エーガ愛好会(81)  高倉健!  (普通部OB 船津於菟彦)

先ずこの顔見て下さい!男・高倉健ここにあり。

酒気吞まない。煙草も止めた。
高倉の寡黙な立ち姿と目力が東映任侠路線でその威力を発揮した。スターであることを宿命づけられた高倉は以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう真の映画スターとしての生き方を貫いた。自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。
これ以降、仁侠映画を中心に活躍。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる。
男・高倉健は1931年2月16日、福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧日本海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた。旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。英語の得意な男・高倉健。60年代半ばの東映による任侠映画ワンパターン量産体勢は高倉を疲弊させ、結果的に気持ちが入らない不本意な演技が見られるようになった。
1959年2月16日(高倉が28歳の誕生日の時に)、1956年の映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で江利チエミと結婚。3年後の1962年、江利は妊娠し子供を授かるが重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった。江利の異父姉が様々なトラブルを起こし、結婚に悪影響を及ぼしたとされる。江利側からの申し入れで1971年9月3日に離婚した。離婚原因は江利チエミの親族にまつわるトラブルからである。
その後、高倉は女性との交際の噂はあったものの、再婚はしなかった。一方、離婚から11年後の1982年2月13日に、江利は脳卒中と吐瀉物誤嚥による窒息のため、45歳の若さで不慮の急死を遂げている。葬儀には姿を現さなかった高倉だが、江利の命日には毎年、墓参りは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈って居た。また、2009年11月、同年8月に亡くなった女優の大原麗子の墓参に訪れ掃除をし、30分以上語りかけていたことが2010年8月に報じられた。
礼儀正しい人物であり、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う。映画俳優って一番大事なところは何かっていうと、その感受性の所だけなのかなって、それはもう自分の感性、感じられる心を大事にする。それしかない。
余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で、演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞・動きを表現する芝居を真骨頂としており、基本的に本番は1テイクしか撮らせない。これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と述べている。また「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている」としており、肝に銘じているという。「俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね」とも言い切る。東京アメリカンクラブのメンバーである高倉は外国人の友人・知人が多い。千葉真一は高倉に誘われて同クラブへ行った時や、パンアメリカン航空のパーティーへ出席した時に、千葉のファンであるフライトアテンダントを高倉から紹介されたりなど、ハリウッド映画出演前から英語に堪能な高倉を目の当たりにしている。
2013年10月25日、政府は高倉を含む5人に文化勲章を授与することを決定。11月3日、皇居で親授式が行われた[。親授式後の記者会見で高倉は、「日本人に生まれて本当によかったと、今日思いました」と述べている。また、この受章については親授式前の10月にも、「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」とのコメントを発表している。

2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去。5年ほど前に前立腺癌で手術を受けて寛解したものの、その定期検査で悪性リンパ腫が発見されて療養していた。「入院中の姿を見せたくない」と親しい関係者だけにしか知らせておらず、容体が急変して意識不明になったのは亡くなる数日前で安らかな笑顔で旅立っていた。満83歳没。高倉の遺志により近親者によって密葬が執り行われた。終わった同月18日に高倉プロモーションから「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」の言葉が添えられたFAXでその死が発表された。

最後まで「本番は1テイクしか撮らせない」男・高倉健。

高倉健の映画一覧

エーガ愛好会 (80)  くだらないエーガって楽しいぜ  (普通部OB 菅原勲)

昼飯後、余程のことがない限り(例えば、「緋牡丹博徒」)、爆睡してNHKは見ておりません(金藤さん、ご免なさい)。ですから、以下の映画は、夕食後、CATVで見たものばかりです。

一つ目は、「96時間」(2008年)。元CIAの工作員である、リーアム・ニーソンが、誘拐された娘を96時間以内、即ち、4日以内に取り戻す話しです。ニーソンが強い、強い、また、強い。悪い奴に雇われた良い奴(?)を次から次に殺しまくり、娘を助け出します。あの「シンドラーのリスト」のシンドラーってこんなことまでやる奴だったのか。

二つ目は、「夢のチョコレート工場」の続編「チャーリーとチョコレート工場」(2005年)。工場長のジョニー・デップが、例によって、我儘勝手な子供を、彼らを甘やかしていた親ともども、色々な仕掛けのある工場に招待し、懲らしめるお話しです。秀逸なのは、噛むと食事のコースが味わえるガムです。ひときわ我儘な女の子が、スープ、主菜、と来て、デザートはブルーベリー。ところが、それを味わった途端、女の子は、ブルーベリーとなって、ゴミ捨て場に落ち込みます。

三つ目は、「ミッション・インポッシブル」の第6作、「ミッション・インポッシブル/フォールアウト」(2018年)。至極、複雑な話しですが、要は、トム・クルーズが、原爆のよる爆破を1秒前に阻止するお話しです。ここでも、クルーズは不死身。最後は、カシミールにある絶壁で格闘し、滑り落ちて、垂直な壁にしがみつき、五輪のスポーツ・クライミングの金メダリストにも真似の出来ない離れ業を演じて世界を救う。なお、「96時間」も「ミッション・・・」も主な舞台は、皆様のお好きなパリです。ニーソンは走って走って、また、走って、セーヌ河を行くボートに乗り移ったり(ここで娘を取り戻します)、クルーズもパリの町を駆け抜けます。何故か、小生の中では、両方がゴッチャになっています。

見る人が見れば、クダラナイ、バカバカしい、碌でもない映画です。でも、だからこそ無条件で面白い。世に言う傑作、名作ばかりが映画だとは思いません。大いに楽しみました。

(編集子)スガチュー、いいこと言うね。こういう小生もCATVの3つか4つのチャネルを駆け回って ”くだらない” と卑下することは不要と思うが、まあ名作傑作というにははばかられるカツゲキものを愛好している。

何度か触れたが、”時代劇専門チャネル” に復活した、いわば二大江戸町奉行すなわち ”遠山の金さん”(松方弘樹ほか)および ”大岡越前”(加藤剛)をほぼ欠かさず見ている。”金さん” は目下放映時間がニューズ番組とぶつかるので、少し頻度は落ちたが、”大岡” は午後5時放映、と理想的なので、ジントニックとつまみの沢庵3キレをもってテレビの前に座るのがここ半年くらいの日課である。ほかにもこれまた無敵荒唐無稽ヒーローの典型、スティーブン・セガールのシリーズとか、時々出てくる準(?)正当もののトム・クルーズ、最近売り出し中のジェイムズ・バトラーのものなんかである。いくつかのチャネルではなつかしいセーブゲキも時々出てくる。昨日なんとなく合わせたチャネルで リオグランデの砦 をやっていたので、キャストで今まで知らなかったのを確認したり、サンズオブパイオニアーズのコーラスに集中したり、再発見がいろいろあって楽しかった。

”大岡”シリーズはいやはや大部なもので、発足当時の加藤剛と第12部(!)あたりの加藤とは別人といえるくらい変わっている。シリーズキャラクタも入れ替わるけれども高橋元太郎と松山英太郎だけは出ずっぱりで、昔をしのぶには結構な時間である。”金さん” はストーリーの必然的展開として 最後に奉行がもろ肌脱ぎ ”この桜吹雪、知らねえたあ言わせねえ。てめえらま、だシラ切ろうってのか!” と言わなければならないので、落ちは絶対に勧善懲悪の断罪なのだが、”大岡” のほうは例えば有名な 三方一損損 のような人情ものもあったりするし、その白洲では推理小説でよくつかわれるトリックが解明されたりと、変化に富む。ただ最初の15分程見ればほぼストーリーの組み立てはばれてしまい、小生はこれをパターンAからパターンCと分類していて、最後にやっぱしそうだろ、越前!と納得するのが楽しい。

ま、船津のつぶやきではないが…….もっとも奴はカツゲキなんかみないだろうが…….エーガっていいなあ。

 

 

“モン族” ― 映画 グラン・トリーノ のこと

今朝の読売新聞8面、”アジア系米国人” 特集記事にベトナム戦争の時期、ラオスからアメリカへ難民としてわたってきた “モン族” のことが書かれている。この人たちのことを知った(はじめてその前を聞いた)のは、クリント・イーストウッドの映画 グラン・トリーノ である。頑固で孤独で子供たちからも疎まれる老人が心を開いたのが隣家にすむモン族の家族だった。その家の姉兄を人種差別から守り自立させようとする老人の、人生最後の善行を描いた映画である。

アメリカ車全盛の50-60年代、かの フォード・マスタング とそれに対抗してGMが投入したシボレー・カマロが若者の心を虜にしていた。まだアメリカンモーターズという会社があったころで、このメーカーが出したジャヴェリンだとか流線形が美しかったダッジチャージャーなんかが街を席巻していた時期、小生はカリフォルニア駐在で一度でいいからあんなのに乗ってみたい、と指をくわえていた。グラン・トリーノはまだ姿を現していなかったように思う。だが、人種問題などが我々局外者には無縁だったという限定詞付きではあるが、今思えば、よきなつかしき、アメリカ、があった時代だった。

映画は人種差別や家族崩壊などが日常化していた時代の、いわばおとぎ話に近いストーリーであるが、昨今の新聞記事あるいは旧聞にはなるがトランプ騒動で顕在化した白人至上主義の残滓、さらに最近激化の一途をたどる中国人排斥,片や動機さえ特定できない市民間の銃撃など、昨今のアメリカ社会の在り方には暗澹たるものがある。一方、全米人口に占める白人種の比率はすでに逆転し主力はヒスパニックと黒人にうつりつつある。かててくわえてアフガンの傀儡政権がもろくも馬脚を現した現時点ではさらにアラブ対キリスト教国間の対立が激化する恐れが高いようだ。このような危機に対する政治の力はいかにも無力であるように思える。

世界の各地で、グラン・トリーノが示した寛容と決意が生まれていくことを望むや切、である。

 

政府のコロナ対策に関して   (34 船曳孝彦)

先日掲載の本稿記事(新型コロナ対策)について補足しておきます。

感染症の2類に準ずるという方針でスタートし、致死率で比べるとインフルエンザを上回るものではないという議論から、私も含め、昨年早期から適当ではないという意見が強く、インフルエンザ並みの5類にという意見が強くありました。しかし、5類としてしまうと、入院勧告も出来なくなるし、患者届け出も1周間以内となって、現状把握が悪くなるなどの問題点もあります。

重傷者、中等症者、軽症ないし無症状(未症状)者の3グループの扱いが問題なのです。字面上は1類よりも厳しい新型コロナウィルス感染症でありながら、その時その時の社会状況(患者状況)に合わせてその場しのぎの対策で進めたため、あちらこちらに齟齬をきたしています。

重傷者を入院させねばならないことは自明の理ですが、2類から5類へと変更したとしても、感染者病棟というものには厳しい制約があり、おいそれとコロナ用病棟に変更出来るわけではありません。現在の一般重症病棟から2,3ベッドをコロナ用に使用するということには、机上の計算では簡単ても、多くの問題点があり不可能に近いことです。そこを何とかクリヤーしているのが現状なのです。前室(防災衣服着脱)、換気、遮蔽性、床などなどのハード面の問題があるうえに、コロナ用病棟となれば医師、看護師、検査技師など何倍もの人手が要ります。普通の重症病棟では、隣の患者が急変したらその場ですぐ手助けが出来ますが、感染症病棟ではなかなかそうはいきません。国立の簡易病院建設も視野に入って来ます。

この第5波ますます盛んな現在、どうすべきでしょうか。重症、中等症は何とかしてそれぞれの病床へ入院させ、軽症者はホテルなどに収容して医師の管理下に置く。ごく軽症、未症状者に限って自宅、自粛生活とする。出来ればこれも収容させたい。何故なら家族内感染が目に見えています。患者数が減ることはありません。収容施設としてはオリンピック選手村です。パラリンピックの方が人数は少ないはずです。感染した人たちを少しでも減らそうとしない限り、第5波の勢いは収まりません。

それには、ロックダウンです。日本の法律からも、社会構造からも、完全ロックタウンは出来ません。政府が、国を挙げてのロックダウンをしましょう(やはりお願いという形とはなってしまいますが)と、本気にならなければ日本はコロナで滅びたといわれるでしょう。人手を半減(出来れば7割カット)すれば、それだけ感染の機会も減ります。人類史上の大事件です。

ワクチンを打ったから大丈夫ではありませんよ  (普通部OB 篠原幸人)

新型ワクチンを打ったから、他人に移す可能性もなくなったと考えている人は意外に多いようです。貴方や貴女もそうではないですか? 「ワクチンを打ったから家族に移す可能性はない」とか「ワクチンを打ったから、安心して東京から帰省できる」など、テレビのインタビューに答えている人もよく見かけますね。そんな人に私は一寸イラっとします。

例えば貴方が2回目のワクチンまで無事に終了したとします。しかし、ウィルスはそんなことは知りません。貴方が例え「ワクチン接種済み」という札を首からぶら下げていても, ウィルスは字が読めません。ワクチン接種が済んでいる人にも、済んでいない人にも、ウイルスは口や鼻、眼などから入りこみ、鼻・咽頭・気管支などの粘膜にくっつきます。ここまではワクチンを打っていようがいまいが皆さん、同じです。分かりますね。

ウイルスの一部はすぐに粘膜から血液に取り込まれ体中に広がります。しかし若しワクチンが十分効果を発揮し、体内に多数の抗体(まあ自衛隊のようなものです)が出来ていれば、抗体はウイリスが細胞にくっつくのを邪魔します。すなわち感染を予防できるか、発症しても軽くて済む場合が多いのです。これがワクチンの効果です。

しかし、一部のウイルスは暫く貴方の粘膜にとどまり、大声を出したり、咳やくしゃみをした時に、外へ飛び出して、他人に飛び散ったり、場合によっては空中に浮かんで、次のターゲットに移動するのです。だから、貴方がワクチンを打って抗体が十分にあっても、他の人に移す可能性は十分あることは分かりますね。

もう一つ、大事なことであまり知られていないのは、ワクチンを打っていても、咽頭まで入ったウイルスは、そのまま水や食べ物と一緒に貴方の胃から十二指腸・小腸・大腸を抜けて、生きたまま、便として排出されます。ある地域のコロナの感染の蔓延の度合いを調べるのに、下水道のウイルスの量を調べればいいと言われるのはそのせいです。

したがって排便の後、必ず便器に蓋をしてから水を流すように、言われているのはその為なのです(知らなかった?)。蓋を閉めずに水を勢いよくフラッシュすると、見えなくても便のなかのウイルスは便器の周りや床に飛び散り、後でトイレに入ってきた他の人に移っていく可能性が高いのです。よく言われる家庭内感染にはこの点も大きな原因となっていると思います。いくら3蜜を避け、手洗い・うがいを励行しても、感染が拡がる大きな要素はここにもあるのです。

従って、誰が使用したか分からない会社・デパート・ゴルフ場・スーパーなどの共用トイレもなるべく使用しないでください。お尻にウイルスをつけて家まで帰ってくるなんて、家族には良い迷惑です。またそのお尻で自宅の便器に座り、ウイルスをそこに植え付けるのでしょうから。一方、尿の中には多分ウイルスは殆どいないと思います。従って、女性の場合は別として、男性の小用専用トイレはあまり心配ないと思います(でも周囲に飛ばすのははた迷惑ですよ)。また手洗いの水道の蛇口やトイレのノブに不注意に触るのも要注意なのは当然です。

終戦記念日にあたってーなお善意が生きていた話 (普通部OB 田村耕一郎)

昨日の終戦記念日、第二次大戦の記憶をおぼろげながら持つ最後の世代として感慨深いものがあった。戦争の悪や悲惨さを訴え、伝えることも重要だが、そういう事態になおヒューマンな態度を貫き通した人が多くいたはずである。田村君から頂戴したエピソードを転載する。

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友人SMさんより、「HN氏からの日本帝国海軍中佐のエピソード」を貰いましたので、終戦記念日にとご紹介します。軍人でありながら、どんな時でも「あくまでも人道を貫いたこと」と「合理的な思考に立脚した正しい判断力」を失わずにされた方で、海軍の方もいます。第二次世界大戦中の駆逐艦「雷」工藤艦長で、沈没した敵兵英国人422名を救助した方です。

1998年5月昭和天皇が戦後英国を最初に訪問された際に、当時「反日感情」が強く残っていた時代に、この救命の事実記事を英国の「 London Times紙」に掲載されたのが「サムエル・フォール卿」で、救出されたメンバーの一人でした。この記事が英国国民の反日感情を一夜にして一変させたと言われています。

第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において日本海軍艦隊と英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染され一時目が見えなくなった。加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。

翌2日午前10時頃、日本海軍駆逐艦「雷」は単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。工藤艦長は見張りの報告、「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、独断で、「一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。

一方、フォール卿は、当時を回想して「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したという。ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ「救助艇」が降ろされた。そして乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているかと思い、何度も自分の手をつねった」という。

「雷」はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助した。120名しか乗務していない駆逐艦が敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。

https://www.youtube.com/watch?v=QAevTFqLE0w
工藤俊作中佐【海の武士道】1
https://www.youtube.com/watch?v=ItdMS8N-gkQ
工藤俊作中佐 【海の武士道】2
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784794220707

http://shokan.blog82.fc2.com/blog-entry-155.html?sp

今上天皇皇后両陛下がイギリスを訪問されたのは今から14年前の1998年5月。イギリス政府と国民は歓迎の意を表し、天皇陛下はエリザベス女王と馬車に乗ってロンドン市民の歓迎に応えた。しかし、このパレードには抗議の意味でわざと背を向けた人たちがいた。彼らは、第二次世界大戦中日本の捕虜になり、その時の扱いに抗議し、日本政府に賠償と天皇陛下に謝罪を要求した。

この抗議行動にイギリス政府は遺恨が日英関係を支配してはならない(ブレア首相)と呼び掛けるなど、両陛下及び日本政府に異例の配慮を見せた。当時、日本の財界はイギリスに積極投資するなど、日英関係は経済面で新たな親密度を見せているときだった。ブレア首相の発言は当然だったかもしれない。

しかし、イギリス国民の感情は二分された。
戦時中の捕虜に対する非人道的な扱いを非難し日本政府と天皇に謝罪を要求するものから、個人的に戦争に関わっていない現在の天皇に謝罪を要求することへの疑問、さらには、元捕虜に対する賠償問題は退役軍人にちゃんと年金を払わないイギリス自体の問題だなど、様々な意見が噴出し、両陛下のイギリス訪問が反日運動を起こすきっかけになるのではないかとの不安が巻き起こった。

そんな怪しい空気を一掃するような投稿がロンドンのタイムズ紙に掲載された。その投稿は、元イギリス海軍士官で戦後は、スウェーデン大使を務めサーの称号が与えられたサムエル・フォール卿(投稿当時86歳)のものだった。フォール卿は、大戦中の「スラバヤ沖海戦」で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され漂流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだ。

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(以下ウイキペディアから転載)
雷型駆逐艦は、大日本帝国海軍が初めて運用した駆逐艦の艦級。第一期拡張計画に基づき、イギリス海軍B級駆逐艦の準同型艦として、明治29年・30年度計画でイギリスのヤーロー社に6隻が発注された。1899年より順次に就役し、日露戦争でも活躍した。

エクセター は、イギリス海軍重巡洋艦で第二次世界大戦の初期、ラプラタ沖海戦ドイツ海軍  のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー に損傷を与えて勝利に貢献。 太平洋戦線に転戦後の1942年(昭和17年)2月下旬、スラバヤ沖海戦日本海軍重巡洋艦および水雷戦隊と交戦して損傷、 ジャワ島から撤退中の3月1日、エクセターは護衛の駆逐艦2隻(エンカウンターポープ)と共に日本海軍水上部隊と遭遇]、砲雷撃戦の末に3隻とも撃沈された

(編集子注)上記ラプラタ沖海戦については本稿で紹介した映画 ”戦艦シュペー号の最期” の紹介で触れた。

エーガ愛好会 (79) ”荒野の決闘” をめぐって

 

(大学クラスメート 飯田武昭)

名作です。この映画を改めて観ると、前半のいわば人物紹介的な部分と後半のOK牧場での決闘へ突き進む部分とで、演出的には静と動の切り替えがあって興趣を一層そそる感がしました。各ショットが生き生きと無駄が無く、どこを切り取っても絵になるようなシーンと馬と幌馬車が疾走する蹄と轍の音と映像が特に見事に映像として捉えられているのに改めて驚きます。原題と主題歌でもあるMy Darling Clementine (いとしのクレメンタイン) の歌詞の1stフレーズにDwelt a miner, forty-niner, And his daughter Clementine.があります。特に“49ers Forty-niners,”という1Wordで私には西部への郷愁をまた誘われます。言わずもなが、49ersは一獲千金を夢見て南部St.Louis辺りを出発してカリフォルニアに到達した1849年組を指すわけですが(1説にはSt.Louisから約7週間掛けて西部に到達した日にちと言う説も)、私は元勤務先の会社からN.Y.に4年間(1980~84年)駐在した間にSt.Louisや勿論Califolnia州には何度か出向きました。その後にSt.Louisには娘家族が住むことがあってこの街に2016年に約1か月間滞在しました。St.Louisは西部への玄関口Gateway Arch、Budweiser本社、メジャーリーグの名門St. Louis Cardinals、セントルイスブルースとバーベキューで西部への夢を馳せたものでした。N.Y.駐在当時はアメフト観戦にも興じましたが、当時の最強QBはSan Francisco  49nersのスーパースター、ジョー・モンタナで格好良すぎて、N.Y.Jetsを応援しながらモンタナファンでもあったのが懐かしいです。映画「荒野の決闘」は私にそんなことまで思い出させる名作です。

(44 安田耕太郎)

最初にこの映画を観た一昔前、おやっ!とやや不思議だったのは、ワイアット・アープ(ヘンリー・フォンダ)が密かに恋するクレメンタイン(キャシー・ダウンズ)に別れを告げるシーン。荒漠たる西部の荒野をバック(ジョン・フォードポイントと呼ばれる)にクレメンタインとアープは見つめあって会話を交わす。

「言いたいことは沢山・・・でも、うまく言えないわ」            「ええ、わかっています」                       「この町に残って先生になると聞きました」               「ええ、学校の教師です」                       「私と弟は親父に会いに帰ります。また牛を連れてこの町に寄ってみます」

ここでアープは熱き感情を押し殺すように近づき彼女の頬にそっとキスして言う「さようなら」。アープは馬にまたがり言う、「とてもいい名前だ・・・・クレメンタイン!」やがて、ワープの乗った馬は、坂を下り荒野の彼方へと小さくなっていく。クレメンタインはひとり、去り行くアープに視線を注ぎながらゆっくりと坂道を下る。映画史上最も印象的な美しいラストシーンのひとつだ。

ラストでなぜアープは愛しのクレメンタインと別れなければならなかったのか?それは彼女が、決闘で斃れた親友ドグ・ホリデイの婚約者だったからであろう。男同士の義理の世界が、死を賭けた男たちの友情が、女性への愛を上回ったのだ。ここにジョン・フォードの美意識の世界が描かれている。だが、フォードはアープがいつの日か戻ってきてクレメンタインと結ばれることを示唆している。アイルランド系アメリカ人のフォードは、ロマンチシズムと抒情性を持ち合わせている。この作品の原題「My Darling Clementine」は古い西部民謡から採られた主題歌で、センチメンタルなこの曲が全編に流れ、西部の荒くれ男が愛した女性の名がクレメンタインであったことは、フォードの感傷的な一面を如実に示している。あの別れ以外には考えられない見事なラスト・シーンであった。

(33 小川義視)

ご提案の「荒野の決闘」についてのコメント、愛好会の皆さんのような素晴らしい感想は書けません。ただワンダーのお蔭であのタイトルバックで流れ
る「Oh My Darling Clementine 」が懐かしく一番印象的でした。愛好会のお蔭で昨年から3回も観ました。

(40 武鑓宰)

録画しておいた荒野の決闘オリンピック観戦からも解放されやっと観ました。
無知にもOK牧場の決闘が荒野の決闘のリメイク版と云うこと知りませんでした。荒野の決闘は1946年制作で方やOK牧場は1957年となっており、わずか10年ほどの間ですがこの間のアメリカのハリウッド映画の繁栄ぶりを感じました。しかしアメリカとは云え戦後間もない頃にJ.フォードはよくこんな西部劇大作が造れたものと感心しますが荒野にヒントを得て上手く作られたOKは娯楽性、面白さという点では上という感じでした。
H.フォンダ/B.ランカスターとV.マチュア/K.ダグラスに主題歌My darling Clementine/Gunfight at OK  Corral等の新旧比較比較も興味深く、やはりOKのJ.スタージェスは荒野を上手く利用して娯楽西部劇を作ったと云えるのでしょうか。

(34 小泉幾多郎)

「荒野の決闘」はWikipediaによれば、スチュアート・N・レイクの「ワイアット・アープ フロンティアマーシャル」を原作として制作された第1作「Frontier
Marshal 国境守備隊1934」ジョージ・オブライエン主演と第2作「Frontier
Marshal1939 日本未公開」ランドルフ・スコット主演に次ぐ第3の作品。ジョン・フォードは第2作を観て「荒野の決闘」を撮る気になったとある。

第2作を観ると両作とも、脚本家サム・ヘルマンが書いたストーリーをもとにしていて内容が似ている。生涯430本も撮ったアランド・ワン監督作品だけに70分と短い中に、濃密な作品に仕上っている。アープはランドルフ・スコットで若く魅力的、ドクは、バットマンのジョーカーで有名なシーザー・ロメロ。二人のヒロインも役名は違うが、ほぼ同様に登場し、酒場の女ジェリーがビニー・バーンズ、クレメンタイン役サラにナンシー・ケリーが扮している。ポーカーで、賭博師とのイカサマから、アープが女を水槽に投げ入れるシーン等そっくり。

シェークスピア役者が単なる喜劇役者の違いがあるが、ドクがハムレットの台詞を引き取ってインテリぶりを示すのと同様、サラがドクに、ジュリアス・シーザーのセリフ「臆病者は何度も死ぬ。勇者は一度しか死なない」と捨て鉢と勇敢の違いを示す場面もある。アープとドクの友情、ドクの負傷や流れ弾で重傷を負った子供の手術に見せるドクへの女性恋敵同志の献身的な結束等基本的プロットは変わりない。ドクは子供の手術後殺されてしまい、OK牧場の決闘はアープ兄弟は存在しないことからアープ一人対クラントン一家ならぬ無法者カーリー・ビル(ジョー・ソーヤー扮)一味との対決。アープとサラの思いは第3作ほどではないにしても、二人が結ばれることはアープの動きから窺われる。

では第2作との違いは何だろう。第2作より20分長いだけ、フォード自身の心象を大切にしながら、西部に生きた人々の日常生活を描いたことだろう。ゴールドラッシュを目指した人々を歌った、開拓者たち好んだ My Darling Clementine nの歌から始まり、牛の大群、人物を背景にした雲と人の配合といった雰囲気描写たる風物詩。主人公アープは、アメリカ人の一つの理想的原型と言える実直な自分に誠実な信念の男、推されれば、リーダーになることはいとわないが、むしろ一介の野人のままでいることを良しとする、強さを恥じるような風情で、威圧的なポーズを見せることのできないヒーローなのだ。はにかみ屋で実直な男がポーチの上に座り、伸ばした両足を柱に押し当てるように交互に両足を入れ替えながらまどろむことで、トウムストーンの法と秩序の維持、町並みが教会・学校等々建設されていくことを暗示しているのだ。

(編集子)

芦原伸著 ”西部劇を極める事典“ に 西部劇十大事件 という項目がある。西部劇映画の背景になっている時代、という意味だが、その第一に来るのがテキサス州独立運動にかかわって、当時スペイン支配下にあったメキシコとの間に起きた有名な史実、アラモの闘いであり、十番目に挙げられるのが今度はそのメキシコのスペイン支配からの独立のための革命であって、芦原氏の年表によれば1836 年から1919年あたりがこの ”西部劇の時代“ ということになる。日本で言えば1868年が明治維新のとしであるから、江戸時代末期にあたる半世紀ということになる。映画でいえばジョン・ウエインが製作主演をつとめた アラモ ではじまり、ロバート・ライアンの ワイルドバンチ あるいはゲイリー・クーパーとバート・ランカスターヴェラクルス までの時代である。この間に起きた史実でいえば、カスター将軍の率いる第七騎兵隊がダコタ州リトルビッグホーンでスー族との会戦に敗北、麾下全軍が全滅した事件(映画はエロール・フリン 壮烈第七騎兵隊)や、ニューメキシコ(当時はまだ準州)リンカーン郡で起き、リンカーン・ウオーとまで呼ばれた大規模な牧場主間の争い(ここに有名なビリー・ザ・キッドが登場する)などが西部劇映画(代表作はジョン・ウエイン チザム)に格好の背景を提供しているのだが、中でも1881年10月26日、アリゾナ州トウムストーンで起きたOKコラルの決闘事件を取り上げた作品には傑作が多い。

 

トウムストーンは芦原氏の表現によれば、“当時の鉱山景気のただなかで、西部でもっとも俗悪にして、無法がまかり通る新興町” だった。OK牧場の決闘 のテーマ曲の一節に出てくるブーツヒルという墓場は射殺された死体のブーツも脱がせず埋葬した場所だと言われているし、何しろ現代では想像できない無法の町だったことは間違いない。1877年、この近くで銀山が発見され、1880年には2000人だった町が2年後には人口が1万を超えたというのだからその無法ぶりも想像できる。史実として確認されているのはワイアット・アープ兄弟と凄腕のギャンブラー通称ドク・ホリディの四人とクラントン、マクローリー両兄弟とビリー・クレイボーンとの間に行われた銃撃戦だが、片方の親玉アイク・クラントンは逃げ出し、闘い自体は実はわずか30秒で終わったのだそうだ。決闘が行われた場所がはOK Corral と呼ばれ、Corral を牧場、と翻訳したが、コラルというのは馬囲いであって、芦原氏は現代の駐車場のようなものだったはずだ、と言っている。

この騒動は後段があり、クラントン側にたった地元のカウボーイ連中がワイアット側に復讐を試み、ワイアットがこれに対抗して暗闘があったが、ワイアットはコロラドに避難してしまい、その後は実業に転じて成功し、ドク・ホリディはコロラド州グレンウッドにあった結核療養所に入院、36歳で死んだ、というのが史実であるようだ。アープは長寿を全うし、ハリウッドでは当時まだ下働きにすぎなかったジョン・フォードと会ったことがあるということである。

さて映画であるが、このOKコラル騒動を扱った作品は、いわば日本で言えば忠臣蔵みたいなもので数多くあり、我々が見ることができた範囲でいえば、この 荒野の決闘 のほか、OK牧場の決闘(ワイアットはバート・ランカスター/ドクがカーク・ダグラス)、

トウムトーン(カート・ラッセル/ヴァル・キルマー)、墓石と決闘(ジェイムズ・ガーナー/ジェイソン・ロバーツ)、ワイアット・アープ(ケヴィン・コスナー/デニス・クエイド)などがあげられる。OK牧場の件とは別に、ワイアット・アープを主人公にした 法律なき町 (ジョエル・マクリー)、ドク・ホリディ (ステイシー・キーチ)を芦原氏は挙げているが小生は見ていない。

これら一連の作品についての小生の感想を言えば、OK牧場の決闘 はランカスターの主演ということで、ごく普通の西部劇映画(ただしフランキー・レインの歌うテーマソングのメロディは気に入っている)になってしまったし、ワイアット・アープ はアープの実像に迫ったという意味はあるだろうが、家族関係や上述したワイアットへの復讐と返り討ち、そのほかのエピソードがきつすぎて、爽快感のない、いわば暗鬱な映画になってしまった印象が強い。墓石と決闘 は、決闘そのものの描写は芦原氏の解説などから見ると一番史実に近かったような気がするし、アイク・クラントンがトウムストーンから脱出してしまっていた、という点でも実像に一致する気がする。しかし全体の出来上がりは前述のOK牧場と同様、ありきたりの出来上がり、というのが実感だった。その点、主演スターのネームヴァリューは一段落ちるものの、トウムストーン が醸し出した全体のトーンは心に応えるものがあった。特にヴァル・キルマーのドク・ホリディはたぶん当時の肺病やみはこんな具合だったのではという意味も含めて、深い印象を与えた好演だと思っている。

さてこれら多くの作品群の中で、なぜ 荒野の決闘、なのか。

芦原氏も似たようなことを書いているが、それはこの作品が西部劇の形はとっているが西部劇ではない、ということなのだと思う。キザな言い方になるが、この映画は詩、なのだ。フィルモグラフィの専門家からすれば、たとえば画面の作り方とか、白黒の画像の特質を生かした撮影手法など、いろいろな指摘はあるだろうが、まず、西部の乾いた風土がそのまま感じられるような画面のトーンがいい。これがカラー作品だったら、感じはうんとちがっていただろう。地図をみれば、トウムストーンという町はアリゾナの南端、メキシコ国境に近いがこの映画を引き立てているモニュメント・ヴァレーははるか北、ユタ州との境にある。ジョン・フォードがこの長めににほれ込んでしまったのは有名な話であるが(駅馬車は文字通りモニュメントヴァレーでとられたからこそ引き立った)、トウムストーンからあの風景が見えるはずはない。しかし全体を通して感じられる乾燥した空気、特にドク・ホリディとアープが撃ち合いになるまでのカットとか、日曜日の朝のすがすがしさが感じられるシーンなどは文字通りジョン・フォードが書いた詩のように思える。

胸を患って東部のエリート生活から抜け出したがやはり西部に生ききるのにためらいを感じているドクの心情を見事に表したのが酒場でシェイクスピア役者に成り代わって詩を暗唱するシーン、あぜんとしてそれを見つめるアープの表情など、二つの違った魂の出会いが鮮やかである。万年大根役者、と酷評もあるヴィクター・マチュアだが、このシーンでの表情の起伏がが実にいい。ドクの情婦として実在した女性はビッグノーズ・ケートという人らしく、OK牧場の決闘 では濃艶なジョー・ヴァン・フリートが演じているが、この映画では薄幸の酒場女という設定で、そのあばずれぶりがほかにはこれと言って当たり役もないリンダ・ダーネルが見事で、小生としてはヴァン・フリートのいわば出来上がった役作りよりも心にひびく。ジョン・フォードの監督手腕のなせるわざだろうか。

つまり決闘、という題名にはなっているが、あくまでこの映画は詩、なのだ。何回も見ているのに今回はじめて気がついたのだが、ドクに帰れと言われて帰途に就こうとしているクレメンタインがホテルのロビーにいるところへ、そうとは知らずワイアットが入ってくるカットで、ヘンリ―・フォンダが吹いている口笛が実は My Darling Clementine だった。映画の主題歌がそのまま劇中で歌われるという例はほかにもあるだろうが、フォンダがクレメンタイン、という名前に出合うのはここでキャシー・ダウンズ演じる本人に会うのが初めてだったはずなのだし、このメロディが当時すでに人に知られていたのだろうか、などと思ったりする。

余談だが、冒頭部で雨のキャンプに残って兄たちが飲みに行くのを見送る末弟のジェイムズが三人の兄に向って三回、So long という。Goodbyだけしか知らなかった高校時代、さよなら、には So long という言い方もあるよ、と教わったし、ほかには愛唱歌の Red River Valley には do not hasten to bid me Adieu という一節もある。なるほど、こういう場面は So long なんだ、と時ならぬ英会話のヒントももらった今回の何度目かの鑑賞だった。また、これはフォンダの口癖なのか、ほかの作品を見直さないとわからないが、通常なら very というところを mighty  と言っているのが気になった(very nice ではなく mighty nice というように)。

映画とは関係ないが、小生はHP社在職中、出張をいいことに休暇を取り、コロラド州コロラド・スプリングス(米空軍士官学校や北米防空司令部などがある)からラス・ベガスまで、同行の小田晋吾君(エーガ愛好会メンバー小田篤子さんのご亭主とは別人)と二人して走ったことがあった。ただ暑く、小生の目的だったモニュメントヴァレー(晋吾の目的はラスベガス)にたどり着いたときは二人とも冷やしたビールさえあれば死んでもいいと思うくらいだったのだが、チェックインしたモーテルで Beer ! と怒鳴ったら、Sorry sir, you are in the dry state といわれてしまった。当時の用語で Indian Reservation, 先住民族居住地内だったため、アルコールを一切置くことのできない地域だったのだ。因みに 荒野の決闘 の中でワイアットが保安官になるきっかけは酔っぱらったインディアンを捕まえたからだということになっているのだ。もって瞑すべし、だったのだろうか。

 

 

 

対コロナ対策に朗報-厚生省の対応

(普通部OBの畏友田村耕一郎君が配信してくれている各界の情報の中から、最新の情報を同氏の了解を得て転載する。木村氏ご本人の了解を直接頂戴していないが、広報の目的には合致するものと理解している)

(田村)8/13友人からの配信です。
コロナ関係で木村盛世さん(元厚労省医系技官、TVによく出演)のずばりと本質を突く話に注目です。胸がスカッとしますよ。

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東京オリンピックが終わりました。新型コロナが収束しない中でのオリンピック開催に対しては色々と意見があると思いますが、東京オリンピックがしばしコロナ騒ぎを忘れさせてくれたことは間違いありません。
新型コロナの暗い話題ばかりの日々に戻ってしまいましたが、ひとつだけ明るいニュースを見つけました。

厚生労働省が、新型コロナを感染症法の「指定感染症」から「5類」に格下げすることを検討し始めた、というニュースです。
新型コロナは、結核やSARSやMERSや鳥インフルエンザなどと同じ「2類」扱いからスタートし、いまでは、エボラ出血熱やペストや天然痘などの「1類」以
上の強制力を持つ感染症に分類されています。新型コロナは、感染者の大半が無症状や軽症で済んでいても、史上最強・最悪の感染症として扱われています。

東京都には、病床20以上の病院が約650あり、診療所も1万以上あります。ですが、新型コロナが感染症法の「指定感染症」に分類されているために、新型コロ
ナ患者を受け入れられる医療機関は約170しかありません。よくメディアが「医療崩壊が起きる」と騒いでいるのは、この厳しい分類により新型コロナ患者を診察できる病院がごくわずかしかないからです。もし、新型コロナがインフルエンザと同じ「5類」になれば、全国の病院・診療所で診察することができるようなります。無症状の陽性者がホテルで缶詰め療養させられることもなくなります。マスク着用やワクチン接種といった同調圧力も緩和するでしょう。

ですが、油断は禁物です。
実はちょうど1年前の今ごろも、新型コロナの「2類」相当から「5類」への格下げが検討されました。
ですが、いざふたを開けてみると、「5類」に格下げされるどころか、逆に「新型インフルエンザ等感染症」と同等の指定感染症に格上げされ、入院拒否に罰則が設けられるなど法律まで厳しく改正されてしまいました。

実は、昨年5類への格下げが検討されたとき、アンケートに回答した2千人の医師のうち、約7割の医師が「5類に格下げすべき」と言っていました。

下はそのアンケート時に書かれた医師たちの意見です。

<https://blog.ushinomiya.co.jp/blog/data/blog_img/8404_7_org.png>

<https://blog.ushinomiya.co.jp/blog/data/blog_img/8404_8_org.png>

昨年、これだけの医師たちが5類に格下げすべきだと言っていたのに、結局は下げられませんでした。元厚生労働省医系技官の木村盛世さんも、「ウィズコロナ」の社会を前提に一刻も早い5類格下げを昨年から主張していらっしゃいます。

さて、今年はどうなるでしょうか?今年と昨年との大きな違いは、日本のワクチン接種が進んだことと、それにもかかわらず陽性者数が多くなっていることです。無症状者や軽症者が多くワクチンも普及したから格下げとなるのか、それとも感染者数が増えてるからまだ下げられないのか。

勿論、ハナコは5類に下げてほしいと思っていますが、5類に下げたくない人たちもいるでしょう。視聴率が取れなくなるメディア、ワクチンが売れなくなる製薬企業、ワクチン・パスポートを広めて市民を管理したい人達、などなど・・・。
厚生労働省の皆さん、格下げ反対勢力に負けずに、5類格下げという「金メダル」を取ってください!

ジャンダルムへ行ってきました  (39 堀川義夫)

ジャンダルム(3163m)に行って来ました

今から15、6年前にソロで奥穂側から西穂高、上高地へと一日で縦走しましたが、その時の面白さ、緊張感、達成感が忘れられずにいました。出来ることならもう一度行ってみたいと常々思っていましたが、齢80歳ではソロではとても行けません。そこでツアーに入れて頂き何とか行くことが出来ました。

8月7日に上高地から岳沢小屋に入り、台風9号と10号の狭間で翌日の天候次第ではジャンダルムは諦めて重太郎新道を行こことも視野に入れていましたが最高の天気に恵まれました。岳沢小屋から悪路の道を天狗のコルを目指し、そこから奥穂への縦走路に入りました。そこからは緊張の連続で、またメンバーの方々に励まされながら何とかジャンダルムに登頂することができました。最高に嬉しかった その後、奥穂に登頂し涸沢へと下山しました。穂高山荘直前から雨に降られましたが、濡れることも気にせず涸沢ヒュッテに到着。延13時間掛かりました。そして本当に、本当に疲れたけど私の登山史にも特筆しなければならない、心に残る素晴らしい山旅でした。ツアーの同行の諸氏に心からお礼申し上げます。

コルに着くと真正面に笠ヶ岳を望む

(編集子)

呆然。無言。ッたく!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乱読報告ファイル (7) スウェーデン発ミステリシリーズ  (44 安田耕太郎)

推理小説はほんのかじるほどしか読んでいない。読んだのはコナン・ドイル、アガサ・クリスティー、エラリー・クィーンなどの英米作品と江戸川乱歩、横溝正史、東野圭吾などを少々である。そんなミス冒には門外漢の僕が10年ほど前「ミレニアム」(Millennium) を読んで惹き込まれた。会社勤めの現役中であったが、久方振りに夜更けまで本から目が離せなくなるほど面白かった。

 北欧ミステリーブームの火付け役となったのが、スウェ―デン人作家スティーグ・ラーソンの処女推理小説「ミレニアムシリーズ」だった。作者のラーソンは全10部の構想を持っていたが、第1部の出版を待たずして2004年心筋梗塞で急逝。亡くなった時、彼のパソコンには第4部の4分の3ほどに相当する原稿が残されていた。死後の2005年に「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」、2006年に「ミレニアム2  火と戯れる女」、2007年に「ミレニアム3  眠れる女と狂卓の騎士」が出版され、世界的大ヒットを記録しながらも絶筆のため第3部をもって完結した。

スウェ―デンでは「読まないと職場で話題についていけない」と云われるほどの人気を博し、3部シリーズ合計で国の人口の40%に当たる380万部を売り上げるベストセラーとなった。30か国以上で翻訳出版され、既に6000万部を超える大ヒットとなっている。日本には2008年から2009年にかけて早川書房から出版され、大きな話題となった。読んでおられる人も多いと推察する。

シリーズ3部とも上・下巻からなり、1部当たり上・下併せて900~1,100ページに及び3部合計すると3,000ページを超える大作だ。ミレニアムは1千年の期間を意味する言葉で、大袈裟な題名だと身構えたが、主人公が勤める出版社の月刊誌名であった。

巻頭の複雑な家系図、紹介されている登場人物の多さに驚く。しかもスウェ―デン人の名前なので覚えにくい上に、舞台となる地名もスウェーデン国内の各地で馴染みは全くなく怯む。登場人物紹介ページと家系図を頻繁に参照しつつ何度もあと戻りしながら読み進めていかざるを得なかった。が、エンジンがかかるとアクセルの踏みっぱなしで10日間ほどで全3部を続了したと記憶する。

月刊誌「ミレニアム」の発行責任者である主人公ミカエルは大物実業家の武器密売を暴く記事をスクープ発表したが、名誉棄損で訴えられ裁判で敗訴し全財産を失う。そんな失意の折、スウェ―デンを代表する富豪から家族の失踪事件の調査依頼を受ける。解決すれば、大物実業家を破滅させる証拠を渡すという交換条件で彼は依頼を受諾し、困難な調査を開始する。40年前に行方不明になった16歳の少女のことであり、一族の誰かに殺されたという。複雑な失踪事件の膨大な資料を調べる一方、富豪一族の謎にも分け入るが、助手が必要と感じた彼は、背中にドラゴンの入れ墨(タトゥー)を入れた女性調査員リスベットの協力を得て二人は調査を開始する。リスベットは富豪から頼まれてミカエルの身辺調査をしていて二人は知り合ったのだ。

二人の調査で明かされる忌まわしい事実、幾重にも張りめぐらされた深まる謎、愛と復讐。スウェ―デンと聞いて思い浮かぶのは、ボルボ、ABBA、IKEA、福祉国家、自由恋愛、金髪碧眼、ノーベル賞などの柔らかいイメージであるが、小説は人身売買、強制売春、拉致、殺人、巨大な陰謀、闇の組織・公安警察特別分析班などが複雑に絡み合い、あらゆるミステリーの要素を織り込んだ波乱万丈の物語と登場人物のユニークな素晴らしさに圧倒される。なかでも印象的なのが、タトゥーをした女性調査員リスベット。特異な風貌をしているが、ガラスのように繊細な心を持ち、超一流のハッカーでもあり情報収集に長けている。現在では良く知られた「ハッカー」だが小説を読んだ10年前当時では馴染みがなく、将来を予見するかのような「ハッカー」の不気味さだけが印象深く残っている。全編を通して彼女の危機と活躍に一喜一憂させられると同時に、主役の二人ミカエルとリスベットの時には二人三脚、時には相克する絡みにも堪能させられた。

ストーリ―を説明するのは膨大複雑すぎて無理であるが、その面白さに、途中で本を閉じることが出来ず、夜更かしする日が続いた。「ミレニアム3部作」は是非お勧めの本である。

「ドラゴン・タトゥーの女」は2011年映画になり、観に行った。が、多くの映画と同じで面白い原作本には足元にも及ばなかった。ミカエル役が007ボンド役で知られたイギリス俳優ダニエル・クレイグ、リスベット役はルーニー・マーラ。彼女は「グラディエーター」、「ジョーカー」でアカデミー主演男優賞のホアキン・フェニックスのパートナーで一子を授かっている。スウェーデンではテレビドラマ化され、久米行子さんは先ずそれをケーブルTVで、それから書籍を読み、最後にハリウッドで制作された映画を観たがスウェ―デン制作のTVドラマは原作に忠実に映像化していて面白かった記憶が鮮明で、ハリウッドのリメイクは全く面白くなかったと言っている。スウェ―デンのTVドラマと書籍の後では特にそう感じられれたのは頷ける。

なお、第3部で絶筆して完結したが、同じスウェ―デン作家のダヴィッド・ラーゲルクランツが続編として3作書き、それぞれ2015年、17年、19年に出版されたが、こちらは未だ読んでいない。

ウイキペディアから転載

スティーグ・ラーソン(Stieg Larsson 英語: [stiːɡ ˈlɑrsən]、本名:Karl Stig-Erland Larsson スウェーデン語: [ˈkɑːɭ ˈstiːɡ ˈæːɭand ˈlɑːʂɔn]1954年8月15 – 2004年11月9日)は、スウェーデンジャーナリスト及び作家。彼は推理小説ミレニアム」3部作を執筆したことで最もよく知られており、死後に出版され、映画化もされた。ラーソンはストックホルムでその人生の多くを過ごし、ジャーナリズムの分野や極右について研究する独立研究者(ラーソンは反極右の立場である)として働いた。

彼はカーレド・ホッセイニに次いで、2008年に世界で2番目に売れている小説家であった。「パブリッシャーズ・ウィークリー」によると、「ミレニアム」の第3部「眠れる女と狂卓の騎士」は、2010年にアメリカで最も売れた本になった[2]2015年3月までに、彼のシリーズは世界中で8000万部を売り上げている