三国山荘―思い出すこと  (36 後藤三郎)

今回久しぶりに三国山荘に赴き60年の時間があっと言う間に過ぎたことや小屋の周辺が立木も含めてすっかり変わったことを改めて実感しました。

考えてみると小屋が建設される前に畠山さんがリーダーで昭和33年4月に雪の深かった三国峠を越えて現在の小屋がある辺りを歩いたのが最初の思い出でした。当時小屋の候補が数か所あり、委員会で最終決定する為の調査行だと畠山さんがおっしゃっていたのが今も思い出されます。今回宿泊した三国荘の女主人が我々と同い年(当時20歳)だったようですが、浅貝本陣の格式が高く当時は我々が宿泊するなどとんでもないと言う感じで、隣接する旅館(高野弁次さんが柏屋旅館と後日名乗った)に泊めて頂き周辺を歩き回った記憶があります。

小屋の工事が始まったのは雪が解けてからで同期の小林章悟君の大活躍を今も鮮明に覚えております。河原から基礎の下にひく石を運び建設費用を節約する為に度々ワークキャンプと称して若手が労働を提供したことが思い出されます。小屋が完成して小学校の体育館でミーテイングを持ったこと、リーダーの今は亡き妹尾さんが”Caro mio ben”と言うイタリア歌曲を原語で歌われたことが驚きでした。”いとしい、私の恋人”と言う名前のこの曲をワンゲルのミーテイングでしかも誰もが恐れられるほど屈強な山男が歌ったのですから・・。その後本人にその話をしたら”俺は覚えていないよ”と言われたのですが・・・。先日数えてみたらチビさん主導の登山道開発のお蔭もありこの60年間でほぼ60回ほど浅貝と小屋に出かけたこと(正確な記憶ではありませんが)で偶然ですが60年間の区切りだったのかもしれません。

最初のスキー合宿で食当を命じられ、後閑の駅前の八百屋さんに飛び込み野菜の調達をしたのが契機となり、以後ワンゲルの部員たちが優しい女主人にお世話になったことも佳き思い出となりました(残念ながら昨年お亡くなりになりました)。