”政府対応”記事について     (HPOB 菅井康二)

国際比較に使える唯一の指標「超過死亡」で明らかになる実態

COVID-19パンデミックに対する我が国の対応策に対してPCR検査数がOECD諸国中では最低水準で諸外国からはまるでこれもガラパゴス化?かと言われ放題の状態でありますが、興味深い記事を見つけましたのでご紹介させていただきます。あえて私の余計な補足は致しませんので記事をじっくりとお読みくだされば幸いです。

https://bit.ly/3clROnE

あくまでも私見ではありますが早期の沈静化を図るには誤差があるとしても感染者と非感染者を識別するPCR検査の数を劇的に増やす方策を考え出すことが必要だと思われます。そして感染者を徹底的に隔離する。さもないと経済というよりは社会のシステム自体が崩壊してしまいます。

政府のコロナ禍対応策への批判について 

ここのところテレビはコロナ対策についてのいろいろな情報とともに、政府対策についてのコメントが目白押しである。また友人の多くからも同様、政府のやり方に対する疑問論が相次いで送られてきている。編集子にも、(なにやってんだ?)という気持も大いにあるし、感情論として現在の対応に納得できないことも多々ある。ただ残念だがいろいろな対策について、確たる知見があるわけではなく、各論について、たとえばPCRがどうあるべきか、などについて批判できる立場にはない。遅いのか、緩いのか、だめなのか、自分で確信をもって語れるわけではない。

ただ一点だけ、多くの批判論について申し上げたいことがある。それは論者に共通している、”外国はこうやっているのになぜ日本はしないのか” (だから日本はだめなんだ)という見方と、その延長にあってとくに欧米諸国からは日本の対応のまずさが指摘され、はては笑われている、という意見である。小生にはこれらの論点の背後に、いまなお日本人特有の敗戦国―歴史的自虐観が見え隠れしている、と思われてならないのである。

”なぜ日本はほかの国のやり方をやらないのか”、これは事実として確定できる。やっていないのは誰の目にもあきらかだからである。しかしなぜ、という点については、それはわが国の在り方が多くの国(あえて言えばほとんどの国)と、良しあしは別として、違っているからなのだと思う。また、”欧米諸国” の日本に対しての批判とか嘲笑、などと言う点に関しては、マスコミの報道以外、我々が自身で確認すべき方法もなく、あまり生産性のある議論ではあるまい。よしんばされていたとしても結果がどうなのか、をみれば解決することなのではないか。

(また、メルケルや英国女王のスピーチに対して高い評価があり、一国の指導者にはこういう姿勢があるべきで、という意見もある。僕自身、スピーチは拝見し、大いに感激し、元首個人が持っておられる識見というか、知性の高さを改めて認識するものである。安倍首相が同じように話をされれば、それに越したことはない。しかし日本の歴史を振り返ってみて、特に戦後の政治において、誰彼を問わず、このような例はないように思う。これは元首個人の個性というより、日本の元首選出の方法論や行政府の在り方そのものからくるものではないだろうか。天皇親政の時代から江戸幕府まで、庶民にとって ”お上” は疑わざるべき絶対であって、批判すべき対象にはなり得なかった。その反動からだろうが現代にあって、ある意味では極左運動につらなる個人崇拝排除主義が生まれ、個人は選挙運動の段階から元首(になるべき人)の日常のありようを見ることに重きを置き、結局、知性とか見識とか言った属人的なファクタよりも、行政上の公約のみを問うて選挙をしてきた。したがって元首なり行政府には、仕事師、を尊重し、人格や識見は二次的なものとなり、元首の発言・行動を制限するような環境があるのではないか。ある意味では、同情すべき点無きにしも非ず、という気がする。しかし、首相、もっと言ってもいいんじゃん、という率直な感じはあるも否定はしないが。)

以下、三つの点から小生の意見をのべさせていただく。

第一に、法律上、私権の制限について、憲法解釈上の問題について、日本ほど厳重に(逆に言えば時として必要以上に)慎重な国はないのではないか。これは別の言い方をすれば、憲法改正につながる問題であり(もちろん自分は改憲論者であるが),現行憲法を尊重する立場を遵守するかぎり、ゆるいといわれようがなんといわれようが、今回の私権制限の方法はせめられるものではないのではないか。それと、もう一つ、重視すべき点として、今回の一連の規制が日本人の良識を信じて実行されたものだ、という点で、大いに異論はあろうが、小生は素晴らしいものだった、と感じている。今回の連休の結果を見たまえ。強制も、処罰もなくして、国民は政府の要請に見事応えた。国民がやるべきことは実行した。これから問われるのは、われわれが、よし、協力しよう、としてしたがった、その方策が現実に正しかったのかどうか、であろう。その結果は本日時点ではなんともわからない。しかしこれについても、当局は専門家の意見を公開し、尊重した。韓国、中国、欧州諸国は憲法上のプロセスに訴えて、大幅な私権制限・戒厳令、国によっては武力の行使まで行わなければならなかった。たしかにスピード感はあったし、強い政府、すぐれたリーダー、というイメージができた。やり方は州単位になっているとはいえ,迷走を続けるトランプ政権なども同じような印象をあたえた。しかしこれら ”ほかの、外国の” 対応と比べて、わが国の施策は透明度においても、民主主義法治国家としての限界を守ったという意味でも、強制のかわりに国民の良識を信じた、その忍耐と努力はみとめるべきではないのか。何が ”外国のようにしないから” いけないのか、が僕には納得できないでいる。

第二のポイントは、文化の違いについての認識である。日本古来の伝統によって、われわれは家に帰ったら、靴を脱ぐ、という動作を、あたかも呼吸をするように無意識に、当然のこととしてやっている。和風建築は当然として、欧米流を模倣して建てた昨今のモダンな建築においても、玄関、というスペースがかならずあり、そこで靴を履き替えることによって、外部から持ち込まれる異物や病原菌などを、完全ではないにせよ、大幅にシャットアウトする。また日常生活においても挨拶に抱き合ったりする習慣はないし、握手もそれほど日常化した動作ではなく、キスに至っては欧米文化との隔たりは大きい。そのうえ、古来、おそらく、小生の考えでは,神道文化に源があるのだと思うが、汚れを嫌う、その具体的な表れとして神社では手を洗い口を漱ぐ、といった文化、その延長として、国民全体の日常生活の清潔さ、それと現在、まだまだ問題はあるにせよ、国民全体をカバーする医療保険、などなど、一口に言って生活の清潔度が世界一、と言えるくらいのものだ、という事実はもっと認められていいのではないか。ただ経済力か政府の認識かしらないが医療のインフラストラクチュアがそれに追いついていないのは残念だが事実だ。医療関係者の自己犠牲によって戦線が維持されている、という現状はやはり政治の責任であろう。

このような国ごとの特殊性はもちろん日本だけのものではない。今感染状況が深刻な米国、その中でも黒人やヒスパニックの多い南部諸州には、マスク着用を禁じる法律があるという。これはマスクによって顔を隠す犯罪者が多発したためと、それにともなう人種差別行動を抑制するための強行法規であるという。日本人の常識では考えられないが、このことを知って、なぜトランプがマスクをしないのかも明らかになった気がする。同時にここまで選挙を意識した行動を一国の元首がとっていいのか? という、コロナとは関係のない義憤も感じるのだが。

第三、これがおそらく最大のポイントだと思うが、日本人に共通する道義心,公徳心の高さである。深夜、人気のない交差点でも、赤信号なら横断しない、という日本人の律義さをあざ笑ったひともあったが、長い歴史と、近代では明治維新で断行された教育制度の徹底とが、これは外国経験のある方ならまちがいなく納得するだろうが、日本人の民度の高さにつながっている。

以上三点、特に後半ふたつの誇るべき資質、それによって、まだまだ予断は許さないとはいえ、コロナ禍を抜け出られそうなところまで、日本はやってきた。たしかウインストン・チャーチルだったとおもうが、政治とはより悪くないものの選択である、という言葉がある。その選択は国の文化と得られる範囲で最も確実な科学的知見そして願わくば歴史的展望に立って、現実から選択されるべきものであって、決して ほかの国がやってるから なされるべきものではないと思うのだが、諸兄姉、いかがお考えであろうか。活発なご意見、ご反論をお待ち申し上げる(頂戴したものはブログに転載させていただくこともあることをご了解願いたい)。

 

 

本を出版します   (44 安田耕太郎)

まもなく世界一周放浪記を自費出版する予定です。

半世紀以上前の学生時代に2年間に亘って東廻りで世界一周の旅をしました。
健康面の相談をS34 船曳先生にしました。盲腸は切って行った方が良いでしょうか、の質問に笑って一言「何を馬鹿なことを」。太平洋を貨物船で横断しましたが、往復切符を持たぬ出国で当時必要だったアメリカビザの獲得をS38大岡先輩に助けて頂きました

アメリカ入国後、カリフォルニア州パロアルトに赴任しておられた、それまでに面識のなかったS36中司ご夫妻宅に泊めて頂きました。KWVの活動経験から勇気をもらい、諸先輩方々の助けをいただき世界一周放浪の旅を終えることが出来ました。自費出版につきましてもS36「ナンカナイ会そのふみあと」本の製本出版に携わったH7田所君をジャイさんに紹介していただき、上梓に向けて尽力していただいています。KWVに所属してなければ、旅も出版もありませんでした。

5大陸50数ヵ国訪問の旅は1968〜70年、21〜23歳の時期でした。
旅行記は、文章24万字、足跡を示す地図20数枚、写真数十枚を含め600頁を超す長文となりました。前書きと目次に続く最初の書き出し部分をご参考までに下記の通りご紹介します。コロナ禍の影響で上梓は予定より大幅に遅れ今夏になる見込みです

世界一周に付き合ったリュックサック

1.  旅のはじまり
1969年11月、僕はジブラルタル海峡を渡るカーフェリーの船上にいた。日本を発ってからすでに1年半が経過していた。横浜港から貨物船に乗り込み、14日間かけてアメリカのウイルミントンに上陸し、旅の第一歩を踏み出したのが遠い昔のように思えた。あれからどれだけの足跡を残してきたのだろうか。
アメリカでの旅費稼ぎの日々、憧れのルート66、中南米15ヵ国踏破、犬と登った5400mアンデス峰、南米フィヨルド海域の軍艦乗船、ヨーロッパ最北端ノースケープの白夜、東西冷戦の象徴東ベルリンの壁でのあわやの危機など、日本では決して味わえない経験をしてきた。そして今、未踏の地であるアフリカ大陸に向けて僕を乗せた船は白浪を立てていた。
出港地アルヘシラスから対岸のセウタへはわずか2時間ほどの船旅だ。しかし、僕に旅の思い出をゆっくりと振り返る暇はなかった。フェリー内で僕はある「仕事」をしなければならなかったからだ。それは、これから向かうモロッコを旅する人の車をゲットすることだった。

ジブラルタルのザ・ロック(The Rock)。別名ヘラクレスの柱(Pillar of Hercules)ともいう。

僕はフェリー乗船直後から車で旅する人とできるだけ会話をした。そして、ドイツ人男性とアメリ人女性のカップルが大きなベンツでモロッコを一週間旅することを聞き出し、親しくなることができた。会話に夢中になるあまり、カーフェリーの船内からジブラルタルの「The Rock」の景観を見逃したほどだ。それから一週間、日・独・米の奇妙な組み合わせでモロッコを旅することとなった。
不安を抱いてフェリーに乗り込んだが、フェリーから下船する際にはベンツの後部座席に陣取っている・・・。これまでに幾度もあった旅の面白さの一端がここに凝縮されているように思える。このような幸運に恵まれるのもこれまでの旅で培われた多くの経験によるものだ。そもそもなぜ僕が世界一周へと旅立ったのか。まず旅の始まりから記したい。

モロッコでベンツ車ヒッチハイク。道端でランチピクニック。

自粛また楽しからずや 

各位がこの自粛期間をどうやって過ごしているか、情報交換をお願いしてきた以上、自分がどうしているかも報告しなければならないと思い立った。トピックは三つである。

その前に健康維持だが、ここの所、午前中は小生、午後はワイフ、と時間差散歩をやっている。僕は甲州街道を北上して調布まで、時には旧甲州も歩いたり、突発的に見知らぬ小路を歩いたり、最後は駅前の シャノアール(お気に入りの サンマロ は忠実に休業中) でアイスティ350円、帰りは電車、歩行距離は大体4キロくらいか。オクガタは街道を南下、仙川方面へいく。屋上に腹筋用の器具がおいてあって、毎日、と思っているのだがこれはなかなか日課にはならない。だいぶ暖かくなったので、歩くのを就寝前、に変更するつもりである。

今回、”家に籠る” 羽目になって、趣味をいくつか持っていることをよかったとあらためて思っている。亡父は水彩画にかけては正直、玄人はだしの腕前だったうえ、美術骨董品の収集に眼がなく、謡曲も得意だった。カメラ持参で休日と言えば奈良京都の古寺を尋ね、京都には地元の人もびっくりするくらい詳しかった(僕の小学校時代から大阪に単身赴任)。大の読書家でもあって、その影響で僕にとって本を読む、ということは食事をするのと同様の日常行事になっている。

この自粛生活がはじまってからの読書時間は1日あたり2時間くらいだろうか。1冊目はマーク・ウオルバーグ主演 ”極大射程” で知られるようになったスティーヴン・ハンターの歴史ミステリもの Hunters Honor を読了、現在は第二次大戦の山場、ノルマンディ上陸作戦にあたって英国情報部が仕組んだスパイ活動の実話 Double Cross に挑戦中。浮世にあばよ、とおさらばするまでに原書で10万頁読了という目標はまだ、捨てていない(先月末で約7万2千ページ)。

二つ目はアマチュア無線、いわゆる ハム、の世界である。高校1年のときに自作の送信機で交信ができて以来(この記念すべき第一号交信は、実にKWV 37年卒 国府田君の兄上であった!)、大学へ行くまでは文字通り熱狂していたが、KWVが生活の中心になってからは全く興味を失っていた。在職中、ふとしたことから免許を取り直し、退職後はこの分野での大立者である44年卒浅野三郎君の指導のお陰でほぼ10年近く、仲間内では DX と呼ばれる国外、遠距離との交信に精を出した(ちなみにこのギョーカイでは、浅野三郎といえば大したもので、小生なんぞは彼から声をかけてもらうだけで恐縮し、にじりよってお酌をさせてもらうのが光栄、というくらいなのだ)。ところが、である。

僕が高校時代、日本ではハムと言えば、まあ100パーセント近くの人が手製の通信機と竹竿にひっかけたくらいの原始的なアンテナで通信をやっていた。いま使われているメーカー製に比べればスーパーコンピュータとガラケーぐらいの差があったが、それだけにたとえ隣町の人であろうと、自分でやった、という満足感があった。一方、国外との交信(われわれの用語ではDXという) などはほんの数えるくらいのベテランにしかできない、一高校生にすればはるか遠くの夢でありあこがれであったのだ。それが現在はメーカー製品が当たり前の世界になり、はっきり言えば少し金をかければ、俺でもまあまあのことができるのがわかってきた。そういうなかで、せめてサブローから声をかけてもらえるくらいまでやろう、という気持ちと、どうもなあ、という年寄りのひがみか偏屈かわからないが、今の在り方に少しばかり興ざめの状態に陥っている。それが自粛の間、毎日通信機の前に座っていてもいいのだが、この3ケ月くらいはスイッチをいれたこともない、というありあまる時間の使い方としては妙な具合になっている。

それはひとことでいうと、アマチュア無線の仕組みそのものがいまやほとんど100パーセント、プロのメーカーの製品と、あわせて日進月歩のIT技術との両天秤で進行する、という現実への(これが ”アマチュア” なのか?)という疑問であり、ときとして (これならインタネットのほうがいいじゃん)などと感じる事もあるからだ。1970年代かな、あまり確かではないがトリオ、いまでいうケンウッド、はじめ多くのメーカーが出てくるまで、日本にはハム機器を作るメーカーはほとんどなく、当初はその少ないメーカーが完成品とあわせて自社製の製品に使う主要部品の小売りもしていたから、当時腕に自信のある人はそれを利用して、時としては(メーカー製に劣らないものを素人が作ったぞ!)と自作品がつぎつぎと発表されたりしていた。しかし時代は移り今やハム機器も高度の性能を持った自社設計のLSIやディジタル技術が満載され、自作、ということ自体、ハムの世界からなくなったとは言わないがきわめてまれであり、仮に通信機ができあがったとしても、それが現在の厳しい電波監理局の規制に合格できるかどうかはわからない(というよりできない確率がきわめて大きい)。わからないけど、やってみる価値はないのか。

なぜ、山に登るのか。 Because it is there ,といつもの無茶苦茶精神が起きてきて、何年かかるかわからないが送信機受信機の自作、それもオールドボーイの手の届く、真空管でやろうと実はここ数年、ひそやかにやってきた実験ベースを(ひょっとすると遺品になるかもしれないが)使えるものにしたい、というのがいまの挑戦である。2枚の写真は現在進行中の作品の例で、プリント板、なんてものすらない、昭和のタマシイみたいなものだが、結果、部屋じゅうにアルミの削り屑やらはんだの飛び散りやら落ちたビスやらが散乱、セーターははんだ鏝の焼け焦げだらけ。はじめは ”毎日、掃除して!” と怒っていた我が妻オヤエも昨今はあきらめ(はじめた)たようだ。なまじっか中古とはいえ、昔だったら想像もできない測定器などをそろえてしまった結果、昔ならわかりもしなかっただろう不具合連発発見、しゃあねえ、はじめから組みなおし、と自粛の時間では足りるわけがないのが現実である。しかし、これが楽しい。いつの日か、隣町のひとでもいい、この送信機に俺の声を載せてやる、その意地だけのことだ。

第三、がこれは 自粛生活、が開いてくれた新たな局面、題してSNS(と言えば大げさで、メールとブログにアイフォンだけだが)に目覚めるの記、である。

ブログを通じてOB会メンバー、在職中世話をしてくれた小生のセクレタリー、米人と結婚して現在はいわばメリーウイドウでシリコンバレーにいる旧友、普通部高校と通じての友人、というお互い面識のない間柄で起きている愉快な話がいろいろあり、先だって本稿で紹介した、小泉先輩、47年の関谷君、横河電機時代の親友、という異世界?の友人との出会い、このセレンディピティとでもいうような現象を再現したいと思わせる楽しいパスタイムのひとつを ”エーガ愛好会” として稿を改めてご紹介したいと思っている。月いち高尾” 同様、ご興味お持ちの方の参画を期待する。

小生にとって エーガ と言えばまずこの(左の)人なのだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

野草の名前も大変なもんだ 

きっかけとなった小泉文書

緊急事態宣言中、STAY HOME に反し、近所の散策ならご勘弁をと鶴見川堤を歩きました。いつもは新横浜方面に向かうところ、逆の綱島方面に歩きました。新羽橋で引き返したら、情けないことに5000歩弱。それでも川畔に咲く野草にお目にかかれました。残念ながら、花の名前には疎く、わからずじまい。太尾公園近くでは、花水木を上から眺められ、赤と白を撮りました。

往信1号

オスタ様

この花、わかる?

複信1号

可憐な野の花の写真、お送り頂き、ありがとうございます。高山植物も昔覚えた名前は、ちゃんと思い出せるのですが、残念ながら最近覚えた名前は、すぐに忘れます。ピンクと白のハナミズキの前の黄色い花は、菜の花が成長して、丈が大きくなったものではないでしょうか?最初の白い花は、よく見かけるような花ですが、名前を存じません。2つ目の花は、たぶん、アカバナだと思います。

往信2号

お願いの件あり。添付小泉先輩のメールですが、写真に写ってる花、名前わかりますか?オスタに聞いてみたけど高山植物ならわかりますけど、と言われてしまいました。いかが。

複信2号
植物名をカタカナで表記しますので、以下のネット図鑑などで確認
頂ければと思います。
春>ヘラオオバコ 最初の写真
春>アブラナ   3番目の黄色
2番目の赤紫の花は 花の特徴から クワガタソウ の仲間と仮定し
調査中です。春先に青い花を咲かせるオオイヌノフグリとも 花弁4枚、縦の色筋があり、めしべが突出していて兜の鍬形を連想させる等の共通点があります。しかし、種の付き方がこの赤紫の標本と高山植物の クワガタ達と微妙に違うのがひっかかるのです。
ヘラオオバコ と オオバコ科という分類では仲間となるのですが、植物分類学の専門家(高校の同級生 新潟大学名誉教授)も DNA分類でそうなるのだが、過去の形体からの手がかりからは...、どうしても納得できない…と漏らしていました。帰化植物や園芸品種の種が拡散して河川敷などで繁殖している例も多く、
何とかして オナマエ ? you はどこから 日本へ? と好奇心が
うずうずいたします。 最後の2件はご指摘の通りハナミズキ であろうと思います。(編集子注:紙面の都合で一部、いや大分、省略)
複信3号

最初の写真は、やはりヘラオオバコでしたか。野の花の名前は難しくて、イマイチ自信が持てないんですよね。2番目の写真、ズン六さんのような専門家に私が異を唱えるのは僭越ですが、クワガタソウの仲間とは葉の形状が違いませんか?

私も最初は、オオイヌノフグリの仲間とも思ったのですが、やはり葉の形状が違うように思います。種の付き方が、アカバナの仲間と思ったのですが、違いますかしら?

複信4号

貴重なご教示久々に拝受、本当にありがとうございます!!的確な特徴抽出、さすがは われらがオスタ師匠。確かに、種子の付き方はアカバナ的だなとは思っていたのですが、加齢化思い込みの轍に引き込まれ続けてしまいました。
顔を洗って初心に帰り、ご教示に沿って、アカバナ科雑草を鍵にブラウジングし
アカバナユウゲショウ (ヒルザキツキミソウ)アカバナ科マツヨイグサ属 にたどり着けました。
私自身、さる4月21日に仙川沿いで出会い、調べたいと思っていた矢先、図らずもジャイ先輩のブレイン集団の中核オスタさんのお導きで、目から鱗の感動を味わえました。(編集子注 ちと大げさすぎねえか?)(編集子注 その2 これも一部、いや大分、省略)
締めの小泉文書
小生の珍らしくもない散歩と珍しくもない草花のことで大変なご尽力をいただいてしまったようで有難うございます。それにしても、ただ単純に歩くだけで草花を見ても、その名前やらも関心を持たない者と何らかの関心を持ち、追及しないではいられない人との格差がよく分かりました。お手数をおかけいたしました
往信2号
いえいえ、誤解で、本人は できれば物事追及しないでいる タイプの代表です。ただ、ひまだっただけで。
本大会議参加者
小泉幾多郎(34】、石渡美知江(46)、吉田俊六(44)

下村情報への反響-記念館の思い出 (普通部友人  船津於菟彦 ほか)

前掲42年下村兄の投稿に高校時代の仲間から反応が届いた。それぞれに記念館には思い出があるようだ。
編集子とは普通部以来の友人、高校時代は新聞会の仲間だった船津於菟彦から送られてきた、記念館がらみの思いをつづった一文を紹介する。船津は大学時代は慶応義塾新聞・新聞研究所を経て大手商社で情報産業を担当していたことから、現在のIT産業などについて造詣の深い友人である。お互い、結局、高校時代に夢見た新聞記者にはならなかったが。
大学一年の時にこの講堂が建てられ昭和天皇を迎えて、100年祭を開催したのですね。小生、駆け出しのカメラマンとして外回りを撮影。日吉駅はホームには途中までしか尾根が無く、遠くに普通部が見えます。車が総て外車で時代でね。天皇をお迎えするのに地べたに座ってズラリです。
カメラマンとして脚立を何時も下げていました。当時はフィルムも高くて一枚しか有りません。今のデジタル時代と違い、連写などしていないのでボケたりしたらオシマイ。結構良く撮れています。
我々は慶應義塾大学創立100周年に、新聞を作りました。コチトラ駆け出しで隅の方で写真だけ撮りました。その前に未だ復興もままならない、三田山上で創立90年式典が行われたようです。歴史を見ると1947年五月と成って居ますね。昭和天皇が三田山上に来られたようです。
この時にあの素晴らしい歌「慶應讃歌」が平岡養一によって作られ「我らが若き力もて、希望の祖国を打ち建てん」 込められた意気は̶-。
100年祭にも昭和天皇が日吉の新記念館に来られました。この時は迎える方々が地べたに座ってお迎えに成って居ます。我がカメラがパチリ。
まぁ時は移りますね。日吉の駅もホームに屋根の無いむき出しの駅でした。
来賓の車は総て米国車。未だ米軍が残したカマボコ講師や時代でした。
そして、社会人になりましたが創立150年祭が日吉グラントで行われ、「平成
天皇」が来られ、来賓の中では一番感銘深い、心に通じる祝辞を述べられたことを記憶しています。
同じ時代を日吉で過ごした同期後藤三郎から…………
久しぶりに日吉の高校と大学の間にある広場と新しい建物の写真を見せてもらいました(以前この広場で連合三田会のワンゲルのテントもあった)。右側にある我々の通った慶応高校の建物は戦争中に爆撃を避けるためにコンクリートが黒く縞模様に塗られて美しくなくひどく汚い建物に感じました。石原慎太郎が弟の裕次郎の情報を題材にしたと思われる”灰色の教室”と言う短編書は私にはひどく懐かしく感じられます。中味が高校内部の有様をかなり鮮明に描写しており思い当たることが沢山ある内容だからです。例えば、生物の女性教師のこと(当時田村先生と言う美人の先生がおりました)などが登場しております。短編小説ですが若しお読みでない方には一度読んでいただくことをお薦めします。

北杜市から再度の要請

北杜市新型コロナウイルス感染症対策本部からお知らせします。

現在、全国に発令されている「緊急事態宣言」が5月31日まで、延長されました。 市民の皆様には、引き続き、「うつらない、うつさない」行動に、一人ひとりがしっかり取り組んでいただき、感染拡大防止に努めてください。

また、山梨県から「今はまだ、山梨に来ないで宣言」が発令されています。
 北杜市民は、一日も早く普段の生活を取り戻そうと、頑張っています。
 市外からお越しの皆様も、責任ある行動をお取りください。

多くの皆様の御協力をお願いいたします。

新型コロナウイルス感染症     (34  船曳孝彦)

5月に入った。未曽有のパンデミックが社会問題となってから少なくとも3か月が経つ。日本は感染・蔓延を収束の方向に向かっているだろうか。

昨日までのデータで、世界で感染者325万人、死者23万人(死亡率7.1%)アメリカ、スペイン、イタリー、イギリス、フランスに多い。一方日本では、感染者1万4千人、死亡者415人(死亡率2.9%)。最も多い東京では、感染者4,152人、死亡者120人(死亡率2.9%)となっている。

とにかく日本では少ない。死亡率も低い。新感染者数は頭打ちになりつつあるといってよいと思う。しかし今日の専門家会議でも、安倍首相も緊急事態宣言は今月いっぱい継続という結論を出したようだ。感染拡大が抑制されているか、医療体制が十分対応できているかの2点を判断基準としているようで、感染者数がイマイチと見たようだが、医療体制についての見通しまたは方針についての言及は乏しかった。緊急に財政支援するというお題目はあっても、具体性はなく、おそらく一律10万円と、休業補償に消えて、医療充実にはお涙金となるのではないかと心配している。

日本は感染者数も少なく、死亡率も低いことを喜んでよいのだろうか。海外諸国に比べてPCR検査施行率が低く、これでは比較にならない。海外からは疑問、批判の声が上がっているのは何とも口惜しく残念で仕方がない。

新型コロナ感染症に対して、政府の立てた方針は①法に基づいて対応②疫学的根拠で判断、の二本柱だったようだ。当初水際作戦として、感染者を中心にその人からっ感染がどのように広がってゆくか(再生産数)を追跡し、感染者一人から何人に移しているか、それが2人に移せば倍々ゲームに、1人を割れば収束する。即ち大勢に移す(クラスター)ことを避けて感染爆発を防ごう、という方針であった。無症状病原体保有者(ウィルスは菌ではないので誤用ではあるがここでは以後無症状保菌者と呼ぶ)が世にあふれている。「他人を見れば保菌者と思え』という状態である。それだからこそクラスター感染を避けるための3密回避は意味がある。

しかしPCR検査数という分母がこんなに小さくて緊急事態宣言解除の目安を立てて良いのか。最近の新陽性者が減っていることだけで、もう一歩といっていいのだろうか。私の予想ではある程度下がっても、だらだらと長引くと思う。

最近の東京都のデータでは、PCR陽性者の60%が症状のあるいわゆる患者で、8%が無症状保菌者で、自宅待機かホテル待機とされている。ホテル待機無症状者が2週間たったのでPCR検査なしに自宅へ返された例があったという。独り者の自宅待機者は食事のため食堂へ行くかスーパー又はコンビニに出歩いている。なおこの統計では陽性であった者のそれ以外32%については、症状の有無を調査中(数日たっても)という、情けないデータである。

そもそもすべての診断を帰国者センター、保健所という関門で管理しようとしたことに無理があった。少数例、あるいは当初はこれでよかったかもしれないが、このように多数の保菌者があふれてくれば、変えてゆかねばならない(もっと早期に)。昨日今日の段階でやっと民間の検査を充実させようというような談話が出されていることに憤りを感ずる。したがって公式のデータには民間のデータ(しかもこの多くが医療施設の実費持ち出しで行われている)は反映されていない 民間といっても大学病院なり、地区医師会のもので精度に問題があるとは思えないのだが、一度決めた方針を死守するお役所仕事とはこのようなものだ。

慶応病院で、非コロナ関係入院患者にPCR検査をしたところ6%が陽性だった。別の報告では、一般人に抗体検査をしたところやはり6%が陽性だった。この二つの報告は、非常に重大な警告と受け止めている。勿論学術的にはもっと多数例で対象を絞ったデータが必要だが、保菌者が多数街を闊歩していることは間違いない。東京1000万の人口から見ると60万もしくはもっと多数の保菌者ということだって考えられる。

指定感染症として『指定検査所で検査』と法的に定められたとはいえ、柔軟に応用せねばこのパンデミックに対処できない。

PCR検査も、唾液での検査や、経口法、迅速キットなどの新しい試みが出てきている。抗体もより精度の高いmonoclonalな新検査法も開発されてきているようだ。こういう新しい対処法を直ちに取り入れる(試みでよい)べきであり、治療薬についても、抗ウィルス薬、抗寄生虫薬などが奏功した報告が出ているので、任意に使うということは出来ないが、特例の治験として始めねばなるまい。

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ドテさんと言えども、皆さん同様自粛生活にウンザリしています。晴読雨読を続けており、

今年14冊読みました。トレーニングは庭でゴルフクラブを振ったり、階段昇降500~600段を

続けております。4月だけで28日、合計14,550段上ったので、ゆうに3,000mは登った計算になります。昨日は人通りのまだ多い目白通りを横切っておとめ山公園まで歩いてきました。

すれ違った人を除き2m以内に近づいた人はいません。でも、これで疲れてしまうのでやはり体力は落ちているのでしょう。残念。実はもう大分前になりますが、後ろめたさを感じつつ中津川CCに行ってきました。堀川兄同様レストランではソーシャルディスタンスを十分とった席で、風呂も閉鎖、行き帰りは自車、全く安全です。

  (編集子注)先生、このやり方なら三国山荘あたりまで行ってもOKでしょ  うか?

 

WANTED ! 古き友 楽譜   (36 後藤三郎)

ウイルス騒ぎで時間もたっぷりあるので以前から気になっていた慶応ワンダーフォーゲルが間違って歌っている ”古き友” についてブログに載せて各位にこの際正しい楽譜から皆さんにお知らせしようと思って楽譜をネットで探しましたが見つかりません。

実はこの件は7-8年前に山岳部の友人から指摘を受けて森田半兵衛さんと一緒に正しい歌い方を何回かの集まる機会で試みましたが長年歌ってきた癖を簡単に修正できずで爾来半ば諦めています。御存じでしょうがこの歌は慶応の山岳部の”創部XX年記念”にスイスからこの歌を頂いて来たとの歴史があり、山岳部の連中はワンダーでこの歌を歌うこと自体は問題ないがメロデーが間違って歌っているので出来れば楽譜を見て修正して欲しいと言われております。

今回は時間も皆さんがあると思うので譜面を見ながら間違っている個所を直せればと思う次第です。誰かこの歌の楽譜を保有している人がいたらブログにアップしてください。

 

(編集子注)確か、何年か前のスキー合宿だったか忘年会だったかで、山岳部にも縁のあった寺田捨巳が正調を披露して、練習した記憶がある。サブには悪いが、俺には確か美しの新人歓迎の時だったと思うが、初めて聞いたときの感動がまだ残っていて、不正調から離れられないきがするんだが。なんたってその方が俺にとっての古き友なんでね。スミマセン。

日吉記念館詳報    (42 下村祥介)

先ほど散歩から戻りました。今日は大学のキャンパスまで足を伸ばし、新装なった記念館の写真を撮ってきました。 どこの仲間も人恋しくなってきているようで、今晩は昔の会社仲間とラインを使ってオンライン飲み会です。

(堀川)
ありがとうございます。前の芝生が無くなっているのですね?
ちょっと、クールですね。

(中司)日吉も僕らのイメージとは様変わりですね。喜ばしい事でしょうが、一抹の寂しさもある、妙な気持ちです。

このあたり、僕らが高校時代はフリーの広場で、マムシ谷へ練習に降りていく連中、山食へ向かう仲間、高校生、大学生がそれとなく交流し時としては雑踏する場所でもありました。そして若干の無頼性?を感じる空間でもあったのです。創立以来の古色蒼然たる慶応高校の、旧制高校由来の空気と新制高校の息吹が重なっていたあの校舎、後何年あるかわかりませんが、その雰囲気がせめて僕らが生存している間はあってほしいもの、と思うのは老人の身勝手でしょうか。昨日の読売のコラムに、”雑踏ということばなじむのが “都会”だが、街路から人影が消えていき、鉱物化したのが ”都市” だ、という文章がありましたが。

も一つ、同じコラムから拾い読みを付け加えたくなりました。中国の詩聖,蘇東坡に
  年々 春を惜しまんと欲すれども 春去って 惜しむを容れず
と。