら、顔なじみができ、”金曜日には桜が丘の知性が集まる” などと冗談を言っていたのがなつかしい。微醺を帯びて裏の坂道を自宅まで10分、鼻唄交じりの背中によく月をみることのあった、あの時間もまた、なつかしい。一度、府中でのワンダーOB会ゴルフの帰り、48年卒の佐藤君や51年卒斎藤君を紹介し、酒にかけてはチョーうるさい佐藤も絶賛した店だ。こういう場所のことを なじみの店、というのだろうな、とふと考えた。

だいぶ前の本稿で喫茶店のことをいくつか書いたが、そのほとんどは休業してしまい、昔からのなじみ、と言える古い店は新橋の ウエスト と新宿の ローレル だけになってしまった。店といういわばハードウエアがあるだけではとても馴染み、とは言えない。これからあと何年、勝手なことを言っていられるのかわからないが、新しいなじみ、なんでできるんだろうか。帰途、買い物を頼まれて新宿は伊勢丹まで足を延ばした。サラリーマン時代、背広を買うと言えばここにきめていたから、なじみ、といえなくもないか、と思いながら中へ入ったら、正面の新しいキャッチコピーが目に入った。まさにこれが俺の考えていたことなのかなあ、と偶然に驚きながら、そこはスマホの簡便さで(映画館での撮影は犯罪だそうだが大丈夫かなあ、などととまどいつつ)失敬してきた。

片山勇氏がどういう方なのか勉強不足で存じ上げないが、これは気にいった。字が小さいので特に気に入った部分を接写してみたのが下の1枚である。

小生こと事情があって、終の棲家、ときめていた桜が丘から現在の地へ越してきて10年になる。前の家とは立地構造が違うので、玄関を開ければ隣近所の方々と気楽に顔が合う、とても住み心地のいい場所で、隣人にも恵まれている。子供好きの僕にはありがたいのが、小学生の子供たちが気楽に挨拶していくことである。彼らが成人したとき、そういえばあそこに頑固なおじさん、いたよなあ、などと思い出してくれるだろうか。これって、”なじみ” っていうのかしらん。