俺も見たよ

高橋良子からのメールがきっかけになって、昨晩,八恵子と調布に新設されたシネコンで話題の ボヘミアンラプソディー を観た(翠川夫妻の住んでいる西東京市とはやはり住民の文化への関心が格段に違うと見え、座席は完売であったし、ポプコーンをポリポリしてる人もあまり見かけなかった)。

率直に感想を言うと、ま、映画のストーリーはこの種の映画によくあるパターンだったので、多少意気込んでいたが肩透かしを食った気がしないでもない。しかしたとえば、あの ”グレンミラー物語“ だとか、最近でいえばカントリーの大物ジョニー・キャッシュの苦労話である ”アイ・ウオーク・ザ・ライン“ には、何はともあれ、背後には基本的に楽天的なアメリカ文化というかアメリカ観が横たわっていた、つまり最後にはハッピーエンディングが予感できるのに対して(ミラーは飛行機事故で不帰の客になるのだが、愛妻ジューン・アリソンの受け止め方なんかが実にアメリカ的)、このエンディングにはこの、いわば アメリカ的 な救いがない(最後にフレディが現実にAIDSで亡くなってしまったという事実が表示されるが、そのことは別にして)。

ぼくもエンディングに歌われる We are the Champions には感動した。人種を越えて人々が共感する、音楽の力というのか、そういうものを素直に受け止めることができた。しかし、スクリーンに投射される訳詞に、自分たちは笠雲の影におびえて生きている、というフレーズを観て、なるほど、と思った。正直言えば映画そのものの鑑賞というよりそのことのほうを強く感じた2時間であった。

世の中、東西を問わず、戦争という残虐行為に反抗するのは若人の常であろう。僕らの時代ではその象徴は “花はどこへ行ったの Where have all the flowers gone ” であったし、少し遅れてやってきたフォークソング時代では、“戦争を知らない子供たち”や、“坊や大きくならないで” なども思い出される。これらのメロディを好んだ僕らの世代にとって”戦争“というのは身をもって体験した人間世界の”悪“であり、何らかの実態というか存在を自分で感じたり、少なくともそれから類推できる範疇のものだったが、いっぽう、それはあくまで国家間の悪事であり、人間の英知なり理性なりで制限し、あるいは根絶ができるものと思われてきた。だが、日本人にとってみれば、国土の中で戦われた行為は、現地の人たちには申し訳ないが、沖縄でしか見聞きしていない。というかしないで済んだ。第一次大戦では勝利国のひとりでさえあった。

しかし自分の国土が敵国によって踏み荒らされ、軍政と傀儡政府による醜悪な事実に2度も直面したヨーロッパの人たちの戦争観というものはまた違うのではないか。そしてそれが今度は、陸続きの、文化文明や宗教の多くを共有する隣国が核兵器を持ち、おそらく絶えることのない人種問題や一神教同士のせめぎあいを目の前にしているヨーロッパ人にとっては、この ”笠雲“の恐怖、核戦争の可能性が日常化している度合いは、現在の日本とはまた違った切実さがあるのではないだろうか。若者が抱く不安、無力感、虚無観といったものは日本の若者よりさらに深いのではないだろうか。

現実の世界に若者が抱く不満不安幻想は世の常であり、それをどのように考え、発想発散し、ある時には具体的に行動する。その形の一つがその時代に共感を呼ぶことのできる文学作品であり、映画であり、音楽やそのほかの形式が存在する。僕は音楽について多くを語る資格はないが、考えてみれば、”ロックミュージック“ という定義そのものをビル・ヘイリーの Rock around the clock で知り、プレスリーに衝撃を受けた記憶は確かにある。しかしそれはあくまで 音楽というジャンルのなかで解釈できるものだった。

We are the champions は、その意味で、音楽、なのだろうか。核の恐怖、が日常生活の一部として存在するヨーロッパの若者が共感し(余談だがあのラストの群衆シーン、当然CGで作ったのだとは思うが、現実に感じられた。これが映画としての実力だろうが)、AIDSという共通の問題解決への貢献につなぐ。これはむしろ宗教に近いものなのかもしれない。この映画を見て味わったことであった。